ラベル 広尾稲荷神社 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 広尾稲荷神社 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年6月17日月曜日

宮村町の千蔵寺

篤姫行列の麻布通過」を調べるため渋谷区郷土博物館を訪れた折、文献を探していると全く別件で興味をそそられる記述に遭遇しました。それは、笄川にかかっていた広尾橋の欄干広広尾稲荷神社に保存してあるという記述で、篤姫調査は「そこそこ」にして早速広尾稲荷神社へと向かうことにしました。
宮村町千蔵寺跡(フェンス部分)正面は狸坂
広尾稲荷に着き、境内を探したがそれらしき欄干が見当たらなかったので社務所を訪ね、社家の方にお聞きしました。すると広尾橋の欄干は数年前に渋谷区に寄贈されたとの事でもはや境内にはない事がわかり、残念な思いでお話を伺っていると広尾稲荷神社の別当でもある「千蔵寺」の所在がわからず困っているとお聞きし、さらに千蔵寺が宮村町にあったと伺ったので、それでは少し調べてみますっ!と安受け合いしてしまいました。

広尾稲荷神社を辞したその足で宮村町の寺ならこの方に!っと思い、さっそく普段からお世話になっている十番商店街のきみちゃん像管理人で、「十番未知案内」サイト管理人の仁さんを訪問すると、文久元年の復刻古地図で調べてもらい、ものの5分でこの寺の所在が判明します。文久年間、寺は今改装中の麻布保育園・麻布福祉事務所の地にあったことが分った。仁さんありがとうございました(^_^)v

これならば楽勝と家に戻り早速、近代沿革図集で探すと江戸期までは確かに千蔵寺があるのですが、明治になると地図から消えている事が分りました。また麻布区史・文政江戸町方書上等を見ましたが、千蔵寺の情報を見つける事は出来ませんでした。 
これはおそらく「廃寺」か「移転」しかないと、区外も含めた広範囲でネット検索しました
廣尾稲荷神社
が、出てきたのは横浜、千葉、川崎の千蔵寺ばかりで宮村町の千蔵寺情報は皆無でした。仕方なしに電話で1件ずつ宮村町の千蔵寺との関連を確認したのですが、残念ながら該当する寺を見つけることは出来ませんでした。ここで自力探索の限界を感じ、港区郷土資料館・都立中央図書館などにレファレンス依頼のメールを送り、結果を待つ事にしました。
数日後、まず港区郷土資料館から連絡があり、港区刊行の「港区神社寺院一覧」に宮村町の千蔵寺は明治30年川崎に移転したと記載があるとの情報を頂きました。早速先日電話をした川崎市中瀬町の千蔵寺(教覚院厄神堂と改称)に再び電話を入れると今度はご住職が出られ、確かに宮村町から移転した寺であるとのお言葉を頂戴しました。しかしお話を伺うと、残念ながら寺には古い資料が何も残されておらず、広尾稲荷との関連を示すものはなにも残されていないとのことでした。さらに、もし何か分ったら教えてほしいと依頼され、再び振り出しに戻ってしまいました。そこで気持ちを新たにネット上で検索すると東京都公文書館サイトで「江戸・東京寺院探訪~東京のお寺を調べる~旦那寺への道」と題した古いお寺の資料の見つけ方をレクチャーしてくれる文面を目にしました。それによると、


  • 御府内備考続編(御府内寺社備考)
  • 明治五年寺院明細帳
  • 明治十年寺院明細簿

の3つの書籍から調べたい寺院についての歴史的情報はほぼ得ることができるはずといいます。

千蔵寺見取図 1829年(文政12年)
千蔵寺見取図

さっそく翌日図書館で御府内備考続編(御府内寺社備考)を手に取ると....あ・り・ま・し・た!
1829年(文政12年)に調べられた寺の様子が、沿革が、敷地絵図が...。
「御府内寺社備考」第二冊天台宗によると
山王城琳寺末 麻布宮村町 法隆山五光院千蔵寺
「起立の年代は分らないが、元は狸穴にあり天和3年甲府宰相「甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)」様の屋敷用地となり当地(宮村町)に替地となり移転、その際公儀から300両の支度金が支給され諸堂を建立する。しかしその後たびたび火災に合い詳しい事は分らない。」とありさらに、
・開山の祐海法印は1665年(寛文5年)入寂
・本尊は、阿弥陀如来木像・毘沙門天木像(聖徳太子作)・観世音銅立像
・延命地蔵堂があった
・社地は21坪で門前家屋が総間口13間半
などの記述もあり、敷地の見取り図もあるので大変に参考となりました。
さらに都立中央図書館からレファレンス結果のメールを頂き、多くの情報を得る事ができました。そのメールでは、

