以前「黒田清隆の妻殺し疑惑」というおはなしをご紹介しましたが今回はやはり、明治時代の黒田家でおきた悲劇をご紹介します。
陸軍中将を兼務した参議開拓長官でのちの第二代総理大臣となる黒田清隆の屋敷で馬丁として勤めていた岡田国蔵は、元は打網の漁師でした。そのいきさつは、元々魚が好きで自ら投網を打つのを趣味としていた黒田清隆がある日、漁師、家人を大勢連れて網を打った時に、どうしたはずみか金の煙管が海の中に落ちてしまいました。
たちまち顔色の曇った黒田公を見た家人達は、また彼の癇癪癖が起こるのではと恐れ、気を揉んでいると、大勢の漁師の中の一人であった岡田国蔵が突然海に飛び込み、沈んでしまいました。それを見ていた仲間の漁師達は飛び込んだ国蔵を、追従もここまでするかと軽蔑し、どうせ煙管は見つからないでかえって黒田公の怒りを買うだろうと言い合ったそうです。しかし、しばらくして浮かんできた国蔵の手にはしっかりと金の煙管が握られており、それを見た黒田公は途端に満面の笑顔になると国蔵に名前を聞いて、家人として取り立てる事を告げます。それ以来、黒田公は、如才の無い国蔵をたいそう気に入って馬丁として傍に置きました。しかし、実際にお蔵番として奉公させてみると、屋敷内で紛失物が相次ぎ、まもなくそれが国蔵の仕業だと判ったが黒田公は気に留めず、なおも馬丁として奉公させました。
一方、黒田家には「角田のぶ」というこれまた黒田公お気に入りの老女がいました。彼女は酒癖の悪い黒田公が屋敷内で暴れそうになった時も唯一公を収められる女中として、信認が大変に厚かったそうです。
そんな2人が何かの拍子に恋仲となってしまい、屋敷の評判となってしまいました。昔なら不義密通でお手討ちというところを、黒田公はお気に入りであった二人にしぶしぶ暇を出して放免としたそうです。その後「のぶ」は「国蔵」の妾として麻布龍土町で餅菓子屋をはじめ、麻布三連隊の兵隊などに人気が出て商売は繁盛します。一方の国蔵も妻と芝新道に家賃が七十五円という大きな弓場(矢場)を開いたのですが、こちらはあまり繁盛しなかったようです。しばらくすると国蔵はまだ小金を溜め込んでいた「のぶ」に北海道で一山当てようと言って連れ出し、二人は、一旦本当に北海道に行ってからしばらくすると再び東京に舞い戻って、芝愛宕の対陽館という旅館に逗留しました。
国蔵は旅館の主人に「体を壊した友人の情婦を入院させるために、自分が東京まで付き添って来た」と話しました。そしてその翌日、国蔵はのぶを渋谷に連れ出して行き、それがのぶの最後の姿となります。翌日、府下渋谷の渋谷原で顔の皮を剥がされた女性の惨殺死体が見つかり大騒ぎとなったが、結局身元がわからずに事件は迷宮入りとなります。
そして、旅館に一人で戻った国蔵は、何くわぬ顔で主人に連れが入院した事を告げると、今度は妻を呼び出して二人は故郷の房州鹿骨村に帰っていきました。国蔵は北海道に行った時からのぶの殺害を計画していましたが実行出来ず、わざわざ東京に戻ったのもその犯罪の完結をねらっての事でした。
しかし、故郷に戻った国蔵はしばらくすると村を出て甲州で博徒となったが悪運尽きて傷害事件を起こし、その取り調べの過程で家宅捜索された時に真新しいのぶの位牌が発見され、厳しい取調べの後に、渋谷での「のぶ殺し」を自供しました。
2013年6月15日土曜日
2013年3月23日土曜日
黒田清隆の妻殺し疑惑
のちの第2代総理大臣で、当時大久保利通に次ぐ薩摩閥の重鎮であった黒田清隆が陸軍中将を兼務した参議開拓長官だった頃の1878年(明治11年)3月28日、深夜に夫人の「清(きよ)」が逝去しました。葬儀は翌々日の30日に各大臣、皇族の代理なども参列して厳かに行なわれます。しかし、この荘厳な葬儀が終わるとすぐに清夫人は病死ではなく、夫の清隆に殺害されたという流言が飛び始めたそうです。この噂は以前から素面のときは豪快で闊達、しかし情にもろく温厚な一面も持つ清隆が、実は酒乱の癖があることからおこったといわれています。
