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2012年11月1日木曜日

麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その2

前回は初の宇宙中継に貢献した東京統制無線中継所を紹介しましたが、そもそも通常の「東京統制無線中継所」は、どんな業務を行っていたのか再び資料を探し始めました。しかし、残念ながら前述のとおり資料をほとんど見つけることが出来ませんでした。

そこで一般的な事項としてNTT中継回線で検索すると、

電電公社からNTT(分割後はNTTを起源として発足した会社等)が所有、管理もしくは運用する、映像、音声、データ伝送などのための電気通信用回線のことであるが、主に電話の市外回線やテレビ局とテレビ局の間を結ぶテレビ回線などをマイクロ波を用いた無線中継伝送により、日本列島を縦貫するように結ぶ手段のようである。当然前項の宇宙中継も麻布の「東京統制無線中継所」が担当したのは筑波山→東京間の国内中継であるので、これに含まれる。そして民放が誕生するとキー局と地方局を結びニュース素材や番組を送信する手段として使用された。また、NHKのNTT中継回線は、アナログ放送・デジタル放送ともに2004年3月頃に完全にデジタル回線(光ファイバー伝送)に移行。さらに全民放128局の全国回線も2006年6月4日深夜に完全にデジタル回線に移行し、この日をもって1960年代にかけて全国に拡大したマイクロ波を用いた中継回線は52年間続いた役目を終えた。(北海道NTT道内中継回線は2008年終了と予定されている。)

とのことで麻布の「東京統制無線中継所」は主に電話の市外回線やテレビ局とテレビ局の間を結ぶテレビ回線などをマイクロ波を用いた無線中継伝送を行う施設であったことがわかりました。そしてその創立は東京-名古屋-大阪間が開通した昭和29年頃かと推測しました。.....と書いたところで参考となると思われるサイトを発見しました。それはNTT退職者のコミュニティサイト「電友会」というサイトで、東京無線支部の「思い出」のなかに麻布の「東京統制無線中継所」とよく似た建物を見つけました。しかし確証がもてなかったのでメールで連絡したが、返事を頂くことは出来ませんでした。
そこで同じページに写っていた「マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑」が麻布にも残されていればこのサイトの画像が麻布のものであることが確定されることに気づき、さっそく現地に向かいました。しかし今はマンションとなっておりやはり違うのかと思い始めたが、ふとマンションの境界線あたりに、あきらかに敷地の雰囲気とは違う緑地をみつけ奥に入ってみると、「マイクロウェーブ幹線創始の地」と書かれた碑が、静かにたたずんでいました。そして、これであのサイトの画像は麻布の「東京統制無線中継所」であることが確定しました。

使用の許諾が取れていないので画像をお見せできないのが残念ですが、昭和29年開業当時の中継所はアンテナは2基のみ南東方面に丸ではなく四角いパラボラアンテナ?がついていて、1958年(昭和33年)東京-仙台-札幌開通時には、丸く見慣れたアンテナが北東方面に2基追加され、さらに1960年(昭和35年)東京-金沢-大阪開通では北西にさらに2基追加され6基のアンテナに、そして1968年(昭和43年)の画像では私たちの見慣れたアンテナになっています。そして中継経路も名古屋・大阪方面の場合、麻布から送信した電波の最初の中継は神奈川県磯子の円海山、次が箱根の双子山そして静岡県清水市山原(やんばら) ~栗岳と続いていることもわかりました。

さらに別の「科学新聞」サイトの「科学者が語る自伝」に元NTT副社長桑原守二氏の項に、

(抜粋はじめ)~昭和三十二年十月末から、今度は現場機関に配属されての養成訓練である。私は東京統制無線中継所(東端と略称した)に配属となった。東端は麻布宮村町にあった。東名阪回線(SF―B1方式)、東仙札回線(SF―B2方式)の統制局である。昭和三十三年五月には東京~金沢~大阪(東金阪)回線が開通し、東京、大阪間がループになった。 東端は全国の無線中継所から兄貴分として尊敬されていた。これは統制局としての権限の他に、優秀な無線の人材が集結していたことによる~ (抜粋終わり)

