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2014年11月12日水曜日

続・桜田町にすぎたるもの(絵図に描かれた桜田町の半鐘)

「麻布広尾辺絵図」中央部
以前Blogで「桜田町にすぎたるもの」というタイトルで麻布桜田町にあった町持ちの簡易な「半鐘(高梯子)」と久留米藩有馬家上屋敷(現在の三田国際ビル・都立三田高校・国際福祉大学三田病院などを含む旧赤羽町域)の藩邸内に設置されていた「火の見櫓」とについてお知らせしました。

この「火の見櫓(久留米藩は大名火消し)」は江戸で一番高い櫓でランドマークとして多くの浮世絵などに描かれています。しかし、もしかしたらその有名な火の見櫓よりも、麻布桜田町など高台の尾根に設置されていた町内持ちの簡易的な火の見用の高梯子・半鐘の方がもともと設置されている標高が高いためよく鳴り響いたのでは?という素朴な疑問を調べてみました。
しかし実際桜田町の高梯子がどこに設置されていたのかは不明のままでした。しかし最近その桜田町の半鐘を描き込んだ地図を見つけたので、ご紹介します。

地図は「集約江戸図」という図集の中の「麻布広尾辺絵図」という地図で嘉永二(1849)年に作製された物で、地図上櫻田神社と境内にあった別当寺の観明院が描かれている前あたり、玄碩坂(げんせきざか:現在のけやき坂付近)を登り切ったあたりに「高梯子」と「半鐘」が描かれています。


絵図「半鐘」部分拡大
本当に梯子の上部に半鐘が付いただけの簡単なものですが、この鐘が桜田町の人々に火事を知らせ、命を守ってきたのだと思われます。
また、同様に一本松付近の大黒坂上に設置されていた明治初期のものと思われる半鐘の画像が見つかりました。
桜田町の半鐘も一本松の半鐘も共に標高30mほどの尾根にたてられており、5mの梯子に半鐘が設置されていたとしても35mの位置から打ち鳴らすこととなり、谷底の麻布十番や日ヶ窪までよく鳴り響いたことが想像されます。

この地図は麻布の中央部がかなり詳細に描かれており、よく鳴り響きそうな半鐘は他にも多くありそうですが、実際に「半鐘」が描かれているのはこの桜田町のものだけです。この桜田町の半鐘については麻布区史桜田町の項に、

「櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛」
 

と記載されていることからも、当時から有名な半鐘であったことが伺えます。





現在の同所付近
一本松脇の高梯子と半鐘(明治初期)























★この絵図に描かれたその他の特記事項は下記。









  1. 玄碩坂
  2.  櫻田神社・別当:天台宗観明院
  3.  大横町坂(富士見坂)
  4.  湯長谷藩内藤稲葉守上屋敷(超高速参勤交代の舞台)
  5.  阿部播磨守(沖田総司の父がこの屋敷に仕官していた)
  6.  専称寺(沖田総司墓所)
  7.  ごみ坂(紺屋坂)
  8.  長府(長門府中)藩毛利家上屋敷(赤穂浪士切腹・・・乃木希典誕生地・・・ニッカ東京工場跡・・・ニッカ池・・・六本木ヒルズ)
  9.  小見川藩内田豊後守上屋敷(通称:内田山・現南山小学校・六本木高校・井上馨邸)
  10. 増上寺隠居所(歴代増上寺監寺の隠居所・麻布氷川神社元地)
  11. 暗闇坂(明治期の地図には「幽霊坂」とある)
  12. 宗英屋敷・貞喜屋敷(宗英は将棋所(幕府の官制で、将棋衆を統括する役。貞喜屋敷は西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷)
  13. 鳥居坂
  14. 麻布十番商店街
  15. 朝日稲荷神社(現・六本木朝日神社:別当は麻布氷川神社境内の徳乗院だが専称寺とも関
  16. 芋洗坂






有馬家火の見櫓を模した中ノ橋欄干
解体中の有馬家火の見櫓(実物)












桜田町高梯子から見た東方面の風景
(場所:けやき坂上 標高:地面標高31m+梯子7m=38m)
※標高は1.5倍増に設定











2013年6月21日金曜日

桜田町に過ぎたるもの(その-2)

前回に引き続き「櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛」の後半、「箕輪の重兵衛」とはどのような方だったのかを調べてみました。

