2013年4月13日土曜日

櫻田神社


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神:豊宇迦能賣大神(とようかのめのおおかみ)
創建年代:治承四(1180)年
創建:源頼朝の命により渋谷庄司重国が創建
祭礼:9月22日
麻布稲荷七福神(戦前)・港七福神(現在):壽老神
末社:福寿稲荷
別名:霞山稲荷とも呼ばれる
所在地:港区西麻布3-2-17


桜田町、霞町の町名の由来であり、東京(江戸)最古の地名でもあるこの神社は、元々霞ヶ関近辺にあり霞ヶ関、桜田門の名の由来とは同根です。


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治承4年(1180年)渋谷重国が狩りをした時、霞ヶ関の霞山を焼き狩しようとすると、白い狐が現われ天に向かって気を吐くと、十一面観音が現れました。 重国は驚き頼朝に乞うて社を創建します。その後、源頼朝が奥州征伐の際神領を寄進し、田に印の桜を植えたので「桜田」と呼ばれ太田道灌にも崇敬されましたが、 後北条の攻撃で炎上、その後家康入府の後に溜池に移り、寛永元(1624)年ころ現地に移りました。この際、元地の百姓も共に移ったので、桜田町を 別名:百姓町ともいいました。
私の小さい頃この前の通りは、桜田通りと呼ばれていましが、現在は「テレビ朝日通り」というようです。

江戸期には太田道灌の甲冑が寄進され、御神宝とされていましたが 弘化二(1845)年1月24日におこった青山火事により惜しいことに焼失したそうです。 幕末には沖田総司、乃木希典将軍の参詣し、乃木将軍の着用した産着は櫻田社に寄進されました。(現在は乃木神社に譲渡され、社宝となっているといいます。)、また 硫黄島で玉砕したロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト「バロン西」こと西竹一陸軍中佐も櫻田神社の氏子であったそうです。そして、 遷座前の氏子区域である西新橋一帯(芝桜田)は現在も一部区域が櫻田神社の氏子となっており、日本中央競馬会正門にも櫻田神社の由緒書が掲示されています。江戸期早々に「町」となった 「桜田町」ですが、お隣で、明治期に起立した「霞町」の町名は櫻田神社の別名「霞山稲荷」を由来としています。


○JRAビル展示神輿に添えられた由緒書
JRAビルに展示された櫻田神社御輿
桜田神社 縁起より

古えは、この付近一帯を桜田郷と呼ばれ、桜木八千余本を数えたという。治承五年「一,一八一年」渋谷庄司重国が、 霞山「現在の霞ヶ関」に霞山稲荷「桜田神社」を建立、後に太田道灌が、文明年間「一,四七〇年頃」これを新しく造営した。
江戸時代にい至り、幕府は霞山稲荷を慶長七年「一,六〇二年」赤坂溜池に移し、更に寛永元年「一,六二四年」麻布桜田町「現在の西麻布」 に移された。このような歴史背景から、江戸時代には、桜田八ヶ町としてこの一帯の町名に、芝桜田備前町、芝桜田太左エ門町、芝桜田久保町 などと桜田を冠せられた。当町会の前身であった芝新桜田町の昭和三二年まで残った。


日本中央競馬会本部の前の通りは、江戸城の濠端で、柳の並木を配し、河岸通りと呼ばれ、当時日本橋にあった魚河岸への道として往還の賑わい をみせたという。明治になり文明開化が進むにつれ、お濠が埋められ河岸通りの面影も消えて、次第に芝桜田の界隈は、東京の中心地と変化していった。
戦前の新桜田町は、三二〇世帯、人口約二,〇〇〇人であった。
町名が、昭和三二年に田村町一丁目、昭和四〇年に西新橋一丁目と改められても、桜田郷の鎮守である桜田神社を氏神様として、崇めている所以である。
競馬会玄関前の広場は、戦前戦後とも町の中心で、色々と町会行事が行われたものである。
秋祭りには御神酒所を設け、麻布のお宮からの神輿巡行は、千貫を超す大神輿を牛車によって行う一大イベントであったという。今日では当時の面影はないが、 芝桜田の地に往年の想いをはせ、史実としてこれを後世に伝えることは意義深いものであり、戦後再建された神輿や太鼓を飾ることができたことは、 日本中央競馬会のご尽力によるものと深く謝意を表す次第である。

平成六年九月吉日

西新橋一丁目第一町会

町会長 森野平太郎

氏子総代 本田健次





寛永江戸全図に描かれた櫻田神社
○蜀山人
江戸期には大田南畝(蜀山人)が「春のはじめ麻布さくら田町霞山いなりの前にて」として、
やがてさく さくら田町のさくら麻の 麻布のほとり まづかすみ山
とよんでいます。また同じく江戸期には桜田町は、
櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛
と詠まれており、その高台に位置する町域の標高(櫻田神社鳥居辺の標高は30.85mとのこと)から詠まれたと思われます。 以前の鳥居(石華表)には明治初期の几号水準点が彫り込まれていましたが、改築により残念ながら現存していません。


○追記
乃木将軍が櫻田神社に産着を奉納したのは、乃木家が日ケ窪の長府藩毛利邸の長屋(現六本木ヒルズ)であったという 地理的な条件から近間の氏神様に奉納したものと考えていました。しかし、乃木家の本性は宇多源氏出雲佐々木流の佐々木氏で 佐々木四郎高綱の二男、二郎左衞門尉光綱が出雲國意宇郡野木(乃木)保を領して乃木氏と称するようになったといわれています。
現在の櫻田神社社家は明治初頭に天皇の関東下向に伴い追随してきた「佐々木氏」であり、 この事実は櫻田神社社家に依頼して家系図にても確認していた頂いたことからも、その因果は偶然とは思われない。 これらの事実からも櫻田神社と源氏の結びつきは古来より現代までと非常に深いものがあります。















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