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2016年8月10日水曜日

松頭山 本善寺と末広神社



本善寺と末広神社
先日(2016.08.07)の散歩で訪れた高輪台駅方面からJR五反田駅に向かう坂途中に見つけた(品川区東五反田3-6-17)日蓮宗の寺院「松頭山 本善寺」さん。このお寺さんは慶長十三(1608)年に創建された古刹で、1945(昭和20)年までは創建地である麻布十番にありました。

本善寺は十番稲荷神社の前身で麻布坂下町の鎮守社でもあった末廣神社の南隣にあり、住所は麻布一本松町九番地(現在の麻布十番2丁目4あたり)でした。この寺の名残を示すものとして、十番商店街裏手から大黒坂へと登る小坂「七面坂」がありますが、これは本善寺境内に安置されていた「七面明神坐像」があったためついた坂名です。この「七面明神坐像」は日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神とされており、参詣者も多かったので昭和40年台まで「九の日」には縁日が開催されていました。

本善寺について江戸期のお寺調べのバイブルともいえる「御府内備考続編(通称:寺社備考)」には境内の建物配置図が掲載されており、この「七面明神坐像」は本堂とは別に山門の左手、拝殿奥に安置されていたことがわかります。さらに本善寺の所属は「上総国平賀本土寺末」と記されており本土寺は千葉県松戸市平賀63に現存しています。

そして隣接する末広稲荷神社についてもその関連性を調べるため「御府内備考続編(通称:寺社備考)」を見てみましたが、関連性を調べるため....
としたのはスバリ隣接する末広稲荷神社と本善寺は別当寺の関係ではないかということを調べるためでした。

しかし末廣神社の項目には「別当寺」の記述が見あたらず、これはかなり奇異な事に感じました。
「御府内備考続編(通称:寺社備考)」は江戸文政年間(1818年~1830年)に書かれた「文政町方書上」とほぼ同時に書かれたもので、江戸の寺社の総てが自主的に幕府に提出した寺社の来歴・概要・敷地図などを網羅した書籍なので、その記述の先頭にその寺社の所属と神社の場合にはその社を管理する別当寺が書かれているのが普通です。江戸期の神社は社格で「官幣大社」などの大型神社(神宮・大社など)以外は寺社奉行の管理下、寺院の管理下に入ることが決められおり、管理する寺院には「別当」と呼ばれる社僧(神官を兼務する僧で社僧の長が別当と呼ばれ、別当の寺を別当寺としました。)

江戸期の本善寺と末広神社敷地
一例を挙げると、麻布氷川神社の別当寺は当時麻布氷川神社境内に設置されていた古義真言宗の「冥松山 徳乗寺(院)」という寺院で芝愛宕の真福寺(港区愛宕1−3−8に現存)の末寺でした。そしてこの徳乗寺は享保20(1735)年まで北日ヶ窪にあり、現在の六本木朝日神社の別当寺でもありました。余談ですが、この麻布氷川神社と別当寺であった「冥松山 徳乗寺(院)」の関係を今に伝える物として、麻布本村町が麻布氷川神社例祭で神酒所に展示する「獅子頭」の解説に残されています。この解説板には獅子頭が文久二(1862)年に製作された時の世話人名筆頭に「氷川徳乗院現在栄運」とあり、氷川神社を管理していた社僧(別当かもしれません)栄運の名前が記されています。また、廣尾稲荷神社は明治期まで麻布宮村町狸坂下(旧麻布保育園敷地と隣接空き地)にあった「法隆山 五光院 千蔵寺」が別当寺であったため、別名「千蔵寺稲荷」とも呼ばれていました。

このように神社は別当寺により管理されるのが普通であった江戸期に、別当寺が無い(別当・社僧が神官ではない)神社が末広稲荷神社であったようです。そして「御府内備考続編(通称:寺社備考)」の末広稲荷神社の項には不思議な記述が見えます。


○神主中村日向(吉田家門人)

