ラベル 麻布西町 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 麻布西町 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年4月25日木曜日

麻布七不思議-七色椿

麻布区史に掲載された
七色椿
暗闇坂を登り氷川神社方面の右手(西町22番地:現在の西町インターナショナルスクールあたり)に、七色の大輪の花をつけ、枝を四方に張り咲き乱れた東京でも有数の椿の銘木が ありました。「七色椿」とも「化け椿」とも呼ばれていました。

この地は、明治の官僚・政治家であった渡辺千秋の長男、実業家で司法大臣、 日仏銀行頭取千冬氏の邸でした。弟は隣接地がま池を屋敷内に持つ渡辺国武子爵で、この兄弟が一時期「がま池」、「陰陽石」、 「七色椿」と麻布七不思議のうち3つを所有していたことになります。しかし、残念ながら1937(昭和12)年に枯死してしまったそうです。

麻布区史には、
~西町22元加奈陀公使館、現クレーン邸内にある。以前は諸岡某氏の邸であった。幹囲1.3米、数株の幹が合したように見へてゐる。古来朝晩花の色を異にすると云って化椿の異名があり、 麻布七不思議の一に数へられた。思ふにこれは数株の椿樹を一纏めにして植えたのが抱合癒着して成長した為めに、 花の色に相異が出来たのであろう。惜しい哉、近年枯損して今は残骸を止めてゐるに過ぎない。~
とあり麻布区史が出版された昭和16年(1941年)には、すでに枯死していたことが伺えます。 また、時代劇小説「耳袋秘帖 麻布暗闇坂殺人事件」では「お化け椿」として描かれています。

麻布区史は天然記念物の項目この七色椿の他に下記を掲載していますが、現存している銘木はは少ないようです。



麻布区史に掲載された天然記念物指定樹(昭和16年当時)、その他の銘木
分類No.樹 名場 所現存備 考





1.善福寺の公孫樹麻布山善福寺境内昭和20年5月の空襲で焼けたが、戦後自力で再生
2.旧徳川邸のキハダ飯倉町貯金局構内×貯金局は現麻布郵便局。
3.秋葉社のビャクシン森元町×ビャクシン属(柏槇属)は、ヒノキ科の針葉樹の一種。
4.元加奈陀公使館の椿西町×七色椿・化け椿とも
5.一本松一本松町麻布七不思議の一つ。現在の木は戦後植え継がれたもの
6.羅漢松内田山南山小学校校庭×樹上空洞に白蛇が住むと伝説されたが昭和13年の暴風雨で倒壊
7.岡の桜飯倉片町×江戸期の御殿医「岡仁庵」邸にあったしだれ桜。
大田蜀山人に、「永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦」と詠まれた。





8.佐々木邸の藤富士見町×樹齢200年の藤。他所に移植
9.木下桜麻布広尾町×江戸名所花暦に「ただ小山に雲をあびたるが如し」と記される彼岸桜
10.曹渓寺老松本村町×別名「絶江の松」
11.光林寺の桜富士見町×江戸名所花暦に記載
12.楊枝杉麻布山善福寺×親鸞押給の大樹の杉。山中の岩の中より生じたる木とある
13.天真寺の銭懸松本村町×天真寺の銘木





港区内の天然記念物指定樹木(港区みどりと生きもの2010掲載)
No.樹 名場 所指 定備 考
1.善福寺のイチョウ麻布山善福寺国指定樹齢750年以上 幹周り:10.4m
2.旧細川邸のシイ高輪1-16-25都指定幹周り:8.13m 樹高:10.8m
3.芝東照宮のイチョウ芝東照宮都指定幹周り:6.5m 樹高:21.5m 推定樹齢370年
4.増上寺のカヤ芝増上寺区指定幹周り:4m 樹高:25m 推定樹齢600年
5.氷川神社のイチョウ赤坂氷川神社区指定幹周り:7.5m 推定樹齢400年







★江戸期の銘木

江戸名所花暦(文政十年1827年刊)、江戸鹿子(貞享四年1687年刊)、続江戸砂子(享保十七年1732年刊)などに掲載されている麻布近辺の名所、銘木、銘花。(現住所とは、銘品が当時あった所在地を現住所に置換したもので、現存の意ではありません。)