・「御府内寺社備考」
・「東京都社寺備考」
・「大日本寺院総覧」
・「天台宗寺院大観」
・「全国寺院名鑑」
・「全国寺院名鑑」
・「川崎市史 別編 民俗」
などをご紹介頂き、その中では宮村町の千蔵寺は川崎に移転したのではなく、もともと川崎のその地にあった「清宝院」と合併している事が分かりました。
他にも「東京市史稿」という書籍にも数多くの情報が書かれ、また東京都公文書館にレファレンスを依頼すると明治30年の移転に関する詳細な資料が数多く見つかり、マイクロフィルムに収められていることもわかりました。
それらを整理すると、


西暦 元号 記載内容 出典
1665年 寛文5年 5月16日開祖祐海入寂 御府内備考続編
1678年 延宝6年 10月、麻布狸穴の寺地が甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)邸地となるため、363坪の代地を武州豊島郡麻布宮村に拝領し引き移る 東京市史稿
1724年 享保9年 千蔵寺 麻布宮村町稲荷社別当となることを寺社帳に登録する 東京市史稿
1820年 文政3年 5月、千蔵寺門前町屋1軒の撤去を願い出る 東京市史稿
1883年 明治16年 4月、宮村町47番地天台宗千蔵寺、同町75番地天台宗円福寺は、いずれも南豊島郡渋谷村の宝泉寺(渋谷区東2丁目)住職が兼務 東京都公文書館資料
1884年 明治17年 「厄神鬼王」を神奈川県藤沢市本町1丁目 入町厄神社に分神し明治24年に神殿を建立 インターネット情報
1897年 明治30年 麻布宮村町四十七より川崎市中瀬町三に移転 港区神社寺院一覧



江戸期の麻布宮村町の千蔵寺






現在の千蔵寺








※別当

江戸期の神社は大きな神社以外は寺院に所属することが義務付けられていました。☓☓神社の別当寺は△△寺などといわれました。また神社の境内に別当寺が建立されることもあり、麻布氷川神社境内には徳乗寺(院)が建立され、麻布氷川神社と六本木朝日神社を管轄していました。
また、江戸期の神社は現在の神職が務めるのではなく、神事の際だけ僧が神官となる「社僧」が一般的でした。


江戸時代以前には伊勢神宮以外の多くの神社に別当が置かれ、僧侶による神社祭祀・神前読経などが一般化します。神社における別当の権威はときに本職の神主をもしのぎ、神社の仏教的色彩はますます強くなっていったそうです(神仏習合:しんぶつしゅうごう)。(資料参考:築土神社別当成就院楞厳寺サイト)
江戸初期、幕府により麻布狸穴町から麻布宮村町に転された千蔵寺は、移転時幕府との約束により元地狸穴町にあった時の二割増で寺地を拝領するはずでしたが、実際宮村町に移転してみると敷地は二割減となってしまったそうです。これについて同時期に同じ狸穴町辺から集団移転してきた広隆寺、広称寺、本光寺などが連署で移転による寺地の縮小を幕府に恐れながら問い合わせている文章が残されています。 
その後宮村町の千蔵寺は、宮村町稲荷(これが広尾稲荷の事と思われます)の別当となり、いく度かの火事災害を乗り越えその都度再興されています。しかし、寺の経済状態はあまりよくなかったと思われ、文政三(1820)年、門前町屋一軒の撤去を願い出た文章には、 
「寺が貧乏で建て替え費用が工面できない。荒れ果てた空き家のまま放置するのも物騒なので壊したい」 
などと書かれ当時の寺の経済状況をうかがう事ができます。
そして、明治になるとさらに廃仏毀釈が追い打ちとなり無住職の荒れ寺となってしまった千蔵寺を渋谷宝泉寺の住職が兼務で支え、川崎への移転にいたります。東京都公文書館のマイクロフィルム資料によると、少なくとも1883(明治16)年から移転する1897(明治30)年までの14年間は宝泉寺の同じ住職が兼務し続けたようで、移転関連書類(墓地改葬届、寺移転届、売買契約等)にも同一の名前が見えます。これについて面白い記述を見つけました。寺の敷地は麻布区と売買に関する契約を結んだようですが、その際、東京市が、何故同じ名前の住職が二ヶ寺もみているのかという質問状を麻布区に送っており、麻布区はその理由となる事項を東京市に返書しています。