元禄十五(1702)年先祖中村宮内え神主職初而被仰付、夫ゟ(より)七代相続仕候、然ル処先年寺社奉行所ゟ(より)御直触被仰付候、代々致触頭来候、享保六(1721)年類焼、其後度々之類焼ニ而書物等焼失仕、其上私幼年相続ニ而委細之儀相分り不申候処、年々心掛置且申伝抔と申儀承り候節々留置候分、此度相認申候、但社家等も明和五(1768)年類焼後中絶仕候、
上記文章は、中村日向という末広稲荷神社の神官(神主)が元禄十五(1702)年に末広稲荷神社の神官(神主)となった先祖の事を記しており、それ以来中村家が代々末廣神社の神官を務めていたことがわかります。そして、この中村家は「吉田神道」の門人でした。

麻布十番の七面坂と
本善寺があったあたり

吉田神道とは江戸期に隆盛を極めた神道の一派で徳川幕府が寛文五(1665)年に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたいわば幕府御用達の神道で、当時神道界に絶大な権限を持っていたようです。この吉田神道と末廣神社の関係について現在の十番稲荷神社社家に伺ったところ、

  • 隣接していた本善寺は別当寺ではなく、末広稲荷神社は江戸期には珍しい「別当寺の支配を受けない専門の神官(神主)を置く神社」であった。

  • 当時の末広稲荷神社は江戸府内でも有数の吉田神道神社で、数多くの末社を従えていた。

  • 神官であった中村家については代々の記録が残されている。

  • 明治に入ると天皇家を中心とする本来の神道が隆盛したため、幕府の庇護を受けていた吉田神道系の神社であった末広稲荷神社は主流から外れ大変な苦労をした。

七面坂 坂下

七面坂 坂標

とご教示いただきました。

このように敷地が隣接しながらも別当寺と支配下神社という公式から外れた関係であった本善寺と末廣神社も1945(昭和20)年の空襲により焼失し、末広稲荷神社は永坂下にあって戦時中に建物強制疎開により破却された「竹長稲荷神社」と合祀され、現在の十番稲荷神社として遷座します。
また本善寺の「祖師像」と「七面明神坐像」は焼失前に持ち出され、同じ日蓮宗で当時戦災を免れていた麻布宮村町の安全寺に寄宿します。しかし、この安全寺も後の空襲により焼失し現在も坂名に残る「七面明神坐像」も「祖師像」も残念なことに焼失してしまいます。

1947(昭和22)年に麻布十番より現在地(品川区東五反田3-6-17)へ移転再建され現在に至っていますが、実は現在も「七面明神坐像」も「祖師像」が寺に安置されています。これは、小岩本蔵寺住職馬場玄諦師の好意により、本蔵寺二体の祖師像の内の一体をゆずられたのが現在の祖師像とのことで、さらに「七面明神坐像」は二の橋の寺院からお預かりしているもの(本善寺談)とのことです。


麻布本村町所有の獅子頭解説板
に記された麻布氷川神社社僧「栄運」



<麻布区史 末廣神社>

○末廣神社(村社) 坂下町四一
祭神思姫命・市杵島姫命・満津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七・十八日。

慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱(称)があった。
又その枝葉さかへ梢の繁茂しでゐ(うぃ)るところより末廣の木と呼び、これが社号の起源となったと云ふことである(再考江戸砂子)。
明治六年七月五日村社に指定され、明治二十年四月末廣稲荷神社の社号を現稱(称)に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。




<麻布区史 本善寺>

◎松頭山本善寺 一本松九 下総平本土寺末

一書正東山に作る。慶長十三年三月草創、本善院日東聖人(慶長十五年二月十五日寂)の開山である。境内に七面社がある。
七面天女を安じ俗に麻布十番の七面天と呼び、一・九・十九・二十九の縁日には賽者が多い。





<七面坂 坂標>

坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
設置者: 港 区
設置日: 平成九年三月




★参考サイト

現在の本善寺山門

十番稲荷神社オフィシャルサイト

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

日蓮宗東京都南部宗務所サイト-松頭山 本善寺

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

Blog DEEP AZABU-末広池

Blog DEEP AZABU-麻布氷川神社

Blog DEEP AZABU-本村町獅子頭

Blog DEEP AZABU-廣尾稲荷神社

・Blog DEEP AZABU-宮村町の千蔵寺

Blog DEEP AZABU-麻布近辺の縁日

wikipedia-吉田神道

wikipedia-別当寺
現在の本善寺

wikipedia-社格

wikipedia-近代社格制度
























現在の本善寺




2015年8月10日月曜日

がま池「上の字」札の効能書き

先日インターネットで古書を販売するサイトで「麻布」で検索すると、意外なものが引っかかりました。それは上の字効能書き「湯火傷呪(まじないは旧字)」と書かれており、五千円という価格から一瞬躊躇をしましたが....やっぱり購入しました。

