2016年2月28日日曜日

宮村Valley-宮村新道




宮村Valley

宮村Valley




①新道~狐坂(大隅坂) 1862(文久2)年

宮村①新道~狐坂(大隅坂)<BR>1862(文久2)年




②新道~狐坂(大隅坂) 1887(明治20)年

②新道~狐坂(大隅坂)1887(明治20)年





③新道~狐坂(大隅坂) 1933(昭和8)年

③新道~狐坂(大隅坂)1933(昭和8)年



④新道~狐坂(大隅坂)-現在

④新道~狐坂(大隅坂)-現在




夕暮れの狐坂

夕暮れの狐坂



宮村町狸坂下から狐坂(大隅坂)登り口近辺まで(現在の港区元麻布二丁目、三丁目の境界)を里俗に宮村町字宮村新道(または新道)といいました。この地域は正面に大隅山山塊、南に麻布山山塊、北に内田山山塊に囲まれた谷間の道で、まさに「宮村Valley」であるともいえます。



「文政町方書上」は、


町内西の方を里俗に新道とも大隅山とも唱え申し候。この儀は、同所に
お役名知れず渡辺大隅守様お屋敷これあり候。これに右よう相唱え候。
その後、上り地に相成り、貞享三寅年お賄組屋敷に相渡り申し候。



また新道から西に登る坂を、
右同所一か所新道西の方南の通りにこれあり、里俗狐坂と唱え申し候。
と記しています。



近代沿革図集には江戸期~1924(大正13)年までは現在の坂に沿って大隅山側にさらにもう一つの坂がみえます。しかし、1933(昭和8)年の地図ではこの坂は消滅しています。
もしかしたら、この二本の坂は、一方が「大隅坂」、さらに他の一方が「狐坂」であった可能性も否定できません。



・「三」がキーワード?
字域はほぼ宮村で所属も宮村町だが、他町会との接点が

・狸坂に面した南側坂下までは一本松町

・狐坂登り口付近から上は三軒家町
にあり、

①宮村町

②一本松町

③三軒家町


の三町が入り組んでいます。

また、

①内田山

②大隅山

③麻布山

の三山に囲まれ
た谷地(Valley)でもあります。そしてその三山には、


①大隅山と内田山のぶつかる山裾を流れる長玄寺池水流

②麻布山と大隅山のぶつかる山裾を流れるがま池水流

③それらが合流する宮村水流の三水流



狸坂下は長玄寺裏手の池を源とする長玄寺池水流とがま池を水源とするがま池水流の合流点で、ここで一つとなった宮村水流はさらに、竜沢寺の先で十番通りを北に横切り、吉野川(芋洗坂水流)、ニッカ池、原金池方面から流れる細流と合流して十番通り北側を通りに沿って東進し現在の浪速屋付近で右折して本通りを流れる川(十番大暗渠)となって網代橋を越え古川に流れ込みます。

この狸坂下合流点を「文政町方書上」は、


石橋一か所 渡り長さ四尺 巾三尺
町内西の方新道境に横切り下水の上にこれあり

と書いており、宮村町内で唯一の石橋があったことが記されています。



谷道から尾根道へつなぐ坂を歩くと武蔵野台地の最先端部を感じ、「あざぶ」の語源の一つとも考えられる「崖地の辺の意」また、続地名語源辞典による「東京都港区の麻布は麻の布ではなく当て字で意味は不明ですが「日本アイヌ地名考」の山本直文説ではアイヌ語残存地名でasam(奥)の意で東京湾が広尾、恵比寿まで入り込んでいた時代につけられた名との説なども宮村新道付近では納得のいくものに思えます。


お伝えしてきた狐坂ですが、実はこの坂の中腹にある市谷山長玄寺あたりから見る夕暮れの東京タワーはたいへん美しく、私の気に入った場所でもあります。そして、私が少年であった昭和40年代前半、東京タワーはどこからでも見えていました。しかし、最近は東の方向にはビルが建ち並び、へたをすると坂上からも見ることが出来なくなってきてしまいました。そんな折、数年前に映画「三丁目の夕日」のポスターを目にして以来、宮村町に行くと必ず立ち寄るスポットとなりました。

余談ですが、少年期には、そこここの坂上などで夕暮時に赤くなった富士山も見ることが出来ましたが、こちらはほとんど絶望的な状況となっています。