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2013年3月13日水曜日

江戸以降麻布辺の災害

明治に入っても麻布を含む港区域での災害は続きます。幕末に外国からもたらされたコレラが度々猛威をふるいますが、この時に特効薬として愛飲されたのがラムネであったそうで、明治34(1901)年創立された麻布宮村町のラムネ製造会社「山水舎」などもこのコレラの猛威と無関係ではないのかもしれません。

江戸以降港区域の災害
西 暦年 号事      象
1879年明治12年6月東京でコレラ大流行、全国の死亡者数 105, 786人。
1880年明治13年10/4暴風雨で東京一帯が家屋破損。芝区で家屋全壊92棟半壊4棟、麻布区で家屋全壊26棟、赤坂区で家屋全壊20棟・半壊1棟。各区内で死傷者
1882年明治15年5/29東京市でコレラ患者発生、秋にかけて大流行。全国で死者33, 784人
1884年明治17年ドイツ人の細菌学者であるR. コッホによってコレラの病原菌が発見される。
1886年明治19年コレラ大流行、全国の死者数108, 405人。
1890年明治23年コレラ大流行、死者35, 277人。
1894年明治27年6/20安政地震以来の強震で明治期最大の地震が発生。芝区で家屋全・半壊345戸煙突倒壊18戸死者8名、赤坂区家屋土蔵破損165戸煙突破損87戸死者18名、麻布区被害不明
1895年明治28年1/18強震により芝区家屋破損112戸死者2名、赤坂区家屋破損144戸死者3名、麻布区被害不明。コレラ大流行、死者40, 154人。
1897年明治30年9/9東京で暴風雨芝区で死傷者3名、家屋全壊4戸・半壊24戸工場全壊4・屋根破損665・神社寺院小学校なども被害。麻布、赤坂区も被害有り。コッホに師事した北里柴三郎によってコレラの血清療法が発見され、コレラによる死者が減少。
1899年明治32年10/5~10/7にかけて暴風雨。芝区全壊4戸、半壊92戸、床上浸水200戸、石垣破損236、電柱、樹木倒壊、電線切断多数。赤坂区、麻布区も被害。
1906年明治39年2/19麻布谷町で火災が発生し数百戸が焼失。8/24暴風雨により赤坂区で浸水500戸
1907年明治40年暴風雨により下水が氾濫し白金三光町、老増町、志田町、金杉浜町などで床下浸水294戸
1918年大正07年12月頃からスペイン風邪が大流行。済生会中央病院では重体患者で満床し死者が続出。各所の焼き場が遅延する。


○関東大震災
そして大正に入ると関東大震災が麻布辺も襲います。

大正12年(1923年)9月1日朝の大地震による東京の被害は、世界でも類をみない規模のものでし」た。これは地震そのものによる被害よりも、その時の火災による被害の方がはるかに大きかった事によります。市内163ヵ所の火元から発した火災の内79ヵ所は消し止めたが、残り84ヵ所から類焼して東京の大半を焼き、150万人の被災者と9万1千人の死者、52億円の損害を出して3日午前10時にようやく鎮火します。
「麻布区の被害はほとんど無かった」といわれているのは火災の類焼をを免れたためでしたが、建物の被害は、全壊721・半壊954・破損6309に上ったそうです。これは麻布が久しく火災をまぬがれて、古い家屋が多かったためと思われ、圧死者の他、重軽傷者も多く出しています。

しかしそれらの被害も他所に比べると著しく少ないとおもわれ、その結果、被害が少なかった十番商店街では喜劇王といわれ十番商店街に実家(現在の十番会館付近にあった「武蔵野せんべい」)があったエノケンこと榎本健一などにより被災した浅草芸人などに炊き出しが行われ、また麹町で自宅が倒壊した岡本綺堂が宮村町に仮寓し、やはり震災により被災した明治座が麻布十番の末広座を一時的に明治座として行った左団次公演などの脚本を執筆しました。この公演は大反響を呼び、現在のグルメシティ麻布店の場所にあった明治座から一の橋まで入場券を買う行列が出来たと伝わります。また、下町の繁華街が壊滅的な打撃を受けたことにより被害が少なかった山の手の麻布十番や神楽坂などは空前の賑わいを見せ、十番商店街では本通りに毎晩路店が出店し大勢の人で賑わったそうです。



震災前の十番商店街(「十番わがふるさと」より)






