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2013年6月29日土曜日

調所 笑左衛門<三田>

薩摩藩三田藩邸
関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)についた島津家は、戦が東軍(徳川方)の勝利に終わると、それまで九州各地に持っていた領土を77万石に削られます。そして徳川幕府が成立すると、江戸城修築、 などで莫大な経費を使わされ、さらに参勤交代の費用も九州から江戸までだと相当な物入りだったといわれ、裕福であった藩財政もひっ迫してしまいます。そして宝暦5年(1755年)に島津重豪が藩主の座に就くと、破天荒な経営を行ったため、とうとう「日本一の貧乏藩」といわれるまでになってしまったそうです。

重豪が時の権力者、老中筆頭の田沼意次の政策に賛同して藩校、医学館、天文学館など教育施設や町の活性化に莫大な資金を投入して鹿児島の近代化を進め、重豪が自らも豪奢な生活を好んだために、その結果借金が500万両に達し、利息だけで年間60万両に及んだとされています。当時、藩の収入は12~18万両とされていますので利息の返済すら出来ない状態に追い込まれてしまいました。さすがの重豪も窮してしまい、財政再建を任せられる家来を模索したそうです。そして白羽の矢がたったのが、調所 笑左衛門 広郷でした。

笑左衛門は安永5年(1776年)御小姓組 川崎家に生まれ天明8年(1788年)、13歳で調所清悦の養子となる。御小姓組は士分の末位の家格であるためやがて、茶坊主となり”笑悦”と称した。藩では簿給藩士の家計を援助するために、藩士の子弟を書役や藩校の助教授に任用する制度をとっており、茶道方もその中の一つに含まれていました。笑悦もたまたま茶道方になっただけで、養家が茶道方だった為ではないといわれています。ちなみに西郷隆盛の弟、従道や有村俊斎、大山綱良も一時、茶道方を勤めており、これは藩で正式なポストに就くための臨時的なものであったと思われます。(つまり茶道方とは藩のエリ-トコ-スであったようです。)

笑悦はしだいに茶道への造詣を深め、23歳で重豪専属の茶道方となり、やがて茶道頭に昇進します。文化10年(1813年)に重豪は、笑悦に茶坊主をやめて武士に戻る事を命じ、名を「調所 笑左衛門 広郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと)」と改名させ、お小納戸役として自分の身辺の世話をさせました。文化12年(1815年)にはお小納戸役と御用取り次ぎ見習いの兼務を命ぜられた。お小納戸役は御側役の下役ですが、時には隠居した重豪の意を孫の藩主斉興に伝える役目もあり、重豪の笑左衛門 に対する信頼の度がうかがえます。

続いて笑左衛門は47歳で町奉行に抜擢され、異例のスピ-ドで昇進を重ねます。文政7年(1824年)笑左衛門が49歳のとき、側用人兼隠居の続料掛を命ぜられました。隠居の続料掛とは2人の隠居(重豪と子の 斉宣)の諸費用を預かる役目で、その財源は琉球、中国との貿易に頼っていたそうです。しかし今までの、幕府の制限どうりに行われていた貿易では隠居料を賄う事が出来ず、笑左衛門は巧みな密貿易を始めて、大きな収益を上げることとなります。

この成功を重豪は見逃さず、笑左衛門の経理能力を高く評価して藩政改革の責任者として勝手方重役に昇進させ、藩全体の財政再建を命じます。 しかし笑左衛門は仰天の上、固辞し続けたそうです。これは今まで財政再建を完遂した家老は一人もおらず、その方面で素人の自分が出来るはずがないと思った為でしたが、重豪の矢のような催促からついに屈し、承諾します。

ここまで藩の財政が悪くなる過程で薩摩藩は、何度か藩政の改革を試みましたが、実効を上げたものはほとんどありませんでした。その要因の一つとなったと思われる事件が「秩父くずれ」と呼ばれている事件でした。
天明7年(1787年)島津重豪は家督を息子の斉宣に譲り隠退しますが、まだ血気盛んな重豪は藩政への介入を宣言して、事実上の権力者であり続けました。この年、京都で大火があり幕府は薩摩藩に20万両の献金を命じ、これが財政をいっそうひっ迫させました。新藩主になった斉宣は 父重豪と違い、緊縮財政をひき、誠実な人柄で学究肌であったため、質実剛健の気風を好んだそうです。彼は、研究者タイプのブレインを多く登用し、その中の中心的な人物が秩父太郎でした。斉宣は秩父太郎らに抜本的な藩政改革を命じます。秩父太郎は樺山主税と手を組み質素倹約、質実剛健の手引書とも言える「亀鶴問答」という書を著し、藩士たちに配りました。そして藩を上げての倹約方針も、遂に重豪に及び重豪に対して豪奢な生活を捨て質素に倹約するよう諫言します。

しかしこれに激怒した重豪により秩父太郎、樺山主税には切腹を、斉宣には隠居 を命じ、藩主には孫の斉興を据えて自らが後見しました。これ以降質素倹約を唱えるものがいなくなり、重豪の豪奢三昧な生活を改めさせる手段も無くなってしまいました。

「秩父くずれ」の事を知っていた笑左衛門に、重豪への倹約を求める事は出来ず、他の方法を模索するしかありませんでした。そして、思い悩んだ末にまず資金の借入れ先を探します。しかし、藩内の商人は相手にしてくれず、藩と取り引きがあった上方商人にもけんもほろろに扱われてしまいました。思いつめた笑左衛門は何度も自害を思ったが、そんな様子に動かされた上方商人の浜村屋孫兵衛が、他4名の商人を説得して「新藩債」を引き受ける事になり、借入れの件は何とかめどが付いた。(浜村屋孫兵衛には後に、恩賞として黒糖貿易の利権を一部与えています。)
次に藩の財政を再建するために、当時有名な経済学者であった佐藤信淵を顧問に招き、改革案を作らせました。その内容は、

<支出>

1.500万両の借金は、貸し手を説得の上、元金だけを年2万両づつ250年賦で返し利子は一切切り捨てる。

2.藩内の諸費用を予算制度を導入して収支を厳格にする。


<収入>

1.特産品の包装、梱包に問題があり他国へ輸出のさい傷や無駄が多いので直ちに改める。

2.特産品を品質改良し、すべてを藩の専売とする。

3.隠居(重豪)のこずかいを捻出すると言う名目で琉球、中国との貿易の許可を幕府から得る。そして許可が下りたら、決められた制限量を無視し密貿易を行い、それを円滑に行うため幕府の要人に賄賂を贈る。


これらの案を重豪、斉興に披露して了解を得ます。そして今までは酒好きで宴会も頻繁に行い任侠に富み、いかにも薩摩隼人らしかった笑左衛門も質素な生活にあらため、自ら範を示しました。
改革案に重豪、斉興からの許可がおりた笑左衛門は次々と改革を進めていきます。

まず米、その他の特産品の包装を厳重にし、品種の改良と量産の奨励を行い、幕府の許可を得、琉球を通じて中国貿易を始めました。ここで笑左衛門は家老に列せられますが、彼を見出した隠居の重豪が天保4年(1833年)に死去します。重豪の死後も笑左衛門は斉興のもとで家老として引き続き財政再建にあたり、斉興も笑左衛門には全幅の信頼を寄せます。そして斉興と共謀の上、贋金(にせがね)造りもはじめました。そして借金の500万両を事実上踏み倒す事にしました。

