2013年1月8日火曜日

篤姫婚礼行列の麻布通過


現在常陸宮邸となっている
元薩摩藩常磐松邸
 
以前、NHKの大河ドラマ「篤姫」が高視聴率をあげていました。といってもNHKの大河ドラマ自体が毎回高視聴率なのだと思っていましたが、近年20%を超えているのはさすがに「利家とまつ」、「功名が辻」だけで、他は17%前後の平均視聴率となっているそうです。しかし「篤姫」は平均で21.9% (7回までの平均)で最高はなんと25%、これは2,000万人が視聴した事になるといわれています。また、最新のビデオリサーチ(4/6付け)でも22.3%となっていてジャンルを超えて1位です。高視聴率は、「わかりやすい」・「女性が主人公」が共通の要因とのこと。



その篤姫ですが、将軍家定との婚儀のために江戸城に入城する際の行列は麻布を西から東へと通過していたことがわかりました。しかし、通常

大名の奥方・姫は上屋敷住まいが普通であったようで、薩摩藩は上屋敷を三田に、中・下屋敷を日比谷・高輪に持っていたが、三田から江戸城では麻布を通過はしません。実は、篤姫は江戸城に入るまでの期間を渋谷常盤松の薩摩藩渋谷屋敷で過ごしていました。

常磐松の碑
1853年(嘉永6年)3月1日、第28代藩主島津斉彬と篤姫は父子となり、根回しの上幕府に実子として届け、それまでの一子(かつこ)から篤姫と呼ばれるようになりました。そして同年8月22日篤姫は、鹿児島を出発し江戸に向かいます。 (ドラマ中では船による旅となっていましたが、海上の治安が悪いため、実際には陸路であったといわれています。) 10月2日、近衛家に参し、京都、宇治を見物した後に、10月6日伏見を発ち、同月23日江戸に到着、上屋敷の三田藩邸に入りました。その行程は2か月をかけ、約440里(約1700キロ)にわたる旅であったそうです。しかし海に近い三田の上屋敷が外国船からの攻撃にさらされる危険がある事や、さらに10月2日安政の大地震で被災した事により、1855年(安政2年)12月、篤姫は斉彬が新規に購入した渋谷常盤松の渋谷藩邸に移居しました。さらに1856年(安政3年)4月京都近衛家の養女となり、名を「敬子(すみこ)」と改め君号を篤君とした。同年11月11日、篤姫は将軍家定の正妻となるために、この渋谷藩邸から江戸城に入る事となります。
婚礼の調度品は藩主斉彬自らのかなり細かいところまでの指揮で揃えられ、その数も膨大なものとなったそうです。準備のため調度品を渋谷藩邸に納入のさいには、長持などが50~60個を毎日、6日間にわたったといわれています。この時の藩の担当者は西郷吉之助(隆盛)であったそうです。
そして、幕府からは輿入れの前日夕刻に御供の旗本や乗り物などの迎えが来ており、それらの者たちでごった返した屋敷内を藩主斉彬もその間を挨拶に廻りました。

碑解説版
1856年(安政3年)11月11日、正午に薩摩藩常盤松邸を出発した行列は東へと進み、現在の東京女学館脇から日赤病院横~高陵中学前を抜け、堀田坂を下って笄川を渡り麻布に入ります。そして鉄砲坂・北条坂の二段坂を登って桜田通りを北に折れて、中国大使館方面に直進、麻布消防署からヘアーサロンタナカ前を通り、材木町を右折し、芋洗い坂から六本木を通り、飯倉片町、飯倉と麻布を西から東へと抜けて、新橋、薩摩藩中屋敷(装束屋敷ともいわれます)がある日比谷を通過し、さらに進んで大奥の通用門である平川門から江戸城内に入りました。
(この部分は落語「黄金餅」の道中付け風にお読みください(^^;)

その日の荘厳を極め乗り物には朱傘が仕掛けられ、沿道は往来止となったそうです。そして驚くべき事に、行列の先頭が江戸城に入ったにもかかわらず、最後尾はまだ渋谷藩邸内であったといわれています。

江戸入りから、この江戸城輿入れまでに二年の歳月を要した篤姫はその後、12月3日内婚の儀、11日に結納を経て18日には表向きの婚姻披露を行い、この日をもって「御台様」と呼ばれるようになったようです。

このようにして江戸城に入った篤姫ですが、安政の大地震という天災が無かったら、麻布を通過することはあり得なかったと思われます。また、この輿入れに使用されたとされる篤姫の「黒塗二葉葵唐草葵牡丹紋散蒔絵女乗物」と呼ばれる駕籠が、スミソニアン博物館で東京学芸大学の教授により発見され、2008(平成20)年に江戸東京博物館で一般公開されて話題を呼びました。












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