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2017年10月13日金曜日

麻布の小林多喜二 

小林多喜二
(wikipediaより引用)
「蟹工船」などを表しプロレタリア文学の代表的な作家として有名な小林多喜二は1933(昭和8)年2/20赤坂で特高警察に逮捕され築地警察署取調室での拷問によりに死亡しますが、その直前まで麻布周辺に潜伏していました。


死亡する前年の1932(昭和7)年4月、麻布区東町称名寺(現・港区南麻布1-6)の一角にあった家(現在の本堂の敷地)の一室を間借りして伊藤ふじ子と同棲し地下潜伏がスタートします。
その後、同7月麻布区新網町(現・港区東麻布3丁目)に潜伏、同9月麻布区桜田町(現・港区六本木6丁目)に潜伏しますが、警察に桜田町の潜伏先を探知され、1933(昭和8)年、渋谷区羽沢44(羽澤ガーデンあたり:現渋谷区広尾3-17)に潜伏先を変えます。その直前に同棲相手の伊藤ふじ子が勤め先において警察に逮捕され、その一月後には多喜二自身も赤坂において逮捕されることとなりますが、これは組織に潜入していた特高警察のスパイが仕掛けた罠により待ち伏せされ、20分間の逃走の後に溜池の電車通りで格闘の末に築地署特高課員に取り押さえられたそうです。

また麻布内に潜伏していた時期には多喜二は麻布十番商店街のヤマナカヤ果物店二階のパーラーをよく利用していたようで、同志との連絡場所、上京した母親との面会などもこの場所で行われていました。
この「ヤマナカヤ」は私が小学生の頃にはまだ十番商店街東側入り口角に残っており、さらに稲垣利吉氏が表した「十番わがふるわと」大正期と昭和期の地図を見ると場所は移動しながらも「ヤマナカヤ」が書き込まれています。多喜二が通ったパーラーは昭和期に描かれた場所である可能性が高いと思われます。

また時代は流れて元号が平成に変わってから、網代公園脇の麻布十番2-18-8に「白樺文学館 多喜二ライブラリー」が開館しますが、残念なことに私がこのネタを探し始めた頃の2008(平成20)年11/30には千葉県我孫子市に移転して「白樺文学館(〒270-1153 千葉県我孫子市緑2-11-8 Tel:04-7169-8468」として再スタートされたようです。


拷問により自らの命の最後を悟った多喜二は、母思いであった事から、

「母親にだけは知らせてくれ」

と嘆願したそうです。




wikipedia-小林多喜二


青空文庫-蟹工船


白樺文学館


猫の足跡サイト-浄土真宗本願寺派・憶念山 称名寺














多喜二が潜伏した憶念山 称名寺①
       







多喜二が潜伏した憶念山 称名寺②













大震災前の麻布十番商店街
(稲垣利吉「十番わがふるさと」より引用)




麻布十番商店街(昭和初期~15年頃)
(稲垣利吉「十番わがふるさと」より引用)










現在の同所 



















※一部画像はwikipediaより引用




























2016年8月10日水曜日

松頭山 本善寺と末広神社



本善寺と末広神社
先日(2016.08.07)の散歩で訪れた高輪台駅方面からJR五反田駅に向かう坂途中に見つけた(品川区東五反田3-6-17)日蓮宗の寺院「松頭山 本善寺」さん。このお寺さんは慶長十三(1608)年に創建された古刹で、1945(昭和20)年までは創建地である麻布十番にありました。

本善寺は十番稲荷神社の前身で麻布坂下町の鎮守社でもあった末廣神社の南隣にあり、住所は麻布一本松町九番地(現在の麻布十番2丁目4あたり)でした。この寺の名残を示すものとして、十番商店街裏手から大黒坂へと登る小坂「七面坂」がありますが、これは本善寺境内に安置されていた「七面明神坐像」があったためついた坂名です。この「七面明神坐像」は日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神とされており、参詣者も多かったので昭和40年台まで「九の日」には縁日が開催されていました。

