2013年1月12日土曜日

藪下の岡場所「鎌倉屋」

前項でお伝えした末広池畔にあった岡場所の、より正確な位置がわかったのでご紹介します。


異本岡場所考の鎌倉屋
(画像提供:早稲田大学)
麻布区史などで引用されていた「異本岡場所考」の原本が早稲田大学図書館のデータベースにあることがわかり、早速調べてみました。
この資料には江戸市中の岡場所が図入りで詳細な解説がなされており、その中には「麻布市兵衛町」、「芝明神」、「三田三角」などと並んでこの藪下の岡場所が掲載されています。

この「異本岡場所考」よると、岡場所は暗闇坂下西側にあり、屋号は「鎌倉屋」とあります。また、隣接した現在のゲーム店「Max」あたりには「藪下稲荷」とよばれる御稲荷さんがあったと記されています。
そして、現在の十番商店街通りには「宮下町」、暗闇坂には「一本松通り」、宮村新道方面には「大住(隅)山通り」、現在の公衆トイレあたりには「薮下通り」と書き込まれています。さらに、一本松通りと書かれた西側には「武家ヤシキ」と書かれていますが、これは「増上寺隠居所」の誤りであると思われます。また、この岡場所は町並の一本松通りと書かれた繁華街側ではなく、当時も今もひっそりとした場所である反対側に「入り口」が設置されていたことがわかり、これは正式な公認街娼ではない岡場所が町奉行所を恐れての措置であったのかもしれません。


鎌倉屋は局見世(切見世)とよばれる最下等の遊女屋で、ここの女郎は一切(一回の交渉・約十分)五十文・百文にて切り売りしたが、大概は一切では済まず数倍の揚げ代を要求されたといわれています。
「異本岡場所考」はその様子を、
~至って女風俗よろしからずして、客を引留むり引き上げ、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所~
と記しています。
このような乱暴な客引きや強引な交渉と、実際のサービスが大きく違っていたことに憤慨した有馬藩の家士により天保八(1837)年、鎌倉屋は徹底的に打ち壊され、その後町奉行の詮議を受けたあげく、お上に召し上げられた土地が原野に戻ってしまったことを前章でもお伝えしましたが、後年同地は、幕府将棋所大橋宗英の拝領屋敷、西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷となって幕末まで続くこととなったようです。
里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也、局見世計りなれども古■(※推定:古来)はん昌の地にして至て女風俗よろしからずして、客を引き留むりと引上げ、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所なれども、此地は右触書之以前天保十年四月十五日、久留米家之者参り右場所にて口論致候、ついに大喧嘩となる、同日書中に■■(※推定:有馬)屋敷■百人余同勢にて押来り、右場所をさんざん打ちこわし同勢屋敷へ引取、其後御公儀之御沙汰に及び、追々商売不致候様に成其儘に家作地所共に召上られ今に野と成事目前なり。
鎌倉屋記事
(画像提供:早稲田大学)


○「異本岡場所考」敷地図の間違い

・岡場所の南方に「武家ヤシキ」とあるのは「増上寺隠居所」
・西方に「大住山通り」とあるのは「大隅山」
・一本松通りとは?
・暗闇坂が明示されていない


○「異本岡場所考」による発見

・暗闇坂下に藪下稲荷があった





◎「異本岡場所考」の画像を使用するにあたって、快く許諾を頂いた早稲田大学図書館様に感謝させて頂きます。







現在の末広池跡と鎌倉屋跡

















暗闇坂から見た鎌倉屋

























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