藩内の商人には金高に応じて武士の身分を与え、江戸、上方の商人には、借金の証文を騙し取って焼き捨ててしまいます。これにより商人達が騒ぎ始め 、共謀した浜村屋孫兵衛が大阪東町奉行所から詮議をうけましたが、微罪で赦され笑左衛門への嫌疑には及びませんでした。これは、幕閣への賄賂が十分に効いていたためであったといわれています。その後も奄美諸島の特産品「黒糖」を専売にし、現金売買を一切禁止して島での黒糖と他の日用品との交換比率を改悪しました。

そして黒糖その物の品質も改良して、売り上げも1.5倍に伸ばします。これらの改革により500万両の借金があった薩摩藩も改革10年目にして250万両の蓄えを持つまでになったそうです。その資金を活用して笑左衛門は藩内の新田開発や治水工事等、環境開発にも着手して一層の増収を得る事が出来ました。が士族たちも改革の矛先が自分達の方に向かい始めると、反感を募らせる者達が出てきて、笑左衛門の改革にも暗雲が立ち始めます。

丁度そのころ斉興の跡目をめぐって本妻の子、斉彬を支持する勢力と斉興の側室お由良(おゆら)を中心に久光を擁立する勢力が対立していました。このお由良は、江戸三田の町人の娘といわれています。

笑左衛門は曾祖父、重豪の影響を強く受けた斉彬を危惧して、久光の擁立を支持するようになります。跡目相続の抗争が長期化するとやがて斉彬は笑左衛門を憎み、失脚のため身辺を探らせるようになりました。そして笑左衛門が中国との密貿易の指示を出していた事実をつきとめ、幕府の老中筆頭 阿部正弘に密告します。賄賂のためか元々斉彬の支持派であった阿部正弘は久光の失脚につながる笑左衛門への疑惑の追求に喜んで荷担したそうです。

嘉永元年(1848年)の秋、江戸の到着した笑左衛門は直ちに幕府より召喚され、密貿易について厳しい尋問を受けました。笑左衛門は嫌疑が藩主斉興に及ぶ事を恐れ、一切の責任を負って三田にある藩邸内の長屋で毒を仰いで死んでしまいます。
笑左衛門の死は秘密にされ、嫡子の左門は「稲留」と姓を変え、名を数馬と変えて小納戸役を解任されます。さらに屋敷も取り上げられて国許に帰らされるが、これは斉興が幕府の手前を取り繕うためで、まもなく稲留数馬は斉興に番頭に取りたてられ屋敷の買い上げ金600両を下賜されています。しかし、その斉興もお由良騒動から斉彬擁立派を一掃したが、幕府の圧力で隠居せざるを得なくなってしまいます。それは、笑左衛門の死後2年後のことでした。

斉彬が藩主となると薩摩藩は非凡な才能の持ち主の下級家臣である西郷隆盛などを登用して、洋式工業を興し、兵器や軍艦を大量に作り藩を近代化して 討幕へと向かって行きます。そして幕末期には最強の軍隊と呼ばれた「薩摩藩軍」も含めてその基礎となる資金には笑左衛門が藩政改革で備蓄したものが使用されました。おそらく笑左衛門がいなければ、近代工業も、最強の軍隊も薩摩藩は持つ事が出来ず、極論すれば明治維新そのものが、怪しくなっていたと思われ、その偉業は後の日本にとって忘れられない物となっていると思われています。

私の知人、調所(ちょうしょ) 正俊氏は、調所 笑左衛門の子孫であり、氏の許しを得てご先祖の話を掲載させていただきました。調書氏は現在も本家を「ずしょ」、 支流を「ちょうしょ」と呼んでいるとのこと。ちなみに明治初期、一の橋の対岸三田小山町に住んでいた調所笑左衛門の三男で男爵の調所広丈には面白い逸話が残されています。

明治初期、一の橋わきで後に小山橋がかけられる付近には三基のかなり大規模な水車小屋がありました。明治20(1887)年このうちの一基の水車がそれまでの 製紙機器製造から米搗き水車へと用途を転換したい旨の「転業願」が所有者の松本亥平により東京市に提出されます。 これに対して対岸の三田小山町に住む調所広丈男爵より転業を認めないでほしいという嘆願書が東京市に提出されています。 これによると、数十もの臼を搗く振動が家屋を破損させる恐れがあり、その騒音で付近の住民は安眠できないと思われるので許可 しないように。というものであったそうです。これにより同年5月2日には松本亥平は警視庁から度重なる取り調べを受け、実際に騒音公害などが 起こりえるものかを質問されています。そしてその結果、米搗き水車への転業は止めて、活版印刷業に転換することを決定します。この様子は東京府から 警視庁宛に通牒按が提出され、その顛末を報告しています。














2013年4月19日金曜日

三田小山町


小山橋

古川の写真を撮っている時に立ち寄った町で、麻布に行くと必ず寄ってしまうようになりました。橋の名前「小山橋」の由来をたずねたおばちゃんに、

「だって小山町だから...。」

と笑われてしまいた。

それまで知りませんでしたが、小山町は江戸期以前から麻布ではなく三田に属しています。しかし、生活圏は明らかに麻布だと思われます。
一の橋公団アパ-ト真裏の小山橋を渡るとそこは別世界で、私が生まれた頃の宮村町がそこに姿を現します。わずか50メ-トルほどの町並みで、生活に必要なものがほとんど手にはいってしまうようです。お風呂屋さん、揚げ物屋さん、豆腐屋さん、布団屋さん、たばこ屋さん、くすり屋さん、八百屋さん、クリ-ニング屋さん、米屋さん少し離れてコンビニまであります(1998年現在)。 このお風呂屋さんがまた、たまりません。脱衣場には、ロッカ-じゃなく籠が置いてありそうなたたずまい。暖かくなったらぜひ入りに行くつもり。奥のほうには、自販機を設置しておらず対面販売のみの昔ながらのたばこ屋さんがあった。ここも良い。会話しなければ買い物が出来ない。便利さを求めて置いてきてしまったものが、ここには沢山残っています。 バブル全盛の頃、おそらく目の前に札束を山と積まれても首を縦に振らなかった住民の方達に感謝したいという思いでいっぱいです。


三田小山町商店街
そして地下鉄が出来ても、どうぞこのまま.....。(2013年現在、上記した店のいくつかは廃業してしまっています。)





○追記2009年11月

前記文章は1998年頃のものですが、あれから町の西側は再開発により2棟の高層住宅が建築されて、町の景観は一変しました。 また町のモニュメント的な存在の「小山湯」も大正10年以来のは営業を終えて2007年に廃業します。そしてさらに現在も町の 中心部では再開発が計画されているといいます。小山湯横の階段に鎮座するお地蔵様は、この様変わりをどう見ているのでしょうか.....。