江戸期麻布辺の名所、銘木、銘花
場所、木銘出典種類現住所備考
宇米茶屋江戸名所花暦白梅白金2丁目1-3麻布三子坂にあり。一重の白梅なり。正月下旬盛りなり。外よりは遅し。古木なり。遊行陀阿一海上人、この梅に題して歌あり。この花の白かね名に高く 千歳をこめてみのるとこうめ
また江戸名所図会に「梅か茶屋」と紹介されている。
麻布竜土組屋敷江戸名所花暦梅樹六本木7-9麻布竜土組屋敷とは御先手組屋敷の事。立春より6、70日目。梅樹、家ごとの入り口にあるもあり。または後園にあるもあり。
木下候庭中江戸名所花暦彼岸桜南麻布5-8木下候とは木下肥後守の事。麻布広尾にあり。幹の太さふた抱え半、南北へ廿一間壱尺余、東西へ十九間余、たゝ小山に行きをおひたるかことし。花の頃は見物をゆるされしか、近頃止られたり。
慈眼山光林寺江戸名所花暦彼岸桜南麻布4-11麻布新堀はた。当時はもと市兵衛町の辺にありしとなり。此境内に大樹あり。したれたる枝は、地につきて滝の落つるかことし。此花の色、成子乗円寺の花によく似たり。この光林寺の前、新堀のむかふをすえて広尾の原と唱え、桜の咲いつる頃よりして、貴となく、おもひおもひのわりこ、酒肴をもたらし来り、毛氈、花むしろをしき、ここまとゐし、かしこにたむろして打興するありさま、天和の頃の光景を思ひいつるはかりなり。
三縁山増上寺江戸名所花暦彼岸桜三縁山増上寺。(芝公園4-7)芝切通しより赤羽根への通ひ路、近きころ開けし道筋、左右に桜樹夥しく植えたり。(芝切通しとは今の正則学院と青竜寺の間の道。)
糸桜続江戸砂子増上寺(芝公園4-7)三縁山広度院増上寺。芝林壇、寺領一万五百四十石。廿四日御仏殿の前。(廿四日御仏殿は二代将軍火秀忠の霊廟。現芝ゴルフ敷地内)
拾ひ桜続江戸砂子南青山2-26長普山宝樹寺梅窓院、知恩院末、青山。第二世峰誉上人、門前にて苗木を拾ひ、てつから植えられしと也。今は大木となる。類ひなきしたれさくら也。
留主に居る人へひろはん花さくら(岸村涼宇)
泰山府君桜続江戸砂子三田2-15三田松平主殿頭殿御館にあり。八重桜の速き花也。桜町中納言成範卿、花のさかりの短きをなげき、桜のため泰山府君の祀りを行はれしより此名ありと也。
八入(やしおの)楓続江戸砂子三田2-15三田松平主殿頭殿御館にあり。前に云桜と此二樹、羅山子東明集に詳也。八入と云は、物を一度染るを一入(ひとしお)といふ。二たひ染るを二入と云り。紅楓の色、八度の染色に比す故八入と称す。
幸稲荷の辺江戸名所花暦不如帰芝公園3-5芝切通しのうへなり。増上寺の梢青葉さすころは、一声も二声もきこゆるといへり。
愛宕山愛宕神社江戸名所花暦芝愛宕町1-5芝にあり。この山上より雪中に見おろせは、各藩につもれるゆき、綿をもって家居をつくれるに似たり。遥に望は、安房、上総の山々、片々たるうちに見ゆ。本尊は行基の作にして、勝軍地蔵なり。毎月弐四日は四万六千日と号して、参詣殊に群集す。此日境内にて、青きほうずきを食む。小児に呑するときは、虫の病の根を切ると云ならはせり。
高輪江戸名所花暦高輪二丁目近辺この海岸の酒楼より海上を望む時は、雪の粉々たるありさま、他に比する処なし。
壱本松江戸鹿子元麻布1-3あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。
一本松続江戸砂子元麻布1-3一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。