本善寺について江戸期のお寺調べのバイブルともいえる「御府内備考続編(通称:寺社備考)」には境内の建物配置図が掲載されており、この「七面明神坐像」は本堂とは別に山門の左手、拝殿奥に安置されていたことがわかります。さらに本善寺の所属は「上総国平賀本土寺末」と記されており本土寺は千葉県松戸市平賀63に現存しています。

そして隣接する末広稲荷神社についてもその関連性を調べるため「御府内備考続編(通称:寺社備考)」を見てみましたが、関連性を調べるため....
としたのはスバリ隣接する末広稲荷神社と本善寺は別当寺の関係ではないかということを調べるためでした。

しかし末廣神社の項目には「別当寺」の記述が見あたらず、これはかなり奇異な事に感じました。
「御府内備考続編(通称:寺社備考)」は江戸文政年間(1818年~1830年)に書かれた「文政町方書上」とほぼ同時に書かれたもので、江戸の寺社の総てが自主的に幕府に提出した寺社の来歴・概要・敷地図などを網羅した書籍なので、その記述の先頭にその寺社の所属と神社の場合にはその社を管理する別当寺が書かれているのが普通です。江戸期の神社は社格で「官幣大社」などの大型神社(神宮・大社など)以外は寺社奉行の管理下、寺院の管理下に入ることが決められおり、管理する寺院には「別当」と呼ばれる社僧(神官を兼務する僧で社僧の長が別当と呼ばれ、別当の寺を別当寺としました。)

江戸期の本善寺と末広神社敷地
一例を挙げると、麻布氷川神社の別当寺は当時麻布氷川神社境内に設置されていた古義真言宗の「冥松山 徳乗寺(院)」という寺院で芝愛宕の真福寺(港区愛宕1−3−8に現存)の末寺でした。そしてこの徳乗寺は享保20(1735)年まで北日ヶ窪にあり、現在の六本木朝日神社の別当寺でもありました。余談ですが、この麻布氷川神社と別当寺であった「冥松山 徳乗寺(院)」の関係を今に伝える物として、麻布本村町が麻布氷川神社例祭で神酒所に展示する「獅子頭」の解説に残されています。この解説板には獅子頭が文久二(1862)年に製作された時の世話人名筆頭に「氷川徳乗院現在栄運」とあり、氷川神社を管理していた社僧(別当かもしれません)栄運の名前が記されています。また、廣尾稲荷神社は明治期まで麻布宮村町狸坂下(旧麻布保育園敷地と隣接空き地)にあった「法隆山 五光院 千蔵寺」が別当寺であったため、別名「千蔵寺稲荷」とも呼ばれていました。

このように神社は別当寺により管理されるのが普通であった江戸期に、別当寺が無い(別当・社僧が神官ではない)神社が末広稲荷神社であったようです。そして「御府内備考続編(通称:寺社備考)」の末広稲荷神社の項には不思議な記述が見えます。


○神主中村日向(吉田家門人)

元禄十五(1702)年先祖中村宮内え神主職初而被仰付、夫ゟ(より)七代相続仕候、然ル処先年寺社奉行所ゟ(より)御直触被仰付候、代々致触頭来候、享保六(1721)年類焼、其後度々之類焼ニ而書物等焼失仕、其上私幼年相続ニ而委細之儀相分り不申候処、年々心掛置且申伝抔と申儀承り候節々留置候分、此度相認申候、但社家等も明和五(1768)年類焼後中絶仕候、
上記文章は、中村日向という末広稲荷神社の神官(神主)が元禄十五(1702)年に末広稲荷神社の神官(神主)となった先祖の事を記しており、それ以来中村家が代々末廣神社の神官を務めていたことがわかります。そして、この中村家は「吉田神道」の門人でした。

麻布十番の七面坂と
本善寺があったあたり

吉田神道とは江戸期に隆盛を極めた神道の一派で徳川幕府が寛文五(1665)年に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたいわば幕府御用達の神道で、当時神道界に絶大な権限を持っていたようです。この吉田神道と末廣神社の関係について現在の十番稲荷神社社家に伺ったところ、

