2013年3月17日日曜日

了海上人と大井山光福寺

大井山光福寺
麻布山善福寺の中興の祖といわれる了海上人は、品川区大井で生まれとされていますが、その場所は私の住まいの比較的近くにある事を最近になって知りました。

品川歴史館(品川区大井)の裏手に「光福寺」という寺があります。その寺は延暦元(782)年顕教房栄順律師の開創といわれ、当時は天台宗の寺で「薬王神宮寺」と称していたそうです。しかし元久兵乱で失脚して土地の豪族紀実経の庇護を受けた頭中将光政(東国に流されていた鳥羽院の皇胤左大臣信光の嫡男)と紀実経の娘(一説には滋野井宰相の女とも?)の間に生まれた「松丸」は8歳で剃髪し、長じて比叡山に上り浄栄僧都の門に入って修行し、帰国後親鸞上人の弟子となって「了海」と改めます。
了海は祖父である実経から寄進を受けた土地にある薬王神宮寺を真宗に改め「大井山光福寺」と改称します。この「光福」とは父、頭中将光政も親鸞の門に入って「空範」と号したので、元の名をとって寺号としたそうです。

大井山と書かれた山門をくぐると大きな銀杏の木があります。この木は麻布山善福寺の 逆さ銀杏の枝を了海上人がこの地に植えたものが大木となったといわれ、幹周りが6.25メ-トルもある大樹で品川区の保護樹と指定されています。

逆さ銀杏の兄弟樹
この樹には面白いことに樹皮を煎じて飲むと乳の出が良くなる。という言伝えが麻布山善福寺と全く同一であり、また墓地には「開基了海上人産湯井」と書かれた石碑が建っている。了海上人の父、頭中将光政は子が無いために日常蔵王権現に子授けを祈願したところ、妻が身ごもって了海上人を生んだ。この了海出生の際、住持覚律師は夢でこの井戸を知らされ、行ってみると水が自然に湧き出していたという伝説があります。

健保元(1213)年6月15日[史実では延応元年(1239年)とも?]、この井戸水で産湯を使った「松丸」こと了海上人が生まれます。この井戸から近隣の地域を「大井」と呼ぶようになり、山号も「大井山」と称する様になったと伝えられています。そして文永2年(1265年)了海上人はこの寺を浄土真宗に改め、その後同寺を父の空範に託し麻布山善福寺に入りました。後に関東六老僧といわれるまでになったなった了海上人は、再び京都に赴き仏光寺四世となり、元応2年(1320年)正月28日、82歳で没することとなります。

光福寺門前の狭い道は古東海道と言われ高輪-居木橋から新井宿、矢口に通じていて寺の近辺は、大井の行政の中心であったといわれています。また江戸時代には付近に札場(お触れ、規則を書いた高札場)があったそうです。


銀杏解説板
この光福寺の井戸からついた「大井」という地名は了海上人が生まれなければ存在しない名称であったともいえます。また大井氏(紀実直の次男実春が大井氏を名乗る。)、品川氏(紀実直の三男清実が品川氏を名乗る。)も共に当然「紀氏」であり、当然了海上人との関わりもあったと思われます。





江戸名所図絵には、
 「この地は麻布山善福寺の中興の了海上人の旧跡なり。当寺に桜の老樹ありて春時奇観たり。了海上人産湯の井、寺の後楽にあり。」とある。

そして、新編武蔵風土記稿には、
「大井跡。客殿の北の方山腹に在り。横に深き穴なり。或書に云。この井は大いなる穴にて臨むもの目くるめくとあり。今はうづもれて穴の径六七尺もあるべし。」とある。 






大井の語源となる井戸「大井の井」
 
  
 
 
 
大井の井解説板
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 

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