2013年8月19日月曜日

永代橋崩落と麻布の町民

現在の永代橋
元禄十一(1698)年に将軍綱吉の五十歳を記念して架けられた永代橋は、度重なる災害による橋の修理費に音を上げた幕府が、享保四(1719)年、橋の取り壊しを決めます。
しかし、その利便性が知れ渡っていた町民から反対運動が起こり、橋は町民管理ということで存続が決定されました。民営化された永代橋は橋銭という通行料を徴収し橋の維持費としていました。しかし、実際には補修や大規模な保全工事が行われる事はなく、時は過ぎて行きました。

そして架橋から109年が経過した文化四(1807)年八月十九日、永代橋は突如崩落します。
当日は江戸三大祭りの一つである富岡八幡宮の祭礼で多くの人が訪れていました。
祭礼時の喧嘩により中止されていた祭りが11年ぶりで行われる事が決まった富岡八幡宮の祭礼ですが、例年の八月一五日には大雨が降り祭りは延期となってしまいます。そして四日後の一九日にやっと行われる事になります。



富岡八幡宮
これにより、荒天に待たされ続けた群衆が当日は日本橋側から深川方面にどっと祭りに押し寄せました。しかし、当日は将軍家斉の父である一橋治斉が永代橋下を船で通過するため、その時間帯永代橋は通行止めとなります。そしてこの通行止めが解除されると群衆が我先にに永代橋を渡りはじめ、その群衆が橋の中程まで来たときに一気に橋の中程から崩落が始まります。しかし、後ろの群衆には崩落がわからなかったので後ろから押されて川に落ちてゆく者が後を絶たなかったといわれています。


この時の犠牲者は死者行方不明者を合わせると1,500人にもなるといわれています。そして、この崩落事故被害者には麻布から富岡八幡宮の祭礼を見物に行く途中の町人も含まれていました。




富岡八幡宮

















夢の憂橋








永代橋危難記






現在目黒区にある海福寺(下目黒3-20)は1910(明治43)年現在地に移転するまでは深川にあり、犠牲者の慰霊のために「永代橋沈溺横死諸亡霊塔」が建てられています。
この供養塔の側面には麻布町民犠牲者4名の戒名が彫り込まれており、哀れを誘います。







黄檗宗 永寿山 海福寺
 
 
 
 
 
 
 
海福寺 解説板
 
 
 
 
 
 
 
 

山門手前の供養塔
 
 
 
 
 
 
 
 

永代橋沈溺横死者諸亡霊塔
 
 
 
 
 
 

供養塔解説板



 






供養塔解説板







供養塔側面に刻まれた麻布町民犠牲者戒名





















より大きな地図で 永代橋崩落 を表示