  • 隣接していた本善寺は別当寺ではなく、末広稲荷神社は江戸期には珍しい「別当寺の支配を受けない専門の神官(神主)を置く神社」であった。

  • 当時の末広稲荷神社は江戸府内でも有数の吉田神道神社で、数多くの末社を従えていた。

  • 神官であった中村家については代々の記録が残されている。

  • 明治に入ると天皇家を中心とする本来の神道が隆盛したため、幕府の庇護を受けていた吉田神道系の神社であった末広稲荷神社は主流から外れ大変な苦労をした。

七面坂 坂下

七面坂 坂標

とご教示いただきました。

このように敷地が隣接しながらも別当寺と支配下神社という公式から外れた関係であった本善寺と末廣神社も1945(昭和20)年の空襲により焼失し、末広稲荷神社は永坂下にあって戦時中に建物強制疎開により破却された「竹長稲荷神社」と合祀され、現在の十番稲荷神社として遷座します。
また本善寺の「祖師像」と「七面明神坐像」は焼失前に持ち出され、同じ日蓮宗で当時戦災を免れていた麻布宮村町の安全寺に寄宿します。しかし、この安全寺も後の空襲により焼失し現在も坂名に残る「七面明神坐像」も「祖師像」も残念なことに焼失してしまいます。

1947(昭和22)年に麻布十番より現在地(品川区東五反田3-6-17)へ移転再建され現在に至っていますが、実は現在も「七面明神坐像」も「祖師像」が寺に安置されています。これは、小岩本蔵寺住職馬場玄諦師の好意により、本蔵寺二体の祖師像の内の一体をゆずられたのが現在の祖師像とのことで、さらに「七面明神坐像」は二の橋の寺院からお預かりしているもの(本善寺談)とのことです。


麻布本村町所有の獅子頭解説板
に記された麻布氷川神社社僧「栄運」



<麻布区史 末廣神社>

○末廣神社(村社) 坂下町四一
祭神思姫命・市杵島姫命・満津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七・十八日。

慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱(称)があった。
又その枝葉さかへ梢の繁茂しでゐ(うぃ)るところより末廣の木と呼び、これが社号の起源となったと云ふことである(再考江戸砂子)。
明治六年七月五日村社に指定され、明治二十年四月末廣稲荷神社の社号を現稱(称)に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。




<麻布区史 本善寺>

◎松頭山本善寺 一本松九 下総平本土寺末

一書正東山に作る。慶長十三年三月草創、本善院日東聖人(慶長十五年二月十五日寂)の開山である。境内に七面社がある。
七面天女を安じ俗に麻布十番の七面天と呼び、一・九・十九・二十九の縁日には賽者が多い。





<七面坂 坂標>

坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
設置者: 港 区
設置日: 平成九年三月




★参考サイト

現在の本善寺山門

十番稲荷神社オフィシャルサイト

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

日蓮宗東京都南部宗務所サイト-松頭山 本善寺

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

Blog DEEP AZABU-末広池

Blog DEEP AZABU-麻布氷川神社

Blog DEEP AZABU-本村町獅子頭

Blog DEEP AZABU-廣尾稲荷神社

・Blog DEEP AZABU-宮村町の千蔵寺

Blog DEEP AZABU-麻布近辺の縁日

wikipedia-吉田神道

wikipedia-別当寺
現在の本善寺

wikipedia-社格

wikipedia-近代社格制度
























現在の本善寺




2014年4月9日水曜日

続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布


前回 「花子とアン」の麻布をお伝えしましたが、今回はその話の原作とされている「アンのゆりかご」に描かれた麻布をご紹介します。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」のシナリオの元となる原作「アンのゆりかご」は村岡花子の孫である村岡恵理が表した祖母の伝記です。
これにより、ドラマよりも細かく村岡花子の生涯が描かれています。

まず目に付くのは、ドラマでは花子が10歳の時に甲府から上京して、いきなり東洋英和女学校(ドラマでは修和女学校)に編入学することになっています。しかし、「アンのゆりかご」では、5歳で一家そろって上京し、現在の南品川(京浜急行青物横丁付近)に居を構え、葉茶屋(茶葉の販売店)をはじめたとしています。
そしてその上京はドラマよりも厳しいものであったようで、「親戚とのしがらみに決別して」の上京と記していますが、残念ながらドラマのシナリオでは、品川在住の部分がすべて欠落しています。

さらに、ドラマでは花子が甲府在住時に大病により生死を彷徨ったことになっていますが、実際には花子が南品川に住んでいた7歳の年に起こったことのようです。
その際辞世の句を詠んだのはドラマと同じで、



          まだまだとおもいすごしおるうちに


               はや死のみちへむかうものなり



と詠んでいました。
そして病気が回復した後には、



      まなびやにかえりみればさくら花 

               今をさかりにさきほこるなり







と詠んだそうです。ここでいう「まなびや」とは上京の翌年に入学した城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)のことで、この小学校には花子が10歳(4年生)まで在籍することとなります。

やや話は前後しますが、この「アンのゆりかご」第一章では冒頭、

~明治36年(1903)春-、10歳になる花子は父に手を引かれ、麻布、鳥居坂の桜並木を歩いていた。~中略~花子たちの脇を、友禅の和装姿の貴婦人を乗せた人力車が通り過ぎて行く。長く連なる赤レンガの壁に囲まれるのは、華族や貴族と呼ばれる特権階級の屋敷である。久邇宮家、三条公美邸、実吉安純邸、明治維新の立役者である大鳥圭介邸、韓国皇太子が暮らす李王家など、貧しい平民の花子にとっては雲の上の人々が暮らす一帯は、近寄りがたい威厳をたたえていた。~(アンのゆりかごP32)

っと、当時の麻布の様子を描いています。この花子が父に手を引かれて歩いた桜並木の先には、もしかしたら当時麻布でも江戸期からの有数の銘木として知られ、太田蜀山人にも、

      永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦

と詠まれた「岡の桜」(現在の麻布総合あたりにあった)も含まれていたのかもしれません。

1903(明治36)年、10歳の花子は東洋英和女学校へ給費生として編入学することとなり、東洋英和女学校寄宿舎での生活が始まります。つまり、この年から20歳で高等科を卒業する1913(大正2)年までの10年間、花子は麻布に居住していたこととなります。

また、この東洋英和への編入学には父の強い希望により実現したのもドラマと同じですが、その背景に品川に暮らしていた家族の犠牲という悲しい側面も持ち合わせていたようです。家族の生活は上京後にさらに困窮を深め、8人兄弟のうち、長女の花子以外の子供は次女と三女の外は全員養子などより親元を離れることとなります。

さらに、東洋英和での生活は苦労の連続であったことが記されていますが、ドラマでブラックバーン校長として登場するの第三代東洋英和女学校校長のブラックモアは校長を4度も務めた方のようで、その写真が「アンのゆりかご」に掲載されています。特に67ページに掲載された、

「明治中期、カナダ・メソジスト協会本部から東洋英和女学校に派遣されてきた婦人宣教師団」

というタイトルのつけられた写真の中で、ブラックモア校長が最後列に写されています。そしてこの写真の中央部には第2代校長のMrs.ラージが写されています。このMrs.ラージは、以前お伝えした東洋英和女学校寄宿舎で起こった強盗殺人事件で夫を殺害され、自身も指を2本失うという重傷を負うこととなる女性です。この事件により重傷を負ったMrs.ラージが帰国するにあたって校長職を継いだのがブラックモアでした。

また同頁に掲載された写真は1900(明治33)年に女学校創立地の潮見坂坂下から現在の校地に移転したばかりの綺麗な校舎・寄宿舎がうつされており、さらに30年後にはヴォーリス設計による校舎へと変貌することとなります。

そして、「アンのゆりかご」は、給費生として寄宿生活をおくる花子たちの様子と、十番商店街の接点も描いています。

~入学して半年ほどたったある日、同室の上級生が放課後、花子を誘った。
「ご一緒にデザートを買いに行きましょう」寄宿舎に「デザート」を持ち込むことは許されており、それは寄宿生の大きな楽しみであった。~中略~鳥居坂を下り、麻布十番の商店街にある松源堂という和菓子屋に入ると、そこにはすこぶる大きな金つばが売られていた。~(アンのゆりかごP48)