数日で商品は到着し中身を確認すると、経年劣化のためか茶色く変色し、一部に虫食い穴が開いている18cm×13cmほどの小さな紙片が入っていました。
文面を確認すると最後の方に麻布一本松山崎藩中  清水(清は旧字)
とあり、がま池「上の字札」の効能書きに間違いありませんでした。

しかし、文面を読み下す読解力が私にはなく、紹介により郷土資料館にお願いしようとしましたが、担当者の方がお忙しくて連絡がつかず、諦めました。

後日、この資料を現在上の字札を領布している十番稲荷神社にコピーを奉納しようと訪れると、社家の方から意外なお話をお聞きしました。その内容は、

当社にも上の字札と効能書きのコピーが数種類あり、今回私が持ち込んだものはそのいづれとも合致しない、新しい種類のもの。との事でありがたいことに十種類もの効能書きなどをおわけ頂きました。
残念ながらそれらの上の字札は十番稲荷神社にもコピーのみで現物がないため、所有者の許諾を得ることが難しいのでここでの掲載は遠慮することとします。

この十種類プラス私が所有するものをあわせると上の字札の効能書きは十一種類となりました。
そして十番稲荷神社から分けて頂いた効能書きにはありがたいことにすべてに読み下しが添付されており、それらを参考に私の所有する効能書きも、なんとか読み下すことに成功しました。
湯火傷呪(やけどのまじなひ)




上記読み下し


この十一種類の効能書きに書かれていることを比較すると下記のようになります。






この表を要約すると、
  • タイトルに「湯火傷呪(呪は旧字)」と書かれたものが9種類、「湯火傷守」と書かれたものが2種類。
  • タイトルに「ふりがな」があるものは9種類、無いものが2種類。
  • 効能書きの項目が「二つ」のものが2種類、「三つ」のものが1種類、「七つ」のものが8種類。
  • 発行場所が「麻布一本松山崎藩中」が6種類、山崎邸内が1種類、「東京麻布一本松通り西町」が1種類、「東京麻布区山元町三十五番地」が1種類、「東京府麻布区」..以下判読不明が1種類、「成羽藩」が1種類、「麻布一本松」が1種類。
  • 発行元が清水(清は旧字)が8種類、「邸内」が1種類、「林氏」が1種類、「翠露堂」が1種類。
  • 領布開始月日が「文政四(1821)年九月より出」が8種類、「明治二巳(1869)年」が1種類、期日の記載がないものが2種類。
となっていました。これらから解ることは......、

  • 成羽藩・山崎藩の成立は明治維新の官軍に味方した功績による「高上げ」で元の旗本(交代寄合)五千石から一万二千石あまりの大名となり立藩したことから、これらの効能書きは明治時代のものとなることがわかります。(1、2、3、4、6、9、11)
  • 領布開始月日が「明治二巳年」となっている6も明治時代のものであることがわかります。
  • タイトルが「湯火傷守」となっている7、8も東京府麻布区となっているので、麻布区の誕生は1878(明治11)年であることからこれらも明治期のものであることが解ります。
  • そして効能書きの項目については、霊験あらたかな上の字札の効能が時代を経ることで減少するとは考えにくく、当初よりも効能が増えていったと考えるのが妥当かと思われます。つまり(5、6)→(2)→(その他)と考えられます。
山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形
これらからこの11種類のがま池上の字札の効能書きのうち、少なくても10種類については明治期に領布されたものであると想像されます。また残る1種類(5)についても明治以前であるという確証は無く、明治以降である証拠が記されていないだけです。
また、領布開始日についてもこの日に札が領布されたことを示すものではなく、初めて領布された期日を記しているものと思われます。

そして発行者について「清水家」は山崎家が旗本であった時代からの江戸藩邸の重臣であり、
「備中成羽藩史料」という書籍の中にも「山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形」という文章の中にこの清水家と思われる名が記されています。