○追記2010年5月

銀杏稲荷大明神が元地に遷座されるとのことで、これを機に再度、三田小山町を基本から調べ直してみました。

○三田

  • 戦国時代までに、荏原郡三田郷として成立する。三田の名は、吾妻鏡の中の正嘉2年(1258年)3月1日の条にすでに記されている。
  • 江戸時代初期、三田郷の地に三田村が成立し、荏原郡に所属する。
  • 寛文2年(1662年)、三田村に商家が立ち並ぶようになり、その地域が三田一丁目~三田四丁目、三田台町一丁目・三田台町二丁目などとして三田村から分離し、町奉行支配となる。これ以降、延宝年間までの20年ほどの間に計14ヶ町が次々と三田村から独立し、町奉行支配となった。このとき新たに成立した三田14ヶ町は、三田一丁目~三田四丁目・三田台町一丁目~三田台町二丁目・三田同朋町・三田久保町・三田古川町・三田豊岡町・三田老増町・三田南北代地町・三田台裏町・久保三田町。
  • 明治元年(1868年)、東京府成立にともない、三田地区の町と三田村は東京府所属となる。
  • 明治2年(1869年)、三田地区の一部に町域統廃合が行われ、三田久保町・三田南北代地町などが消滅し、代わりに三田小山町・三田松坂町などが成立する。
  • 明治4年(1871年)、三田二丁目に慶應義塾が移転してくる。
  • 明治5年(1872年)、三田地区の武家地・寺地が新たに町として独立することになり、三田四国町・三田綱町・三田南寺町などが起立される。
  • 明治11年(1878年)、芝区・麻布区の成立にともない、三田地区の町と三田村の大半は芝区に、また一部は麻布区の所属となる。
  • 明治22年(1889年)、三田村の残余部分(現在の目黒区三田)が隣接する荏原郡目黒村に編入され、三田村が消滅する。
  • 昭和22年(1947年)、芝区が麻布区・赤坂区と合併して新たに港区が成立する。それにともない三田地区の町名に「芝」の冠称がつく。
  • 昭和39年(1964年)7月1日、住居表示の実施にともない、三田地区のうち芝三田四国町・芝三田同朋町が港区芝に編入される。
  • 昭和42年(1967年)7月1日、住居表示の実施にともない、三田地区の大部分と周辺地域を併せて港区三田が成立する。また、三田台町三丁目・三田松坂町の一部は港区高輪となる。
  • 昭和44年(1969年)1月1日、住居表示の実施にともない、三田地区の残余部分(三田老増町)が港区白金となる。
(出典:Wikipedia-三田)


●江戸期


◆久保(窪)三田・三田久保

三田小山わきの窪地にあるので呼ばれた。三田町分は三田久保、上高輪分は久保(窪)三田と呼ばれた。寛文2(1662)年町域となり町奉行支配地となったが代官支配地も残された。

◇文政町方書上


・久保三田町

当町起立の儀は、上高輪村石高のうちにて、小町につき芝伊皿子台町へ組み合い町用勤め申し候。もっとも、三田町分と入り組み候場所 につき、三田町分は三田久保町と唱え、上高輪町分は久保三田と相唱え申し候。もちろん、久保と唱え候儀は、書留御座なく相分かりかね 候えども、三田小山脇にて地窪の場所に御座候間、久保三田町と唱え候儀にもこれあるべきやに存じ奉り候。寛文二寅(1662)年中町御奉行 渡辺大隅守様御勤役中町方御支配に仰せ付けられ、御代官所へは上高輪町と書き上げ仕り候。

・三田久保町

当町起立の儀は、往古一円に三田村にて当町に上高輪町地所の分にて、久保三田町と上下相唱え候町これあり、右町は大抵地窪の場所に これあり候ゆえ、久保と相唱え候儀もこれあるべく候えども、当町は左にはこれなく地高の場に御座候えば、この辺り一円に久保と相唱え 候ゆえ三田久保町と相唱え来たり申し候。もっとも、石高などは、三田町同様に御座候。町屋家作御免に願い奉り候節の年月ならびに 御奉行様お名前など先年類焼の節、書留など焼失仕り相分かり申さず候。



○久留米藩 有馬家屋敷(三田小山町に隣接しており後の赤羽町・町域となる場所)


江戸期の久保三田町・三田久保町は武家屋敷と寺社が町域の大半を占め、元神明宮周辺にわずかばかりの町屋が存在したに過ぎなかったと思われます。しかし隣接した有馬藩邸内西角には水天宮があったため、人通りは非常に多かったと思われます。賑わいの様子は、
  • 赤羽へ のして久留米の水天宮

  • 人波の尋ねくるめの上屋敷 水天宮に賽銭の波

  • 赤羽の流れに近き水天宮 うねるようなる賽銭の波

  • 商いも 有馬の館の水天宮 ひさぐ5日の風車うり


などの句からもその繁盛さが伺えます。この水天宮の他にも有馬家には将軍綱吉から拝領した犬を行列時先頭に歩かせたので「有馬の引き犬」とよばれる名物行列、また大名火消であった有馬家は他よりも 高い火の見櫓を藩邸内に持つことを許されていた。前者の「引き犬」は水天宮での「犬帯」販売に直結していたと思われ、さらに水天宮は月に一度の開門日以外参拝者は 門外から賽銭を投げ入れる習わしであったので、列をなして押し寄せる人波も次々と処理できたと思われ、その収入は莫大なものであったことが想像される。 また火の見櫓については、


  • 湯も水も火の見も有馬 名がたかし

  • 火の見より 今は名高き 尼御前


などと詠まれた。この火の見櫓は現在の三田高校・赤羽小学校辺に幕末まで現存しており、三田丘陵山腹からひときわ高くそびえ立っていた様子は、当時のランドマークタワーとしての役割も備えていたと思われ、赤羽橋近辺を描く画には増上寺「五重の塔」と共に必ず描かれています。 幕末にこの有馬藩邸を赤羽橋方面から中の橋に向けてイギリス国籍の写真家フェリックス・ベアトがパノラマ写真を残していますが、残念なことに 火の見櫓は画角から外れています。 
そしてこの火の見櫓を舞台とした演劇も作成され、この屋敷と共に「化け猫騒動」の舞台として描かれています。 現在赤羽小学校に保存されている「猫塚」はこの演劇話を元に後世作成されたものだと思われますが、その素性は明らかではありません。 この猫塚についての詳細はこちらからどうぞ。

余談ですが、

「西国の果てまで響く芝の鐘」


と詠まれた川柳で芝増上寺の梵鐘は「九州まで届くほどの豊富な音量」を揶揄されていますが、実際には増上寺周辺の 芝・三田辺に薩摩藩邸・佐土原藩邸・久留米藩邸・秋月藩邸など九州外様大名の各屋敷が集中していたための洒落であるそうです。

○秋月藩 黒田家屋敷(後の小山町・町域)


その有馬家に隣接して筑前秋月藩五万石・黒田甲斐守の上屋敷があった。 筑前秋月藩は豊臣秀吉の参謀黒田如水の子長政が関ヶ原合戦の恩賞により筑前一国52万3千石を拝領し、長政三男の長興によって立藩 された筑前福岡藩の支藩です。 
藩領の筑前秋月はその名通り秋月氏の所領でしたが、豊臣家による九州征伐において島津氏に味方して全面敗戦 となり高鍋へと所領変えとなります。その後秋月氏は関ヶ原合戦で西軍で参加するも、裏切りの恩賞により高鍋の所領を家康により安堵されているようです。江戸期にはこの高鍋藩秋月氏と秋月藩黒田氏は縁戚関係を結び、
  • 高鍋藩七代藩主・秋月種頴(たねひで)、上杉鷹山兄弟の母は秋月藩四代藩主・黒田長貞の娘「春姫」。