「十番わかふるさと」大正期の地図
などどあり、当時の彼女たちの最大の楽しみが「甘味」であったことが記されています。
ちなみに、この「松源堂という和菓子屋」ですが、稲垣利吉氏の著書「十番わがふるさと」巻頭の「大震災前の(1923)麻布十番商店街」というタイトルの地図に「和菓子松玄堂」と記されているのが同店で、現在は麻布薬局(麻布十番1-8-9)となっている辺りだと思われます。



さらに「アンのゆりかご」第三章では1908(明治41)年~1913(大正2)年の動きとして「孤児院での奉仕活動」を取り上げています。

前回お伝えしたとおり、給費生として東洋英和女学校に編入学した花子には「孤児院での奉仕活動」が義務づけられていました。
そこで、時代的にも合致している永坂孤女院での奉仕活動と、開院時の集合写真に花子が写り込んでいる可能性を東洋英和女学院史料室に調査に訪問したのですが、この書籍では花子がその永坂孤女院で奉仕活動をした可能性を完全に肯定しています。
当時の寄宿生は隣接する麻布教会(現在の鳥居坂教会)での日曜学校と聖日礼拝に出席することが義務づけられ、さらに書籍はこのように記しています。

~午前中、麻布教会の礼拝に出席する前に、花子たち数名の給費生は給費生の必修として、東洋英和女学校が運営している孤児院「永坂孤女院」の日曜学校に教師として出向いた。~」(アンのゆりかごP71)


そして岩崎きみちゃん(文中では佐野きみ)が同時期に孤女院にいたことも記されており、書籍には、

当時日曜学校の教師として孤女院に赴いていた花子が、自分の読書経験を生かし、身寄りのない孤児たちに、物語を語り聞かせていた。(アンのゆりかごP72)


と記してきみちゃんと、その孤児院で行われていた日曜学校の先生である花子の面識をほのめかしています。ちなみに当時この日曜学校は麻布中学を創立した江原素六が校長を務めていました。よってこの書籍にはありませんが、おそらく江原素六と花子に面識があったと考えるのが妥当かではないかと思われます。

これまで「花子とアン」と麻布の関係、そしてその原作となる「アンのゆりかご」における麻布との関係をご紹介してきましたが、ドラマの方は麻布での寄宿生活が始まったばかり。今後の展開も楽しみですが、ドラマのシナリオと原作との違いなども確認しつつ、ドラマをより一層楽しむために是非「アンのゆりかご」のご一読をお勧め致します。









 




                    


アンのゆりかご 村岡理恵 著










★関連項目

「花子とアン」の麻布

東洋英和ラージ殺人事件

東洋英和女学院オフィシャルサイト

赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

大森めぐみ教会

永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん
















2013年6月16日日曜日

麻布十番の林田小右衛門

昭和の始め頃まで十番に住まいのあった林田家は、徳川家康の六代前から松平家に仕え、家康の江戸入国に付き添って江戸に来た古い家柄だそうです。 
麻布十番商店街
家康の江戸入りした直後の江戸では、目障りになったり差し障りがある箇所を修繕取り除けする役でした。ある所で道がぬかるんで目障りであるとの命を受けて散々考えた挙句、道端に稗(ひえ)を蒔く事を思いつき、道端を青々と彩らせたそうです。また江戸城の堀端の松の木も林田小右衛門が植えたものだといわれ、幕末まで林田家が代々無料で植栽管理を受け継いでいました。また大奥の「御能」で使う松飾も林田家の仕事で、松飾の為に保土ヶ谷にそのためだけの松の植林を持っていたそうです。しかし、、幕府からの禄は微禄で三人扶持でしかありませんでした。でもこれは表向きの収入で、その他諸家からの扶持が四百人扶持を下らなかったといい、その生活は豪勢を極めたそうです。

林田家には小右衛門の本家の他に、麻布新門の林田弥右衛門、南日ヶ窪の林田彦兵衛、北日ヶ窪の林田正兵衛の3つの分家がありましたが、いずれも百人扶持ほどの収入があり生活は豊かであったといわれています。

