2014年4月9日水曜日

続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布


前回 「花子とアン」の麻布をお伝えしましたが、今回はその話の原作とされている「アンのゆりかご」に描かれた麻布をご紹介します。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」のシナリオの元となる原作「アンのゆりかご」は村岡花子の孫である村岡恵理が表した祖母の伝記です。
これにより、ドラマよりも細かく村岡花子の生涯が描かれています。

まず目に付くのは、ドラマでは花子が10歳の時に甲府から上京して、いきなり東洋英和女学校(ドラマでは修和女学校)に編入学することになっています。しかし、「アンのゆりかご」では、5歳で一家そろって上京し、現在の南品川(京浜急行青物横丁付近)に居を構え、葉茶屋(茶葉の販売店)をはじめたとしています。
そしてその上京はドラマよりも厳しいものであったようで、「親戚とのしがらみに決別して」の上京と記していますが、残念ながらドラマのシナリオでは、品川在住の部分がすべて欠落しています。

さらに、ドラマでは花子が甲府在住時に大病により生死を彷徨ったことになっていますが、実際には花子が南品川に住んでいた7歳の年に起こったことのようです。
その際辞世の句を詠んだのはドラマと同じで、



          まだまだとおもいすごしおるうちに


               はや死のみちへむかうものなり



と詠んでいました。
そして病気が回復した後には、



      まなびやにかえりみればさくら花 

               今をさかりにさきほこるなり







と詠んだそうです。ここでいう「まなびや」とは上京の翌年に入学した城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)のことで、この小学校には花子が10歳(4年生)まで在籍することとなります。

やや話は前後しますが、この「アンのゆりかご」第一章では冒頭、

~明治36年(1903)春-、10歳になる花子は父に手を引かれ、麻布、鳥居坂の桜並木を歩いていた。~中略~花子たちの脇を、友禅の和装姿の貴婦人を乗せた人力車が通り過ぎて行く。長く連なる赤レンガの壁に囲まれるのは、華族や貴族と呼ばれる特権階級の屋敷である。久邇宮家、三条公美邸、実吉安純邸、明治維新の立役者である大鳥圭介邸、韓国皇太子が暮らす李王家など、貧しい平民の花子にとっては雲の上の人々が暮らす一帯は、近寄りがたい威厳をたたえていた。~(アンのゆりかごP32)

っと、当時の麻布の様子を描いています。この花子が父に手を引かれて歩いた桜並木の先には、もしかしたら当時麻布でも江戸期からの有数の銘木として知られ、太田蜀山人にも、

      永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦

と詠まれた「岡の桜」(現在の麻布総合あたりにあった)も含まれていたのかもしれません。

1903(明治36)年、10歳の花子は東洋英和女学校へ給費生として編入学することとなり、東洋英和女学校寄宿舎での生活が始まります。つまり、この年から20歳で高等科を卒業する1913(大正2)年までの10年間、花子は麻布に居住していたこととなります。

また、この東洋英和への編入学には父の強い希望により実現したのもドラマと同じですが、その背景に品川に暮らしていた家族の犠牲という悲しい側面も持ち合わせていたようです。家族の生活は上京後にさらに困窮を深め、8人兄弟のうち、長女の花子以外の子供は次女と三女の外は全員養子などより親元を離れることとなります。

さらに、東洋英和での生活は苦労の連続であったことが記されていますが、ドラマでブラックバーン校長として登場するの第三代東洋英和女学校校長のブラックモアは校長を4度も務めた方のようで、その写真が「アンのゆりかご」に掲載されています。特に67ページに掲載された、

「明治中期、カナダ・メソジスト協会本部から東洋英和女学校に派遣されてきた婦人宣教師団」

というタイトルのつけられた写真の中で、ブラックモア校長が最後列に写されています。そしてこの写真の中央部には第2代校長のMrs.ラージが写されています。このMrs.ラージは、以前お伝えした東洋英和女学校寄宿舎で起こった強盗殺人事件で夫を殺害され、自身も指を2本失うという重傷を負うこととなる女性です。この事件により重傷を負ったMrs.ラージが帰国するにあたって校長職を継いだのがブラックモアでした。

また同頁に掲載された写真は1900(明治33)年に女学校創立地の潮見坂坂下から現在の校地に移転したばかりの綺麗な校舎・寄宿舎がうつされており、さらに30年後にはヴォーリス設計による校舎へと変貌することとなります。

そして、「アンのゆりかご」は、給費生として寄宿生活をおくる花子たちの様子と、十番商店街の接点も描いています。

~入学して半年ほどたったある日、同室の上級生が放課後、花子を誘った。
「ご一緒にデザートを買いに行きましょう」寄宿舎に「デザート」を持ち込むことは許されており、それは寄宿生の大きな楽しみであった。~中略~鳥居坂を下り、麻布十番の商店街にある松源堂という和菓子屋に入ると、そこにはすこぶる大きな金つばが売られていた。~(アンのゆりかごP48)


「十番わかふるさと」大正期の地図
などどあり、当時の彼女たちの最大の楽しみが「甘味」であったことが記されています。
ちなみに、この「松源堂という和菓子屋」ですが、稲垣利吉氏の著書「十番わがふるさと」巻頭の「大震災前の(1923)麻布十番商店街」というタイトルの地図に「和菓子松玄堂」と記されているのが同店で、現在は麻布薬局(麻布十番1-8-9)となっている辺りだと思われます。



さらに「アンのゆりかご」第三章では1908(明治41)年~1913(大正2)年の動きとして「孤児院での奉仕活動」を取り上げています。

前回お伝えしたとおり、給費生として東洋英和女学校に編入学した花子には「孤児院での奉仕活動」が義務づけられていました。
そこで、時代的にも合致している永坂孤女院での奉仕活動と、開院時の集合写真に花子が写り込んでいる可能性を東洋英和女学院史料室に調査に訪問したのですが、この書籍では花子がその永坂孤女院で奉仕活動をした可能性を完全に肯定しています。
当時の寄宿生は隣接する麻布教会(現在の鳥居坂教会)での日曜学校と聖日礼拝に出席することが義務づけられ、さらに書籍はこのように記しています。

~午前中、麻布教会の礼拝に出席する前に、花子たち数名の給費生は給費生の必修として、東洋英和女学校が運営している孤児院「永坂孤女院」の日曜学校に教師として出向いた。~」(アンのゆりかごP71)


そして岩崎きみちゃん(文中では佐野きみ)が同時期に孤女院にいたことも記されており、書籍には、

当時日曜学校の教師として孤女院に赴いていた花子が、自分の読書経験を生かし、身寄りのない孤児たちに、物語を語り聞かせていた。(アンのゆりかごP72)


と記してきみちゃんと、その孤児院で行われていた日曜学校の先生である花子の面識をほのめかしています。ちなみに当時この日曜学校は麻布中学を創立した江原素六が校長を務めていました。よってこの書籍にはありませんが、おそらく江原素六と花子に面識があったと考えるのが妥当かではないかと思われます。

これまで「花子とアン」と麻布の関係、そしてその原作となる「アンのゆりかご」における麻布との関係をご紹介してきましたが、ドラマの方は麻布での寄宿生活が始まったばかり。今後の展開も楽しみですが、ドラマのシナリオと原作との違いなども確認しつつ、ドラマをより一層楽しむために是非「アンのゆりかご」のご一読をお勧め致します。









 




                    


アンのゆりかご 村岡理恵 著










★関連項目

「花子とアン」の麻布

東洋英和ラージ殺人事件

東洋英和女学院オフィシャルサイト

赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

大森めぐみ教会

永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん
















2014年3月31日月曜日

「花子とアン」の麻布


今日から始まるNHK連続テレビ小説「花子とアン」予告を見ていて、主人公村岡花子・旧姓:安中 はな(吉高由里子)が通うことになる女学校の名前と、友人となる「葉山蓮子(仲間幸恵)」の名前からおやぁ?という思いを抱いてしまいました。それはこの主人公の友人である葉山蓮子とは、柳原白蓮、そして通っていた女学校は東洋英和ではないかと思いました。
安中はなが上京後入学した
東京府荏原郡品川町立城南小学校。
ここから1903(明治36)年、東洋英和
女学校に編入学することとなります。
早速実在する赤毛のアンの翻訳者「村岡花子」を調べてみると、やはりドラマの主人公が通う女学校は東洋英和であり実際に柳原白蓮(ドラマでは葉山蓮子)と交友があったことがわかりました。

