この小石川三井家は「三井十一家」と呼ばれる中でも「本家」と呼ばれる六家のひとつで他に、「連家」とよばれる家系もありました。
・-明治以降の三井家-・
麻布今井町三井邸 |
★北家(惣領家:高利の長男高平の子孫。高平は初代八郎右衛門。以降代々八郎右衛門を襲名し当代は十二代永乗)
◆本家(高利の男系子孫)
・伊皿子家
・新町家
・室町家
・南家
・小石川家
◇連家
・松坂家(長女みねとその夫孝賢の子孫)
・永坂町家(五男安長の長女みちとその夫高古の子孫)
・五丁目家(北家8代目高福次男高尚の子孫)
・一本松家(伊皿子家6代目高生次男高信の子孫)
・本村町家(小石川家7代目高喜次男高明の子孫)
伊皿子三井家跡地 |
本村町三井家跡地 |
一本松と一本松三井家跡(左手正面マンション) |
永坂三井家跡地(フィリピン大使館) |
三田綱町三井倶楽部 (元北家(惣領家)十代八郎右衛門・高棟の別邸) |
家 格 | 名 称 | 所有者 | 家 系 | 所在地(地番) | 坪 数 | 備 考 |
---|---|---|---|---|---|---|
(惣領家) | 今井町邸 | 三井 高棟 | 十代当主。十五代八郎右衛門。三井高福の八男。 | 麻布区今井町42 | 約13,500 | 十代八郎右衛門本邸。庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」などを完備。1906(明治39)年完成。昭和20年空襲により焼失。 |
笄町邸 | 三井 高公 | 十一代当主。十六代八郎右衛門。高棟の次男 | 麻布区笄町146,147 | ? | ・牛坂辺の港区西麻布4-13あたり。1952(昭和27)年建築。1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存。 | |
伊皿子家 | 三井 元之助 | 高利(※1)の次男高富の子孫 | 芝区伊皿子町48~51 | 2,214.31 | 三田台公園辺 | |
本村町家 | 三井 養之助 | 小石川家7代目高喜次男高明の子孫 | 麻布区本村町163~171 | 2,281.22 | 薬園坂辺 | |
一本松家 | 三井 高信 | 伊皿子家6代目高生次男高信の子孫 | 麻布一本松町17~19 | ? | 元麻布1-1-15辺(栄久山大法寺隣接地) | |
永坂町家 | 三井 守之助 | 高利の5男・安長の長女みちとその夫、高古の家系 | 東鳥居坂町6,7-1 | 945.34 | 現フィリピン大使館敷地 | |
三田綱町別邸 | 三井 高棟 | 十代八郎右衛門高棟の別邸 | 港区三田2-3-7 | 9,916.46 | 高棟の別邸。ジョサイア・コンドル設計。現三井倶楽部。 | |
材木町広岡邸 | 広岡 恵三 | 広岡(旧姓:一柳)恵三は広岡信五郎・浅子夫妻の長女「亀」の婿養子。ヴォーリズの妻となる一柳満喜子の実兄。 | 麻布区材木町63 | ? | 広岡浅子終焉の地。享年71歳。1916(大正5)年ヴォーリズ設計。 |
※屋敷の所有者は創設時のものです。
※1三井 高利(みつい たかとし、元和8年(1622年) - 元禄7年5月6日(1694年5月29日))は、江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。(wikipediaより)
北家(惣領家)十代八郎右衛門(高棟)は1906(明治39)年、麻布今井町に大邸宅「麻布今井町邸」を建設し、諸外国の要人や皇太子なども訪れ晩餐会などが行われていたそうです。
この麻布今井町邸は現在の赤坂氷川神社の正面にあるアメリカ大使館宿舎の位置とほぼ重なります。この屋敷は約1万3,500坪という広大な敷地に庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」まで完備していました。しかし、残念ながら1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいます。
この高棟の三田綱町別邸は「三井倶楽部」として現存しています。
そして戦後に総領家当主となった高棟の息子十一代八郎右衛門(高公)は1952(昭和27)年麻布笄町牛坂に麻布笄町邸を建設します。
この邸宅は1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存しています。
また広岡浅子の実家である小石川家七代当主となる養子の三井高喜は広岡浅子からみると26歳という歳の離れた義兄で、浅子に商売を伝授したといわれています。この高喜の次男である三井高明が三井の連家となる「本村町三井家」を興します。余談ですがこの広岡浅子の血筋に繋がる小石川三井家の末裔として日本テレビのプロデューサー井原高忠(ザ・ピーナッツ、とんねるずの名付け親で11PMのプロデューサー)がいます。
