2016年8月10日水曜日

松頭山 本善寺と末広神社



本善寺と末広神社
先日(2016.08.07)の散歩で訪れた高輪台駅方面からJR五反田駅に向かう坂途中に見つけた(品川区東五反田3-6-17)日蓮宗の寺院「松頭山 本善寺」さん。このお寺さんは慶長十三(1608)年に創建された古刹で、1945(昭和20)年までは創建地である麻布十番にありました。

本善寺は十番稲荷神社の前身で麻布坂下町の鎮守社でもあった末廣神社の南隣にあり、住所は麻布一本松町九番地(現在の麻布十番2丁目4あたり)でした。この寺の名残を示すものとして、十番商店街裏手から大黒坂へと登る小坂「七面坂」がありますが、これは本善寺境内に安置されていた「七面明神坐像」があったためついた坂名です。この「七面明神坐像」は日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神とされており、参詣者も多かったので昭和40年台まで「九の日」には縁日が開催されていました。

本善寺について江戸期のお寺調べのバイブルともいえる「御府内備考続編(通称:寺社備考)」には境内の建物配置図が掲載されており、この「七面明神坐像」は本堂とは別に山門の左手、拝殿奥に安置されていたことがわかります。さらに本善寺の所属は「上総国平賀本土寺末」と記されており本土寺は千葉県松戸市平賀63に現存しています。

そして隣接する末広稲荷神社についてもその関連性を調べるため「御府内備考続編(通称:寺社備考)」を見てみましたが、関連性を調べるため....
としたのはスバリ隣接する末広稲荷神社と本善寺は別当寺の関係ではないかということを調べるためでした。

しかし末廣神社の項目には「別当寺」の記述が見あたらず、これはかなり奇異な事に感じました。
「御府内備考続編(通称:寺社備考)」は江戸文政年間(1818年~1830年)に書かれた「文政町方書上」とほぼ同時に書かれたもので、江戸の寺社の総てが自主的に幕府に提出した寺社の来歴・概要・敷地図などを網羅した書籍なので、その記述の先頭にその寺社の所属と神社の場合にはその社を管理する別当寺が書かれているのが普通です。江戸期の神社は社格で「官幣大社」などの大型神社(神宮・大社など)以外は寺社奉行の管理下、寺院の管理下に入ることが決められおり、管理する寺院には「別当」と呼ばれる社僧(神官を兼務する僧で社僧の長が別当と呼ばれ、別当の寺を別当寺としました。)

江戸期の本善寺と末広神社敷地
一例を挙げると、麻布氷川神社の別当寺は当時麻布氷川神社境内に設置されていた古義真言宗の「冥松山 徳乗寺(院)」という寺院で芝愛宕の真福寺(港区愛宕1−3−8に現存)の末寺でした。そしてこの徳乗寺は享保20(1735)年まで北日ヶ窪にあり、現在の六本木朝日神社の別当寺でもありました。余談ですが、この麻布氷川神社と別当寺であった「冥松山 徳乗寺(院)」の関係を今に伝える物として、麻布本村町が麻布氷川神社例祭で神酒所に展示する「獅子頭」の解説に残されています。この解説板には獅子頭が文久二(1862)年に製作された時の世話人名筆頭に「氷川徳乗院現在栄運」とあり、氷川神社を管理していた社僧(別当かもしれません)栄運の名前が記されています。また、廣尾稲荷神社は明治期まで麻布宮村町狸坂下(旧麻布保育園敷地と隣接空き地)にあった「法隆山 五光院 千蔵寺」が別当寺であったため、別名「千蔵寺稲荷」とも呼ばれていました。

このように神社は別当寺により管理されるのが普通であった江戸期に、別当寺が無い(別当・社僧が神官ではない)神社が末広稲荷神社であったようです。そして「御府内備考続編(通称:寺社備考)」の末広稲荷神社の項には不思議な記述が見えます。


○神主中村日向(吉田家門人)