銭懸松続江戸砂子所不詳麻布にありと古書に見えたり。尋ぬるにしれす。所の人の云、天真寺に古木あり。それなるへしといふにより、寺に入て尋ぬるにしらすと云。当寺本堂の前に控なる大松の朽木の三抱もあらん、根より一丈はかりありて梢はなし。疑らしくは是ならんか。(天真寺は南麻布3-1)
円座松続江戸砂子増上寺(芝公園4-9)増上寺山下谷。山下谷とは今の芝公園4-9、10あたり一帯。松は現存せず。
朝日松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)田中山相福院西応寺、増上末、寺領十石、本芝。朝日の松、けさかけ松、火除の松、いつれも境内にあり。宝暦の末、当寺回禄にかゝりて此松も焼たりとそ。
袈裟懸松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)
火除の松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)
綱駒繋松続江戸砂子イタリア大使館(三田2-4)綱が駒繋松、松平隠岐守殿中屋敷の内にありと云。
三鈷の松続江戸砂子高野山東京別院(高輪3-15)高野寺、正輪番、紀州高野山宿寺、二本榎。三鈷の松境内にあり。糸桜、大木の枝たれ也。現存せず。
鐘鋳の松続江戸砂子品川区北品川4-7品川御殿山。御殿山の北手にあり。増上寺の撞鐘を鋳たる所のしるしにうへたる松也。
二本榎江戸鹿子高輪1-27白銀原高野寺正覚院のかたわらに有。(正覚院の傍にあったとは、誤りという説もある)
印榎江戸鹿子赤坂1-11赤坂溜池の上に有。むかし此池の奉行人、此榎木をうへて、その時の委細を此木にしるすとかや。よって印の榎とよぶとかや。
印の榎続江戸砂子赤坂1-11溜池の堤にあり。むかし浅野幸長、欽名ありて、此所の水をつきとめたり。幸長の臣、矢島長雲奉行し、さまざまのおもんはかりを以、水をつきとめぬ。主人幸長の公用の印、又長雲か子孫まてのためとて、榎を多く植えたり。大かたは枯れて、今2、3株あり。
杖いてう江戸鹿子銀杏麻布山善福寺(元麻布1-6)あさぶに有。親鸞上人関東下向の時、誓ていわく、もし我宗旨広らば此杖枝葉あれと言て、杖をたてゝ皈りたまふ。其杖枝葉しけりて今に此地に有。婦人の乳の出ざる者、此木にて療すれは奇端ありと云。
杖銀杏続江戸砂子銀杏麻布山善福寺(元麻布1-6)麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。杖銀杏本堂の左の方にあり。親鸞上人の杖也。祖師当所に来り給ふ時、此法さかんになるへくは此杖に枝葉をむすふへしと、庭上さしおかれし所の木なり。今大木となりて、枝葉しけりたり。乳なき婦人、此木以治療すれば奇端ありとて、樹を裂事おひたゝしくして、枝葉いたむにより、垣をしてその事をいましむ。今は祖師の御供をいたゝくに、乳なきもの、そのしるしありとそ。右の方、開山堂の前にあり。親鸞上人杖を逆にさし置かれし所の木也。よって逆銀杏ともいふ。
楊枝杉江戸鹿子麻布山善福寺(元麻布1-6)これも親鸞上人のさし給ふのよし。山中に有て、岩の中より生したる木也。
楊枝杉続江戸砂子麻布山善福寺(元麻布1-6)是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
颯灑(うなり)柳続江戸砂子麻布山善福寺(元麻布1-6)麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。