また、麻布周辺にあった三井家関連のお屋敷は本村町三井家の他に、北家(惣領家)、十代八郎右衛門(高棟)は1906(明治39)年、麻布今井町に大邸宅「麻布今井町邸」を建設し、この広大屋敷地を持つ屋敷では諸外国の要人や皇太子なども訪れ晩餐会などが行われていたそうです。
この麻布今井町邸は現在の赤坂氷川神社の正面にあるアメリカ大使館宿舎の位置とほぼ重なります。この屋敷は約1万3,500坪という広大な敷地に庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」まで完備していました。しかし、残念ながら1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいます。
この高棟の三田綱町別邸は「三井倶楽部」として現存しています。
また、戦後に総領家当主となった高棟の息子十一代八郎右衛門(高公)は1952(昭和27)年麻布笄町牛坂(現在の若葉会幼稚園辺)に麻布笄町邸を建設し、後に現在の麻布税務署裏手に屋敷を移転ます。
この笄町邸は1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存しています。
また本村町三井家と同じ「連家」として、
・永坂町家(五男安長の長女みちとその夫高古の子孫)
・一本松家(伊皿子家6代目高生次男高信の子孫)
そして伊皿子にも本家筋となる、
・伊皿子三井家
などが存在しました。
広岡浅子の実家三井家と麻布のつながりを紹介してきましたが、浅子の夫(ドラマの設定:白岡新次郎:主人の本名は広岡信五郎)婚家である加島屋(ドラマでは加野屋)は後に大同生命を創業し、浅子も創業者の一人となります。
そして1919(大正8)年1/14、腎臓炎のため臨終の浅子は麻布材木町の広岡邸で息を引き取りますが、
上記取消線部分は、調べ始めた当所浅子臨終の屋敷が「麻布材木町」とだけしかわからず、これを明治45(1912)年の地籍台帳で探すと三井合名会社所有の土地が材木町35番地にあったため、この土地で浅子が亡くなったものと勘違いしていました。しかし、さらに調べてみると浅子終焉の地は同じ材木町に中で63番地であったことがわかりました。これによりこのサイト記述も材木町63番地が広岡浅子終焉の地と書き直しましたが、一部分の文章が訂正されていませんでした。謹んでお詫び致します。
ちなみに明治45(1912)年当時の麻布材木町63番地の所有者は政治家・外交官であった鈴木充美ですが、広岡家との関係は不明です。
あまり女性が表に出ることの少なかった時代に経営者として銀行、生命保険などの起業に関係し、さらに女子大を作ったことでも知られている活発な女性の代名詞となりました。
浅子は「普段云っていることがすべて遺言」と遺言を残さなかったそうですが、東京・大阪の二度の葬儀に加え、創立に関与した日本女子大では1919(大正8)年6/28に盛大な追悼会が開催されたようです。
最後に、晩年まで女子教育に関係していた浅子は避暑のために建設した静岡県御殿場二岡の別荘に若い女性を集めて勉強会を開催しますが、その参加者の中には後の国会議員・市川房枝などと共に「花子とアン」の主人公、村岡花子も参加しており、この勉強会への参加が後の自分を決めたといっていたそうです。
◇余話として
麻布界隈でも東洋英和学院、西町インターナショナルスクール、明治学院大学チャペルなどを設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となる一柳満喜子は、広岡浅子の女婿・広岡恵三の妹にあたります。華族の子女である満喜子と外国人であるヴォーリズとの結婚に際しては、華族と外国人の結婚に反対されますが、浅子は強力に二人の結婚の後押しをしたとされています。
この二人が結婚したのは1919(大正8)年6月3日ですが、その半年前の1月14日麻布材木町六十三番地にあった夫となるヴォーリズが設計した広岡恵三別邸で、広岡浅子は息を引き取っています。おそらく二人の将来を安心した上での臨終だったと思われます。
◆追記:浅子終焉屋敷の謎。
広岡浅子終焉の屋敷はヴォーリズ設計であったようです。そしてヴォーリズの建築作品リストによると、「K.廣岡邸」を依頼者とする設計が、二つあります。
- 1916(大正5)年 東京 K.廣岡邸
- 1929(昭和4)年 東京 K.廣岡邸
上記二つの屋敷の設計がありますが、浅子の臨終は1919(大正8)年1/14でしたので①の屋敷で亡くなったものと想像されます。
しかし、リストに掲載されている依頼主の「K.廣岡」とは誰なのでしょうか?