しかし何と言っても本家の勢いが一番で、林田本家は他に手代を六十人も使って大名相手の「高利貸し」を行っていました。これは大名が急場の資金を凌ぐ「時借り」などから莫大な利益をあげ、また返済出来ない大名からは「禄」を貰う事で相殺し、借金を払いに各地の領内から江戸に来た村長(むらおさ)が店を訪ねた時にはご馳走で歓待したともいわれています。

この様に世渡り上手な林田家は幕府が倒れる時も、ある縁故で官軍の御用を勤め、山県、大隈公をはじめ知己があったそうです。また江戸城開城の時は、林田が食事から夜具まで一切の世話をしたといいます。明治になり北畠男爵とも姻戚となり、十番も一町四方百両で下げ渡されたといいます。
この林田家が麻布十番に現存しているかは未確認ですが、もしあれば十番でも有数の旧家と言う事が出来ると思います。

2013年2月5日火曜日

麻布の歌舞伎公演-南座と明治座

 1923(大正12)年9月におきた関東大震災では多くの家屋が焼失しましたが、劇場や芝居小屋もその例外ではありませんでした。
末広座(明治座)跡の
ダイエー麻布十番店
帝劇、新富座、有楽座、明治座、市村座、本郷座、公演劇場、宮戸座、御国座、寿座、中央劇場、開盛座、神田劇場等が次々に焼失し、1921(大正10)年の火事により焼失して再建中の歌舞伎座も震災により再び焼失してしまいます。
この震災直後の中で、絶江坂下角である麻布区本村町153(現南麻布3丁目・レフィナード南麻布付近)にあった活動写真館の「麻布南座」を全面的に改修して、震災後初の歌舞伎公演が行われました。公演は同年10月25日から市川中車、板東秀調、片岡亀蔵などの若手により行われ「熊谷陣屋」「壺坂霊験記」「黒手組助六」などの演目は、どれも初日から大入り満員となったそうです。

さらに翌1925(大正14)年1月には、麻布十番の末広座(現ダイエー麻布十番店)が、やはり改修の後に歌舞伎公演を行い「麻布明治座」を名乗る事となります。
麻布明治座は、1月には左団次一座の『鳥辺山心中』等 、2月には狂言の『沓手鳥弧状落月』などを上演し大盛況となりました。この時の様子は「増補 写された港区 三(麻布地区編)」P117にも掲載されていますが、「震災後の左団次公演の時は入場者が一の橋まで行列するほどの大繁盛だった」と私も土地の古老から直接聞いた事があります。
またちょうど同じ頃に麹町の自宅が焼失し、宮村町に居を移していたこの公演の作者である岡本綺堂が、十番雑記では「明治座」というタイトルで、
 左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲るのを覚えた。
左団次公演当時の麻布十番明治座
と、その様子を嬉しげに記録しています。そしてさらに「岡本綺堂日記」12月8日の記述では、
~木村君から郵書が来て、十番の末広座は明治座と座名をあらためて、来春1月から左団次一座で開場、昼夜二部制で二の替りを出す筈。わたしの作では、信長記、鳥辺山心中、番町皿屋敷、佐々木高綱、浪華の春雨の五種を上演するといふ。これでは綺堂復興劇とでも云ひそさうである。~
とあり、震災からの復興に自分の作品が関与することを手放しで喜んでいます。さらに綺堂日記12月25日では麻布明治座公演の入場料が特等三円、一等二円五十銭、二等八十銭、三等一円二十銭、四等六十銭であったことが記され、自身も書生を使って一等席十六枚を購入させた事が記されています。

翌1925(大正14)年1月3日の項には、
明治座は相変わらずの混雑、殊に万事が不慣れと見えて場内の整理が行き届かず、われわれの席は二重売りがしてあったので、更に面倒。~

