2012年11月7日水曜日

扇箱の秘密

 
江戸末期の永坂
    江戸の頃、越前鯖江藩の江戸屋敷に青木一庵という医師がいた。彼には芝に住む北島柳元という医師の友人がいて、二人は共に長崎の出身の上、同じ頃に江戸に出て来た事もあり、大変に仲が良かった。

寛政元年(1789年)の夏、一庵は腫れ物を患い、激痛で寝込んでしまった。そしてたまらずに、柳元に治療を頼むと、腫れ物が化膿して寝込んでいた一庵の病状も、柳元の徹夜の献身的な治療などで回復に向かった。柳元が一安心して芝に戻っていった後、一庵は藩邸で一人やすんでいた。

激痛が去ったとはいえ、まだ痛みが残り、丑三つ頃(午前2時頃)までなかなか熟睡できないでまどろんでいると、「お願いしたい事がございます。」という女性の声が聞こえた。藩中の女性にしては、尋常でないこんな時刻である。怪しいと思いつつ一庵は「どなたですか?」とたずねると、女性は「私は奥州三春(現福井県)の者でございます。」と答えた。元来、一庵は豪胆な気性だったので、「外にいられては、どなたかわかりません。用があるなら中へどうぞ。」と言った。すると女性は障子をあけて部屋に入ってきた。みると20歳位の青ざめた顔をした女性で、着物の柄もぼんやりとして定かでない。一庵は女性に向かって「ここは、出入りの厳しい大名屋敷である。それにこのような時刻に女が一人であらわれるとは合点がいかぬ。お前は狐狸で、私をたぶらかしに来たのであろう。」と言い、脇差を取ると、女性は涙を流し、

「お疑いはごもっともでございますが、私は決してそのような者ではございません。私は申し上げましたように奥州三春でうまれた女でございますが、お察しの通り、実はこの世の者ではございません。お願いと申しますのは、北島柳元様のところに起居している者が所持する、封じた扇箱(扇を入れておく箱)を貰い受けていただきたいのでございます。」

と言いさめざめと泣いた。

「そのようなことなら、私ではなく北島柳元殿のところへ行って頼むのが筋であろう。」と一庵がたしなめると

現在の永坂
「柳元様のお宅の玄関には 御札が貼ってありますので、私のような者は入る事が出来ません。それゆえ柳元様とご懇意のあなた様にお願い申し上げるのです。」と答えた。

「それでは、その扇箱を貰い受けて、その方に渡せばよいのか」とたずねると、

「いえ、お渡しくださらなくても結構です。いづれの地でも、墓所のある所に埋めて、ささやかな仏事をしていただければ、それで望みは果たされます。どうか、この願いをお聞き届けください。」と言ったので一庵は、

「それならば易いこと、柳元殿に申し上げてみよう。しかし、その箱には何が入っているのか」とただすと、

「それは、持ち主にお聞きくださいまし」と言ったまま、姿を消してしまった。

一庵は、どうも不思議な話だと思いをめぐらしていると、とうとう夜があけてしまった。早速、柳元のもとに大至急来るように使いをだして待っていると、ほどなくかけつけた。一庵が昨夜の不思議な訪問者の話をすべて打ち明けると、柳元もおおいに怪しみ、早速自宅に戻って調べることにした。

家に戻った柳元は、三春から来ている弟子を呼んだが、あいにく銭湯に出かけていたのでほかの弟子に、その弟子の持ち物を調べさせた。すると、はたして文箱の中から、封印をした扇箱が見つかった。元どうりにして弟子の帰りを待っていると、程なく弟子が帰ってきたので早速呼び寄せ、柳元は何か因縁のある品を所持していないかと、問いただした。「そのような物は、持っておりません。」と否定する弟子に柳元は、あの扇箱は何かと尋ねた。扇箱と言われて、弟子はうつむいたまましばらく黙っていたが、やがて意を決したのか、頭をあげて 何故、扇箱のことを知ったのか、柳元に問うた。柳元は一庵から聞いた話をすべて弟子に聞かせると、弟子は、はらはらと涙を流し事の次第を語り始めた。それによると.......

その弟子の家は、三春で細々と農家を営んでいたが、ふとした事から父親が病につくと、わずかな土地も人手に渡ってしまい一家は離散した。弟子は口減らしのために菩提寺の奉公に出された。三年ほど奉公してその後、家族は小さな家を借りて住む事が出来、弟子は近所のいろいろな家の仕事を手伝う雇い人となって暮した。やがて寺で修行した弟子は読み書きが出来たので重宝がられ、太郎兵衛という豪農の専属の雇い人となった。弟子は読み書きの能力を生かした、祐筆の手伝いとして奉公したが、日々太郎兵衛の家族と会っているうちに、その一人娘と恋仲になってしまい、やがて娘は懐妊してしまった。

その頃、娘には婿を取ることが決まり思い悩んでいると、娘は私と駆け落ちをして欲しいと言い張った。ある夜とうとう、言われるままに弟子は娘と手を取って出奔してしまった。娘は家を出る時に二百両 という大金を持ち出し、これで商売をして暮そうと持ちかけた。
あてもなしに、しばらく二人は歩きつづけたが、弟子は太郎兵衛からの大恩と一人娘を失った悲しみを思いまた、不本意ながら二百両を持ち出させた結果に天罰を考え、おくればせながら考えを正しくした。近所に娘も知らない太郎兵衛の縁故の家があることを思い出した弟子は、そこに向った。縁者の家に着くと弟子は娘に旅篭と偽り、家の外で娘を待たせ、家の主人に今までの一部始終を語って、頭をついて深く詫びた。すると主人は弟子の正直に心を打たれ、二百両は自分が預かり太郎兵衛に返すことにして、このまま娘を置いていく事が両方の幸せだと説き、返したお金とは別に7両という大金を弟子に与え商売でも始めるように言った。座敷で眠っている娘を残し、主人にその後をまかせた弟子は、娘への恋慕を振りきって江戸へと一人旅立った。

その後江戸で、松平右近の足軽として奉公した弟子は、主人の用事で他出したおり偶然に故郷の知人と行き会い、いろいろと話をしたなかに、太郎兵衛の娘はその後家に帰り、しばらくして出産したが子供は死産で娘も産後の肥立ちが悪く、ほどなく死んでしまったと聞いた。 弟子はその話を聞くと、娘が不憫でしかたなくなり出家して娘と子供の菩提を弔い暮そうと心に決め、父親に出家を願い出た。しかし父親は出家を許さなかったため、せめて髪をおろそう(当時の医者は剃髪した者が多かった)と北島柳元の弟子となった。