もしかしたら子供かと思い調べると、
広岡信五郎・浅子の間には、「亀子(カメ)」と名付けられた女の子がいました。
しかし.....実はこの他にも広岡信五郎と妾の間には四人の子供がいました。
この妾は女の子一人しか産めなかった浅子も願って迎えた妾のようでドラマ上では、浅子の姉はつのおつき女中で後に加島屋の女中となる「ふゆ」だとおもわれます。
実際の名前はムメ(小藤)と、ドラマ上の浅子のおつき女中ウメに近いのですが、事実は上記の通りだったようです。
◎広岡信五郎と妾ムメ(小藤)の子供
- 長女:蔦子(ツタ)
- 次女:極子(キワ)
- 三女:秋子(アキ)
- 長男:松三郎(まつざぶろう)
これら四人の中で「K」がつくのは浅子と信五郎の娘「亀子(カメ)」です。
しかし、もう少し調べると.....、
そこで浅子と結婚し、本家を補佐して行くことになるのですが、本家の兄が若死にしてしまい、信五郎の弟の正秋が加島屋本家を相続することとなり、信五郎と浅子はその正秋をもり立てて家業を補佐してゆくことになります。これ以降正秋は「九代目・加島屋(広岡)久右衛門・正秋」を名乗ります。
これらから、想像の域を超えませんが、
◆追記2:浅子終焉屋敷の謎訂正
twitterで@ka9_asa_10さんという方から情報を頂きました。
@ka9_asa_10さんのプロフィールを拝見すると、
加久と広岡浅子
加久(かきゅう)とは大坂の豪商・加島屋久右衛門家。10年くらい前から興味を持ってちょこちょこ調べていたのが、加島屋や広岡浅子でした。 「あさが来た」を観ながら何かと呟きますが、研究者でもなければ物書きでもないので、大目にみてやってください ※個人アカウントです
とあり広岡久右衛門と広岡浅子について専門にお調べになっている方のようです。
この方からの情報をそのまま掲載させて頂きます。
加久と広岡浅子 @ka9_asa_10 7時間7時間前
@DEEPAZABU ブログ大変興味深く拝見しました。後記の「K.廣岡」ですが「廣岡恵三(けいぞう)」、つまり浅子の娘婿で一柳満喜子の兄にあたる人です。大正当時は浅子の事業を引き継いで加島銀行頭取、大同生命社長に就いていました。
21:35 - 2015年11月9日 · 詳細
加久と広岡浅子 @ka9_asa_10 7時間7時間前
加久と広岡浅子さんがリツイートしました deepazabu
それと余話にさらりと触れている西町インターナショナル(松方ハウスはヴォーリズ建築)、長らく副教頭を務めてらしたのは広岡浅子のお孫さんです。麻布つながり意外とあるなあ。
と、私には知り得なかった貴重な情報をツイートして頂きました。これでおぼろげであった広岡浅子と終焉屋敷の持ち主「K.廣岡」の謎と一柳満喜子の関係が氷解しました。
よって下記のように訂正させて頂きます。
広岡浅子終焉屋敷の所有者「K.廣岡」が私の推測「広岡久右衛門正秋」ではなく、広岡信五郎・浅子夫妻の唯一の子供である長女「亀」の夫である「廣岡恵三」であり、さらにこの廣岡恵三は婿養子として広岡家に入っているようで養父は当然ですが広岡信五郎でした。
また廣岡恵三の養子入前の名は「一柳恵三」であり、子爵一柳末徳の次男でした。この一柳恵三の実妹が「余話として」でお伝えしたウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となる一柳満喜子でした。
そしてヴォーリズは日本に帰化し、日本名は「一柳米来留(イチヤナギ・メレル)」とします。
後年ヴォーリズが設計した西町インターナショナルスクールの副教頭となるのが広岡浅子のお孫さんであるという流れが歴史と現在をぐっと引きつけてくれたような気がします。
@ka9_asa_10 さん、貴重な情報を誠にありがとうございました。
◆追記3(2016.01.14):西町インターナショナルスクールの副教頭と浅子の関係
前回@ka9_asa_10 さんから教えて頂いた、
西町インターナショナル(松方ハウスはヴォーリズ建築)、長らく副教頭を務めてらしたのは広岡浅子のお孫さんです。麻布つながり意外とあるなあ。
との情報が気になり、調べてみましたが情報がなかなか見つかりませんでした。そこで再び@ka9_asa_10 さんにご教授をお願いするとまもなくお返事を頂きました。
そして、これにより謎が一気に氷解しました。
西町インターナショナルスクールの広岡八重子さん(以下敬称略)は、1年生の教師、副教頭を25年間西町勤めていました。そしてスクールに「広岡八重子 基金」を創設し、これは現在も教師の研修制度の拡充をはかるために利用されています。