としながらも「なにしろ大入りなのは結構というほかあるまい」とその喜びを表しています。

土地の堅牢さにより震災の被害が比較的少なかった麻布の二劇場は歌舞伎公演の中心となり、同年6月頃まで賑わったそうです。 そして6月「麻布明治座」は再び末広座と名を戻し、南座と共に劇場・映画専門館となって歌舞伎劇場としての役割を終えました。 南座はのちに麻布十番(現在の桂亭の場所)に移転して映画館「麻布松竹館」となり、両館共に戦後映画の黄金期には大繁盛することになります。










南座があった絶江坂下(坂標のマンションが跡地)







明治座オフィシャルサイト麻布末廣座記述








より大きな地図で 劇場・寄席・映画館 を表示







2013年1月11日金曜日

末広池



永坂町及坂下町近傍図の末広池
1883(明治16)年に陸軍参謀本部が作成した地図「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」を何度かご紹介してきましたが、この地図には江戸期のものとは違い標高点・植栽種類・池・沼・坂名・地名・建物種別など、ほぼ現在の地図と変わらない細かい記述があります。特に池や沼などの水源地についてはごく小さなものまで正確に記載されており、これを見ると当時の麻布中央部には無数の水源池が存在し、特に宮村町周辺には、がま池・ニッカ池(毛利池)・原金池以外にも多くの池が集中していたことがわかります。


その中で、ががま池・ニッカ池に次ぐ規模の大きな池が十番商店街(現在のグルメシティ麻布店裏手あたり)にありました。その池は末広稲荷神社(現十番稲荷神社)の脇にあり、がま池の約1/4、ニッカ池の1/3ほどの規模であったようです。 
この池には名称が記載されていないので当サイトは独断で「末広池」と呼ぶこととします。 この末広池は十番商店街に隣接していたためか、明治の早いうちに埋め立てられたと思われ、この陸軍参謀本部地図以外に描かれているのを目にしたことがありません。しかし、江戸末期の一本松坂の居酒屋を舞台にした小説「女だてら 麻布わけあり酒場」には、わずかながらこの末広池が「暗闇沼」という名称で描かれている。

グルメシティ麻布店裏手が末広池跡
<池付近の岡場所>

このサイトを開設した1998(平成10)年当初にお知らせした「むかし、むかし1-10 原金の釣り堀」文中で、
この池(原金池)のほとりにあまり高級じゃない岡場所があり、遊女ではなく夜鷹が、かなりのボッタクリをしていた。ある夜、久留米藩の侍が遊びにきたがあまりのひどさに腹を立て、藩の侍100人あまりを呼んでき 徹底的に打ち壊してしまった。それ以降2度と店は出来なかったそうだ。
とお伝えしましたが、どうやらこの打ち壊しがあったのは原金池(現在の六本木ヒルズ住宅棟辺り)ではなく、この末広池であった可能性が高いとおもわれます。
この間違いは、私が宮村町で生まれ育った昭和30年代当時は「藪下(やぶした)」という宮村町里俗の字名が現在の六本木ヒルズ住宅棟辺りのみを指す地名であったことに起因し、