などとあり、麻布の「東京統制無線中継所」は最先端の技術を担う優秀な人材が集結していたことが伺えます。


○マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑-碑文

昭和29年4月1日東京大阪間を結ぶマイクロウェーブ回線がこの地を起点として開通した。
この回線は4000MHz帯を使用し周波数分割多重市外電話 360回線また放送用白黒テレビジョン信号を、周波数変調方式により伝達するものであった。
無線による周波数分割多重方式は昭和15年米澤滋博士が世界にさきがけ超短波によって実用化し無線の多重化技術の基礎を確立したものである。
戦後黒川廣二博士を中心として諸先輩がこれを発展させ今日の輝かしいマイクロウェーブ技術の進歩をみた。
いまやマイクロウェーブ回線は全国テレビジョン中継はもとより市外電話回線網の中枢をなしている。またこのマイクロウェーブ技術はわが国が開発した自主技術として世界の最高水準を行くものである。
マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑


この碑はこの地がマイクロウェーブ幹線創始の地であることを記念するとともにわが国のマイクロウェーブ技術の発展に寄与された諸先輩の偉大な業績を偲んで建立したものである。

昭和46年12月1日建立



<追記>

東京-名古屋-大阪ルートの全貌がわかったのでご紹介。

東京都港区・麻布~横浜市磯子区・円海山~神奈川県足柄郡・双子山~静岡県清水市・山原(やんばら)~静岡県掛川市・栗ヶ岳~愛知県南設楽郡作手・本宮山~愛知県名古屋市・名古屋中~滋賀県坂田郡・大野木~京都市・比叡山~大阪市・大阪第一端局

しかし、このルートは、昭和43年3月~4月に都内ビル高層化にともなう電波進路の障害のため、麻布宮村町の東京統制無線中継所から、新たに建設された目黒区祐天寺の「唐ヶ崎統制無線中継所」に移されたようです。また、昭和39年12月には、テレビ中継・市外電話回線需要の増大から東京-名古屋-大阪に、全く別の中継所を持つ第二ルートが完成しています。

東京・渋谷統制無線中継所(昭和36年新設)~神奈川県・秦野~静岡県・愛鷹(あしたか)山~静岡県・阿部~静岡県浜松市・引佐~愛知県名古屋市・名古屋中~三重県・石榑~滋賀県・岩間~大阪第二端局

東~名~阪第一ルートのマイクロウェーブ回線の開通日は「マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑」の碑文によると昭和29年 4月1日とあるが、電電公社・東京電気通信局発行の「東京の電話(下)」によると、

(522P抜粋-始め)

~昭和29年4月16日、東京・名古屋・大阪を結ぶ465.9キロのマイクロウェーブ回線は開通した。記念すべき開通式は、4月15日、東京(東京会館)・大阪(本町電話局)・名古屋(丸栄ホテル)を結んで盛大に執り行われ、東京会場には三笠宮をはじめ各界の代表が招かれて、「テレビ電話」による記念通話がとりかわされ、その模様はNHKテレビで実況放送された。「顔をみて、 "こんにちわ"、ご披露マイクロウェーブ」(昭和二九年四・一五朝日新聞)....もちろん、どの新聞もの、書き落とせぬ写真つきニュースである。開通の当初には、わずか電話三六通話路とテレビ1ルートを通すに過ぎなかったこのマイクロウェーブ施設の登場は、しかし、こんにちの大きくとびらを開いたもの、戦後文化史上に特筆大書されるべき事項であったのである。~

(522P抜粋-終わり)

