2013年1月30日水曜日

内田山の井上馨邸

井上馨鳥居坂邸と内田山邸
昨日、鳥居坂の井上馨邸で1887(明治20)年4月26日に行われた天覧歌舞伎の様子をお伝えしましたが、この頃井上馨はすぐ近所の宮村町内田山にも屋敷を持っていました。内田山邸は1894(明治27)年新築されたもので、鳥居坂邸が建てられたのが1880(明治13)年3月ということですので、内田山邸建設はその14年後ということになります。

この内田山邸は現在の南山小学校、六本木高校の上部から旧桜田通り(広尾から有栖川公園脇の木下坂を通り中国大使館~霞町交差点へと抜ける尾根道は現在テレビ朝日通りなどと呼ばれますが、元々は櫻田神社への参拝道であったので地元民は桜田通りと呼んでいました。)までの広大な敷地で、その様子は以前「内田山由来★桜に包まれた街」でお伝えしました。

この内田山邸は設計時から井上が鬼集する様々な美術品などを配置することが決められており、美術品の襖にあわせて周文の間・光琳の間などの間取りや寸法を決め、また大食堂天井の金唐皮は銭屋五兵衛が海外から購入したもので、増上寺塔頭にあったものを井上公が買い求めました。これも新築の際、この金唐皮の大きさに応じて大食堂の広さを決めているそうです。
内田山邸光琳の間
また天井板や釘隠などは旧大名邸が解体されたときのものを買い求め、この内田山邸建設に使用されました。そしてこれらお気に入りの調度品が使用される際には井上公が直接工事の指揮を執ることのあり、用法が誤っている場合には大工を大叱責したとされています。

さらにこの内田山邸には、鳥居坂邸で天覧歌舞伎を催した際に建てられた茶室「八窓庵」も1909(明治42)年に移築され、庵では度々茶会が催されました。
これは井上馨の鳥居坂邸の庭に「八窓庵」を残したまま久邇宮邸となり、さらにその後赤星鉄馬邸となりますが、赤星が逝去の際、家族に井上馨への返還を遺言したため、これが実行された事に依ります。
この 「八窓庵」は付属の什器ごと鳥居坂に残されていましたが、内田山に移築された折に共に井上公に返還されました。

内田山邸大食堂天井金唐皮
このようにして完成した内田山邸には1887(明治20)年の鳥居坂邸天覧歌舞伎での天皇行幸に引き続き、1910(明治43)年5月1日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が再びこの内田山邸に行啓します。そして翌日2日には李王世子の台臨、3日には各国大使など外交関係を招いての園遊会が盛大に行われました。

しかし、1913(大正2)年1月、井上馨は軽度の脳溢血で倒れ、 この内田山邸で療養していましたが、2月に入ると快方に向かいます。この病床の井上公を慰めるために茶人の高橋箒庵が井上公の収集する五幅(光琳の間の微宗皇帝の桃鳩・居間の一休和尚の丸木橋渡り・八窓庵の西行法師江口の歌・花月の間の沈南蘋筆朝日に鳳凰)から「内田山掛物揃ひ」を作詞します。そしてこの歌詞に五世清元延壽太夫が節を付けて3月に完成し、3月9日、内田山邸光琳の間において病床の井上公に披露されます。




八窓庵内部
皇太子嘉仁親王行啓(前列最右)








 



葬列
1915(大正4)年9月1日、井上馨は療養中の静岡市興津の別荘「長者荘」にて81年の生涯を閉じます。9月3日静岡から東京まで特別列車が組まれ、通過駅には多くの送迎者が井上公を送りました。東京駅からは黒塗りの馬車で馬場先門~日比谷~虎ノ門を経て内田山邸に到着します。
そして、葬儀は9月7日午前八時日比谷公園で行われました。その葬列は盛大で、




↑                     ↑
●前駆警部 特別儀仗近衛騎兵 歩兵 高張提灯●



○一般寄贈生花 各国大使寄贈花輪及び榊 親戚生造花○



○皇族方御榊 恩賜御榊 楽僧・役僧○



○副導師 導師 銘旗 香炉○



○位牌 生花 造花 高張  龍旗 龍灯 勲章○



○霊柩 近親 呉床 杖 沓 傘 雨皮 龍灯 龍旗 高張○



○喪主 遺族親戚 特別縁故者 時習舎同窓○



○遺族親戚 葬儀委員 会葬者 儀仗兵○



●会葬者 後部警部●



と続き、道筋は、


内田山井上馨邸


麻布桜田町


麻布材木町


麻布六本木


麻布谷町


赤坂福吉町


米国大使館前


虎ノ門


内幸町


日比谷公園正門


葬儀当日の内田山邸付近
とたどり、沿道は大混雑の見送りとなりますが、途中から驟雨となっても誰も去ろうとしなかったそうです。
ちなみにこの葬列の道程と、江戸期天璋院(篤姫)が薩摩藩渋谷邸から江戸城へと輿入れする際の行列が通過した道は桜田町から六本木までは、ほぼ重なります。


井上馨は晩年を宮村町内田山邸で過ごしますが、自邸の名称を文字ってその短気さは、「内田山の雷親父」と呼ばれました。
しかし、その雷もお気に入りの渋沢栄一が同席していると落ちなかったことから、渋沢は「避雷針」と呼ばれていたそうです。
 










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