  • 秋月藩八代藩主・黒田長舒(ながのぶ)は秋月種頴の二男。


ちなみに秋月種頴は秋月種茂たねしげの後年の名前で、英邁な主君として名高いようです。弟は 10才で上杉家に養子縁組した上杉治憲、のちの上杉鷹山です。この高鍋藩秋月家の上屋敷は現在の麻布高校敷地にあり、秋月の羽衣松・寒山拾得の石像・夜叉神像 など麻布の伝説とも縁が深いようです。

○大和郡山藩 松平家屋敷(後の小山町・町域)


黒田家西隣には大和郡山藩・松平家の下屋敷がありました。江戸期の地図などにも松平家となっているのでわかりづらいが、元の名字は「柳沢」で 事実上の藩祖は五代将軍徳川綱吉の側近で、小身の小姓から大老格まで異例の大出世をした柳沢吉保であるそうです。 
この出世に伴い元禄14(1701)年、将軍の名前「吉」を 与えられて吉保と変名、姓も松平姓を授かり、以降柳沢から松平を名乗ることとなります。また、これに伴い所領もそれまでは徳川一門にしか与えられなかった甲府一五万石 を拝領します。これらからも将軍綱吉の柳沢に対する偏愛ふりが想像できますが、その後綱吉死去と共に柳沢吉保も自ら失脚を予想して引退し、家督を長男の吉里に譲ります。 この素早い変身により柳沢家の領地は大和郡山に移転されましたが、石高はそのまま幕末まで引き継がれることとなります。

幕末期、この柳沢屋敷は天災とも思える不慮の事故に巻き込まれることとなります。それは清河八郎が門前で暗殺され、首は清川の一味により持ち去られたが、胴体は うち捨てられたままとなっていました。当時の慣習として遺骸から一番門の近い屋敷の持ち主がその処理をすることとなっていたので、清河八郎の胴体は柳沢家 によって宮村町正念寺に葬られることとなります。この話の詳細はこちらからどうぞ。


○Palace of Arima Sama...Yedo
前述したイギリス国籍の写真家フェリックス・ベアトは多くの写真を江戸市中で残していますが、この近辺でも赤羽橋、柳沢家門前、綱坂、古川橋な

ど 特に多数の写真が残されているようです。 
Palace of Arima Sama...Yedo

これは文久3(1863)年12月、スイス外交団団長 で友人でもあるエメェ・アンベールが来日したおりに横浜在住であったベアトが臨時随行員となり、当時は外交使節しか許可されない江戸入りします。写真はその際に、ほぼ同日に撮影されたものと考えられているようです。 
両者の共通点は江戸での滞在を、オランダ公使館であった伊皿子の長応寺としていたことから知己を得たものと想像されます。 これらの写真の中でも特に興味を引かれるのは、三田小山町にあった柳沢家屋敷が右手に、左手に有馬家屋敷が写され中央には元芝神明宮が写されている写真です。 この写真を拡大すると柳沢家家中と思われる手前の四人は殺気立っているように見え、その後ろの元芝神明宮階段に一人、そして石垣沿いにさらに2名がこちらを注目 しているのが確認できます。 この時期1863(文久3)年頃は、
  • 安政6年(1859年)-横浜でロシア軍艦乗員2名暗殺。

  • 万延元年(1860年)3月-桜田門外の変で、井伊大老暗殺。

  • 同年5月-イギリス領事館通訳官伝吉が東禅寺で刺殺。

  • 同年12月(西暦1861年1月)-アメリカ公使館書記兼通訳官ヒュースケン中の橋で殺害。

  • 文久元年(1861)年4月-高輪東禅寺英国公館襲撃(第一次襲撃事件)

  • 文久2年(1862)年1月-御殿山英国公使館焼き討ち事件

  • 同年4月-高輪東禅寺英国公館襲撃(第二次襲撃事件)

  • 同年8月-生麦事件

  • 文久3年(1863)年4月-清河八郎暗殺

  • 同年4月-麻布山善福寺アメリカ公使館が攘夷派の襲撃を受ける

  • 幕府が朝廷に攘夷期限を五月十日と奉答

  • 同年4月頃?-アンベール・ベアト江戸巡行・撮影(三田小山町など撮影?)

  • 同年5月-下関事件

  • 同年7月-薩英戦争


など攘夷派による外国人の襲撃が相次いで行われていた時期で、諸外国外交官以外、民間人の江戸滞在は出来なかったそうです。これによりベアトもあくまでもアンベールの 臨時随行員としての江戸入りであり、その一行も幕府からの警護役人を伴っての江戸巡回であったようです。 また有馬藩邸・元芝神明宮・秋月藩邸を写した写真(原題:Palace of Arima Sama...Yedo)は正式にはベアトのものとは断定されていません。しかし、同日撮影された綱坂・島原藩邸写真(写真の原題が「Satsuma`s Palace..Yedo」となっているため、 以前は石榴坂薩摩藩邸を撮影したものといわれていましたが、最近港区郷土資料館の研究により綱坂であることが判明しました。)・赤羽橋から有馬藩邸写真 などと同日に撮影された可能性が高いといわれているそうです。



●町名の由来


町の沿革は江戸期に久保三田町、三田久保町、寺院門前町であった地域が明治2(1869)年「三田小山町」として成立した。 ・三田小山町-芝区史

芝区西隅の一角、古川の流域に三田丘陵が急傾斜で落ち込まうとする處に、本町がある。 江戸時代に三田久保町及び竜源寺、当光寺門前と唱えた箇所及び円徳寺、大乗寺、長久寺、大中寺等の寺地を併せ、明治二年、古来の通称に従ひ 三田小山町と称した。一体、三田小山の名は今の三田綱町、三田一丁目、赤羽町の方面までの広い地域を称したのであったが、現在は本町のみに 限られてしまった。明治五年華族黒田長従邸(元黒田甲斐守邸)及び松平時之助(元郡山藩)邸をも合せて其町域を拡張した。本町十番地所在の天祖神社 は赤羽簡易保険局の後方に介在しているが、此天祖神社前の横町を巣穴と唱え、二の橋東詰に下る坂を日向坂といふ。これはむかし、此辺にて毛利日向守の邸が あるに因ると伝ふ。
本町南部の高台は、寺院街及び邸宅街で当光寺、教誓寺、龍原寺、長久寺、円徳寺等があり、二七番地には伊藤博文の息貴族院議員男爵伊藤文吉邸があり 、六番地には下町情調の描写を以て令名のある文芸家久保田萬太郎の住宅がある。北部の一帯は、古川流域の低地で電車通を隔てて新門前町に対し、小工場、商店、 中小の住宅が密集している。