 








より大きな地図で 麻布七不思議・麻布の不思議話 を表示

2012年10月22日月曜日

麻布原の首塚

慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで討ち取られた首は、江戸の家康のもとに送られ首実検の後、浅布(麻布)原に首塚を築き、増上寺の源誉上人・玉蔵院忠義法師により供養されたといわれています。しかし、塚自体が現存せず「麻布原」を港区以外とする説もあり正確な場所は分かりませんが、増上寺隠居所(暗闇坂上)あたりと言う説と、西町近辺という説があるようです。また一本松を首塚とする説もあるようです。

一本松坂上の旧西町付近
武徳安民記には、

  「慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数
福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八--中略--を
大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院
忠義に命じ供養せしむ」

とあります。


しかし、関ケ原の戦いは慶長5年(1600年)9月15日に行われた大会戦であり8月28日に首があるはずがありません。そして9月15日には家康は関ケ原に布陣していたので、江戸で法要を営む事など出来る筈も無く疑問が生じたので、この期間の家康の所在を調べてみました。
(青字は家康江戸在府)



慶長5年(1600年)7月21日
家康会津征伐のため江戸を立つ。




一本松付近
7月24日
家康小山着陣。翌日、諸将を集めて上方の異変を告げ、軍議する。




7月28日
諸将小山を陣払いし、西征の途につく。




7月29日
石田三成、近江佐和山より伏見に到着。





8月1日
西軍伏見城を陥落。城将鳥居元忠、松平家忠ら戦死。





8月4日
家康小山より江戸に戻る。





8月10日
石田三成、美濃大垣城に入る。





8月20日
石田三成、島津惟新の兵をして美濃墨股城を守らせる。





8月22日
福島正則、池田輝政ら木曽川を渡り竹ヶ鼻城を落とし、岐阜城に向う。





8月23日
福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、
一柳直盛、井伊直政、本多忠勝ら東軍諸将、織田秀信の岐阜城を陥落。





8月24日
徳川秀忠の中仙道軍宇都宮を発し信濃に向う。




東軍東海道先発隊、赤坂の高台を占領。大垣城に対峙する。





8月25日
西軍毛利秀元、伊勢安濃津城を攻落する。





8月26日
石田三成美濃大垣より近江佐和山に帰る。





9月1日
家康兵3万を率いて江戸を進発。





9月2日
西軍大谷吉継、越前より美濃に入る。





9月3日
家康、小田原着。秀忠、小諸到着。





9月4日
家康、三島着。





9月5日
家康、駿河清見関着。




9月6日
家康、駿河島田着。





9月7日
家康、遠江中泉着。




西軍毛利秀元、吉川広家美濃入り。




9月8日
家康、遠江白須賀着。小早川秀秋の使者が家康の宿陣を訪問。





9月9日
家康、三河岡崎着。





9月10日
家康、尾張熱田に着。秀忠、上田城攻めを中止する。





9月11日
家康清洲城着。秀忠美濃に向う。





9月13日
家康、岐阜着。先鋒の諸将、来謁する。





9月14日
家康、岐阜を発し正午ころ赤坂に到着。





9月15日
美濃関ケ原において大会戦、東軍が勝利をおさめる。

 
このように家康が江戸に居たのは8月4日~9月1日までであり、9月15日以降家康は大阪に向い江戸に帰ったのは翌年の11月であるようです。関ケ原の首実験は確かに行われていましたが、その場所は当の関ケ原で、麻布ではないようです。それでは、麻布の首塚とは?

再読すると「八月二十八日岐阜より使節参着して.....」の部分を見落としていました。このあたりで1,000以上の首か落ちるような戦いは、一つしかありません。それは、8月23日に行われた岐阜城攻めです。

この戦いは関ケ原大会戦の前哨戦とも言えるもので、西軍に属する織田信長の嫡男秀信の守る岐阜城を福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、一柳直盛、井伊直政、本多忠勝ら東軍諸将が攻撃し陥落させた戦いでした。
暗闇坂上
8月23日正面の追手口を福島正則が、搦め手から池田輝政が攻撃を開始し本丸めざしました。しかし先鋒の福島隊は七曲口の激戦で進撃を阻まれ、その間に搦め手の池田隊が本丸に突入して城は陥落し、城主織田秀信は剃髪して高野山に向いました。この時、織田側で最後まで生き残ったのは、側近の者数十名を数えるのみであったといわれています。

これはあまたある中世合戦の中でも異例で、四方を包囲してしまうと死にものぐるいで自暴自棄の
戦いを仕掛けられるので、一方向以上を女子供や逃走者のためにあらかじめ開けておき、そこから離脱させたそうです。しかし、今回の岐阜城責めでは、豊富恩顧の東軍方大名の動静を家康は信じていないので、むりやりその信を得ようと東軍諸将は殺戮の限りを尽くしたようです。