とあり、日本初のマイクロウェーブ回線の開通が1日か16日なのかは、残念ながら判断することは出来ませんでした。



<Blog化においての追記>

10年ほど前、この東京統制無線中継所を調べる過程で、この施設がかなり政治的な意味合いを持った施設であったことがわかりました。
日本のマイクロウェーブ通信網の整備を促したのはG.H.Q(アメリカ政府)で、当初この施設はテレビ放送網と抱き合わせの設置計画(VOAがありました。
その放送網とは、創立当初から放送網と社名に明記している「日本テレビ放送網株式会社」に他なりません。そしてその陣頭指揮を取っていたのは、読売新聞社主の正力松太郎でした。

この放送網設置計画は「正力マイクロ構想」とよばれ、当初は日本テレビのみがテレビ放送免許とマイクロウェーブ通信網構築を独占することになっていました。
しかしその後の政治的経緯からテレビ放送は土壇場でNHKにも免許が交付されることになり、またマイクロウェーブ通信網構築は国営企業である電電公社に一任されてしまいます。
そして後年、そのバーターとして正力が手に入れたのは「初代原子力委員会委員長」のポストでした。そして今日に至る日本の原子力行政が始まります。
この一連の政治的流れを知りたい方は、

原発・正力・CIA
日本テレビとCIA  発掘された「正力ファイル」

などの書籍に詳細に記録されています。
気のせいでしょうが、十年前にこの記事を書いたあたりから一時期、当サイトに在日米軍ドメインと自衛隊ドメインからのアクセスが記録されるようになりました。
たぶん気のせいですが......












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2012年10月31日水曜日

麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その1

小学校3~4年生のころ(昭和40年代前半)、男の子の遊びでは12チャンネルで「ローラーゲーム」などという番組をやっていたからか、ローラー・スケートが流行っていた。現在の車輪が一列に並んだインライン型ではなく当時は前輪2輪・後輪2輪の安定の良いもので、割とすぐに滑る事が出来るようになるようなものでした。車輪はゴム・木・鉄製のものがあり、最新のものはゴム製、しかし何年か前のクリスマスプレゼントで貰い、そのまま放置してあった私のスケートの車輪は鉄製で、けたたましい轟音と夕方には火花まで散らすという旧型でした。

東京統制無線中継所
最初は安全な公園内や私道などで遊んだのですが、ある程度姿勢の制御が出来てスピードが出せるようになると、物足りなくなってきます。そこで私たちがよく遊んだのは比較的自動車の往来が少ない内田山山頂付近の通称「マイクロウェーブ」と呼んでいた大きなパラボラ・アンテナのある建物附近から狸坂下まで一気にスロープを滑り下りることが出来る坂道でした。
学校が終わると「マイクロウェーブ行こうぜ!」っと誘い合い、競い合いながら一気に坂を駆け下りました。
大人になりいつの日か「マイクロウェーブ」のパラボラが撤去されても関心を持つこともありませんでしたが、鉄輪をガリガリいわせながら遊んだ坂上のあの「マイクロウェーブ」って、何だったのだろう.....。

子供たちが「マイクロウェーブ」と呼んだ建物の正式名称は「日本電信電話公社・東京統制無線中継所」と言い、大きなパラボラアンテナは文字どうり超短波の中継アンテナでした。そしてそのアンテナはあの歴史的な事件を報じる初中継に使用されていました。

昭和38年(1963年)11月23日、アメリカから日本へ初めての衛星中継が放送されました。これは通信衛星「リレー1号」を使用した衛星放送で、当時は「宇宙中継」と呼ばれた。リレー1号は3時間で地球を1周する低軌道衛星であり、放送は両国から衛星を見渡せる約20分間に限られていて20メートルのパラボラを使用しても衛星の微弱な電波を捉えるのは「アメリカで点けた電球の熱を日本で感知する」ようなものだったといわれています(プロジェクトX)。

モハービー地上局から衛星に送られた電波は茨城県多賀郡十王町にある国際電信電話会社宇宙通信実験所の直径20メートルのパラボラ・アンテナで受信(この過程はプロジェクトXに詳しい)し、筑波山を経由してマイクロ波で麻布の東京統制無線中継所(TRC)テレビジョン中継センターに送られ、そこから有線でNHK放送センター(当時は代々木ではなく内幸町にあった)に送り、各民放に配信されました。