3月28日の深夜、酩酊して麻布笄町(現港区立高陵中学あたり)の屋敷に戻った清隆は、妻の清から当時清隆が懇意にしていた芝神明の芸者との仲を恨んだ小言を散々聞かされます。そして、しばらくは小言を黙って聞いていたがいつまでたっても尽きない小言に逆上した清隆は、居間から日本刀を取り出すと袈裟懸けに妻を切り倒してしまった(別説には殴り殺したとも、蹴殺したともいわれています)。事の重大さから酔いも一遍に醒めてすぐに我に返った清隆は、妻の亡骸を抱いて号泣したそうです。そして物音に驚いて起き出した家人も凄惨な光景をみて肝をつぶしましたが、その中の家令が事の重大さを察して大警視川路利良に急報し、川路はすぐさま黒田邸にかけつけました。
かけつけた川路大警視は同じ薩摩閥の要人の窮境を救うために、清隆を慰撫すると融通のきく医者に病死の診断をさせ、また家人には厳重な緘口令をしき、清隆自身のアリバイ工作までして事件のもみ消しを図ったそうです。しかし、人の口に戸は立てられず、数日後には広く世間に噂されるようになってしまい顕官の横暴だと黒田批判が強まります。
この時思いがけない助けが入った。三田慶応義塾が発行する新聞「民間雑誌」明治11年4月4日号で、文中では匿名の一医生として福沢諭吉が「婦人養生の事」と題する記事を発表し内容は、日本の婦女子は屋外で活動する機会が少ないため身体の虚弱を招くと言う物で、さらに文中では、黒田夫人もこれが元で病死に至ったと断定し、更に事件当日急行した麻布の医師杉田玄端の子息である武氏の所見まで掲載しています。何故これほどまでして福沢諭吉が黒田清隆をかばったのかについては、確かな理由があったようです。
明治3年函館で榎本武揚が降伏した折、清隆は頭を丸めてまでして榎本の助命を嘆願しました。これは一般的には、榎本武揚率いる旧幕府軍の立て籠もる五稜郭を攻撃した際、榎本は日本の将来の為に黒田に「海律全書」を送り、この貴重な書物の紛失を避けたことで黒田は恩義を感じていたとされています。この返礼に黒田は、榎本に清酒5樽、鮪5本を送ったそうで、その時の使者であった箱館病院長であり適塾では福沢諭吉と同門であった高松凌雲の仲介により榎本は降伏し、五稜郭は開城されます。その後、黒田と榎本は厚い友情に結ばれた為とされますが、現実にはその裏に福沢諭吉から黒田清輝への強い嘆願があったためとされています。つまり榎本助命で清輝から受けた「借り」を福沢諭吉はこの件で返そうとしたと言う見方も出来ます。
しかし福沢の援護もむなしく、世評は相変わらず黒田批判一色でした。そしてそれまで言論統制によって沈黙を強いられていた新聞各紙を他所に風刺雑誌の「団団珍聞」4月13日号がポンチ絵で事件を風刺しました。政府はすぐにこの雑誌を発禁処分としますが、もはや世間では清輝の妻殺害は定説となってしまいました。
最後にこの薩摩閥の巨魁を救ったのはやはり川路大警視であったそうです。川路は世間の定説を無視出来なくなり、遂に青山に眠る黒田夫人の墓を発掘し、棺の蓋を少しだけ開けると「これは、病死である。」と断言してまた元どおりに埋めてしまいました。これにより世間の風評も収まり事件は解決しました。そして世間の目を逸らすように警察は府内で大々的に野鳥の捕獲に乗り出し、事件を一層遠い物としました。
しかし、それから2週間後の明治11年5月14日、紀尾井坂で大久保利通が暗殺されるという大事件が起こります。そして犯行後に自首してきた犯人達が持っていた斬奸状には、黒田清隆の妻殺しの一件が大久保利通断罪の一事由として掲げられていたそうです。
以下は黒田清隆の概略
1840年(天保11年)鹿児島城下で薩摩藩士黒田清行の長男として生まれる。
1863年(文久3年)の薩英戦争で初めて実戦に参加。
1868年(明治元年)鳥羽伏見の戦いに参戦。
1868年(明治元年)奥羽征討で、河井継之助の守る長岡城を山県有朋とともに攻略。
1869年(明治2年) 榎本武揚率いる旧幕府軍の立て籠もる五稜郭を攻撃。
1874年(明治10年)の西南戦争に従軍、鹿児島襲撃や熊本城の救援で功を挙げた。
1882年(明治22年) には、伊藤博文の禅譲を受け第2代総理大臣に就任。
1900年(明治33年)61歳で没。「今夜は熟睡しよう」と言って亡くなったという。
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