また発行元としてもう一つ個人名「林氏」がありますが、こちらも山崎家の高官であった可能性が高く、この林氏について専門に研究されている方がいることを十番稲荷神社社家からお伺いしました。さらに「翠露堂」については全くの不明でその解明が待たれます。

これら11種類の効能書きを見てきて非常に大きな疑問が残された。
がま池に大ガマが現れそれから上の字札の領布が始まったことが伝えられていますが、
その大ガマ出現したのは、





となっており、いずれも江戸末期のことでした。しかし、11種類の効能書きには江戸期のものがほぼ一つもありません。このことから.......がま池の上の字札の領布が始まったのは明治期になってからではないかという疑問です。

しかし、一方では江戸末の文化・文政期には邸内社信仰が大流行し、

文化十四年1817年 讃岐丸亀藩-虎ノ門金比羅宮の爆発的な隆盛
文政   元年1818年 久留米藩有馬家-赤羽橋 水天宮の大流行
文政   四年1821年  交代寄合(旗本) 山崎家 がま池に大ガマが出現?~上の字札領布のはじまり


というきわめて自然な流れで大身旗本の副職(アルバイト?)の成立が想像されます。

このがま池上の字信仰の隆盛は明治期であると思われ、「幕末明治女百話」では、


山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町の 、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、 八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を 貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い 事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った仁ひと ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入で、学費が つづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。

モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって 火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が
癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。
ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、 ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだとよく話してでした。
麻布区山元町三五番地

として上の字札の売り上げが莫大であったことを伝えます。
この清水家について廃藩置県で成羽藩が解体されて以降、麻布区山元町三五番地で上の字札の領布を行っていたそうですが、上の字札を書くにあたって、がま池の水ではなく井戸水が使用されていたことがわかります。この山元町の清水家跡は現在元麻布ヒルズ敷地となっています。ちなみに現在十番稲荷神社が領布している「上の字御守」はマンション管理会社の許諾により年に一度がま池の水をくんで書かれているとのことです。


また廃藩置県以降上の字札の領布を山崎家から委譲された清水家は、1927(昭和2)年に郷里の栃木県足利市に引きあげる際に、十番稲荷神社の前身である末広稲荷神社に上の字札の販売を委譲します。

これにより末広神社が上の字札の領布を始めることとなりますが、多くの書籍等には末広稲荷神社の上の字札授与が昭和2(1927)年からはじめられたと記されています。しかし十番稲荷神社で特別にお見せ頂いた社記(神社の業務日報?)複写には、

「昭和4(1929)十一月四日ヨリ社頭ニ看板ヲ掲ゲ参拝者ニ授与ス」

と、明確に記されています。







上の字札領布の変遷
江戸期~明治4(1871)年備中成羽領主・交代寄合(旗本)山崎家が自邸がま池池畔で領布
明治期~昭和2(1927)年清水家(成羽藩山崎家家令)が山元町三十五番地(現在の元麻布ヒルズ辺)で領布
昭和4(1929)年~昭和20(1945)年末広稲荷神社が領布
平成20(2008)年~現在十番稲荷神社ががま池の水を使用して領布。(十番稲荷神社は建物強制疎開により取り壊された末広稲荷と竹長稲荷が合祀)





現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」








現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」と効能書き


このようにがま池の大ガマ伝説を元にした「上の字御守」は変遷を重ねながらも現在も領布が続けられています。


◆関連項目

DEEP AZABU 麻布七不思議-がま池

十番稲荷神社公式サイト








★20150811追記-井上円了が否定した「上の字」信仰


このがま池の大ガマ伝説を元とする「上の字」信仰について明治期にその効能を完全否定する人物が現れます。
その人物の名は井上円了といい、東洋大学の創立者であり超自然現象を哲学的な立場から解明しその怪異性を否定する「お化け博士」、「妖怪博士」と呼ばれた人物です。
そして、この井上円了は「こっくりさん」(テーブル・ターニングTable-turning)の謎を科学的に解明した人物としても有名で、2011年10/12歴史秘話ヒストリア「颯爽登場!明治ゴーストバスター~“妖怪博士”井上円了~」というタイトルで放送されました。