ここまで語った弟子が、扇箱をあけると中には髻(もとどり)と菩提を弔うため自分の血で書いた念仏があった。
柳元は話を聞き終わるとおおいに感じ入り、自分の菩提寺である麻布永坂の光照寺の墓地に髪と念仏を納め、髪塚という碑を建てて盛大に仏事を執り行った。

その晩、かの女性が一庵の枕元に再び立ち、供養の礼とこれで思い残すことは何もない。と告げて消えた。その後、柳元の弟子長吉は、かねてからの望みどおりに、光賢寺の弟子となって出家し、その後修行を重ねて武州桶川の西念寺の住職になった。この話は 柳元の友人、清家玄洞という医師が語ったと言う。

2012年11月6日火曜日

高尾稲荷神社

麻布氷川神社
末社 高尾稲荷神社
    麻布氷川神社の境内には、末社のひとつである高尾稲荷神社が鎮座しています。
この高尾稲荷神社は、戦後道路拡張のため南麻布一丁目(旧竹谷町)から遷座したといわれていますが、江戸期からその元地にあったと仮定すると仙台藩の「邸内社」であった可能性が高いと思われます。
そして高尾とは、俗説とされながらも第三代仙台藩主の伊達綱宗により惨殺されたと伝わる「高尾太夫(二代目高尾太夫・万治高尾)」のことであると想像されます。

仙台藩はこの南麻布の屋敷のほかに品川区大井にも屋敷を拝領していました。品川区が設置したこの仙台藩大井邸の解説板によると、

屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、
その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。

と記されており、この「高尾」がやはり高尾太夫のことであるならば、麻布氷川神社末社の高尾稲荷神社も元は仙台藩邸で高尾太夫を祀った稲荷と考えることもできます。

この高尾稲荷神社の本社は日本橋箱崎町そば(中央区日本橋箱崎町10-7)にある高尾稲荷神社であると思われます。
この箱崎町の高尾稲荷神社にほど近い湊橋の南東詰にある案内板には、


品川区解説板
今より約三百二十一年の昔万治二年十二月皇紀
二阡三百十九年、千六百五十九年隅田川三又
現在の中洲あたりにおいて仙台候伊達綱宗により
遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の
遊女高尾太夫(二代目高尾野洲塩原の出)の遺体
がこの地に引上げられ此れより約八十米隅田川岸
旧東神倉庫今の三井倉庫敷地内に稲荷社として
祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象と
なりかなり栄えておりましたが明治維新明治五年
当時此の通りを日本橋永代通りと謂われ最初
の日本銀行開拓庁永代税務署等が建設にあり
高尾稲荷社は只今の所に
移動しおとづれる人もおおかったが
昭和二十年三月二十日戦災
により社殿は焼失いたし
時代と共に一般よりわすれ
られ年々と御参詣人も
日本橋箱崎町 高尾稲荷神社
少なくなってしまいました。
時折り町名変更につき
当町会名保存と郷土を
見なをそうとの意志に
より高尾稲荷社を
昭和五十年三月再建工事
の折り旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋
骨壺が発掘せられ江戸時代初期の重要な
史跡史料として見直され
ることになり数少ない
郷土史の史料を守るため
今後供皆様のご協力を
お願い申しあげます。
日本橋箱崎町 高尾稲荷神社
日本橋区北新堀町々会




とあり、また、豊海橋(北詰西側)の案内板には、

江戸時代この地は徳川家の船手組持ち場であったが、宝栄年間(1708年)の元旦に、下役の神谷喜平次という人が見回り中、川岸に首級が漂着しているのを見つけて手厚く埋葬した。当時万治(1659年)のころより吉原の遊女高尾太夫が、仙台侯伊達綱宗に太夫の目方だけの小判を積んで請出したのになびかぬとして、隅田川三又の舟中で吊るし斬りされ、河水を紅で染めたと言い伝えられ、世人は自然、高尾の神霊として崇(あが)め唱えるようになった。そのころ盛んだった稲荷信仰と結びつきいて高尾稲荷社の起縁となった。明治のころ、この地には稲荷社および北海道開拓使東京出張所(のちに日本銀行開設時の建物)があった。その後、現三井倉庫の建設に伴い、社殿は御神体ともども現在地に移された。
(昭和57年11月、箱崎北新堀町会・高尾稲荷社管理委員会掲出)




とあり、そして高尾稲荷神社の由緒書には、







高尾稲荷社の由来

万治二年十二月(西暦一六五九年)江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門
抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて、
艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない
全盛をほこったといわれる。

生国は野州 塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九才であった。
その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され、大金をつんで身請けされたが、
彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを
買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に
捨てられた。

その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え
居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。
高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊
高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。 
箱崎 高尾稲荷神社 由緒書
現在この社には、稲荷社としては全国でも非常にめずらしく、実体の神霊
(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。
江戸時代より引きつづき昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く、
縁日には露店なども出て栄えていた。

懸願と御神徳

頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就。

◎懸願にあたりこの社より櫛一枚を借り受け、朝夕高尾稲荷大明神と祈り、

懸願成就ののち他に櫛一枚をそえて奉納する習わしが昔から伝わっております。

高尾が仙台侯に贈ったといわれる句

「君は今 駒形あたり 時鳥」

辞世の句

「寒風よ もろくも朽つる 紅葉かな」

昭和五十一年三月

箱崎北新堀町々会



とあります。




「つるし斬り」と呼ばれるこの高尾太夫殺害事件は、一般的には俗説とされていますが、仙台藩においては、その霊魂を慰めようとしていたのは事実ではないかと思われます。このような事例は水天宮や火の見櫓で有名な赤羽橋の有馬藩邸における化け猫騒動を鎮魂する「猫塚(大正期には「永井荷風がこの塚を探索する様を日和下駄に記しています。)」や、目黒区祐天寺の「累塚」にもみられ、当時の人々の信仰心の強さを示すものと考えられます。
文久二(1862)年御府内沿革図書
江戸末期の文久年間に描かれた地図には仙台藩邸の北西角に「稲荷」があり、また時代は下って昭和8年の地図にもやや場所は違いますが旧仙台藩邸南部と思われる場所に鳥居が描かれています。昭和8年地図は私が地元古老からお聞きした戦前の高尾稲荷神社元地の位置と酷似していることから、ほぼ間違いないと思われますが、文久年間地図の方は、高尾稲荷神社を表すものであるという確証はありません。