元禄十五(1702)年先祖中村宮内え神主職初而被仰付、夫ゟ(より)七代相続仕候、然ル処先年寺社奉行所ゟ(より)御直触被仰付候、代々致触頭来候、享保六(1721)年類焼、其後度々之類焼ニ而書物等焼失仕、其上私幼年相続ニ而委細之儀相分り不申候処、年々心掛置且申伝抔と申儀承り候節々留置候分、此度相認申候、但社家等も明和五(1768)年類焼後中絶仕候、
上記文章は、中村日向という末広稲荷神社の神官(神主)が元禄十五(1702)年に末広稲荷神社の神官(神主)となった先祖の事を記しており、それ以来中村家が代々末廣神社の神官を務めていたことがわかります。そして、この中村家は「吉田神道」の門人でした。

麻布十番の七面坂と
本善寺があったあたり

吉田神道とは江戸期に隆盛を極めた神道の一派で徳川幕府が寛文五(1665)年に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたいわば幕府御用達の神道で、当時神道界に絶大な権限を持っていたようです。この吉田神道と末廣神社の関係について現在の十番稲荷神社社家に伺ったところ、

  • 隣接していた本善寺は別当寺ではなく、末広稲荷神社は江戸期には珍しい「別当寺の支配を受けない専門の神官(神主)を置く神社」であった。

  • 当時の末広稲荷神社は江戸府内でも有数の吉田神道神社で、数多くの末社を従えていた。

  • 神官であった中村家については代々の記録が残されている。

  • 明治に入ると天皇家を中心とする本来の神道が隆盛したため、幕府の庇護を受けていた吉田神道系の神社であった末広稲荷神社は主流から外れ大変な苦労をした。

七面坂 坂下

七面坂 坂標

とご教示いただきました。

このように敷地が隣接しながらも別当寺と支配下神社という公式から外れた関係であった本善寺と末廣神社も1945(昭和20)年の空襲により焼失し、末広稲荷神社は永坂下にあって戦時中に建物強制疎開により破却された「竹長稲荷神社」と合祀され、現在の十番稲荷神社として遷座します。
また本善寺の「祖師像」と「七面明神坐像」は焼失前に持ち出され、同じ日蓮宗で当時戦災を免れていた麻布宮村町の安全寺に寄宿します。しかし、この安全寺も後の空襲により焼失し現在も坂名に残る「七面明神坐像」も「祖師像」も残念なことに焼失してしまいます。

1947(昭和22)年に麻布十番より現在地(品川区東五反田3-6-17)へ移転再建され現在に至っていますが、実は現在も「七面明神坐像」も「祖師像」が寺に安置されています。これは、小岩本蔵寺住職馬場玄諦師の好意により、本蔵寺二体の祖師像の内の一体をゆずられたのが現在の祖師像とのことで、さらに「七面明神坐像」は二の橋の寺院からお預かりしているもの(本善寺談)とのことです。


麻布本村町所有の獅子頭解説板
に記された麻布氷川神社社僧「栄運」



<麻布区史 末廣神社>

○末廣神社(村社) 坂下町四一
祭神思姫命・市杵島姫命・満津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七・十八日。

慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱(称)があった。
又その枝葉さかへ梢の繁茂しでゐ(うぃ)るところより末廣の木と呼び、これが社号の起源となったと云ふことである(再考江戸砂子)。
明治六年七月五日村社に指定され、明治二十年四月末廣稲荷神社の社号を現稱(称)に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。




<麻布区史 本善寺>

◎松頭山本善寺 一本松九 下総平本土寺末

一書正東山に作る。慶長十三年三月草創、本善院日東聖人(慶長十五年二月十五日寂)の開山である。境内に七面社がある。
七面天女を安じ俗に麻布十番の七面天と呼び、一・九・十九・二十九の縁日には賽者が多い。





<七面坂 坂標>

坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
設置者: 港 区
設置日: 平成九年三月




★参考サイト

現在の本善寺山門

十番稲荷神社オフィシャルサイト

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

日蓮宗東京都南部宗務所サイト-松頭山 本善寺

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

Blog DEEP AZABU-末広池

Blog DEEP AZABU-麻布氷川神社

Blog DEEP AZABU-本村町獅子頭

Blog DEEP AZABU-廣尾稲荷神社

・Blog DEEP AZABU-宮村町の千蔵寺

Blog DEEP AZABU-麻布近辺の縁日

wikipedia-吉田神道

wikipedia-別当寺
現在の本善寺

wikipedia-社格

wikipedia-近代社格制度
























現在の本善寺




0 件のコメント: