2013年6月14日金曜日

増上寺刃傷事件


幕末まで笄町4番地(現在西麻布3丁目麻布税務署裏手あたり)辺に上屋敷のあった湯長谷(ゆながや)藩は、磐城平藩の藩主内藤政長が隠居にあたって長男の内藤忠興に本藩を相続させ、二男の内藤政亮に新田を分与し支藩としたことから成立した奥羽の小藩(福島県いわき市常磐下湯長谷町)です。そして、内藤政亮が藩主となるに当って浅草寺別当知楽院の進言により遠山氏を名乗り湯長谷藩遠山氏が成立しました。成立当時藩の石高は1万石でしたが、さる事件をきっかけに幕府より2千石を加増されることとなりました。その事件とは........。


湯長谷藩麻布百姓町上屋敷
延宝八(1680)年五月八日、四代将軍家綱が没し芝増上寺で大法会が営まれることとなりました。大老酒井忠清は、この大法会の奉行を鳥羽(志摩)3万5千石の藩主内藤和泉守忠勝、丹後宮津7万3千石藩主永井信濃守尚長、土浦藩4万5千石藩主土屋相模守らに命じます。(松本清張の「増上寺刃傷」では永井は将軍名代、内藤は奉行となっています。)そして事件は六月二十四日、大法会当日の申の刻(午後3時頃)に突然起こり、 内藤和泉守が突然永井信濃守に斬りつけ殺害してしまいました。  
この様子を『徳川実紀』は、
「この日増上寺の法場に於て、内藤和泉守忠勝失心し、佩刀をぬき、永井信濃守尚長をさしころす。」 

と記しており、また御当代記には、
「永井信濃守・内藤和泉守両人義、於増上寺御法事の節喧嘩仕相果候ニ付、跡を御絶し被成候」

とあります。 
この時刀を持ったままの内藤和泉守を後ろより抱きとめ、刀を奪って目付に引渡したのが遠山政亮でした。遠山政亮はこの功により丹波氷上・何鹿に2千石を拝領することとなります。事件後、内藤和泉守はの27日には愛宕青竜寺(神谷町付近の港区虎ノ門3-22-7に現存)にて切腹し、三田功運寺(当時三田4丁目の済海寺近辺にあった)に埋葬されました。

この事件は内藤和泉守の失心による刃傷事件という事になっていますが、内藤家と永井家の江戸上屋敷は隣り合っており、普段から犬猿の仲であったといい、忠勝も尚長も三十歳前後と若く、吉原通いの舟の行き違いのときのにらみ合いや永井家の高く建てた茶室による紛糾なども原因としています。そしてまた、松本清張の「増上寺刃傷」では尚長からの計略により面目を失った忠勝が事件を引き起こしたとあり、同書では永井信濃守について冷血的な秀才と位置付け、その冷血の遠因を3代将軍家光逝去時に大老堀田正盛、老中阿部重次、側衆内田出羽守正信らは早々に追い腹を切ったが、家光より同じ恩顧を受けた永井信濃守尚政(永井信濃守の祖父)は、殉死せず

「永井して 人の誹りやなおまさる 出羽におくれて 信濃わるさよ」


と世間から酷評された末に隠居した事や、その後を継いだ兄の越中守尚房も吉原で遊郭遊びの最中に横死するという永井家の精神的な「引け目」から鷹揚な振舞いを貫き通したためとも書かれています。

この刃傷事件を調べるうちに、同じ刃傷事件である浅野内匠頭長矩の事件との関連が幾つか見つかったのでご紹介します。


  1. 加害者である内藤和泉守忠勝は、後にあの刃傷事件を引き起こす浅野内匠頭長矩の母親の実弟で内匠頭は内藤和泉守の甥にあたり激昂は「血筋」との見方もあります。また、浅野内匠頭長矩は寛文7年(1667年)江戸生まれなので、増上寺事件当時は13歳となっており、当然この事件を認知していたと思われます。

  2. 赤穂浪士の一人である奥田孫太夫重盛は、内藤和泉守忠勝の姉が浅野采女正長友に嫁ぐのに従い赤穂に来た「鳥羽藩士」でしたが忠勝の増上寺刃傷事件により内藤家は改易となったので、孫太夫はそのまま浅野家中になり、後年再び主君が改易となります。つまり、2度も主君の刃傷・改易を経験していることとなります。

  3. 浅野家改易後の赤穂藩に、永井信濃守尚長の縁者である永井直敬が下野烏山より3万3千石で入り、わずか一代で信濃飯山へ転封されることとなります。

  4. 内藤和泉守が埋葬された三田功運寺は大正11年(1922年)に中野区に移転し、昭和23年(1948年)に万昌院と合併し万昌院功運寺となりました。この万昌院は赤穂事件後に取り戻した吉良上野介義央の首と胴体を合わせて埋葬した墓があるそうです。


  5. 大法会のもう一人の奉行である土屋相模守政直はその後の貞亨4年(1687年)に老中となり、増上寺刃傷事件から21年後の元禄14年(1701年)の江戸城松の廊下刃傷事件では浅野と吉良両人の事情聴取行うこととなります。さらに翌年、四十七士の討ち入った本所吉良邸の隣が土屋邸であったそうです。余談ですが土屋相模守の下屋敷は四の橋付近(新坂と薬園坂を挟む一帯)であったため、四の橋は別名「相模殿橋」とも呼ばれていました。






事件の後、加害者といわれる内藤家は廃絶となりました。しかし、被害者である永井家は継嗣がいなかったため所領は一旦は幕府に収公されたのち弟の尚円が大和新庄で1万石を与えられ大名に復帰、永井家は大和櫛羅(くじら)藩主として明治まで存続することとなります。そして仲裁に入った遠山家は政亮の二代あとに旧姓の内藤を唱え、さらに三千石を加増されて1万5千石の大名となって、明治を迎えるまで一度も領地を変わらずに福島県いわき市に存続しました。







より大きな地図で 皇族・貴族・大名・幕臣・文人居宅 を表示





   ★関連項目

      超高速参勤交代の麻布