またこの事件も、長くもめることとなる伊達騒動の一部としてとらえることもあります。



最後に、この項を書くに当たっては、仙台藩は大藩であったため多くの屋敷を保有していましたが、時代により呼称が変わることもあり、不確実でしたのであえて中屋敷・下屋敷という呼称は使いませんでした。
また、麻布氷川神社末社の高尾稲荷と日本橋箱崎の高尾稲荷を結びつける由緒や言い伝えは麻布氷川神社にも、その他書籍等にも全く残されておらず、あくまでもDEEP AZABUの私見であることをお断りしておきます。また、高尾稲荷が麻布氷川神社境内に遷座したおりには、すでに合祀されていたと伝わる麻布氷川神社のもう一つの末社である「應恭稲荷神社」については、現在のところまったくその由緒が明らかにされていません。

昭和8(1933)年東京市麻布区地積図
に記載された高尾稲荷と思われる鳥居マーク




☆関連項目


       麻布氷川神社

   大蔵庄衛門の稲荷再建
   

















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2012年11月5日月曜日

狸坂・裏麻布st


今回も引き続き、昭和10年発行の「大東京猟奇」という本の「狸坂の狸」をご紹介します。


狸坂下
大正時代位まで狸坂のあたりに石塔や石地蔵を弄ぶ、変わった趣味を持った道楽者の古狸が住んでいたそうです。このあたりは昔から樹木が鬱蒼と茂り、昼間でも婦女子は通るのをためらったほどだったといいます。そして夜のすさびは格別で、よく付近には捨て子があったもので、夜更けに道端で赤ん坊が泣いているのは、珍しくなかったといわれています。

これを知ってか知らずか、ある日たまたま通りかかった人が、可愛そうにと思って抱き上げて家に連れ帰ろうと歩き始めると、不思議な事に何度も坂に戻ってきてしまう。
これはおかしいと思ったら急に抱いていた赤ん坊が重たくなり、良く見ると赤ん坊と思って抱いていたのは石地蔵だった。「これは、噂の狸にしてやられた。」と思って身なりを検めると、泥だらけの石地蔵をしっかりと抱いていたので、祝いの席に呼ばれたために着ていた羽織はかまが泥まみれになっていました。家に帰るとおかみさんに叱られ、次の朝は近所の評判になって笑い者にされてしまったといいます。そしてこのような話は、この界隈では一度や二度ではなく、誰となくこの坂を 「狸坂」と呼ぶようになったといい、この坂の辺りには石塔や石地蔵が、そこここにゴロゴロところがっていたといいます。

また別の話では、麻布十番の料理屋が仕出しを頼まれ、狸坂の民家に届けて、翌朝お勘定を取りに行くと、原っぱの真中に料理屋の皿が 置いてあり、その上には「木の葉」のお代が乗せられていたといいます。
土地の古老の話では、大正時代頃まで実際に狸が住みついていたといわれていますが、つい最近まで坂の途中には大木が生い茂っており、また、一昨年の11月に、この狸坂上と本光寺境内でハクビシンの生息が実際に確認されました。





    狸坂上
  •  坂標 : 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのはへのぼるためか

  •  近代沿革図集 : 猯坂(まみざか)・切通し坂とも


  •  東京三五区地名辞典 : 宮村町と一本松町の境を西へ下る坂。かつて、坂沿いに大きな榎の木があり、根元の洞穴に狸が住んでいたことに因むとする説と、夜になると狸が出て、坂を通る人を驚かせたりしたことに因むとする説がある。一本松町から宮村町にかけての高台を切り通しして開かれた坂で、「切通坂」の別名がある。またかまりの急坂であるため、日の出の頃に坂下から見上げると、ちょうど坂の上から太陽が顔を出すことから、「旭坂」の別名がある。




最近、この狸坂下から十番商店街方面に抜ける道(江戸期には麻布山山塊と内田山山塊のせめぎあう谷間の道であることから「切通し」ともよばれていました。)は、「裏麻布ストリート」とも呼ばれているようで、この狸坂下のDining Bar「青いひみつきち」をはじめ数店の飲食店が提唱しているようです。












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2012年11月4日日曜日

狐坂・大隅坂由来




今回は「大東京猟奇」という書籍から宮村町にある「狐坂」の由来をご紹介します。

明治の初年頃までこの辺りに一匹の化け狐が住んでいて、そばにある狸坂の狸と化け比べを競っていたそうです。
狐というと何故か女性に化けるものと相場が決まっていますが、ここの狐もやはり美しい娘に化けたといわれます。
夜更けになると、この辺りに何処からともなく美しい娘が人待ち顔で現れ、ほろ酔い気分でこの坂を通りかかった若者など が下心を持って声をかけると、むやみやたらとこの辺りを引っ張りまわされ、ヘトヘトに疲れ切ったところで、坂下の溝の中に放り込まれたそうです。そして「アバヨ!」と言うと、突然娘は姿を消してしまったといい、こうした手痛い目にあった者が随分少なくなかったので、この坂を「狐坂」と呼んで用心したものであったといいます。

もし、この時代に私が生きていたら、間違いなく溝にはまっていたと思われる。(^^;
私が中学生の頃、この辺りで夜、身長180センチくらいの和服の「オカマさん」に呼びとめられた事がありましたが、今思うとあれは、趣味の違う狐だったのかもしれません.........。
この狐坂は別名大隅坂ともいい、これは、坂上に江戸初期ころに渡辺大隅守綱貞の屋敷があったのでついた坂名です。そしてこの山全体も大隅山と呼ばれました。

文政町方書上によると 、

町内西の方を里俗に新道とも大隅山とも唱え申し候。この儀は、同所にお役名しれず渡辺大隅守様お屋敷これあり候。これにより右よう相唱え候。
 
とあります。

渡辺大隅守綱貞は近江の国に1,000石を知行する旗本で、寛文元年(1661年)より寛文13年(1673年)まで第5代の南町奉行を勤めました。大隅守が町奉行在任中、医者が訴訟を起しました。