・三田小山町-東京市史稿

明治2(1869)年、久保三田町・三田久保町・三田竜源寺門前・三田当光寺門前を合併して新たに三田小山町とした。


・三田小山町-三田小山町児童遊園旧町名解説板

芝区西隅の一角、古川の流域に三田丘陵が急傾斜で落ち込もうとするところにあります。江戸時代、三田久保町、竜源寺門前 当光寺門前および円徳寺、大乗寺、長久寺、大中寺等の寺地を併せ、明治二(1869)年、古来の通称に従って三田小山町と称しました。 明治五(1872)年、華族黒田長従邸(元黒田甲斐守邸)および松平時之助(元郡山藩)邸をも併せてその町域を拡張しました。


・小山-文政町方書上

三田当光寺門前・三田竜源寺門前の一帯は高い場所なので小山と唱えた。


・小山-新選東京名所図会

小山を汎称するところは綱坂上・三田綱町と三田一丁目の一部にわたる。地勢が高く、一帯は小山であるからである。


・小山-芝区史

三田小山の名はいまの三田綱町・三田一丁目・赤羽町方面までの広い地域の総称である。

○鼠穴

神明宮へと下る坂は「神明坂」と呼ばれ、周辺の町屋は里俗に「鼠穴ねずみあな、巣穴すあな」と呼ばれていたといいます。 これは明らかに古川対岸の丘陵部「狸穴まみあな」 を意識した地名であると思われ、

  • 江戸町鑑

久保三田町の元神明前横町を鼠穴と唱えた。


  • 芝区史

三田小山町の天祖神社前の横町を巣穴という。


  • 港区史

天祖神社前の道を鼠穴とも巣穴ともいう。


などと書かれています。



明治期の三田小山町
●明治期

明治期になると小山町の隣、赤羽町の町域となる久留米藩有馬邸の敷地は、 1871年(明治4年)明治政府の命(廃藩置県)により久留米藩有馬家上屋敷と水天宮は赤坂に移転し、跡地には工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分 局)が設置される。 1872年(明治5年)水天宮が赤坂から日本橋蛎殻町の有馬家・中屋敷内(現在地)に再度移された。 1883年(明治16年)赤羽橋跡地が跡地海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となる。 1902年(明治35年)海軍造兵廠時代「猫石」が表門内正面に移設される 1910年(明治43年)海軍造兵廠が築地海軍用地に移転し「猫石」も築地に移設される。 1923年(大正12年)海軍造兵廠が海軍技術研究所となるが震災で損害を受けたことから 昭和5年東京市に中央卸売市場用地として譲渡し、目黒の現地点(防衛省戦史資料室)に 移設。
赤羽橋の造兵廠跡はその後長らく「有馬っぱら(有馬ガ原)」と呼ばれた空き地となっていて、「有馬ガ池」があって近所の子供達の釣り場に好適地だったそうですが、1915年(大正4年)12月 1日に北里柴三郎を初代の院長として済生会中央病院が建設され、大正11(1922)年に府立第六高女(現在の都立三田高校)が出来ます。そして、その隣地には大正15(1926)年赤羽小学校が出来ます。 そして昭和40年代まで済生会中央病院および三田警察署が位置しています。その後、済生会中央病院立て替え費用捻出のため敷地の一部がに三菱地所に売却し三田国際ビルが建設されることとなります。

一方明治以降の藩主有馬家末裔は日本橋藩自邸の一部をを有馬小学校として東京市に寄付、東京帝国大学助教授就任、夜間学校開設、女子教育啓蒙など社会事業を手がけ、現在の当主は東京水天宮 の権禰宜を勤めている。余談ですが、最後の藩主有馬頼咸の孫に当たる有馬頼寧は上記社会事業や政治家としても貢献し、太平洋戦争後には一時公職追放期間を経て日本中央競馬会第二代理事長として 活躍し、昭和32(1957)年プロ野球オールスター戦からヒントを得て「中山グランプリ」を開催します。しかし第一回中山グランプリ開催中に有馬頼寧は急死してしまい、このことから第2回中山 グランプリ以降は有馬頼寧にちなんでレース名を「有馬記念」と改称し現在に至っています。

旧町名解説板には明治5(1872)年黒田家屋敷・柳沢家屋敷が町域となったとありますが、これは前年の明治4年に天皇の名で廃藩置県が発布され たことによります。これにより黒田家屋敷敷地を2分して黒田長従屋敷と伊藤博文の屋敷が構えられることとなります。また旧柳沢家屋敷跡地も分割され、 表通り古川側の角地には幕末の薩摩藩家老調所笑左衛門広郷の三男で、札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・ 貴族院議員などを歴任し、男爵に叙されて華族となっている調所広丈が屋敷を構えることになります。

幕末の三田小山町
江戸期の当主・調書笑左衛門広郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと)は藩主島津斉彬(天璋院篤姫の義父)により引き立てられ家老にまで出世します。しかし、笑左衛門が薩摩藩密貿易を幕府から詰問され、芝藩邸で急死(幕府が藩主への追求することをを見越して引責自害したとされている)すると「お由良騒動」で笑左衛門と敵対失脚した斉彬の父である島津斉興の側室で三田の町家生まれ(三田の八百屋の娘説も)のお由羅の方、 その子供で薩摩藩の事実上の藩主・島津久光により調所家遺族は徹底的な報復迫害を受けたそうです。そして明治となった時代でもその影響からか調所広丈は名字の読みを本来の「ずしょ」から 「ちょうしょ」と変更しています。余談ですが私の旧知の友人も姓を「ちょうしょ」と読む調書家の末裔であるようです。これは薩摩藩から明治の元勲となった西郷隆盛、大久保利通らが 久光により下級武士から引き立てられてた久光派でだったので、旧主人の怨念を諫言することが出来なかったためと思われます。
しかし、そもそも莫大な赤字財政に苦しんでいた薩摩藩を短期間で救済したのは調所笑左衛門 の実力で、最近は薩摩藩が後年に討幕運動を展開できるほどの資金力を有したのも調所笑左衛門の政策立案・実行(借入借金の棒引き、琉球密貿易)の結果。との説が定説となっていて現在は、 調所笑左衛門の功績は完全に見直されているようです。

この小山町に住んだ調所広丈には面白い逸話が残されています。

明治期の水車
明治初期小山橋付近には三基のかなり大規模な水車小屋がありました。明治20(1887)年、このうちの一基の水車がそれまでの 製紙機器製造から米搗き水車へと用途を転換したい旨の「転業願」が所有者の松本亥平により東京市に提出されます。 これに対して古川の対岸のに住む調所広丈より転業を認めないでほしいという嘆願書が東京市に提出されています。  
これによると、数十もの臼を搗く振動が家屋を破損させる恐れがあり、その騒音で付近の住民は安眠できないと思われるので許可 しないように。というものでした。これにより同年5月2日には松本亥平は警視庁から度重なる取り調べを受け、実際に騒音公害などが 起こりえるものかを質問されたようです。そしてその結果米搗き水車への転業は止めて、活版印刷業に転換することを決定します。この様子は東京府から 警視庁宛に通牒按が提出され、その顛末を報告している書類が現在も東京都公文書館に保存されています。