これまでに分かった事を広尾稲荷神社にお伝えすると大変に喜ばれ、先代の宮司さまも千蔵寺を探して川崎まで行ったが手がかりを見つけることが出来なかった事をお聞きしたので、今回、多少ではあるがお役に立てた事と思います。

さらに広尾稲荷神社さんにはあまり関係のない「移転関連書類」が手元に残っていたので廃棄するよりはと、先日千蔵寺さんを訪れて資料をお渡ししましたが、こちらも大変に喜ばれました。寺の移転に関与したのは現住職のお父様とのことをお聞きしましたが、口伝だけで資料が何も残されていなかったようですので、寺にとっても貴重な資料となったと思われます。またその際にご住職から色々とお話をうかがう事ができましたが、最大の成果は寺の江戸期の過去帳から、広尾稲荷にまつわる文書を発見した事です。その文章は1812年(文化9年)に行われた町内安全を願った祈祷の際の記録で、広尾稲荷神社の名前もはっきりと読み取る事が出来ます。
ですが、その内容を品川歴史館学芸員の方に解読していただくと、広尾稲荷神社うんぬんの前後の文章に広尾稲荷神社との関連性は無く、本寺への奉納金の控えや、切支丹詮議を受けたと思われる檀家の身元保証(確かに天台宗の宗徒で千蔵寺の檀家である証明)などが書かれていることが解りました。また文章後半に書かれている広尾稲荷神社記述の事もこれは恐らく文章ではなく、寺の本堂正面などにかけてある「棟札」の文言ではないかとのご教授を頂きました。 
残念ながら千蔵寺と広尾稲荷の関係を示す文章は多くはなかったので広尾稲荷神社が必要としている情報が十分に得られたとはいいがたいとおもわれます。しかし、これでまぎれもなく千蔵寺が明治期の宮村町から忽然と姿を消した寺である事が確定され、また広尾稲荷神社の「別当」であった事も確実となったので、今回の調査は終了とさせて頂きました。












千蔵寺過去帳の広尾稲荷記述
 1812年(文化9年)











参考文献

・「御府内寺社備考」第二冊 天台宗
・「東京都社寺備考」 寺院部 第1冊 天台宗之部
・「大日本寺院総覧」上
・ 港区神社寺院一覧
・ 藤沢市郷土誌「わが住む里第38号」
・ 東京都公文書館マイクロフィルム資料
・ 東京市史稿
・ 新修港区史
・ 麻布区史
・ 近代沿革図集
・ 他。
レファレンス協力

・広尾稲荷神社
・千蔵寺
・東京都公文書館
・都立中央図書館
・港区郷土資料館
・品川区立品川図書館
・品川歴史館
・神奈川県藤沢市立総合市民図書館
・神奈川県立川崎図書館








より大きな地図で 麻布の寺社 を表示







2013年4月12日金曜日

広尾稲荷神社

◇名称:廣尾稲荷神社
廣尾稲荷神社

◇通称:千蔵寺稲荷・ハギナメ稲荷

◇鎮座地:港区南麻布四丁目五番六十一号

◇祭神:宇迦魂之命(うかのみたまのみこと)
御神体は木造翁の立像。商売繁盛、五穀豊穣、火伏の神として信仰を聚めている。 
◇祭儀:例大祭・九月十五日、中祭・五月五日

◇氏子:
廣尾稲荷神社 社殿
  • 南麻布五丁目、四丁目の一部(旧麻布広尾町) ・南麻布四丁目、白金三丁目、五丁目の一部(旧新広尾町三丁目)
  • 南麻布二丁目、白金一丁目、三田五丁目の一部(旧新広尾町二丁目)
  • 南麻布一丁目、二丁目、麻布十番馬場四丁目の一部(旧新広尾町一丁目)


徳川2代将軍徳川秀忠が、鹿長年間に鷹狩りのさいに勧請した稲荷といわれています。当時、麻布宮村町にあった法隆山千蔵寺が別当であったため千蔵寺稲荷とも呼ばれていて、現在も鳥居には「法隆山佑道代」の銘が入っています。

鎮守の稲荷(広尾稲荷)は御花畑御殿(麻布御殿)の御用地として召し上げられました。しかし元禄11年(1698年)3月28日この御殿が落成した日から、毎夜どこからともなく多くの小石が飛んできたり、神楽を奏する音が聞こえたりして番人たちが不思議に思い土地の元の主、 三枝摂津守の家中の者に尋ねたところ、

「この地に古くからある稲荷を屋敷内に移したら変わった事が多くあったので、元の場所に返したら収まった。」  


との事だったので早速御殿の鎮守として勧請し信仰されたといわれます。昔は富士見
稲荷、千蔵稲荷と呼ばれていましたが、 明治初期に広尾稲荷神社と改め、明治42年2月22日広尾神社の社号を許されました。旧社殿は青山の大火で焼失してしまいましたが、弘化4年(1847年)神明造りの拝殿と土蔵造の社殿が再建されます。その後大正12年の関東大震災で破損し再築され現在に至っています。祭神は倉稲魂之命で五穀豊穣、火伏の神として信仰されています。拝殿の天井には日本洋画界の先駆者

この神社の石塀の一部に小堂が建てられ額に出世庚申と記してあり、内には他に三基の庚申塔が祭られています。庚申信仰は日本固有の日待信仰に中国伝来の道教思想、十二支の猿などが結びつき天台密教の青面金剛が本尊とされ、水盤に刻まれる「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿は、庶民の身を守る戒めでもあったといわれています。




◇広尾橋欄干

広尾橋欄干
10年ほど前まで広尾神社境内に保存されていた、笄川にかかっていた広尾橋の欄干。右手の木製と左手の石製のものがあるが、石製の欄干の方が年代が古いとのこと。 関東大震災の復興事業で笄川が暗渠化されたのちに、広尾神社で保存された。また明治期には広尾橋の欄干に几号水準点が掘られていたという記録が残され ているが、広尾神社が所有した欄干に掘られていたのかは不明です。 現在この欄干は渋谷区郷土資料館に保存されているとのこと。



◇御由緒書き

慶長年間(1596~1615年)徳川二代将軍秀忠公鷹狩りのみぎり此の地に稲荷を勧請したと伝えられる。 麻布宮村の千蔵寺が別当であった為千蔵寺稲荷とも呼ばれた。明治四十二(1909)年二月二十二日廣尾稲荷神社の現社号となった。 此の頃の麻布広尾辺は萩の名所として賑わった。当社の俗称「ハギナメ稲荷」は可憐な萩が地をナメる様に咲き乱れていたことによる。 社殿は神明造りで、拝殿は弘化四(1847)年再建当時の建物であり、本殿と幣殿は関東大震災の後大正十四(1925)年に建てられたものである。 時代の変遷と度重なる火災に見舞われながらも氏子百姓等の信仰により再建を重ねて現在に至ったのである。
境内にあった二の鳥居(平成元年三月撤去)の左柱に「奉献明和元歳年九月吉祥日」右柱に「再建弘化四歳丁未九月吉祥日法隆山祐道代」 と刻銘があった。これに依ると明和元(1764)年にかなり大がかりな造営が行われ鳥居も献納されたことを示している。其の後弘化二(1845)年 十一月二十四日昼すぎ青山権田原の武家地あたりから出火して青山から麻布へと焼け拡がった所謂青山火事によって焼失し弘化四(1847)年 再建された。古老の話によるとこの時再建された社殿は土蔵造りの本殿に現在の拝殿が付加されたものであったという。本殿を土蔵造りにしたのは 被災の反省からで防災上の配慮であったが、大正十二(1923)年九月一日の関東大震災によって土蔵造りは著しく破損した。本殿は大正十四(1925)年に 再建され木造に改められた。
この時のご造営で神明造り正面一間側面九尺の本殿と、正面三間側面二間の幣殿に、弘化四年再建の木造正面三間側面二間入母屋造り平入向拝一間付の 拝殿が一体化した現在の廣尾稲荷神社の社殿が建造されたのである。
幸にも戦火をまぬがれたので昔日のままである。
昭和十五(1940)年紀元二千六百年を記念事業として境内整備が行われ、氏子崇敬者の寄進により、大鳥居、社名碑、常夜燈、手水舎等建立され 参道も整備された。此の時三基の庚申塔を社殿裏側道路に面した現在の場所に移した。
戦後神社界は未曾有の変革を余儀なくされ、宗教法人として神社の存続を容認された。当神社の宗教法人法による設立は昭和二十八年八月二十六日である。 昭和五十七年社務所改築の第一期工事が行われた。昭和六十一年九月、各町氏子崇敬者の銅板寄進により社殿の屋根葺替工事が完成した。
平成二年十一月十二日、今上陛下御即位の礼当日、過激派のゲリラ活動による時限発火装置放火火災で、幣殿及び拝殿の床下約五坪を焼失したが全焼を免れた (旧富士見町加藤氏が初期発見通報消火に尽力された)
此の時の全国神社による「被災神社復興支援募金」が行われ、金七百万円を復興支援として神社本庁より交付された。平成三年十二月七日当時の東京都神社庁 長猿渡盛文氏により伝達があった。
平成四年九月第二期工事として神楽殿及び参集所を含む建物が完成した。