ある医者が5両でライ病の患者を治療した。そしてだいぶ病状も良くなったのでそろそろ治療代を払うように請求した。しかしこれに患者は応じず、まだ直っていないので払う事は出来ないと応じなかったので医者は町奉行所に訴訟に及んだ。双方から言い分を聞いた大隅守は、患者の顔を見るとまだ治っているとは思われないと思ったが、約束なので患者に5両を医者に払うよう命じた。しかし、患者は病気で金を使い果たしてしまい、とても払う事が出来ないと訴え、もっともな事と思った大隅守は働いて返せといった。しかし患者はこの体では雇ってくれるところが無いと言い、大隅守もその言に納得した。しばらく考えた大隅守は医者にその患者を雇って労働で返させてみてはと提案した。しかし、医者はこんな病人を使う事は出来ないと即座に返答したため、大隅守は医者を大声で怒鳴りつけた。自分でも使えないような病人に治ったと言い張るのは詐欺である。よって治療代は支払う必要がないと判決を言い渡し、医者は治療費を諦めることとなったという。

この後、渡辺大隅守は宇和島藩・吉田藩の境界騒動、玉川上水の修復、隠れキリシタンの詮議などの裁決を行い寛文13年(1673年)大目付へと転任しました。しかし1680年に将軍家綱が嗣子のないままに死亡し新将軍綱吉が誕生すると将軍継嗣問題で有栖川家から将軍を迎えようとした酒井忠清が失脚し、越後騒動の再審議が行われた後に「重き約儀にありながら陪臣として曲事あり」として延宝9年(1681年)渡辺大隅守も松平光長との癒着を疑われ八丈島に遠島処分となりました。さらに長男で書院番相馬広綱は陸奥中村へ、次男中奥小姓渡辺綱高は飛騨高山、三男書院番平岩親綱は下野黒羽へお預けとなりました。渡辺大隅守はその後72歳まで配所の八丈島で生を全うしたといわれます。(一説にはこの判決の後、渡辺大隅守は遠島の処分を不服として自決したともいわれます。)その後屋敷跡は幕府の賄組屋敷となりましたが、320年を経た今でもこの山を大隅山と呼び、その山に登る坂を大隅坂と呼び、その名を残しています。

また、江戸期この大隅坂下から狸坂下までは「宮村新道」とよばれていました。

宮村町狸坂下から狐坂(大隅坂)登り口近辺まで(現在の港区元麻布二丁目、三丁目の境界)を里俗に宮村町字宮村新道(または新道)といいました。この地域は正面に大隅山山塊、南に麻布山山塊、北に内田山山塊に囲まれた谷間の道で、まさに「宮村Valley」です。

「文政町方書上」は、


町内西の方を里俗に新道とも大隅山とも唱え申し候。この儀は、同所にお役名知れず渡辺大隅守様お屋敷これあり候。これに右よう相唱え候。その後、上り地に相成り、貞享三寅年お賄組屋敷に相渡り申し候。
また新道から西に登る坂を、
右同所一か所新道西の方南の通りにこれあり、里俗狐坂と唱え申し候。
と記しています。

近代沿革図集には江戸期~1924(大正13)年までは現在の坂に沿って大隅山側にさらにもう一つの坂がみえます。しかし、1933(昭和8)年の地図ではこの坂は消滅しています。もしかしたら、この二本の坂は、一方が「大隅坂」、さらに他の一方が「狐坂」であった可能性も否定できません。

・「三」がキーワード?
字域はほぼ宮村で所属も宮村町ですが、他町会との接点が

・狸坂に面した南側坂下までは一本松町
・狐坂登り口付近から上は三軒家町
にあり、
①宮村町
②一本松町
③三軒家町
の三町が入り組んでいます。 また、
①内田山
②大隅山
③麻布山
の三山に囲まれた谷地(Valley)でもあり、そしてその三山には、

①大隅山と内田山のぶつかる山裾を流れる長玄寺池水流
②麻布山と大隅山のぶつかる山裾を流れるがま池水流
③それらが合流する宮村水流の三水流
 狸坂下は長玄寺裏手の池を源とする長玄寺池水流とがま池を水源とするがま池水流の合流点で、ここで一つとなった宮村水流はさらに、竜沢寺の先で十番通りを北に横切り、吉野川(芋洗坂水流)、ニッカ池、原金池方面から流れる細流と合流して十番通り北側を通りに沿って東進し現在の浪速屋付近で右折して本通りを流れる川(十番大暗渠)となって網代橋を越え古川に流れ込みます。 この狸坂下合流点を「文政町方書上」は、


石橋一か所 渡り長さ四尺 巾三尺町内西の方新道境に横切り下水の上にこれあり
と書いており、宮村町内で唯一の石橋があったことが記されています。

谷道から尾根道へつなぐ坂を歩くと武蔵野台地の最先端部を感じ、「あざぶ」の語源の一つとも考えられる「崖地の辺の意」また、続地名語源辞典による「東京都港区の麻布は麻の布ではなく当て字で意味は不明だが「日本アイヌ地名考」の山本直文説ではアイヌ語残存地名でasam(奥)の意で東京湾が広尾、恵比寿まで入り込んでいた時代につけられた名との説なども宮村新道付近では納得のいくものに思えます。

お伝えしてきた狐坂ですが、実はこの坂の中腹にある市谷山長玄寺あたりから見る夕暮れの東京タワーはたいへん美しく、私の気に入った場所でもあります。私が少年であった昭和40年代前半、東京タワーはどこからでも見えました。しかし、最近は東の方向にはビルが建ち並び、へたをすると坂上からも見ることが出来なくなってきました。そんな折、数年前に映画「三丁目の夕日」のポスターを目にして以来、宮村町に行くと必ず立ち寄るスポットとなりました。余談ですが、少年期にはやはり坂上などで夕暮時に赤くなった富士山も見ることが出来ましたが、こちらはほとんど絶望的な状況となっています。

昭和40年代くらいまでこの宮村新道には商店が密集し、日常的な買物などはここだけで済みました。このような小さな商圏はそこここにあり、コンビニが発達した現在よりも、考えようによってはさらに利便性が高かったのかもしれません。


















