2013年2月5日火曜日

麻布の歌舞伎公演-南座と明治座

 1923(大正12)年9月におきた関東大震災では多くの家屋が焼失しましたが、劇場や芝居小屋もその例外ではありませんでした。
末広座(明治座)跡の
ダイエー麻布十番店
帝劇、新富座、有楽座、明治座、市村座、本郷座、公演劇場、宮戸座、御国座、寿座、中央劇場、開盛座、神田劇場等が次々に焼失し、1921(大正10)年の火事により焼失して再建中の歌舞伎座も震災により再び焼失してしまいます。
この震災直後の中で、絶江坂下角である麻布区本村町153(現南麻布3丁目・レフィナード南麻布付近)にあった活動写真館の「麻布南座」を全面的に改修して、震災後初の歌舞伎公演が行われました。公演は同年10月25日から市川中車、板東秀調、片岡亀蔵などの若手により行われ「熊谷陣屋」「壺坂霊験記」「黒手組助六」などの演目は、どれも初日から大入り満員となったそうです。

さらに翌1925(大正14)年1月には、麻布十番の末広座(現ダイエー麻布十番店)が、やはり改修の後に歌舞伎公演を行い「麻布明治座」を名乗る事となります。
麻布明治座は、1月には左団次一座の『鳥辺山心中』等 、2月には狂言の『沓手鳥弧状落月』などを上演し大盛況となりました。この時の様子は「増補 写された港区 三(麻布地区編)」P117にも掲載されていますが、「震災後の左団次公演の時は入場者が一の橋まで行列するほどの大繁盛だった」と私も土地の古老から直接聞いた事があります。
またちょうど同じ頃に麹町の自宅が焼失し、宮村町に居を移していたこの公演の作者である岡本綺堂が、十番雑記では「明治座」というタイトルで、
 左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲るのを覚えた。
左団次公演当時の麻布十番明治座
と、その様子を嬉しげに記録しています。そしてさらに「岡本綺堂日記」12月8日の記述では、
~木村君から郵書が来て、十番の末広座は明治座と座名をあらためて、来春1月から左団次一座で開場、昼夜二部制で二の替りを出す筈。わたしの作では、信長記、鳥辺山心中、番町皿屋敷、佐々木高綱、浪華の春雨の五種を上演するといふ。これでは綺堂復興劇とでも云ひそさうである。~
とあり、震災からの復興に自分の作品が関与することを手放しで喜んでいます。さらに綺堂日記12月25日では麻布明治座公演の入場料が特等三円、一等二円五十銭、二等八十銭、三等一円二十銭、四等六十銭であったことが記され、自身も書生を使って一等席十六枚を購入させた事が記されています。

翌1925(大正14)年1月3日の項には、
明治座は相変わらずの混雑、殊に万事が不慣れと見えて場内の整理が行き届かず、われわれの席は二重売りがしてあったので、更に面倒。~

としながらも「なにしろ大入りなのは結構というほかあるまい」とその喜びを表しています。

土地の堅牢さにより震災の被害が比較的少なかった麻布の二劇場は歌舞伎公演の中心となり、同年6月頃まで賑わったそうです。 そして6月「麻布明治座」は再び末広座と名を戻し、南座と共に劇場・映画専門館となって歌舞伎劇場としての役割を終えました。 南座はのちに麻布十番(現在の桂亭の場所)に移転して映画館「麻布松竹館」となり、両館共に戦後映画の黄金期には大繁盛することになります。










南座があった絶江坂下(坂標のマンションが跡地)







明治座オフィシャルサイト麻布末廣座記述








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