この記事を調所広丈によるオーバーな表現と感じる方も多いと思いますが、この頃の水車は田園でのどかに廻るものとは大きくかけ離れ、水輪の輪転により 100あまりの臼を同時に搗くものも珍しくなく、水力を使った大規模工場と化していたようです。また、同時期にのちの渋谷駅前となる宮益橋では三井家総本家当主の 三井八郎右衛門が、天現寺橋付近では福沢諭吉が水車場を経営しており、それらの水車は完全に工業機械としての役割を担っていました。またこの小山橋付近の 松本亥平水車場は当初青山八郎右衛門が新設したものであり、この時にも共同名義人として名を連ねています。 
この青山八郎右衛門は調書家から古川の対岸に当たる 一之橋交差点付近に屋敷を構えていた実業家で明治期は天現寺橋から一之橋先までの古川護岸開拓工事を個人で行い、後にその土地を販売して日本でも有数の富豪となります。 またこの青山家は江戸期の幕臣青山家であり、クーデンホーフ光子となる青山光子と八郎右衛門の妻は従兄弟の関係にあたり、八郎右衛門の子供青山二郎は昭和期まで同地に住んでいました。 当初この開拓地は「八郎右衛門新田」と呼ばれましたが、明治中期には宅地化が進み「麻布新広尾町」として起立することとなります。

青山八郎右衛門と水車についての詳細はこちらを参照してください。



水車の項で三基の内一基が製紙機器製造から活版印刷へと業種変換したことをお伝えしましたが、このうちどちらの業種も紙に関係した職業です。 そして、これは麻布新広尾町にあった水車場の対岸である三田小山町後に架橋される小山橋付近から現在の讃岐会館先まで日本でも有数の大規模な製紙工場 があったためと思われます。  
三田製紙所
この製紙工場の正式名称は「三田製紙所」といい旧薩摩人で当時米穀取引所頭取であった林徳左衛門が、アメリカ人ドイルとの共同出資で 明治8(1875)年に三田小山町に設立し、地券用紙などを抄造しました。この工場は大阪の蓬莱社製紙部、京都のパピール・ファブリック、神戸の神戸製紙所、 日本橋蠣殻町の有恒社、王子の抄紙会社(後の王子製紙)などと共に日本でも草分けの製紙工場であったそうです。 また明治13(1880)年に真島襄一郎へ工場が譲渡される際に記念として同郷人の床次正精(とこなみ まさよし)により描かれた油絵「三田製紙所全景」が残されています。そして後年工場敷地の一部は、 元摂津尼崎城主 桜井(松平)子爵家、貴族院議員・農務省総務長官の藤田四郎氏本邸などを経て、昭和26(1951)年に香川県が購入。昭和47(1972)年に国立能楽、 東洋英和女学院小学部、乃木神社・会館、普連土学園などを手がけた大江宏による讃岐会館(現・東京さぬき倶楽部)となります。 その庭園に明治24(1891)年に建立された 「御田八幡古跡碑」が現存していることはあまり知られていません。    
この碑は和銅2(709)年東国鎮護の神として牟佐志国牧(枚)岡の地(現在の目黒~白金・四之橋付近?)から300年後の寛弘8(1011)年、当時武蔵国御田郷 久保三田とよばれたこの地に遷座し、寛文2(1662)年に現在の社地(芝札の辻)に遷座するまでの約650年間御田八幡神社がこの地にあったことを表す碑です。 


御田八幡古跡碑
碑の両側には当時のものと思われる狛犬があり、宝暦7(1757)年の年号が「飯倉町中」の文字と共に刻まれています。 また、さらに昔の元地である「牟佐志国牧岡の地」は白金付近を指しているとのことらしいが昨年麻布本村町町会関係者が御田八幡神社の祭礼に参加するとのことを聞き及び、 麻布氷川神社の氏子町会である本村町が何故?と疑問に感じたが、この「牟佐志国牧岡」には本村町も含まれていた可能性が強く、本村町会館にも御田八幡社御祭神の一つ 高良大神(こうらおおかみ)(武内宿禰命たけのうちのすくねのみこと)の由緒書が 額装されて掲示されています。源頼光の四天王の一人である渡辺綱の産土神とされ「綱八幡」とも呼ばれ嵯峨現時渡辺一党の氏神として尊崇された御田八幡神社は この事から笄橋、 一本松、麻布氷川神社に残された麻布周辺の源氏伝説も更なる関連性を持つこととなると思われますが、遷座した久保三田(三田小山町)周辺にも綱坂、綱の手引き坂、綱産湯の井戸など 源氏との関わりを残しています。



そして約1000年前に久保三田(三田小山町讃岐会
御田八幡神社・社地の変遷
館辺)に遷座した三田八幡社と麻布本村町がいまだに関係を持ち続けていることは特記に値する と思われます。

その他にも、27番地に伊藤博文の子息で貴族院議員男爵の伊藤(木田)文吉邸、江戸期に鼠穴とも呼ばれた6番地には文芸家・久保田万太郎の住居がありました。 またラグーサお玉の夫で工部美術学校で彫刻指導にあたったヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa)の宿舎が小山町(現・三田1-11)にあったようです。 ラグーサ玉の墓は麻布宮村町長玄寺にあり、後に夫となるヴィンチェンツォ・ラグーザの弟子には現在有栖川記念公園(南麻布)となっている敷地にあった イギリスの建築家コンドルの設計によるルネサンス様式の有栖川宮邸の舞踏室壁面彫刻作者であり、陸軍参謀本部前に設置されていた(戦後の道路拡張に伴い 有栖川公園広場に移設)「有栖川宮熾人親王騎馬像」、靖国神社「大村益次郎像」などの作者でもある大熊氏広がいます。


●坂名


○町内

神明坂 天祖神社の別称「元神明」からついた名。 日向坂 別名ひなた坂。坂の南に徳山藩毛利日向守の屋敷があったため。

 ○近隣

綱坂 源頼光の四天王・渡辺(源)綱の生誕伝説からついた名。 綱の手引き坂 別名小山坂・姥坂、馬場坂。 渡辺綱が幼少の砌に姥に手を引かれて行き来したという伝説による。


三田小山町再開発
このように数々の歴史を重ねてきた三田小山町ですが、現在再開発事業により残念ながら街が大きく変わろうとしています。A地区・B地区はすでに再開発が完了して、高層住宅の建設によりこの地区の旧来の町並みは消滅してしまいました。さらに最大規模の再開発となるC地区再開発も予定されており、これにより旧来の町並みはわずかに鼠穴辺を残してほぼ完全に姿を消すこととなるようです。

以上、今回は三田小山町の北部中央部を中心にお伝えしましたが、機会があれば南部地域の江戸明治期などもお伝えしたいと考えています。



●その他三田小山町関係特記事項  




★アサップル伝説ピリカの島
この三田小山町のある三田一丁目丘陵は太古の昔、内陸まで入り込んだ海により台地から孤立した島であったとする説があり、別項でご紹介した池田文痴庵などによる 麻布アイヌ語説のアサップル伝説で語られている「ピリカの島」はこの小山町の高台部分を指すものと思われます。





♪三田小山町-「とりづか+こまつ」
 ※この町の様子を三田小山町ご出身でワイルドワンズの鳥塚しげきさんが、「とりづか+こまつ」というユニットを結成して 1975年に発売したアルバム曲「三田小山町」をリメイクし「なんでも鑑定団」でお馴染みの北原照久氏の 「湘南佐島レコード」レーベルから発売されています。昭和30年代の三田小山町を唄ったこの曲は必聴です!