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2012年11月3日土曜日

麻布サル騒動

1999年の麻布猿騒動は、テレビなどで連日報道されていたことをご記憶の方も多いと思います。
また新聞にも毎日のように取り上げられ、現在でも各紙の縮小版を見れば当時の過熱ぶりを改めて確認することができます。しかしこれらの報道はきわめて一過性のものであり、ドキュメンタリーとして読み返すとその情報の少なさからの全体像の不明確さに改めて気づかされます。

もちろん速報性を重視した新聞記事やニュース番組には何の責任もない事は百も承知しています
が.....。
高尾山の「麻美(アザミ)ちゃん」
そのような中で「畜産の研究」という専門誌に掲載された日本獣医生命科学大学の羽山 伸一准教授「野生動物と人間の関係調整学-東京麻布サル事件」という論文は唯一騒動の真相を伝える貴重なドキュメンタリーであるといえます。論文は二部構成で、

第一部では、

  • 都心にサル現る
  • サルが都会にいてはいけないか
  • サルは山の動物か
  • 自然に対する時間軸
  • 棲み分けの思想
  • 緑の回廊(コリドー)












第二部では、

  • 麻布のサルは野生か
  • ペット逃亡説
  • 野生サル遺棄説
  • なぜ由来が問題なのか
  • DNA鑑定
  • 出身はアルプス
  • タライ回しにされる動物たち
  • 野生動物シェルターの設置を!














と構成されています。残念ながら書籍の使用許諾が取れていないので内容の詳細は紹介できないのですが、この論文は後に「野生動物問題」と言う書籍の中に収録され、港区図書館にもあるので興味のある方はご一読をお奨めします。

高尾山自然動植物園内のサル園に収容され「麻布で捕獲されたことから”麻美”(あざみ)ちゃん」と命名されたこのメスのサルは、当初野生に戻す予定であったといいます。(東京新聞1999年8/21付によると当初サルは”麻<あざ>”と命名されたようですが、それではあまりにも可哀想という意見が多くなり結局”麻美<あざみ>”と命名されたといいます)
しかし捕獲後に診察を受けた「多摩動物総合病院」の「人に慣れてしまったサルを自然に戻すのは無理」という進言により高尾山サル園に引き取られることになったといいます。さらに捕獲時に採集された血液によるDNA鑑定が行われ、麻美ちゃんは南アルプスの遺伝子を持っていることが判明し、年齢は7~8歳。人間で言えば二十代前半ほどで東京に来る過程において、また食事の摂り方などから人間の関与が確実視されペットとして飼われていた可能性が高いと結論されました。

そして、園での暮らしぶりは高尾山の豆知識サイトに掲載されている「麻布ザル アザミ」に詳細が語られているのでご紹介。

(記事引用はじめ)
~一般的に4、5歳を超えた大人のサルを別の群れに入れるのは極めて難しい。
人に飼育され、社会的な振る舞いができないサルの場合は一層困難になる。
DNA鑑定で「南アルプス」出身と分かり、ペットとして飼われていた可能性が高いとみられていた。
同園では、アザミをサル山の群れに入れるタイミングを探っていました。
捕獲後、環境の変化によるストレスからか、落ち着きがなく歩き回ったり食欲もなかったそうです。
半年は群れから離れたオリに単独で飼い、次に群れ近くのオリで慣らしたが、オリに近づくオスの
腕にかみつくなどしたため、再び離れたオリに戻しました。このオリでアザミは、母親のない子猿
の面倒を見るなど母性愛に目覚め、ほかのメス4匹ともコミュニケーションが取れていたという。~
(記事引用おわり)

前述私が高尾山を訪れたのは1999年12月頃でしたが、そこで見た「麻美ちゃん」は群れから隔離され単独の檻に入っていました。そして檻の中をせわしなく行き来する姿は素人目にも園に馴染んでいるようには見えず、哀れを誘った記憶があります。
しかし時と共に次第に落ち着きを取り戻し園の生活にも馴染んでいった様子が「高尾山の豆知識サイト」記事からも伺えます。

そして、4年あまりを過ごした2003(平成15)年、毎日新聞(2003年4/14朝刊8面)は「アザミ サル山デビューへ」と題した記事で、アザミに母親を失った子ザル「ブルー」が甘えて寄り添っている写真が掲載されており、紆余曲折の後に園の環境に慣れてきたアザミのサル山での集団生活が近いことをほのめかしていた。 しかし、悲劇は突然やってきました。同サイト記事を再び引用すると、

(記事引用はじめ)
~同園は改装工事のため、今年6月[※2003(平成15)年]からサルをサル山から移して飼育し、10月に再びサル山に計30匹のサルを放した際、アザミも群れに入れることにしました。
しかし、アザミはサル山に初めて入った10月6日、オスとのけんかで左腕や足などをかまれた。致命傷ではなかったが、14日になって敗血症を起こし、急死したのです。

篠裕之園長は「猿は群れの中で社会性を身に着けるものだが、アザミにはその経験がなかったのだろう。
サル山に入れる最後のチャンスと思ったが、あだになってしまった」と話している。(毎日新聞)~
(記事引用おわり)

記事に書かれたとおり、残念ながら麻布サルの麻美ちゃんは2003(平成15)年10月14日死亡していたことが判明しました。
毎日新聞2003年12月2日付朝刊8面には「サル社会なじめぬまま...」と題して麻美ちゃんの死亡記事が遅ればせながら掲載されています。そしてその記事の横にはカメラをまっすぐに見据え、穏やかながらも私たちに何かを問うようなまなざしの麻美ちゃんの画像が掲載されています。この画像を見ているとサル騒動から10年目となる今年、南アルプス生まれのサルが何故高尾山で生涯を終えなければならなかったのか?と改めて疑問を感じます。そして「人間と野生動物の関わりを改めて見直す」という問題を解決しない限り、再び麻布近辺に野生動物が現れることが「今後ともない」とは言い切れません。

※麻布でサルが逃げ回った翌年の2000年7/15付読売新聞朝刊には有栖川公園近くの盛岡交番脇にペットとして飼われていた「スローロリス」という種類のサル4匹が遺棄されているのが見つかり、その後の2005年5月には広尾近辺で見つかったサルが北に逃亡した様子が新聞紙上に記載されました。



☆逃走経路






八王子~渋谷
  • 1999(平成11)年6月08日-八王子で野生と思われる猿が住宅街で目撃される
  • 1999(平成11)年6月10日-国立で目撃される
  • 1999(平成11)年6月11日-府中で目撃される
  • 1999(平成11)年6月12日-調布で目撃される
  • 1999(平成11)年6月13日-祖師谷で目撃される
  • 1999(平成11)年6月14日-代田で目撃される
  • 1999(平成11)年6月15日-北沢、目黒、渋谷で目撃される













麻布
  • 1999(平成11)年6月16日西麻布に出没その後、外苑西通りを横断中に車と衝突!ケガ。
  • 1999(平成11)年6月16日読売新聞夕刊3面に「黄色い声、サル逃げ回る」との見出し。
  • 1999(平成11)年6月17日読売新聞朝刊1面に「西麻布サルの大捕物」との見出し。
  • 1999(平成11)年6月17日猿捕獲の専門家「猿田氏」が捕獲作戦に参加しかし失敗。
  • 1999(平成11)年6月18日南麻布フランス大使館(旧徳川邸)の近くに現れ、
    朝食にハムを食べていたのが目撃さた。
  • 1999(平成11)年6月19日フランス大使館付近に引き続き出没。
  • 1999(平成11)年6月20日麻布グランド、麻布高校、桜田神社付近に出没。
  • 1999(平成11)年6月21日六本木交差点で目撃される。ハ-ドロックカフェ付近の民家の屋根で目撃。
  • 1999(平成11)年6月21日鮨屋の前を通る。
  • 1999(平成11)年6月21日幼稚園の「びわ」を食べた。
  • 1999(平成11)年6月21日東洋英和を通りぬけ、おたふく坂方面へ逃走......。
  • 1999(平成11)年6月22日読売新聞夕刊3面に「都心サル気なし?」との見出し。
  • 1999(平成11)年6月24日SonyよりPlayStation用のゲームソフト「サルゲッチュ」が発売され「麻布サルはその宣伝効果を狙ったメーカーの仕業」という根も葉もない噂が広まる。
  • 1999(平成11)年6月29日読売新聞朝刊3面に「部屋のぞく六本木サル-小4パチリ」としてアメリカンスク-ル4年生の男児が近所の知人宅に サルがいると聞きいて行き、窓越しにバナナを持ったサルの撮影に成功したという写真付きの記事が掲載。
  • 1999(平成11)年7月1日狸穴、飯倉に出没。午後1時過ぎに飯倉小学校に現れ,ほとんどの生徒が目撃。
  • 1999(平成11)年8月1日読売新聞朝刊に「都心のサルに子ネコの友達」と題して、
    土着したサルが東麻布の民家で子猫と遊ぶ様子が写真入りで紹介される。
  • 1999(平成11)年8月15日読売新聞朝刊に「麻布のサルついに御用」とあり、14日正午過ぎ「東京アメリカンクラブ」
    のオフィスに入りこんだところを、連絡を受けた上野動物園の飼育員により捕獲されたとの事。
    また、捕獲されたサルはメスで一時園内の動物病院に収容され、
    野生に戻すかを検討すると記事は書いている。
  • 1999(平成11)年8月17日「朝日新聞朝刊には麻布のサル、多摩の動物病院に移送 」 の見出しで、
    14日捕獲された麻布のサルが、上野動物園から東京都福生市の多摩動物総合病院に車で移されたとの事。








































★1999(平成11)年の出来事
・世界人口、60億人突破
・5月アメリカ合衆国オクラホマ州・オクラホマシティを巨大な竜巻が襲う
・7月スター・ウォーズ エピソード1が日本で公開
・8月トルコ西部地震
・9月 新幹線0系電車が東海道新幹線から姿を消す
・9月台湾中部地震
・9月東海村JCO臨界事故発生
・だんご3兄弟がヒット
・10月首都高古川橋付近でタンクローリーが爆発
・12月ミレニアム・カウントダウン
※文中の高尾通信の記事使用を快くご許可下さったサイト管理者様には改めてお礼を申し上げます。

引用部分出典:高尾山の豆知識サイト














2012年11月2日金曜日

麻布を騒がせた動物たち

東京を騒がせた動物たち」林 丈二著(大和書房)という面白い本をみつけ狂喜乱舞してしまったのでご紹介します。
これは主に明治期の東京での動物と人間の珍事件を著者が20年あまりの歳月をかけて丹念に当時の新聞から拾い集めた貴重な資料で、著者はイラストレーターであり、かの路上観察学会会員とのことです。

今回はこの中から麻布近辺の「動物」にちなんだ珍事件の要約をお伝えします。

明治13年1月14日の明け方巡査が巡回中、中ノ橋付近にさしかかったところ雲を突くような大男が足音もなく歩いてくる。これをを訝しんだ巡査が職務質問をすると、その大男は返事もせずいきなり飛びかかって来そうな気配なので巡査がサーベルで切りつけると二太刀目に確かな手ごたえがあり、倒れたそばに行くと尾の太さが30センチもありそうな古狸であった(明治13年1月15日付「読売新聞」)。※これは古川端で遊んだ狸が狸穴にでも帰る途中だったのでは?

また同じ年の2月2日にも今度は三ノ橋で午前五時ころ、巡査に飛びついた狸が退治されている。そしてさらにその前年の明治12年10月8日午前二時半ころ、本村町の荒れ寺裏手で最近提灯を吹き消したり、道がわからなくなる者が続出したので巡回中の巡査がやはり提灯を吹き消そうと藪の中から飛び出してきた狸を、持っていた棒で一撃の下に退治した(明治12年10月9日付「読売新聞」)。

やはり狸坂狸穴坂狸橋などの地名が今でも残る麻布ならではの「狸」との因縁の深さを改めて感じ、狸坂の狸は大正時代まで目撃されたという地元の言い伝えもあながち否定できない。その他にも麻布近隣では、

明治11年11月24日-品川八ツ山下で機関車に化けた狸が本物の機関車に轢かれる。

明治14年5月15日-芝紅葉山で能舞台に現れた狸を馬丁たちが撲殺(明治14年5月17日読売新聞)

明治16年4月17日-芝紅葉館下の水茶屋付近で見つかり、ペットとして飼われていた狸(名称たあ坊)
が病気になって苦しんでいたので見かねた飼い主の水茶屋の使用人が人間用の医者の往診を依頼
しこれにより快復。(明治16年4月21日東京絵入新聞)