区名焼失戸数罹災人口
21,546戸42%94,611名45%
赤坂2,365戸15%10,655名15%
麻布15戸60名






2013年2月5日火曜日

麻布の歌舞伎公演-南座と明治座

 1923(大正12)年9月におきた関東大震災では多くの家屋が焼失しましたが、劇場や芝居小屋もその例外ではありませんでした。
末広座(明治座)跡の
ダイエー麻布十番店
帝劇、新富座、有楽座、明治座、市村座、本郷座、公演劇場、宮戸座、御国座、寿座、中央劇場、開盛座、神田劇場等が次々に焼失し、1921(大正10)年の火事により焼失して再建中の歌舞伎座も震災により再び焼失してしまいます。
この震災直後の中で、絶江坂下角である麻布区本村町153(現南麻布3丁目・レフィナード南麻布付近)にあった活動写真館の「麻布南座」を全面的に改修して、震災後初の歌舞伎公演が行われました。公演は同年10月25日から市川中車、板東秀調、片岡亀蔵などの若手により行われ「熊谷陣屋」「壺坂霊験記」「黒手組助六」などの演目は、どれも初日から大入り満員となったそうです。

さらに翌1925(大正14)年1月には、麻布十番の末広座(現ダイエー麻布十番店)が、やはり改修の後に歌舞伎公演を行い「麻布明治座」を名乗る事となります。
麻布明治座は、1月には左団次一座の『鳥辺山心中』等 、2月には狂言の『沓手鳥弧状落月』などを上演し大盛況となりました。この時の様子は「増補 写された港区 三(麻布地区編)」P117にも掲載されていますが、「震災後の左団次公演の時は入場者が一の橋まで行列するほどの大繁盛だった」と私も土地の古老から直接聞いた事があります。
またちょうど同じ頃に麹町の自宅が焼失し、宮村町に居を移していたこの公演の作者である岡本綺堂が、十番雑記では「明治座」というタイトルで、
 左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲るのを覚えた。
左団次公演当時の麻布十番明治座
と、その様子を嬉しげに記録しています。そしてさらに「岡本綺堂日記」12月8日の記述では、
~木村君から郵書が来て、十番の末広座は明治座と座名をあらためて、来春1月から左団次一座で開場、昼夜二部制で二の替りを出す筈。わたしの作では、信長記、鳥辺山心中、番町皿屋敷、佐々木高綱、浪華の春雨の五種を上演するといふ。これでは綺堂復興劇とでも云ひそさうである。~
とあり、震災からの復興に自分の作品が関与することを手放しで喜んでいます。さらに綺堂日記12月25日では麻布明治座公演の入場料が特等三円、一等二円五十銭、二等八十銭、三等一円二十銭、四等六十銭であったことが記され、自身も書生を使って一等席十六枚を購入させた事が記されています。

翌1925(大正14)年1月3日の項には、
明治座は相変わらずの混雑、殊に万事が不慣れと見えて場内の整理が行き届かず、われわれの席は二重売りがしてあったので、更に面倒。~

としながらも「なにしろ大入りなのは結構というほかあるまい」とその喜びを表しています。

土地の堅牢さにより震災の被害が比較的少なかった麻布の二劇場は歌舞伎公演の中心となり、同年6月頃まで賑わったそうです。 そして6月「麻布明治座」は再び末広座と名を戻し、南座と共に劇場・映画専門館となって歌舞伎劇場としての役割を終えました。 南座はのちに麻布十番(現在の桂亭の場所)に移転して映画館「麻布松竹館」となり、両館共に戦後映画の黄金期には大繁盛することになります。










南座があった絶江坂下(坂標のマンションが跡地)







明治座オフィシャルサイト麻布末廣座記述








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2013年2月1日金曜日

池袋の女

岡本綺堂の著書「風俗江戸物語」~江戸の化け物にある話で、綺堂の父が実際に聞いた話であり、江戸の代表的怪談の第一としてとりあげている麻布龍圡町・内藤紀伊守の下屋敷で起きたといわれる事件をご紹介します。

江戸の頃、日向延岡藩7万石・内藤紀伊守の下屋敷で麻布龍土町(現在の港区六本木七丁目六-八あたり)、ある夜、何処からともなく蛙がたくさん出てきて寝所の蚊帳の上に乗り寝ていた女達を驚かせ、そして次に屋敷が大きく揺れて大騒ぎとなったそうです。下屋敷には女子供が多く、怯えきってしまったので、異変を聞いた上屋敷から藩士達が駆けつけて原因を調べましたが判らず、藩士が不寝番をして様子を見る事となりました。