また、井上円了は妖怪研究に関する書を数多く著しており、青空文庫にも数多く収録されています。その著書の一つ「迷信解」の中ではこのがま池上の字札に触れており、

(引用はじめ)~ほかにもこれに類したる例がある。すなわち、「東京麻布に火傷やけどの御札を出す所あり。その形名刺に似て、その表に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所をさすればたちまち癒ゆるという。ある人、御札の代わりに己の名刺を用いしめたるも同様の効験あり」との話のごときも、病患の癒ゆるは御札の力にあらざることが分かる。~(引用終わり)
と記して上の字札の代わりに名刺を使って患部をさすっても同様の効果があったとして上の字札の迷信性を強調しています。
この円了の対局にいたといわれているのが民俗学者の柳田國男です。柳田は民俗学的見地から「非科学的な迷信も共存すべき」と唱えることになります。


○井上円了
哲学的見地から「妖怪」を解明することにより其の存在を否定。妖怪排除のための妖怪研究。→迷信の排除。



○柳田國男
民俗学的立場から「妖怪」を肯定。民間伝承の重要性から妖怪も自然の一部としてとらえていた。→迷信との共存。


という構図になり、両者は思想的には対立関係にありました。


















2013年1月11日金曜日

末広池



永坂町及坂下町近傍図の末広池
1883(明治16)年に陸軍参謀本部が作成した地図「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」を何度かご紹介してきましたが、この地図には江戸期のものとは違い標高点・植栽種類・池・沼・坂名・地名・建物種別など、ほぼ現在の地図と変わらない細かい記述があります。特に池や沼などの水源地についてはごく小さなものまで正確に記載されており、これを見ると当時の麻布中央部には無数の水源池が存在し、特に宮村町周辺には、がま池・ニッカ池(毛利池)・原金池以外にも多くの池が集中していたことがわかります。


その中で、ががま池・ニッカ池に次ぐ規模の大きな池が十番商店街(現在のグルメシティ麻布店裏手あたり)にありました。その池は末広稲荷神社(現十番稲荷神社)の脇にあり、がま池の約1/4、ニッカ池の1/3ほどの規模であったようです。 
この池には名称が記載されていないので当サイトは独断で「末広池」と呼ぶこととします。 この末広池は十番商店街に隣接していたためか、明治の早いうちに埋め立てられたと思われ、この陸軍参謀本部地図以外に描かれているのを目にしたことがありません。しかし、江戸末期の一本松坂の居酒屋を舞台にした小説「女だてら 麻布わけあり酒場」には、わずかながらこの末広池が「暗闇沼」という名称で描かれている。

グルメシティ麻布店裏手が末広池跡
<池付近の岡場所>

このサイトを開設した1998(平成10)年当初にお知らせした「むかし、むかし1-10 原金の釣り堀」文中で、
この池(原金池)のほとりにあまり高級じゃない岡場所があり、遊女ではなく夜鷹が、かなりのボッタクリをしていた。ある夜、久留米藩の侍が遊びにきたがあまりのひどさに腹を立て、藩の侍100人あまりを呼んでき 徹底的に打ち壊してしまった。それ以降2度と店は出来なかったそうだ。
とお伝えしましたが、どうやらこの打ち壊しがあったのは原金池(現在の六本木ヒルズ住宅棟辺り)ではなく、この末広池であった可能性が高いとおもわれます。
この間違いは、私が宮村町で生まれ育った昭和30年代当時は「藪下(やぶした)」という宮村町里俗の字名が現在の六本木ヒルズ住宅棟辺りのみを指す地名であったことに起因し、

