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安政大地震と麻布
今回は3.11東日本大震災に関連して、江戸後期最大の地震「安政の大地震」と麻布辺の被害についてお伝えします。
安政地震とは安政二年十月二日(1855年11/11)におきた江戸湾北部を震源とするM7クラスの直下型地震で、江戸市中に被害が集中しました。
しかし、この前後に関連すると思われる地震が日本中で群発しており、それらすべてを含めて「安政の大地震」とする場合もあります。
また江戸湾北部を震源とする地震を単に江戸地震とする場合もあり、一般的に「安政の大地震」というとこの地震を指す場合が多いようです。
この地震について当時の書籍に数多く記されており、それらを東京都が集成・編纂したものが「安政江戸地震災害誌」です。
この「安政江戸地震災害誌」によると、地震による横死者の総数を4,626人としています。その中で港区域ではは芝・品川・八丁堀・築地など沿岸地域で横死者141人、麻布・赤坂・四谷・麹町・市ヶ谷などのいわゆる山の手部分で81人の横死者を記録しています。
これ以外を下町の横死とすると、やはり震源域に近い隅田川河口部地域に集中していることと、沿岸部の津波被害などよりも火災の被害が多かった事が推測できます。
これらの被害について「後見草」という書籍では、
是を以て所により地震の強弱ある事大抵推して思ふべし勿論火災なき地は横死少なきなれ共潰家多き程なれば自然出火もあるべき道理なればともかく横死多きはふるひも強き場所を知られぬ
と書き残しています。
そして麻布辺の被害については、
- 今度の地震、山川高低の間、高地は緩く、低地は急也(破窓)
- 都にて湯島、麹町、駒込、牛込、小石川、四谷、赤坂、市ヶ谷、麻布等の辺、高き所は動揺少く、されば潰家も少なし。凡山の麓川添の町々は別して強しと見ゆ。(武江地動上)
- 麻布は一円崩れ少々(時雨十四)
- 麻布も損じ多けれど格別の事なし日がくぼ竜土ハいたミ少しは土蔵壁込の分ハいづれも崩れざる所なし(細見)
などとその被害の少なさを記録している書籍が多いのですが被害についてもう少し細かく見ると、
- 芝森元町の坊正鈴木与右ヱ門も此夜途中に於て土中より火の出るのを見たりとぞ(武江地動上)
- 町方横死(西の方)飯倉五丁目二人(後見草)
- 飯倉片町大破、凡は傾き又崩所有。(見聞誌三十六)
- 永坂辺破損、善福寺大破損、灯籠碑等倒れ崩る、行人坂崩所有。(見聞誌三十六)
- 四ツ辻大いに損じ狸穴 十ばん 赤羽根はいたミ強し(細見)
- がぜんぽ谷大破損、武家町家共崩る。(見聞誌三十六)
- 町方横死(西之方)麻布坂下町一人(後見草)
- 笄橋此辺破損強し(見聞誌三十六)
- 町方横死(西之方)麻布四軒家町四人(後見草) ※三軒家町の誤りか?
- 十番組 麻布谷町外 変死十一人(男五人女六人)潰家二十九軒 潰土蔵無之(往古書記)
など、地域によってはかなり大きな被害も出ていたことが記されています。
これらから、麻布辺の被害は他書に比べると少なかった事が伺えますが、全く被害がなかったということではなく横死者なども出ています。
この被害の少なさをもたらしたのは火災が少なかった事、そして武蔵野台地の堅牢な台地が揺れを少なくした事が考えられます。その中でも、江戸の四大火にも数えられたこの地震による火事の影響を、あまり受けなかったことが特に大きな要因だと思われます。
しかし、現在その堅牢な武蔵野台地端は地盤ごと削り取ってしまうような大規模再開発やマンション建設で、本来土地が持っているはずの強度を保っているのかを、疑問視する声も聞かれます。
★江戸三大大火
- 明暦三(1657)年 3/2 明暦の大火・振袖火事
- 明和九(1772)年 2/29 明和の大火・目黒行人坂大火
- 文化三(1806)年 3/4 文化の大火・丙寅の大火・芝車火事
★江戸四大火
- 天和二(1682)年 12/28 お七火事、天和の大火
- 元禄十一(1698)年9/6 勅額火事、中堂火事
- 元禄十六(1703)年11/29 元禄の大火、水戸様火事
- 安政二 (1855)年10/2 安政地震の大火
◎江戸期の火事
次回は麻布辺の江戸期以降の災害をお伝えします。