※TRC-東京テレビジョン中継(リレー)センターの略

放送経路


米太平洋岸カリフォルニア・モハービー地上局
(リレー1号に向けて1725メガサイクルで送信)

リレー1号
(アメリカからの電波を4170メガサイクルに増幅)

国際電信電話会社宇宙通信実験所(茨城県多賀郡十王町)
(直径20メートルのパラボラアンテナで受信)

NHK中継車からマイクロウェーブ送信

石尊山

日立製作所日立研究所屋上(日立市)

電電公社無線中継所(筑波山)

東京統制無線中継所テレビジョン中継センター(東京・麻布)
↓(ケーブル)
NHK放送会館(内幸町)

民放配信



第一回目の放送はモハービー地上局から5時18分に待機指令が来て、午前5時27分に始まる。予定ではアメリカ・ケネディ大統領のメッセージが流される予定でしたが、画面にはテストパターン・カラーパターン・NASAのロゴが繰り返し映し出された後、予定外のモハービー砂漠の映像が流され、演説は始まりませんでした。そのとき日本側関係者は予定外の映像に戸惑いました。実はこのとき流される予定の映像はケネディ演説も含めて「事前に録画されたもの」を送信することが前もって決められていました。その録画も流せない状況とは......。

1963年11月22日アメリカ中部標準時12時30分(日本時間23日午前3時30分)、テキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺されていました。

しかし、こう書くとまるでケネディ暗殺は衛星中継が始まるまで「誰も知らなかった」と思いがちだが事実は違います。中継関係者も新聞社も初中継の時間までには、暗殺をすでに知っていました。
暗殺事件の第一報はUPIで、入電は午前3時40分。そして同50分までにAFP、ロイター、APと続き4時30分にはついに「大統領の死亡」が伝えられました。この時各新聞社ではすでに都内版締め切りは過ぎており輪転機が廻り始めていました。しかし、各社ともそれをストップしてほぼ三分の一程度を刷り直したといいます。

当日の各紙朝刊は一面トップに、

・ケネディ大統領暗殺さる(読売?版)
・ケネディ大統領撃たれ死亡(朝日12版)
・ケネディ大統領暗殺さる(毎日13版)

とそれぞれ速報で記事は少ないながら掲載しました。話を戻すと、じつは衛星中継関係者も放送前に暗殺を知り、中継が中止となる事に危惧を抱いていました。そこに開始直前の5時14分、NASAから「大統領が映っている部分の放送は取りやめる」という連絡が入り、何が流されることになるのか危惧は深まりました。

結局第一回目の中継は砂漠の映像に終始して終わり、2回目の放送に関係者の不安は募りました。 2回目の放送は同日午前8時58分から予定どうりはじまり、ついにケネディ暗殺のニュースが衛星を経由してもたらされました。その後の放送の詳細や事件の詳細はプロジェクトXや他のサイトを参照して頂くとして、実はこのケネディ暗殺の速報となった 23日の2回の放送の他に、3日後の26日午前4時・午前7時50分にも第二回目の宇宙中継が行われ、容疑者のオズワルドが射殺される瞬間の映像、ワシントンでの国葬の模様が中継され、2回にわたる宇宙中継は成功のうちに終わりました。そして東京オリンピックを迎えた翌年の1964年には静止衛星の「シンコム3号」が打ち上げられ、長時間で安定した東京オリンピック画像の初衛星世界中継が可能となった。この時も麻布のTRCは大活躍をしたものと思われますが、残念ながら詳細な資料は手に入りませんでした。

(この項を書くに当たって「初宇宙中継」、「ケネディ暗殺放送」については比較的容易に資料を手にすることが出来ましたが、 TRCの概要や通常業務、経歴などの書籍・ネット・新聞などの情報は、あまり存在しないようです。これは対テロ・セキュリティ上の保安措置や、N中マニアへの対策からと思われます。)


















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