六本木交差点付近の延岡藩内藤家屋敷
そして夜がふけた頃、不寝番がついうたた寝を始めると今度はどこからともなく石が落ちてきました。これは狐狸の仕業とある藩士が鉄砲を取りに行こうとすると、再び落ちてきた石が眉間にあたり、倒れてしまいました。次に他の藩士が行こうとすると今度は頭に石が当ったので、それを見た他の者が石の落ちてくる天井を見上げたとたんに畳から火の手が上がったので、皆居すくんでしまったそうです。
こんな事が3月ほど続いて調べていると、出入りの者と密通している池袋から来た女中があったので即座に解雇すると、それきり何も起こらなくなったといいます。

いまでは大変な地域差別のような話ですが、江戸時代頃には池袋生まれの女性を女中などとして使っていて、その女性の身に間違いが起こると、その雇い主の家に異変が起こるので、武家の屋敷などでは絶対に雇わなかったということです。
また、商家でも雇うのをためらう所が多かったので「池袋の女性」は生まれを板橋、雑司ヶ谷などと偽って奉公しなければならなかったといい、これは池袋の女が七面様の氏子であるための祟りだという言い伝えが残されているそうです。
また同様の話として「耳袋」では池尻生まれの女性についての異変話もあり、いづれも同地生まれの女性にとって迷惑な迷信であったと思われます。

綺堂はこの江戸の化け物で他に、「不忍池の大蛇」「牛込の朝顔屋敷」「河童」などと供に「がま池」の由来も紹介しています。






 
 
 




内藤家屋敷今昔












2012年12月21日金曜日

岡本綺堂の麻布

半七捕物帳シリーズで有名な作家岡本綺堂は、1872年(明治5年)10月15日に高輪北町で生まれました。父岡本きよしが旧御家人で後に当時高輪東禅寺にあったイギリス公使館で書記官を務めていたために、公使館が五番町に移転するまでの3年間を高輪北町で過ごします。
岡本綺堂住居跡辺
その後、イギリス公使館の移転に伴い岡本家は麹町に居をることとなりますが、時代は下って綺堂51歳の1923年(大正12年)9月1日におきた関東大震災により岡本家も延焼し、家財蔵書など全焼してしまいます。そして9月2日には目白・高田町の弟子、額田六福(ぬかだろっぷく)方に避難し仮住まいをしますが、知人の紹介で10月12日、麻布宮村町10番地光隆寺前の借家に移転することとなりました。この日の引越しの様子を綺堂は、

~くもりと細雨のなか、9時頃から馬車で荷物の積み出し、綺堂、細君、おふみさんらは電車を乗り継いで、宮村十番地の借家へ(港区元麻布3丁目9番地)。正午に荷馬車到着。光隆寺という赤い門の寺の筋向いで、庭は高い崖に面している。~

と、日記に記しています。

綺堂は後に、宮村町での生活を「綺堂むかし語り」という随筆の中の「十番雑記」「風呂を買うまで」などで語っていて借家の様子を、


~家は日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。~裏は高い崖(がけ)になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。~元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖(ふすま)も傷(いた)んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。~
暗闇坂
と記し、十番商店街については、震災を免れて繁盛している様子を、


~十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘(ぬかるみ)で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る~ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列(なら)んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢(ひ)かれるか、路ばたの大溝(おおどぶ)へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。~
としています。また、近所の坂を詠んでいます。




狸坂くらやみ坂や秋の暮


 ~わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬきと云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟(そうくつ)であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。~
狸坂
そして、末広座が明治座と改称して左団次一座の公演に向けて震災で傷んだ建物の改修工事を行っている様子や、綺堂自作の信長記、鳥辺山心中、番町皿屋敷を妻らと観劇し、末広座から通りをはさんだ福槌亭にも妻らが足を運んだことが記されています。

そして、風呂好きであった綺堂は近くの越の湯、日の出湯などに通っており、冬至のゆず湯の風景が描写されています。




宿無しも今日はゆず湯の男哉

そして大正13年の正月を迎えた綺堂は、1月15日にあった「かなり大きな余震」により9月1日の大震災ですでに傷んでいた宮村町の借家がより大きく傷んでしまったので、家主の建て直しの意向もあって引越しを決意せざるをえなくなり、その年の3月19日に大久保百人町へと再び転居します。綺堂は1923年(大正12年)10月12日から翌年3月19日までの仮寓ともいえるわずか5ヶ月間の麻布住いとなりましたが、随筆や日記には、当時の麻布界隈の様子が生き生きと描かれている貴重な資料となっています。