明治22年6月19日-上目黒で拾った乳飲み子狸を白金に持ち帰り飼育したら、
親狸が上目黒から頻繁に通い乳を与えた。(明治22年6月25日東京朝日新聞)


明治8年10月-麻布三河台のイギリス人宅の庭にいた野狐が鉄砲でしとめられ、それを貰い受けた人力車夫が酒の肴にして食べた。(明治8年10月19日-東京平仮名絵入新聞)

明治10年12月-芝金杉の蓬莱座では災い事が続いて休業していたが、いつのまにか舞台の下に野狐が住み着いた。これを伝え聞いた座元は「金杉稲荷のお使いが住み着いているとはなんと縁起かよい」と大いに喜んだ。(明治10年12月13日-東京日日新聞)

明治13年11月-浜離宮で狐やカワウソが池の鯉を狙うのでカワウソ退治が行われた。(明治13年11月10日-読売新聞)

明治26年5月-麻布区西町のとある貸し屋敷は家賃が安いのに3日もすると住人が逃げ出してしまい居着かない。夜半を過ぎると家鳴りがして、明くる朝には畳や縁側に血が付いているので、近所の人はこの屋敷を化け物屋敷と呼んだ。この話を聞いて伊藤雄次郎という人が正体を確かめようと夜半に屋敷に行くと、突然家鳴りがしたので驚き見るとそこには一尺七寸の大ヤモリがねずみを追いかけて食らっていた。(明治26年5月19日-東京朝日新聞)

他にも、

明治7年9月18日-芝山内で延宝二年の亀が捕まる。(延宝二年→1674年・明治7年→1874年)

明治8年5月23日-芝愛宕でトンビが油揚げを盗む。

同年6月11日-芝伊皿子で馬が井戸に落ちる。

明治10年2月21日-麻布谷町でナベヅルが庭に舞い降りる。

同年12月-芝金杉で縁の下のムジナが了見の悪い下女だけに悪さをする。

明治12年11月18日-芝金杉で狐が汽車に轢かれる。

明治18年4月-芝高輪南町でニワトリが四角い卵を産む。

明治19年1月10日-三田四国町でキツネがマグロを盗む。

明治34年6月14日-笄町で藪から飛び出た狸を捕まえて飼育。

同年8月-飯倉片町の徳川邸でスズメ合戦。

明治35年10月29日-本村町で柿の木にとまった鷹を生け捕る。

その他にも麻布近辺とは無関係ですが面白ネタとして、

明治6年7月-タヌキに按摩をさせる。(日本橋蛎殻町)

明治9年3月-寝ていたキツネを打ち殺して食べる。(牛込)

同年9月-源頼朝が放した鶴を捕まえる。(南品川)

明治12年5月-ニワトリが犬の子を産む。(紀尾井町)

同年10月-すずめがコレラにかかる。(神田和泉町)

明治13年12月-海水浴場に現れたタヌキがたぬき汁となる。(芝金杉)

明治14年2月-母キツネを料理し、子ギツネに仇を討たれる。(千住)

明治17年5月-仲良しの猫とキツネが井戸で情死。(荏原郡鵜の木村)

明治21年6月-暴れ牛、暴れるだけ暴れて家に帰る。(芝高輪南町)

明治28年10月-酔っ払った猿回しが猿に介抱される。(下谷徒士町)

......きりがないので、このへんで。













2012年11月1日木曜日

麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その2

前回は初の宇宙中継に貢献した東京統制無線中継所を紹介しましたが、そもそも通常の「東京統制無線中継所」は、どんな業務を行っていたのか再び資料を探し始めました。しかし、残念ながら前述のとおり資料をほとんど見つけることが出来ませんでした。

そこで一般的な事項としてNTT中継回線で検索すると、

電電公社からNTT(分割後はNTTを起源として発足した会社等)が所有、管理もしくは運用する、映像、音声、データ伝送などのための電気通信用回線のことであるが、主に電話の市外回線やテレビ局とテレビ局の間を結ぶテレビ回線などをマイクロ波を用いた無線中継伝送により、日本列島を縦貫するように結ぶ手段のようである。当然前項の宇宙中継も麻布の「東京統制無線中継所」が担当したのは筑波山→東京間の国内中継であるので、これに含まれる。そして民放が誕生するとキー局と地方局を結びニュース素材や番組を送信する手段として使用された。また、NHKのNTT中継回線は、アナログ放送・デジタル放送ともに2004年3月頃に完全にデジタル回線(光ファイバー伝送)に移行。さらに全民放128局の全国回線も2006年6月4日深夜に完全にデジタル回線に移行し、この日をもって1960年代にかけて全国に拡大したマイクロ波を用いた中継回線は52年間続いた役目を終えた。(北海道NTT道内中継回線は2008年終了と予定されている。)

とのことで麻布の「東京統制無線中継所」は主に電話の市外回線やテレビ局とテレビ局の間を結ぶテレビ回線などをマイクロ波を用いた無線中継伝送を行う施設であったことがわかりました。そしてその創立は東京-名古屋-大阪間が開通した昭和29年頃かと推測しました。.....と書いたところで参考となると思われるサイトを発見しました。それはNTT退職者のコミュニティサイト「電友会」というサイトで、東京無線支部の「思い出」のなかに麻布の「東京統制無線中継所」とよく似た建物を見つけました。しかし確証がもてなかったのでメールで連絡したが、返事を頂くことは出来ませんでした。
そこで同じページに写っていた「マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑」が麻布にも残されていればこのサイトの画像が麻布のものであることが確定されることに気づき、さっそく現地に向かいました。しかし今はマンションとなっておりやはり違うのかと思い始めたが、ふとマンションの境界線あたりに、あきらかに敷地の雰囲気とは違う緑地をみつけ奥に入ってみると、「マイクロウェーブ幹線創始の地」と書かれた碑が、静かにたたずんでいました。そして、これであのサイトの画像は麻布の「東京統制無線中継所」であることが確定しました。