この広岡八重子は広岡浅子と広岡信五郎の唯一の娘「亀子」の二女で、浅子直系の孫になります。
これを家系図にまとめてみました。すると亀子と婿養子の広岡恵三夫婦は1902(明治35)年に長女を出産すると次々と年子を生むこととなり、その二番目の女の子が八重子となります。
また逸話として一柳恵三を婿養子に迎えた後、恵三の妹で後にヴォーリズ婦人となる一柳満喜子が実家を飛び出してしまった時にも、長い間兄恵三邸に滞在していたといわれています。
この亀子の義理の兄弟で母の浅子に等しく育てられた子供たちの一人に、ムメと信五郎の長男「広岡松三郎」がいます。
この松三郎の妻・貞子の弟の妻は、後年エリザベスサンダースホームを創立することとなる三菱財閥・岩崎弥太郎の長女・岩崎(澤田)美喜です。
※文字が見にくいのでダウンロードしてご覧下さい。 |
また、正確な時代は不明ですが明治期と思われる広岡家が集合した写真(タイトル:家族写真)が残されており、乳児と幼児の女の子が写されています。女女の手を取っているのは広岡亀子、その前で乳児を膝に乗せているのは広岡恵三です。これらのうちどちらかが八重子である可能性(おそらく乳児)があり、興味をそそらせる写真となっています。
※この写真に写されたムメの子供・松三郎(後列右端)が中学生ほどの年齢に見えます。松三郎は1888(明治21)年生まれで、亀子の長女・多恵子が1902(明治35)年生まれで松三郎とは十四歳違い、二女の八重子(後の西町インターナショナルスクール副教頭)は多恵子の一歳下となり写真に写された乳児は二女の八重子の可能性が非常に高いと思われます。この写真の年齢は上記から推測すると、多恵子二歳ほど、八重子一歳未満、松三郎は十六歳位となります。これらから、この写真が撮られたのは1903(明治36)年or1904(明治37)年頃だと想像されます。
この写真が撮られたのが明治36年だと仮定すると、浅子は54歳で、二年前に開校した日本女子大学へ広岡信五郎名義で金五千五百円を寄付します。
そして翌年の明治37年、日清洗戦争が勃発する年に、8歳年上の夫・信五郎が64歳で亡くなります。そして浅子も経済界から引退し、後を実子亀子の婿養子である恵三に任せることになります。
もしかしたらこの写真は広岡信五郎・亀子ファミリーがそろって写された最後の写真となったのかもしれません。
家族写真 |
前列右から 亀子の婿養子・恵三と乳児(八重子?)、
広岡信五郎、浅子、信五郎とムメの娘で三女の極子(キワ)。
後列右から、信五郎とムメの長男・松三郎、
信五郎と浅子の娘で長女の亀子と幼女(多恵子?)、
信五郎とムメの娘で四女の秋子(アキ)、信五郎とムメの娘で
二女の蔦子(ツタ)、浅子の三井家からの腰元(お付き女中)で
後に信五郎の妾となったムメ(別名:小藤、信五郎との間に一男三女)。
上記画像から広岡恵三・亀子家族拡大。 |
★20160125追記-広岡浅子の「死亡広告」
大正8(1919)年1/17付けの新聞に掲載された広岡浅子の「死亡広告」。
母浅子儀当地麻布区材木町別邸に於いて病気療養中の所養生相叶わず去十四日午後八時永眠致候間乍(ながら)略儀紙上を以て辱知の御方に御知せ申上候追て来る二十一日午後四時神田美土代(みとしろ)町青年会館に於て告別式を行ひ同夜東京駅発二十三日午後?時大阪市土佐堀青年会館に於て葬儀執行仕候猶(なお)御供花供物等は御辞退申上候
男 広岡 恵三
広岡浅子と主人広岡信五郎の間に出来た
唯一の実子「亀子」の婿養子。
実家は男爵の一柳家。実の妹・満喜子は、
西町インターナショナルスクール、
飯倉片町・南葵楽堂、
東洋英和女学院、伊皿子フレンズセンター、
明治学院大学チャペル、広岡浅子が逝去した
広岡家麻布材木町別邸などを設計した建築家
ウィリアム・メレル・ボーリズの妻。
親戚総代
広岡久右衛門
十代・加島屋久右衛門(正直?)。九代久右衛門正秋の
実子郁子の婿養子。
実父は旧鳥取藩士・三澤立身。正直は立身の六男。
三井高修
浅子の実家、小石川三井家九代目当主。
浅子の義兄三井高喜の孫。高喜は三井南家からの養子
であるため、浅子との血縁はやや薄い。
三井養之助
浅子の実家、小石川三井家七代目
高喜の次男で本村町三井家初代当主。
男爵 三井八郎右衛門(高公?)
三井十一家の総帥。三井北家(総領家)十一代。
戦前は麻布今井町、戦後は麻布笄町~麻布桜田町
の邸宅に住んだ。明治以降終戦まで男爵。
子爵 一柳末徳
広岡(一柳)恵三の実父。元・播磨小野藩十一代藩主。
明治以降は子爵。芝区会議長、帝国博物館員、貴族院議員などを歴任。