曲の詳細はこちらからどうぞ!→Torizuka Shigeki Offical Site

またこのCDのジャケットは昭和ノスタルジックな画風でおなじみのイラストレーター「毛利フジオ」氏が手がけており、合わせて毛利フジオ画集などを ご覧になることをお勧めします。
















より大きな地図で 三田小山町2江戸 を表示










2013年4月17日水曜日

天祖神社(元神明宮)


元神明宮
本来、天祖神社を擁する小山町は麻布ではなく三田に属しているが、一の橋の真裏で昔ながらの町並みも大好きなので掲載させて頂きます。

寛弘二年(1005年)一絛天皇の勅命のより開かれ、天照大神、水天宮を祭神としました。600年間人々の信仰を集めましたが、徳川幕府による地割りの変更をうけ、 神霊を飯倉神社(芝大神宮)に移しました。しかし、土地の人達の熱意により当地にも留め置き元神明宮と称しました。 隣地の久留米藩有馬公の庇護をうけ、一般より崇拝を受けていた水天宮は、この天祖神社に分霊を残し、明治初年有馬屋敷の移転と共に日本橋の現在地に移ります。天祖神社 にはその他、平川稲荷、天白稲荷、大銀杏稲荷も祭られています。

<2010>

○創建:寛弘2(1005)年

○祭神:天照皇大御神

○相殿:水天宮御分霊

○別名:神明宮 天祖神社 小山神明宮

○所在地:東京都港区三田1-4-74
 ○祭礼:9月15~16日
 ○末社:
  • 平河稲荷神社
元は江戸城内紅葉山に祀られ、徳川家光の御台所が信仰していたという。明治維新に際して元神明宮に祀られることになった。
   ・豊日稲荷神社
   ・和光稲荷神社
    ・天白稲荷神社
氏子内海家が大正11(1922)年に伏見稲荷より迎え守護神としたが昭和44(1969)年に当地に遷座した。
  • 槻根稲荷神社
以前大欅の根元に祀られていたためついた社名。
  • 権太夫稲荷神社
明治42(1909)年6月開通した一の橋→赤羽橋間の市電工事に伴い遷座した。
市電開通工事の際、樹齢400年といわれる銀杏稲荷神社(現在のパークコート麻布十番タワー・北西角)の御神木である二本の銀杏樹 のうち市電開通の際道路拡幅工事のため一本を伐採した。すると伐採した木を乗せたトラックは泥濘にはまり、運転手が大けがを負い伐採に 関わった人々も次々に原因不明の流行病や交通事故で亡くなった。
これを「稲荷の祟り」と恐れた地元住民の代表が京都・伏見稲荷社でお祓いを受けると災いはおさまったといわれる。  

  • 白滝稲荷神社(銀杏稲荷神社)
銀杏稲荷神社(現在のパークコート麻布十番タワー・西側大通り面角)にあった銀杏稲荷社の分霊。 銀杏稲荷鎮座地は江戸期には秋月藩黒田邸、明治期には伊藤博文邸内であったと思われる。
以上いずれも宇迦之御魂神うかのみたまのかみ を祭神とする。  
○由緒 平安時代の寛弘二年(西暦一〇〇五年)一條天皇の勅命により創建。 渡辺綱の産土神でもあり、多くの武人に崇敬を受けた。 江戸に入府した徳川家の命により神宝・御神体が飯倉神明(現在の芝大神宮)に移される際、氏子・崇敬者の熱意により境内に 御神体だけは渡せないと隠し留め、昼夜警護して守ったと伝わる。 以来、元神明宮と称され有馬侯を始め広く一般より今日まで多くの崇敬を受けてきた。  また社は、安産の神、水の神として崇拝されている水天宮が祀られており、 この水天宮は、文政元(1818)年、社に隣接する有馬藩邸内に、邸内社として領地の九州久留米水天宮から分祀され、 明治元年に有馬邸が青山に移転する際、当社にも御分霊を奉斎した。 後に青山の有馬邸内社は日本橋蛎殻町の旧有馬家中屋敷(現在地)に遷座した。  大正の関東大震災や昭和の東京大空襲等、多くの災厄から氏子・崇敬者の人々を守った事から、近年では厄除けの神社として 全国より崇拝されている。  また、境内地には、穀物の神である宇迦之御魂神(稲荷神社)を奉斎。大正14(1925)年に建造された旧御社殿の老朽化に伴い全面的な改築を行い、 平成6(1994)年六月、現在の鉄筋コンクリート造である近代的な御社殿が完成し、平成17(2005)年九月には御鎮座壱千年の記念事業がおこなわれた。
○御府内備考続編[1829(文政12)年発行]の記述
小山神明宮(江戸名所図会)

神明
稲荷社   (社地拝領地二百八十坪余)   三田久保町
神明本社 (間口二間 奥行三間) 拝殿 (間口三間 奥行二間)
祭神雨宝童子(木立像、丈一尺一寸))
右神明宮之儀者、往古飯倉神明之元地之由ニ申伝候故、元神明と唱候故ニ御座候、 
○相殿 不動明王(木造、丈二尺三寸五分)  歓喜天(銅像大一寸六分)
○木鳥居 (高一丈一尺、明キ八尺)  
○祭礼定日 毎年九月十五日  
○氏子町名 三田久保町 当光寺門前町 龍原寺門前町 久保三田町
○末社 金比羅社 (間口四尺五寸 奥行五尺五寸余)
 神体不動 (木像、丈二寸五分 弘法大師作)
○稲荷本社 (間口五尺 奥行六尺)  
  平川稲荷大明神 神躰正観世音(木像、丈一寸八分)
  右平川稲荷と唱候儀者、往古平川御門内ニ鎮座
 之由ニ申伝候間、平川稲荷と唱申、尤右鎮座
 之年代相知不申、候  
○別当不動院 天台宗東叡山末  
  当院開基開山等先年類焼之節記録焼失仕相知不申候、  

江戸期の元神明宮敷地(御府内備考続編)

 



○2010(平成22)年6月の銀杏稲荷遷座

伐採前の銀杏稲荷御神木
権太夫稲荷遷座で伐採された後に残された「もう一本」の銀杏稲荷御神木の銀杏樹は付近の銘木として町を見守ってきました。 この様子を「八広の爺ちゃん」サイト都電一代記-34系統」では、  
~道行く電車がこんなに小さく見える。それほど大きい銀杏が麻布中ノ橋から一ノ橋に行く道端にある。都内には芝や麻布、本郷、小石川、牛込 などに大銀杏が何本かあるが、いずれも公園や学校やお邸の中にあって、ここのように電車道にあるのは稀である。樹齢は400年近いと、 いわれ根元に銀杏稲荷大明神をお祭してある。小さな祠(ほこら)があって、油揚げがいつも2枚供えてある、銀杏のふもとで長いこと、 お菓子屋を営む横田さんは、「この大銀杏は、この辺りでは有名な目印で、私の店なんかに来る人には、赤羽橋から四方を見渡せば大きな 銀杏があるから、そのふもとが家だから・・・・・・・なんて教えればよかった。でも、最近は、電線に触れるといちゃ電灯会社が枝を下しに来るし、 随分小さくなっちゃって、冬なんか葉っぱがないから目印になりませんよ」と、いっていた。~
と記して街のランドマークでもあった当時の銀杏樹の様子を伝えていま
す。
しかし、残念ながら 今年(平成22(2010)年)2月24日、幹の空洞化による倒壊の危険があるとして、この銀杏樹は伐採されてしまいました。くしくも、その3月には鎌倉・鶴岡八幡宮の 御神木倒壊が報道され話題を呼びました。 

伐採された御神木
その後鶴岡八幡宮は、倒壊した銀杏樹の根本にあった子孫の若木を植え直して新しい御神木とすることとなったようですが、銀杏稲荷もパークコート麻布十番タワー建設により西北角地から南西角地への移転となるのを期に、傍らに御神木の子孫若樹二本を植え「新しい 御神木」としました。遷座式は平成22(2010)年6月に執り行われました。
三田小山町は現在、未曾有の再開発が進み、それまでの町並みが大きく変わろうとしています。これに伴い街の顔も住民も大きく変わることが 予想されますが、新しいコミュニティが今までと寸分変わらない地域的な価値観を持って二本の新しい若木の御神木を見守って頂けるよう願うばかりです。








遷座中の銀杏稲荷

新しい社殿

旧ご神木の子孫樹





























より大きな地図で 麻布の寺社 を表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2012年10月6日土曜日

一の橋の八郎右衛門水車

一の橋際の3基の水車

以前三田用水を調べていたときに、「近代東京の水車-[水車台帳]集成-」という本を読んでいて面白い記載を見つけました。

それには、明治の初期に一の橋から現在の小山橋あたりに三基の水車があったことが記されていました。

この時期、天現寺橋から一の橋にかけての古川の両岸は元旗本青山家の青山八郎右衛門による新田開拓が行われ、八郎右衛門新田(後の麻布新広尾町)と呼ばれていました。余談ですが、この八郎右衛門は養子で妻が旗本青山家の娘でした。この八郎右衛門の妻と
後にクーデンホーフ光子となる青山光子は従姉妹同士でした。

一の橋際にあった青山八郎右衛門邸の傍に3基の水車があり、二基は精米水車、一基は活版印刷水車でした。この印刷水車は対岸の三田小山町にあった日本でも有数の製紙工場「三田製紙所」で作成された紙の印刷に用いられたものと思われます。

※三田製紙所
旧薩摩人で当時米穀取引所頭取であった林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で明治8(1875)年に三田小山町に設立し、地券用紙などを抄造した。この工場は大阪の蓬莱社製紙部、京都のパピール・ファブリック、神戸の神戸製紙所、日本橋蠣殻町の有恒社、王子の抄紙会社(後の王子製紙)などと共に日本でも草分けの製紙工場であった。また明治13(1880)年に真島襄一郎へ
工場が譲渡される際に記念として同郷人の床次正精とこなみ まさよし により描かれた油絵「三田製紙所全景」が残されている。そして後年工場敷地の一部は、 元摂津尼崎城主 桜井(松平)子爵家、貴族院議員・農務省総務長官の藤田四郎氏本邸などを経て、昭和26(1951)年に香川県が購入。昭和47(1972)年に国立能楽、東洋英和女学院小学部、乃木神社・会館、普連土学園などを手がけた大江宏による讃岐会館(現・東京さぬき倶楽部)となり、 その庭園には明治24(1891)年に建立された「御田八幡古跡碑」が現存している。


これら三基の水車は私たちが考えているような「のどか」な水車というよりは、動力に「水車」を使用した大規模な工場と考えた方が良さそうなもので、

三田製紙所
水車の対岸に住んでいた幕末期薩摩藩家老の調所笑左衛門広郷の次男で、札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・貴族院議員などを歴任し、男爵に叙されて華族となっている調所広丈が東京府に対して、対岸の水車の騒音がひどいので水車の業種転換依頼を認めないよう嘆願しています。










小山橋の水車
No. 設置河川 名 称 水車所在地 用 途 諸 元 備 考
1. 古川筋 河内明倫水車 麻布区麻布広尾町字八郎右衛門新田134番地 精米 水輪2丈3尺・搗臼90台 譲主:山川平蔵・明治16年更新
2. 古川筋 松本亥平水車 麻布区麻布広尾町字八郎右衛門新田133番地 精米 有堰・搗臼80台 明治16年更新
3. 古川筋 松本亥平外1名
共有水車
麻布区麻布広尾町字八郎右衛門新田134番地 活版印刷 水輪1丈8尺幅3尺・馬力2.0 明治13年新設時名義人: 青山八郎右衛門




しかし、この水車については、大きな疑問がありました。それは上げ潮時や潮止まりに水輪が逆回転または停止しないかというものでしたが、東京都公文書館にその疑問を解決するヒントが残されていました。それは「揚水機」と呼ばれるシステムで、水車の水輪をそのまま川に入れて下方から動力を取るのではなく、「揚水機」を使用して川から一旦水をくみ上げ、その水を水輪の上方から落とす。という方法がとられていたようです。
このほかにも渋谷川・古川水系には多くの水車がかけられていましたが、そのほとんどは、渋谷川・古川から水をくみ上げるのではなく、高台の尾根沿いにあった三田用水から分水を引いて、
その高低差を利用しての落水で水輪を廻していたようです。そして使用済みの水を渋谷川・古川に排水していました。しかし、一の橋際ではこの方法を取ることが出来ないので、揚水機を使用したと思われます。この揚水機については様々なタイプがあったらしく、明治初期には多くの業者が勧業省に対して自社製揚水機の登録を依頼している文章が東京都公文書館には残されています。

八郎右衛門の名が刻まれた
廣尾稲荷神社献灯
しかしほぼ赤羽橋あたりで傾斜がゼロとなってしまう古川では、この一の橋水車より下流域に水車があったという記録が残されていないので、やはりこの三基の水車は古川最下流の水車と言えると思われます。

また、最初にこの水車を作ったと思われる青山八郎右衛門ですが、自らが開拓した農地「八郎右衛門新田」を宅地化して分譲販売・賃貸を始め、時事新報の資産家名簿に毎回名を連ねる常連となり、その収益は莫大なものとなりました。この土地の開拓に多くの麻布広尾町の住民が関わったため住宅地となった新しい土地の町名は「麻布新広尾町」となりました。残念ながら麻布新広尾町を現在に伝えるものは一の橋ツインズ裏の児童遊園の名称くらいしか残されていません。また開拓に従事した青山八郎右衛門の名は、つい昨年まで五の橋脇に残されていた「青山橋」と、廣尾稲荷神社境内にある献籠に刻まれた寄進者名でしか確認することが出来ません。

そしてその青山八郎右衛門の次男として1901(明治34)年に誕生したのが、白洲正子、宇野千代などの師匠となり、自身も二の橋際に1970年代まで住んでいた青山二郎です。





新広尾公園
青山橋




青山八郎右衛門邸跡
青山二郎邸跡
水車があった付近














DEEP AZABU関連記事

むかし、むかし12「小山橋の八郎右衛門水車」


次回は再び水車ネタで、「福沢諭吉の狸橋水車」をお届けします。