前日から先陣争いで仲たがいしていた福島正則、池田輝政であったが事を憂慮した軍監の井伊、本多によって岐阜城攻めの先陣は両将同時入城という判定を下し、事無きを得ました。
そしてこの戦いは、小山から江戸に戻った家康が東軍の秀吉子飼の諸将への「踏み絵」的な要素も持っていたようです。家康は、この戦いで先を争って手柄をたて、首をわざわざ江戸まで送って来た秀吉子飼の東軍諸将にやっと安心して9月1日に江戸を発することが出来ました。(家康は西軍諸将に裏切りの催促の手紙をこの時期乱発していましたが、自らも東軍の裏切りを最も恐れていました。)

切り取られた首級は続々と東海道を登り、江戸の家康へと送られました。そして、その後も首は続々と送られてきた様で、家康が合戦に参加する決意を固め、9月1日江戸城を発しようと桜田門まで来ると、美濃の軍監からの使者に行き会い首を見参にいれたいとの事で、芝増上寺門前に首桶のまま並べて行軍を休止して実験したといいます。

武徳安民記に記載された、

福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八

を合わせると、430+490+308=1,228


これらから、麻布原の首塚はそのほとんどが織田秀信家臣のものであると思われ、またこの戦いは前記のように関ケ原の戦いの前哨戦の意味も持ちますが やはり、9月15日の大会戦とは、はっきりと区別して「岐阜城攻め」としたほうが良いと思われます。そして、合戦から399年を経た現在も、麻布原の首塚は発見されておらず、元の麻布氷川神社近辺とも、西町近辺とも言われる塚の所在の謎はつきませんが 郷土資料などによると、

この首塚の場所を、
麻布西町6番地辺
と麻布区史(986ペ-ジ)は明記しています。

そして港区史(上)216ペ-ジにも、
元スエ-デン大使館東前あたりに慶長五年首を埋めたという首塚があり、戦前まで家が建たなかった。

また、218ぺ-ジには、
このあたりに慶長五年首を埋めた首塚があるともいうが麻布西町らしい。

とあります。

またこの塚を供養した「源誉」とは家康が江戸入府する際に知遇を経て、増上寺が将軍家菩提寺となる基礎を築いた増上寺第12世で、後に普光観智国師の号を贈られた高僧です。

麻布西町6番地辺とは現在の元麻布1丁目3番地あたりで、現在高層マンション工事中の場所となります(この文章は1999年頃書きました)。私の子供の頃、このあたりは小さな建売住宅が並んでいましたが、首塚の話を聞いた事はありませんでした。また現在まで遺骨が出土したという話もありませんので、事実はわかりません。また、この話を調べるうちに江戸宝暦年間の「怪談老の杖」に暗闇坂付近の話として、

くらやみ坂の上にある武家屋敷にて、あるとき、屋敷の内の土二三間が間くづれて、下のがけへ落ちたり。そのあとより、石の唐櫃出たり。人を葬りし石槨なるべし、中に矢の根のくさりつきたるもの、されたる骨などありしを、また脇へうずめける。そののち、その傍に井戸のありしけるそばにて、下女二人行水をしたりしに、何の事もなく、二人とも気を失ひ倒れ居たるを、皆々参りて介抱して、心つきたり。両人ながら気を失いしは、いかなる事ぞといひければ、私ども両人にて、湯をあみをり候へば、柳の木の陰より、色白くきれいなる男、装束してあゆみ来たり候ふ。恐ろしく存じ候ひて、人を呼び申さんと存じ候ふばかりにて、後は覚え候はず、と、口をそろへて言ひけり。その後、主人の祖母七十有余の老女ありけるが、屋敷の隅にて草を摘まんとて出で行きて見えず。御ばば様の見え候はぬ、と騒ぎて尋ねければ、蔵の後ろに倒れて死し居りける。そのほか怪しき事ありしかば、祈祷などいろいろして、近頃はさる事も無きやらん、沙汰なし。確かなる物語なり。
とあり古来よりこの付近では怪奇現象がおきていたと思われますが、首塚との関連は記されていません。












より大きな地図で 麻布七不思議・麻布の不思議話 を表示