村岡花子(安中 はな)は1893(明治26)年甲府生まれで、やがてカナダメソジスト派の甲府教会で幼児洗礼をうけます。そしてドラマとは少し違いますがはなが5歳の年に家族で甲府から上京し、南品川に居住(現在の京浜急行青物横丁辺)して父親はそこで葉茶屋を開業します。そして7歳の時に大病をしたはなは、辞世の句を詠んだといわれています。(ドラマでは甲府で大病をしたことになっていますが、実際には南品川に住んでいた頃のことです。)
その時の辞世の句は、

まだまだとすごしおもいおるうちに、はや死のみちへむかうものなり

というものでした。

そして1903(明治36)年、10歳の時に東京府荏原郡品川町城南尋常小学校から麻布区東鳥居坂町東洋英和女学校へ編入することとなり、ここで出会ったのが柳原白蓮でした。

柳原白蓮(燁子あきこ)は柳原前光伯爵の妾腹の令嬢で1885(明治18)年10月15日生れということなので村岡花子より8歳年上となりますが、柳原白蓮が一度結婚し、離婚した後に東洋英和に入学した関係で村岡花子が柳原白蓮の上級生となっていたようです。

 10歳(16歳との説は誤りとのこと[東洋英和女学院資料室談])で東洋英和女学校に編入した村岡花子には孤児院での奉仕活動が義務付けられ、成績が悪いと即退学という給費生の待遇でしたが当時の東洋英和女学校は、予科(2年)本科(5年)高等科(3年)で、予科と本科の学生は学年で20名ほど。うち高等科まで進むのは6、7名だったそうです。8歳年上の下級生柳原白蓮は24歳でしたが、二人は親交を結び「花ちゃん」、「燁さま」と呼び合う仲であったそうです。また、二人が学んだ校舎は創立地である鳥居坂14番地から1900年に移転したばかりの校舎(現在地)であり、その校舎は後の1933(昭和8)年、西町インターナショナルスクール松方ハウス、明治学院礼拝堂、フレンズセンター、南部坂教会なども設計した建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計する校舎となります。余談ですが、ヴォーリスが東洋英和女学校の設計を依頼されていた校舎の工事中、麻布区役所(現在の麻布総合支所の場所ではなく、当時は麻布仲ノ町角にありました。)の移築を依頼されます。といってもその麻布区役所の建物は元々ヴォーリスの設計ではなかった(東京市営繕課設計とのこと)のですが、移築計画立案と移築後の再設計を依頼されたようです。ちなみにこの建築物は「日本獣医学校(現・日本獣医生命科学大学)」の校舎として現在も使用されています。

話を明治に戻すと、
1933(昭和8)年建築。ヴォーリス設計の雰囲気を残して
近年改築された現在の東洋英和女学院。校舎がこの地に
移転した4年後の1903(明治36)年に「安中はな」が編入
してきます。
「孤児院での奉仕活動義務」に関してもしかしたら?という根拠はありませんが、あくまでも想像としてのお話を紹介します。
それはこの東洋英和女学校が経営母体となっていた「永坂孤女院」についてのお話です。

ご承知の通りこの施設、永坂教会孤児院は、

1894(明治27)年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1904(明治37)年、麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。

とされていますので、安中はな(村岡花子)が学校からもほど近い一本松~本村町~長坂町(現在の十番稲荷神社の場所)と変遷を重ね、永坂孤女院となる施設で奉仕義務を果たしていたと考えるのは無理ではないと思われます。
もしそうだとすると、赤い靴のきみちゃんのモデルとなった「岩崎きみちゃん」とも会っている可能性があります。