櫻田神社

そもそも桜田町は麻布区史、文政町方書上などによると源頼朝が奥州征伐に向かう折に霞山稲荷(現櫻田神社の別称で、元は霞ヶ関あたり)に立ち寄り、植えた桜の木があったあたりを「神領」として寄進ことから起こった名といわれています。しかしその後の江戸の拡張整備に伴い大名屋敷(上杉家上屋敷)を建設することとなり百姓衆は霞ヶ関近辺から、

◆慶長七(1602)年
元地桜田郷から溜池坂上に移動、その直後再び溜池坂下に移動。しかしすぐに御用地となり屋敷と共存する。
◆元和元(1615)年
再び溜池坂上に移動。しかしそこも御用地となる。
◆寛永元(1624)年
麻布の原の4丁2反7畝4歩に替地として居住を許され「麻布新宿」と唱える。
と移転し、膨張により田畑から大名屋敷に変遷しゆく江戸市街化計画の生き証人とも言える移動を余儀なくされました。特に元和元年には度重なる替地に業を煮やした百姓衆が土井大炊頭・長井信濃頭・井上主計正など幕府要人に駕籠訴を行い、その結果として寛永元年に願いが聞き届けられたといわれています。
現在の麻布桜田町(麻布税務署前)
  
この桜田町は、寛永元(1624)年の麻布移転時には「麻布新宿」と呼ばれ、市街を遠く離れた小さな宿場町というような位置づけでした。しかし代官木部藤左衛門が「桜田町」と唱え、それ以降「麻布桜田町」と称するようになりました。この麻布桜田町は移転時から「町」であり、麻布の他の地域は正徳年間(1704~1715年)まで「村」であったのに対して麻布の中でも早くから「町」を名乗る地域でした。しかし、その実態は移住者のほとんどが百姓衆であるために別称では「麻布百姓町」と呼ばれるほど江戸市街の辺境で、管轄も町奉行ではなく代官支配であったようで、実質的には麻布の他の地域と同じ「村」であったようです。
さて本題の箕輪重兵衛ですが、麻布区史、文政町方書上などによると、代々重兵衛を名乗る桜田町の名主であり 、その先祖は甲州浪人で 主家武田家の滅亡後に櫻田郷(霞ヶ関)で帰農したものと思われています。その箕輪家の中興といわれる箕輪豊前はやはり櫻田郷の名主を務めましたが天正年間に病死し、 惣領の箕輪伊予が家を継いで名主となりました。しかし伊予も30歳の若さで病死してしまい子供も無かったので、それまで蒲生中務に仕えていた次男の七兵衛が蒲生家を 辞して帰農し、箕輪の家督を継ぎました。
 

元地桜田久保町(西新橋)氏子
から奉納された櫻田神社狛犬
そして、この七兵衛は兄と同名の「伊予」と名を改め、奥州の陣(関が原の戦い)、大阪夏の陣などに人馬を差し出し徳川家に貢献しました。 特に大阪の陣では七兵衛自身も百姓新左衛門と共に人夫として参戦し、新左衛門を戦で失いつつも首級を3つ上げたそうです。

この功により「七兵衛」に取った首数の三を足して 「十兵衛」という名を褒美として賜り、代々箕輪家の当主は十兵衛を名乗る事となったそうです。これが後に「櫻田に過ぎたるもの~」と唄われる事になる箕輪重兵衛の由来です。 ちなみに麻布区史「第二節明治初年の区制(452ページ)」には明治2年(1869年)麻布櫻田町の中年寄として箕輪重兵衛の名が掲載されており、大阪夏の陣のあった 慶長二十年(1615)以来250年あまり、その名が受け継がれていた事がわかります。 そして、櫻田神社が溜池にあった江戸初期には箕輪重兵衛の住居が櫻田社の付近にあり、その住居に 榎木を植えたのが移転後も残り「箕輪榎」と呼ばれ 現在アメリカ大使館前の「榎坂」の語源となったとの説もあります。
余談となりますが、この箕輪重兵衛の他にも櫻田町の旧家として、
樋田長右衛門
同じく元甲州浪人で櫻田郷からの名主の家。麻布に替地後は櫻屋という紺屋(染物屋)を営み、正保年間(1640年代)将軍家光が笄橋で鷹狩をした際に白雁を捕獲して将軍手づから巾着より褒美を頂き代々名主を勤めたと言う。(一説にはその褒美は銭3文とあり、家光はケチであったのかもしれない。)



七蔵
先祖は櫻田郷以来の灌左衛門という酒屋を営む代々年寄を勤めた名家。
などがありもしかしたら各家共に、今も大切にその由緒が受け継がれているのかもしれません......。



 






より大きな地図で 麻布の旧町名(昭和31年) を表示