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2012年12月20日木曜日

坊主湯

今の子供たちがまったくなくしてしまったコミュニケ-ションの一つに、銭湯での遊びがあります。私が小学生の頃は学校が終わって宮村公園で遊んだあとには、連れ立って銭湯に行きました。
内田坂下の朝日湯跡
宮村町界隈(というより小学生が行ける範囲)には、麻布十番に、越の湯(十番温泉)、吉野湯(現麻布病院)、金春湯(山元町)などがあり中でも、一番近い「越の湯」はよく行きました。
腰の湯は黒いお湯なので、潜水艦のおもちゃを沈めるとどこに行ったかわらなくなり、足で探すこととなります。また、シャンプ-の空き容器にお湯を入れて、女湯に飛ばすと悲鳴が聞こえました。(ただしこの遊びは、番台に恐い主人ではなく、おかみさんなどの場合のみ行われました。)また、湯から上がるとロッカ-の鍵隠しをして遊んだりもしました。

こうして1~2時間遊んで、帰りはおもちゃ屋兼駄菓子屋のしみずでプラモデルの下見をしながら腰に手を当ててラムネかチェリオを飲み干す。こんな話を先日宮村町のタバコ店渡辺さんにお邪魔して話していると昔宮村町にも「日の出湯」という銭湯があり、遊びに行くとよく湯に入れてもらったとご主人に伺いました(1998年頃)。

調べると、近代沿革図集麻布、六本木編昭和8年の地図に今の元麻布3-6-20あたりに日の出湯が載っています。また「十番わがふるさと」によると、現在の六本木ヒルズ敷地である日ヶ窪の栴檀林(現駒澤大学)寮舎の生徒(お坊さんの見習)が、その当時内田坂下の宮下町にあった朝日湯で衣装を代えて町方に遊びに行き、寮に帰る時また来て法衣に着替えたといわれています。



駒沢大学サイトによると、

1883(明治16)年の周辺地図
文禄元年(1592)、曹洞宗が禅の実践と仏教の研究、漢学の振興を目的に当時神田駿河台にあった吉祥寺に設けた学林に淵源を発し、それから65年後の明暦3年(1657)、吉祥寺が現在の駒込に移転した際に栴檀林と命名され、更に明治15年(1882)、麻布日ヶ窪に校地を得て移転し、校名を曹洞宗大学林専門本校と改めたことをもって、開校の記念日としております。その後、明治38年(1905)、曹洞宗大学と改め、更に大正2年(1913)、現在地の駒沢に移転し、大正14年(1925)、大学令による大学として認可を受けたのを期に、駒澤大学と改めました。

とあります。



そして、この見習いのお坊さんたちは、湯には入る事以外の目的である更衣室的な利用をしたため、地元の人からこの朝日湯は、「坊主湯」と呼ばれていたそうです。


また宮村町大隅坂下にあった「日の出湯」は、作家岡本綺堂のお気に入りで、「綺堂むかし語り」という随筆では、関東大震災震災直後に約半年間住んだ宮村町の風呂屋について、

わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越の湯と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。
1933(昭和8)年の周辺地図

宿無しも今日はゆず湯の男哉



と記しています。また岡本綺堂日記にも、


10月12日

柳田と私は十番の湯へゆく。屋は越の湯といって、なかく大きい。湯から帰って、額田中嶋柳田等でビール、サイダー、洋食をくひ、額田と中嶋は一足先に帰り、柳田は八時半ごろに帰る。それから十番の通りへ出で、再び買物をする。武蔵屋で原稿紙を買った。



10月15日

竹下君に礼状をかく。それを投函ながら自宅から西の方へ行ってみる。そこにも日の出湯という綺麗な湯屋がある。



10月21日

四時ごろ入浴。このごろは越の湯をやめて日の出湯へゆく。近くて綺麗だからである。岡(鬼太郎)君も広尾からここの湯まで入浴に来るのだといふ。



などと記しています。

その他に近代沿革図集昭和8年の地図に麻布界隈では、

鶴の湯(一本松町)、東湯(北新門前町)、花湯(森元町)、和倉温泉(飯倉)、野沢湯(飯倉)、天満湯(飯倉)、一の橋浴場(一の橋)、大正湯(市兵衛町)、人参湯(今井町)、桜湯(桜田町)、日の出湯(龍土町)、朝日湯(霞町)、みどり湯(三軒家町)東湯(東町)、亀の湯(新広尾町)、竹の湯(竹谷町)、朝日湯(広尾町)、金春湯(田島町)

などが見えますが、これは麻布という土地が湧水などに恵まれ水の便がよかったことの証であると思われます。

 現在、麻布域の銭湯は麻布竹谷町にある黒美湯温泉 竹の湯さんだけが唯一営業を続けています。















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