港歳時記や港区史の記事に麻布御花畠の富士見御殿鎮守富士見稲荷が廣尾稲荷神社であるようにいわれているが之は別のものである。
富士見稲荷については麻布区史第三編有史以後の麻布第三章徳川時代の麻布、富士見稲荷の行に「....斯くて効験顕著なる富士見稲荷は正徳三年 薬園廃止後も尚存続して此の地を分賜せる旗本の崇敬を聚めたが維新後全く廃絶に帰した」と記されている。因に経緯は不明であるが富士見稲荷の 御神像は当神社に安置されている。現在ドイツ連邦大使館敷地内に富士見稲荷の旧跡があり祠が残っている。
昭和五十年頃当時電気通信共済調査役窪田孝司氏が「ドイツ大使館敷地とその付近」の調査をドイツ大使から依頼され、江戸地理研究の泰斗磯部鎮雄氏、 当時港区資料室主査俵之昭氏等と共同作業により行われた。ドイツ大使館敷地内に富士見稲荷の旧跡があり第一次世界大戦後まで此の土地を所有していた 政友会の実力者小泉策太郎氏が祭祀も行っていたことが明らかになった。広尾稲荷と富士見稲荷に関する一世紀に及ぶ誤説が外国大使の望んだ調査によって 明らかにされたのである。




◇御神木
境内に銀杏の古木があり約四百年を経た御神木である。これは青山火事により樹木の中身を焼かれ外皮のみでなお緑の枝葉を繁らせている。 昭和五十一年六月十八日港区保護樹に指定されました。




◇拝殿天井の墨竜画(平成12年10月20日港区指定文化財に決定)

高橋由一の墨龍画 

高橋由一の墨龍画 

拝殿の七枚つなぎの天井板に竜が画かれ「藍川藤原考経拝画」の銘があります。日本洋画家の先駆者高橋由一画伯の日本画最後の大作として 貴重なものです。

高橋由一は鮭とおいらんの画で有名です。下野国佐野藩主堀田摂津守正衛の家臣高橋源五郎の嫡孫として生まれ幼名を猪之助、後に由一と改めました。九才の時 堀田公の近習として仕え画を狩野洞庭、狩野操玉斉に学んだ後「洋製石版画」と出逢い、西洋画の表現に魅せられ洋画家に転身しました。由一の仕えていた堀田摂津守 の下屋敷が当稲荷社と隣接していた為、弘化四(1847)年社殿の再建に際して
二十才前後の青年画家由一が社殿の 天井板に闊達な筆致で竜の墨画を描いたものです。

墨竜画 解説板
由一は明治二十七(1894)年七月六日台東区金杉の寓居に示寂六十六才 法名実際院真翁由一居士 渋谷区祥雲寺内香林院に葬られました。墓石は小型矩形の自然石で「喝」 の一字が彫り刻まれています。同墓所には祖父母と母、妻の墓もあるそうです。



◇広尾の庚申塔

社殿裏側道路に面して三基の庚申塔がまつられている。全面に手水鉢が付されてある。昭和五十五年十一月十五日港区有形文化財 に指定されました。
広尾の庚申塔
「戍子書上」の境内図では社殿と並び西向に境内に建てられています。庚申塔は三基とも正面に青面金剛、日月、三猿が刻まれ左側面に 庚申供養 一結衆志 現当二世 為安楽也 右側面に汝等所行 是菩薩道 漸漸修学 悉富成佛 と刻まれ、中央の塔は元禄三(1690)年 庚午天十月三日 下の部分に 同行十七人 とあり氏名が刻まれています。左の塔は元禄九(1696)年丙子十一月七日とあり、右は損傷が著しく 年号不明であるが現当二世とはっきり刻まれているので、他二基と同じく法隆山 千蔵寺二世の代のもの。手水鉢は全面に三猿、左右側面に 卍、右側に庚申供養、一結衆志、現当二世 左側に元禄八乙亥十一月二日と刻まれています。庚申は中国の道教から起り仏教の青面金剛、帝釈天などの信仰 と混合したもの神道では猿田彦神を祭り、平安時代に伝わり江戸時代に盛んになったそうです。







広尾の庚申塔
庚申塔解説板











より大きな地図で 麻布の寺社 を表示