2015年12月17日木曜日

続・徳川さんのクリスマス~徳川義親の麻布

麻布本村町生まれの荒潤三氏の著書「麻布本村町」の一項目である「徳川さんのクリスマス」を以前ご紹介しましたが、今回はその続編になります。

荒潤三氏は著書のなかで徳川義親邸(現フランス大使館)でのクリスマスパーティに呼ばれたのは1931(昭和6)年としています。もしこの年のパーティに出席していたのが事実ならば、徳川邸は翌年1932(昭和7)年の11月、目白に移転していますので、この潤三少年が参加した徳川邸のパーティは麻布屋敷での最後のパーティであったと思われます。

徳川義親は尾張徳川家第19代当主で、実父は越前松平家の松平春嶽の五男から尾張家に養子となりました。この殿様はトラ退治などで有名ですが、1931(昭和6)年に尾張徳川家の宝物を管理する団体「徳川黎明会(のちの徳川美術館)」を開設したため、戦後GHQの指令により財閥解体が行われた際にも尾張徳川家の宝物は散逸を免れたといわれています。

この義親公が麻布氷川神社の入り口石華表(鳥居)脇にある社名と社格が書かれた円柱(社号標といいます)を揮毫していることを知る人は少ないと思われます。残念ながらこの社号標に書かれた社格(郷社)はコンクリートで埋められてしまっていますが、これは全国的なもので1946(昭和21)年GHQにより社格制度が廃止されたため、麻布氷川神社と同様に社格の文字部分をセメントで埋めたり、さらにその部分だけ切断したものもあるそうです。






この社号標は表面に、

   郷社 氷川神社

裏面には、

麻布氷川神社
社号標(表)
侯爵 徳川義親 謹書

   昭和四年 七月

   奉建造 麻布区本村町会

とあります。




この社号標は偶然荒潤三少年がクリスマスパーティに参加する三年ほど前に建立ということになります。またこの社号標には不思議な部分もあり、実は徳川義親邸は本村町ではなく現在は麻布富士見町の町域です。これについて麻布氷川神社社家に問い合わせてみましたが、

「もしかしたら当時の富士見町・本村町の町域は現在とは違っていた可能性もあるのかもしれません。」

というお見解を頂きました。

この徳川義親公には「トラ退治の殿様」という風評意外にも事実として、昭和期にはどこの家にもあった北海道土産の「鮭をくわえた熊の木彫り人形」の原型をヨーロッパで購入し、北海道アイヌ人たちの収入源として販売を始めた先駆者でもあるといわれています。

麻布氷川神社
社号標(裏)
また義親公自身は音楽への造詣が深く、同じ徳川御三家である紀州徳川家屋敷(飯倉片町)の当主である徳川頼貞公が学習院中等科時代に友人たちと管弦楽団を編成した際に、自身はバイオリンを担当し、徳川義親公はコルネットを担当したと徳川宗秀が著書「徳川某重大事件」で語っています。徳川頼貞公は後にヴォーリズに設計を依頼した南葵楽堂とその地下に南葵文庫などを邸内敷地に設置することとなります。

また徳川義親公の麻布邸(現フランス大使館)のすぐ傍の旧トーマス・グラバー邸は徳川義親公の実の兄で松平春嶽の三男である松平慶民の所有となっており、兄弟が行き来したものと想像されます。

このように麻布での生活を楽しんだ徳川義親公ですが、当時屋敷の周辺にだんだんと宅地や工場が建ち並ぶようになり、その煙突の増えた景観を嫌った米子婦人の要望により1932(昭和7)年11月、それまで子爵の戸田康保が所有していた敷地を買い取り、目白への移転が完了します。
その際、麻布で使用していた屋敷も目白に移設され「日本館」として使用されることになります。
この日本館(麻布邸を移築日本家屋)の他に、徳川義親公の学友であり、上野東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)、日比谷第一生命館、銀座和光なども設計した建築家渡辺仁の設計によりイギリス中世のチューダー様式の本邸(西洋館)が建築されます。


その後、徳川義親公の居館として年月を重ねた西洋館ですが、1968(昭和43)年八ヶ岳高原に移築されることとなります。そして、八ヶ岳高原ヒュッテ(現八ヶ岳高原ロッジ)という名前の高原ホテルとして使用されその後、田宮二郎主演のテレビドラマ「高原へいらっしゃい」の舞台として使用されることになります。ちなみに2度目のドラマ化でもやはりこの建物が使用されていました。



目白で徳川義親が所有した敷地は現在も徳川ビレッジとして活用されており、そのサイトには多くの徳川義親邸の画像が紹介されており、わずかですが日本館かもしれないと想像される麻布邸移築家屋の画像も写り込んでいます。








八ヶ岳高原ロッジ(旧徳川義親邸)
正面
八ヶ岳高原ロッジ(旧徳川義親邸)
裏側


































今年の10月読売新聞中部版2015.10/24付けの記事にあの徳川家康が武田信玄と戦った「三方原の戦い」敗戦後に自身の困惑した顔を描かせたとして有名な「しかみ像」は御三家筆頭の尾張家が所持しており、当主の徳川義親公が徳川美術館を設立した際にこの絵について述べたことが定説となり、現在も伝承されています。ところが事実は家康が書かせたものではないという学芸員の見解が述べられており「家康自身が戒めのために書かせた」という通説は徳川義親公のリップサービスであった可能性が高い...と報じています。



読売新聞-家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係?<家康編13>


エキサイトニュース-徳川家康のあの有名な肖像画にハッタリ疑惑






徳川義親公が揮毫した社号標のある麻布氷川神社の隣に住んでいた田宮二郎が義親公の屋敷を使ってドラマ撮影に望んでいたのはまったくの偶然の一致ですが、何か不思議な縁を感じてしまいます。























1922(大正11)年の徳川義親麻布邸