使用の許諾が取れていないので画像をお見せできないのが残念ですが、昭和29年開業当時の中継所はアンテナは2基のみ南東方面に丸ではなく四角いパラボラアンテナ?がついていて、1958年(昭和33年)東京-仙台-札幌開通時には、丸く見慣れたアンテナが北東方面に2基追加され、さらに1960年(昭和35年)東京-金沢-大阪開通では北西にさらに2基追加され6基のアンテナに、そして1968年(昭和43年)の画像では私たちの見慣れたアンテナになっています。そして中継経路も名古屋・大阪方面の場合、麻布から送信した電波の最初の中継は神奈川県磯子の円海山、次が箱根の双子山そして静岡県清水市山原(やんばら) ~栗岳と続いていることもわかりました。

さらに別の「科学新聞」サイトの「科学者が語る自伝」に元NTT副社長桑原守二氏の項に、

(抜粋はじめ)~昭和三十二年十月末から、今度は現場機関に配属されての養成訓練である。私は東京統制無線中継所(東端と略称した)に配属となった。東端は麻布宮村町にあった。東名阪回線(SF―B1方式)、東仙札回線(SF―B2方式)の統制局である。昭和三十三年五月には東京~金沢~大阪(東金阪)回線が開通し、東京、大阪間がループになった。 東端は全国の無線中継所から兄貴分として尊敬されていた。これは統制局としての権限の他に、優秀な無線の人材が集結していたことによる~ (抜粋終わり)

などとあり、麻布の「東京統制無線中継所」は最先端の技術を担う優秀な人材が集結していたことが伺えます。


○マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑-碑文

昭和29年4月1日東京大阪間を結ぶマイクロウェーブ回線がこの地を起点として開通した。
この回線は4000MHz帯を使用し周波数分割多重市外電話 360回線また放送用白黒テレビジョン信号を、周波数変調方式により伝達するものであった。
無線による周波数分割多重方式は昭和15年米澤滋博士が世界にさきがけ超短波によって実用化し無線の多重化技術の基礎を確立したものである。
戦後黒川廣二博士を中心として諸先輩がこれを発展させ今日の輝かしいマイクロウェーブ技術の進歩をみた。
いまやマイクロウェーブ回線は全国テレビジョン中継はもとより市外電話回線網の中枢をなしている。またこのマイクロウェーブ技術はわが国が開発した自主技術として世界の最高水準を行くものである。
マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑


この碑はこの地がマイクロウェーブ幹線創始の地であることを記念するとともにわが国のマイクロウェーブ技術の発展に寄与された諸先輩の偉大な業績を偲んで建立したものである。

昭和46年12月1日建立



<追記>

東京-名古屋-大阪ルートの全貌がわかったのでご紹介。

東京都港区・麻布~横浜市磯子区・円海山~神奈川県足柄郡・双子山~静岡県清水市・山原(やんばら)~静岡県掛川市・栗ヶ岳~愛知県南設楽郡作手・本宮山~愛知県名古屋市・名古屋中~滋賀県坂田郡・大野木~京都市・比叡山~大阪市・大阪第一端局

しかし、このルートは、昭和43年3月~4月に都内ビル高層化にともなう電波進路の障害のため、麻布宮村町の東京統制無線中継所から、新たに建設された目黒区祐天寺の「唐ヶ崎統制無線中継所」に移されたようです。また、昭和39年12月には、テレビ中継・市外電話回線需要の増大から東京-名古屋-大阪に、全く別の中継所を持つ第二ルートが完成しています。

東京・渋谷統制無線中継所(昭和36年新設)~神奈川県・秦野~静岡県・愛鷹(あしたか)山~静岡県・阿部~静岡県浜松市・引佐~愛知県名古屋市・名古屋中~三重県・石榑~滋賀県・岩間~大阪第二端局

東~名~阪第一ルートのマイクロウェーブ回線の開通日は「マイクロウェーブ幹線創始の地記念碑」の碑文によると昭和29年 4月1日とあるが、電電公社・東京電気通信局発行の「東京の電話(下)」によると、

(522P抜粋-始め)

~昭和29年4月16日、東京・名古屋・大阪を結ぶ465.9キロのマイクロウェーブ回線は開通した。記念すべき開通式は、4月15日、東京(東京会館)・大阪(本町電話局)・名古屋(丸栄ホテル)を結んで盛大に執り行われ、東京会場には三笠宮をはじめ各界の代表が招かれて、「テレビ電話」による記念通話がとりかわされ、その模様はNHKテレビで実況放送された。「顔をみて、 "こんにちわ"、ご披露マイクロウェーブ」(昭和二九年四・一五朝日新聞)....もちろん、どの新聞もの、書き落とせぬ写真つきニュースである。開通の当初には、わずか電話三六通話路とテレビ1ルートを通すに過ぎなかったこのマイクロウェーブ施設の登場は、しかし、こんにちの大きくとびらを開いたもの、戦後文化史上に特筆大書されるべき事項であったのである。~

(522P抜粋-終わり)

とあり、日本初のマイクロウェーブ回線の開通が1日か16日なのかは、残念ながら判断することは出来ませんでした。



<Blog化においての追記>

10年ほど前、この東京統制無線中継所を調べる過程で、この施設がかなり政治的な意味合いを持った施設であったことがわかりました。
日本のマイクロウェーブ通信網の整備を促したのはG.H.Q(アメリカ政府)で、当初この施設はテレビ放送網と抱き合わせの設置計画(VOAがありました。
その放送網とは、創立当初から放送網と社名に明記している「日本テレビ放送網株式会社」に他なりません。そしてその陣頭指揮を取っていたのは、読売新聞社主の正力松太郎でした。

この放送網設置計画は「正力マイクロ構想」とよばれ、当初は日本テレビのみがテレビ放送免許とマイクロウェーブ通信網構築を独占することになっていました。
しかしその後の政治的経緯からテレビ放送は土壇場でNHKにも免許が交付されることになり、またマイクロウェーブ通信網構築は国営企業である電電公社に一任されてしまいます。
そして後年、そのバーターとして正力が手に入れたのは「初代原子力委員会委員長」のポストでした。そして今日に至る日本の原子力行政が始まります。
この一連の政治的流れを知りたい方は、

原発・正力・CIA
日本テレビとCIA  発掘された「正力ファイル」

などの書籍に詳細に記録されています。
気のせいでしょうが、十年前にこの記事を書いたあたりから一時期、当サイトに在日米軍ドメインと自衛隊ドメインからのアクセスが記録されるようになりました。
たぶん気のせいですが......












より大きな地図で マイクロウェーブ幹線 を表示