藪下+池=原金池

と短絡した結果でした。しかし、調べ直してみると江戸期の「藪下」はもっと広い地域の名称であったということがわかりました。
○ 文政町方書上-宮村町

一、里俗藪下と申すわけ相知れ申さず候。もっとも宮村町一円に相唱え申し候。





○ 麻布区史-宮村町

町内一円を里俗に今も藪下と称している。





○ 異本岡場所考-藪下

里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也





○ 角川 日本地名大辞典-藪下

江戸期の麻布宮村町一円の俗称名称。





○ 東京35区地名辞典-藪下坂

桜田町から宮村町北部へ下る玄碩坂の別名。坂下一体は俗に「藪下」と呼ばれた低地で、そこへ下ることに因む坂名。





○ 道聴塗説-藪下

麻布大明神、今は氷川と称す。北に当て宮下、又は藪下とて~(略)。





○ 岡場所図絵-藪下

麻布宮村町、同宗英屋敷、同貞喜屋敷を里俗藪下と呼びたり~(略)。





池の大きさ比較
このように藪下の地名は暗闇坂下周辺にも及んでいたと思われ、末広池のほとりに江戸末期存在した下級の岡場所について「江戸 岡場所遊女百姿」(花咲一男著)には、 
享保五(1720)年二月廿九日、一、藪下稲荷(※推定:末広稲荷)前。とあれば、当時既に繁盛せしを知るべく延享三(1746)年八月十一日、御手入の節召捕られし売女ぎんといひし者、川中の数にも入らぬつとめにて、うきことのみにはづれざりけり。とよみし由、見聞雑記に見えたり。当所安永度には四六の大見世五十文の切見世なりしが、後やや衰えて、文政度には百文の切見世となりぬ。天保八(1837)年(花散る里には天保十年四月十五日。大郷信齋は文政七、八年という)久留米候の中間と口論より事起り、終に断絶するに至りぬ
とあり、延享年間に行われた幕府の手入れで捕縛されたこの池の畔の岡場所の遊女「ぎん(別説では「けん」)」が、それまでの無数の商売により「浮事の身」に落ちてしまっと記されています。

また天保年間におきた赤羽橋に藩邸がある久留米藩中間によるこの岡場所の「打ち壊し騒動」について麻布区史は「異本岡場所考」を引用して、
里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也、局見世計りなれども古■(※推定:古来)はん昌の地にして至て女風俗よろしからずして、客を引き留むりと引上げ、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所なれども、此地は右触書之以前天保十年四月十五日、久留米家之者参り右場所にて口論致候、ついに大喧嘩となる、同日書中に■■(※推定:有馬)屋敷■百人余同勢にて押来り、右場所をさんざん打ちこわし同勢屋敷へ引取、其後御公儀之御沙汰に及び、追々商売不致候様に成其儘に家作地所共に召上られ今に野と成事目前なり。
と記して、打ち壊し後にこの池畔の岡場所は二度と再興せず、跡は野原に戻ってしまいそうな様子が記されています。
(※推定事項はすべてDEEP AZABUの解釈です。)



<当時の狂歌>
藪下へ 出る化け物は 切り禿かむろ

十番の わきに子捨てる やぶもあり




その他、この末広池以外にも江戸期の麻布およびその周辺には下記などの岡場所が存在したそうです。

○ 高稲荷(別名:三田稲荷・世継稲荷)

永坂の途中更科蕎麦・高稲荷辺にあった見世。妓級は四六見世・五十文の局見世。
天明の此局見せにて五十文より客呼と云、色里名鑑に云、高稲荷此處に住けり、毛色四六して人をばかし斯あれば四六見世共有しと見えたり(異本岡場所考)

「眉の毛をしめせど場所が高稲荷」と詠まれた。





○ 森元町







○ 市兵衛町







○ 古川端







○ 芝明神







○ 三田三角







○ 赤坂氷川前




























<大正期~現在の池跡地>

大正期には末広稲荷前で池のあったあたりに「末広座」芝居劇場が出来、関東大震災直後の1924(大正13)年1月には震災により損害を受けた明治座がこの末広座を借りて「明治座」公演を行いました。そして戦後にはこの末広座は映画館として繁昌し、映画衰退後には麻布十番で初めてのスーパーマーケット「セイフーチェーン」が開業、その後スーパーマーケットの経営はダイエー系の「グルメシティ麻布店」となり、現在も引き継がれています。

現在この末広池の痕跡を残すものは何もありませんが、港区が作成した「浸水ハザードマップ」には細流合流点・掘留跡と共に末広池周辺が、集中豪雨などの大雨が降ると1~2mの水深となってしまうことが掲載されており、あくまでも想像ですが、湧水地点は現在も生きており、その湧水と雨水が下水道に流れ込むために水深が高くなってしまうとの推測も考えられるのかもしれません。

余談ですが、「港区浸水ハザードマップ」では浸水地域としてマークされているこのあたりも、液状化マップ では「液状化がほとんど発生しない」地域となっており、安政大地震・関東大震災でも周囲に比べて被害が少なかった麻布中央部が、武蔵野台地の突端であることから来る地盤の強固さを改めて思いだし、その自然の地形に感謝する必要があるのかもしれません。