2014年8月15日金曜日

超高速参勤交代の麻布

文化江戸図
この夏に公開された映画「超高速参勤交代」は、八代将軍吉宗の時代に磐城国の小藩湯長谷藩が所持する金山を奪おうと、藩の取りつぶしを図る老中・松平信祝(大河内松平家で知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の末裔)の計略により、江戸在勤を終え国元に帰ったばかりの湯長谷藩主内藤政醇に再び江戸参府の命が下り、なんと5日以内に 参勤交代を命じられる。という筋のフィクションです。  
実際の映画では終盤江戸入りをした藩主一行がたどり着いたのが政醇の妹「琴姫」が留守を預かる江戸藩邸でした。残念ながら屋敷の描写はほんのわずかですが、おそらく一行がたどり着いたのは麻布桜田町の上屋敷かと思われます。
また下屋敷であったとしても、その場所は曹渓寺隣りなので同じ麻布内ということになります。
史実ではこの小藩は立藩以来内磐城の地(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町)を拝領したまま、幕末を迎えるまで一度も領地替えがありませんでした。





この藩の立藩当時の様子は以前、「増上寺刃傷事件」でもお伝えしましたが、初代湯長谷藩主の父である磐城平藩7万石の2代藩主内藤忠興が新田分地により
東都麻布之繪圖(上屋敷付近)
新たに生まれた領地を二男の内藤政亮に分地することを願い出て、寛文十年(1670)年2月、忠興が隠居するにあたって幕府から許可が下りて磐城湯長谷藩
一万石が成立します。この時内藤政亮は本家の内藤家に憚って遠山姓を名乗り(第3代藩主・政貞の代になって内藤姓に復帰します)遠山政亮となります。  




この遠山政亮は、延宝八(1680)年芝増上寺で執り行われた四代将軍徳川家綱の法要式典で、内藤和泉守忠勝が永井信濃守尚長を刺殺する。  
という事件が起こった時に、刀を持ったままの内藤和泉守忠勝を後ろから取り押さえました。政亮はこの功績により幕府により二千石を加増され、さらに大阪定番職となり三千石を加増されて湯長谷藩は 一万五千石となります。この取り押さえは後の元禄十四(1701)年3月14日に起こった浅野内匠頭による刃傷事件の際に浅野内匠頭を後ろから取り押さえた 梶川頼照(通称:惣兵衛)とほぼ同じ役割となります。この事件で幕府により五百石の加増を受けた梶川頼照は以前の所領と合わせて 合計千二百石となりました。  
東都麻布之繪圖(下屋敷付近)




積年の恨みとも、上屋敷が隣接していたための争いともいわれるこの増上寺刃傷事件ですが、湯長谷藩にとっては幸運であったのかもしれません。  
この湯長谷藩の江戸における藩邸として上屋敷は桜田町(現在の港区西麻布3丁目辺)に、下屋敷は古川町(現在の南麻布2丁目辺)にあったようですが、立藩以来同じ場所にあったと思われる両屋敷のうち
下屋敷については安政四(1857)年作成された「東都麻布之図」などには記載がなく、同じ場所には別の家名が書かれています。 
しかし、「東都麻布之図」からわずか3年後の万延江戸図「万延元(1860)年」には曹渓寺に隣接するあたりにこの長谷藩下屋敷が描かれています。
また、これらより古い地図にも湯長谷藩の下屋敷が同所に散見されることから何故一時期のみ地図に記載がないのかは謎のままです。  
いづれにせよ映画の中の終着点はおそらく麻布桜田町の上屋敷であると思われ、参勤交代の行列は福島県いわき市から江戸府内麻布桜田町までの行程となりその距離は
萬延江戸図
短期間で二度も行うには労力も費用も頭痛のタネであったことがフィクションながら想像されます。


余談となりますが、この湯長谷藩邸が書き込まれている万延江戸図が描かれた万延元(1860)年は、麻布においても一般的な歴史事項についても興味深い事件などが頻発している年でもあります。


















































現在の麻布中央部












現在の上屋敷付近














現在の下屋敷付近


























1860年(安政7年・万延元年)
西 暦 元 号 月 日
事   象
1860年 安政七年 01/07 米国船ポーハタン号が品川港に入る。
01/19 木村摂津守、勝麟太郎、福沢諭吉などが乗船する咸臨丸がアメリカに向けて浦賀を出港。
01/22 遣米使節新見正興一行が浦賀を出帆(鎖国以来初めて公然の外交使節)
01/29 イギリス公使館通弁「伝吉」刺殺






03/03 桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺される。
万延元年 03/18 安政から万延と改元。
09/28 明治天皇立太子の御儀行われる。
12/05 「米国書記官ヒュースケンが麻布中の橋にて攘夷派浪士に襲われ、夜半過ぎに死亡。-ヒュースケン事件
12/08 ヒュースケンの葬列がプロセイン海兵隊が厳重警備する中、
麻布山善福寺から光林寺まで進み葬儀が執り行われた。
12/16 英仏両公使、ヒュースケン殺害事件に憤慨し公使館を横浜に移転するも
アメリカ公使館ハリスのみは横浜に引き上げず麻布山善福寺にそのまま滞在。

























★関連事項
Blog DEEP AZABU-増上寺刃傷事件

Blog DEEP AZABU-麻布桜田町

超高速参勤交代オフィシャルサイト

Wikipwdia-超高速参勤交代

Wikipwdia-湯長谷藩