藪下+池=原金池

と短絡した結果でした。しかし、調べ直してみると江戸期の「藪下」はもっと広い地域の名称であったということがわかりました。
○ 文政町方書上-宮村町

一、里俗藪下と申すわけ相知れ申さず候。もっとも宮村町一円に相唱え申し候。





○ 麻布区史-宮村町

町内一円を里俗に今も藪下と称している。





○ 異本岡場所考-藪下

里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也





○ 角川 日本地名大辞典-藪下

江戸期の麻布宮村町一円の俗称名称。





○ 東京35区地名辞典-藪下坂

桜田町から宮村町北部へ下る玄碩坂の別名。坂下一体は俗に「藪下」と呼ばれた低地で、そこへ下ることに因む坂名。





○ 道聴塗説-藪下

麻布大明神、今は氷川と称す。北に当て宮下、又は藪下とて~(略)。





○ 岡場所図絵-藪下

麻布宮村町、同宗英屋敷、同貞喜屋敷を里俗藪下と呼びたり~(略)。





池の大きさ比較
このように藪下の地名は暗闇坂下周辺にも及んでいたと思われ、末広池のほとりに江戸末期存在した下級の岡場所について「江戸 岡場所遊女百姿」(花咲一男著)には、 
享保五(1720)年二月廿九日、一、藪下稲荷(※推定:末広稲荷)前。とあれば、当時既に繁盛せしを知るべく延享三(1746)年八月十一日、御手入の節召捕られし売女ぎんといひし者、川中の数にも入らぬつとめにて、うきことのみにはづれざりけり。とよみし由、見聞雑記に見えたり。当所安永度には四六の大見世五十文の切見世なりしが、後やや衰えて、文政度には百文の切見世となりぬ。天保八(1837)年(花散る里には天保十年四月十五日。大郷信齋は文政七、八年という)久留米候の中間と口論より事起り、終に断絶するに至りぬ
とあり、延享年間に行われた幕府の手入れで捕縛されたこの池の畔の岡場所の遊女「ぎん(別説では「けん」)」が、それまでの無数の商売により「浮事の身」に落ちてしまっと記されています。

また天保年間におきた赤羽橋に藩邸がある久留米藩中間によるこの岡場所の「打ち壊し騒動」について麻布区史は「異本岡場所考」を引用して、
里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也、局見世計りなれども古■(※推定:古来)はん昌の地にして至て女風俗よろしからずして、客を引き留むりと引上げ、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所なれども、此地は右触書之以前天保十年四月十五日、久留米家之者参り右場所にて口論致候、ついに大喧嘩となる、同日書中に■■(※推定:有馬)屋敷■百人余同勢にて押来り、右場所をさんざん打ちこわし同勢屋敷へ引取、其後御公儀之御沙汰に及び、追々商売不致候様に成其儘に家作地所共に召上られ今に野と成事目前なり。
と記して、打ち壊し後にこの池畔の岡場所は二度と再興せず、跡は野原に戻ってしまいそうな様子が記されています。
(※推定事項はすべてDEEP AZABUの解釈です。)



<当時の狂歌>
藪下へ 出る化け物は 切り禿かむろ

十番の わきに子捨てる やぶもあり




その他、この末広池以外にも江戸期の麻布およびその周辺には下記などの岡場所が存在したそうです。

○ 高稲荷(別名:三田稲荷・世継稲荷)

永坂の途中更科蕎麦・高稲荷辺にあった見世。妓級は四六見世・五十文の局見世。
天明の此局見せにて五十文より客呼と云、色里名鑑に云、高稲荷此處に住けり、毛色四六して人をばかし斯あれば四六見世共有しと見えたり(異本岡場所考)

「眉の毛をしめせど場所が高稲荷」と詠まれた。





○ 森元町







○ 市兵衛町







○ 古川端







○ 芝明神







○ 三田三角







○ 赤坂氷川前




























<大正期~現在の池跡地>

大正期には末広稲荷前で池のあったあたりに「末広座」芝居劇場が出来、関東大震災直後の1924(大正13)年1月には震災により損害を受けた明治座がこの末広座を借りて「明治座」公演を行いました。そして戦後にはこの末広座は映画館として繁昌し、映画衰退後には麻布十番で初めてのスーパーマーケット「セイフーチェーン」が開業、その後スーパーマーケットの経営はダイエー系の「グルメシティ麻布店」となり、現在も引き継がれています。

現在この末広池の痕跡を残すものは何もありませんが、港区が作成した「浸水ハザードマップ」には細流合流点・掘留跡と共に末広池周辺が、集中豪雨などの大雨が降ると1~2mの水深となってしまうことが掲載されており、あくまでも想像ですが、湧水地点は現在も生きており、その湧水と雨水が下水道に流れ込むために水深が高くなってしまうとの推測も考えられるのかもしれません。

余談ですが、「港区浸水ハザードマップ」では浸水地域としてマークされているこのあたりも、液状化マップ では「液状化がほとんど発生しない」地域となっており、安政大地震・関東大震災でも周囲に比べて被害が少なかった麻布中央部が、武蔵野台地の突端であることから来る地盤の強固さを改めて思いだし、その自然の地形に感謝する必要があるのかもしれません。