同 年 代 の 関 連 年 表
 西 暦 年 号
  事  象
1875年明治 8年1月麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)邸に明治天皇・皇后が行幸
5月麻布市兵衛町の静寛院宮邸に明治天皇・皇后が再び行幸
4年前芝新銭座から三田に移転した慶応義塾構内に演説館が開館。
赤坂溜池の埋め立て始まる。
三田四国町で清水誠がマッチ製造を開始する。
麻布区市兵衛町2丁目63番地で麻布小学校開校。
1876年明治 9年
麻布宮村町暗闇坂下で南山小学校が開校
芝内山(現・飯倉交差点付近)に海軍軍人の社交機関が設置され、のちに「水交社」となる。
1877年明治10年麻布市兵衛町に屋敷を構える静寛院宮(皇女和宮)が静養先の箱根で逝去。
品川~新橋間に無軌道馬車開通。
内務省が三田育種場を設置
西南戦争で西郷隆盛敗死。
10月学習院開校。
E.モ-スが大森貝塚を発見。
1878年明治11年飯倉小学校開校
1879年明治12年三田育種場興農競馬場が薩摩藩邸跡に設置される
1881年明治14年明治天皇が公爵島津忠義麻布本村町邸に岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿を供奉して行幸。古式の犬追い物、相撲を天覧
芝公園で紅葉館が開業
1882年明治15年川村純義狸穴邸がジョサイア・コンドル設計により建設される。戦後この建物は取り壊され東京アメリカンクラブとなる。
麻布区による公共水道の「麻布水道」が完成する。
清原玉は夫となるラグ-サの故郷イタリア、シシリ-島パレルモのカトリック寺院でスカレニア公爵婦人の仲介で挙式をあげ、エレオノラ・ラグ-サと改名した。
江戸期の駒込栴檀林が麻布区日ヶ窪(現在の六本木ヒルズ)に校地を得て移転し、校名を曹洞宗大学林専門本校と改めた。これをもって駒沢大学の開校の記念日となる。
このころ麻布我善坊、三田綱町、白金今里町などで乳牛の飼育が行われる。
1883年明治16年築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。
1884年明治17年カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。
10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。
11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。
1885年明治18年Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。
1886年明治19年一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。
青山練兵場設置
1887年明治20年Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。
4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎
麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校
高輪の伊藤博文邸で憲法の草案を討議
1888年明治21年麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立。
東京天文台が麻布飯倉町に設立される。
トーマス・グラバーが長崎から上京して「芝公園地53号」に屋敷を構える
1889年明治22年芝西応寺に樋口一葉が寄宿。2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問
5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵
7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。
1890年明治23年4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。
7月第一回衆議院議員選挙
江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。
1891年明治24年2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸
4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸
5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。
1892年明治25年5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
このころ 森元三座が盛況する。
1893年明治26年トーマス・グラバーの芝公園邸が火事により焼失。
6月山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。(0歳)
6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。
1894年明治27年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1895年明治28年5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳)
安中はな(村岡花子)が2歳で幼児洗礼を受けクリスチャンとなる。
Mrs.ラージがカナダに帰国。
南山小学校が暗闇坂下から現六本木高校の地に移転、後年藤棚校舎と呼ばれる
新橋~八ッ山間に馬車鉄道開通
1896年明治29年芝給水場完成
1897年明治30年Mrs.ラージが三度目の来日。
1898年明治31年安中はな(村岡花子)の家族(夫婦と子供8人)が一家で上京し南品川に居住する。(5歳)
1899年明治32年4月安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)に入学する。(6歳)
4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。
7月居留地制度が撤廃される。
1900年明治33年洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。
東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。
志賀直哉が父と共に麻布三河台町に転居。
1901年明治34年Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。
7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる。
府立第3高等女学校(現都立駒場高校)が現六本木中学の地で創立。
1902年明治35年1月日英同盟調印発効
7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生
12月ラージ殺人事件解決
本村小学校が創立
旧紀州藩主徳川頼倫邸(現港区立麻布小学校)内に「南葵文庫」が設立される。
1903年明治36年3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。
安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳)
8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳
新橋~八ッ山間に電車開通
三田の慶応グランドで第1回早慶戦野球。
1904年明治37年トーマス・グラバーが芝公園から麻布富士見町に移転する。
麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
2月日露戦争が勃発。
川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。
ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。
1905年明治38年日露戦争が米国仲裁によるポーツマス条約により講和
麻布日ヶ窪の曹洞宗大学林専門本校(後の駒沢大学)が曹洞宗大学と改称する。
古川の埋め立てが始まる。
芝丸山で古墳群が発見される。
1906年明治39年3月市電7系統広尾線(天現寺-青山1丁目)が開通
1907年明治40年笄小学校が創立
1908年明治41年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される
三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。
11月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 天現寺橋 - 四ノ橋間が開業
12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 四ノ橋 - 一ノ橋間が開業
白金で聖心女学院開校
1909年明治42年6月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)一ノ橋 - 赤羽橋間開業
1911年明治44年8月市電六本木線御成門 - 麻布台町(六本木?)間開業
9月岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳
12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 赤羽橋 - 芝園橋間が開業
1912年明治45年6月市電六本木線 (3・8・33系統) 青山一丁目 - 六本木間開業
市電札の辻線(3・8系統) 飯倉一丁目 - 赤羽橋 - 札ノ辻が開業
1913年大正 2年安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。(20歳)
三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル)
曹洞宗大学(後の駒沢大学)が麻布日ヶ窪(現六本木ヒルズ)がら荏原郡駒沢村(世田谷区駒沢)の現在地に移転。
4月市電恵比寿線 (豊沢線、天現寺線とも) 天現寺橋 - 恵比寿(伊達跡)間開業
9月市電目黒線 (4・5系統)(古川橋) - 白金志田町 - 白金郡市境界(白金火薬庫前(上大崎))間開業
9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 古川橋 - 白金志田町(魚籃坂下)間開業
11月東町小学校が開校
1914年大正 3年ヴォーリズ(William Merrell Vories設計による明治学院チャペルが建設される。
2月市電目黒線 (4・5系統) 白金郡市境界(元白金火薬庫前) - 目黒駅前間開業
3月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)芝園橋 - 金杉橋間開業
9月市電霞町線 (6系統)(麻布三河台) - 六本木 - 青山六丁目(南青山五丁目)間開業
北原白秋が十番に転居
1915年大正 4年5月市電六本木線 (3・8・33系統) 宇田川町(浜松町一丁目) - 御成門間開業
1917年大正 6年大倉集古館設立
田町の柳沢邸で坂田三吉、関根金次郎が対局。
1918年大正 7年元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立
板垣退助の妻板垣絹子が広尾に順心女学校を創立
徳川頼貞侯爵邸(現港区立麻布小学校)内にヴォーリズ設計による「南葵楽堂」が設立。
1919年大正 8年9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 白金志田町(魚籃坂下) - 車町(泉岳寺前)間開業
麻布十番に末広座が開業
1920年大正 9年永井荷風が麻布市兵衛町に偏奇館を建てる。
1921年大正10年松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。
6月市電天現寺橋線 (8・34系統系統) 渋谷 - 渋谷橋間開業
1923年大正12年ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設
9月関東大震災
震災直後エノケンが十番商店街で炊き出し
1924年大正13年5月市電天現寺橋線 (8・34系統系統)渋谷橋 - 天現寺橋間開業
1925年大正14年6月市電霞町線 (6系統) 溜池 - 六本木間開業
1933年昭和 8年Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。
東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。

麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。
麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。



さらにこの時代、永坂孤女院に併設されていた「日曜学校」の校長は江原素六でした。
あくまでも想像ですが、安中はな(村岡花子)、岩崎きみちゃん、江原素六には面識があったのではないでしょうか?


詳細はこちらでご確認下さい。

Blog DEEP AZABU-永坂孤女院1908







話を本筋に戻すと....

柳原白蓮は後に大正昭和期の歌人となりますが一方では奔放な性格、そして大正三美人の1人でもありました。この柳原家の屋敷は現在の元麻布にある中国大使館の場所(約3300坪ほど。1922年に箱根土地に売却分譲。)にあったので、ドラマで主人公の村岡花子が下宿することになる屋敷はこの柳原邸がモデルとなっているようです。ちなみに柳原白蓮は南山小学校の卒業生でもあり、1892(明治25)年に南山小学校入学とありますから卒業は18期(明治30年)~20期(明治32年)頃と思われますが、残念ながら卒業名簿には「柳原白蓮」、「宮崎樺子」、「柳原燁子」名での記載はありませんでした。

(※白蓮は南山小学校入学後の1894(明治27)年、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路随光の養女となり小学校も転校となったようですので当然南山を卒業はしていないことが解りました。)


少し時代はさかのぼりますが、村岡花子が東洋英和女学校に編入する二年前の1902(明治35)年
ある事件が14年ぶりに解決します。その事件とは.....。

明治23年(1890年)4月4日、東洋英和女学校に強盗が押し入り、校長であるラージ婦人が傷を負い、さらにその夫であるラージ氏が殺害されるという「ラージ殺人事件」が起きます。当時の東洋英和は、現在の場所とやや離れた潮見坂と於多福坂が合流する地点にあり、潮見坂上に男子校で後に麻布中学として独立することになる「東洋英和学校」がありました。

そして、この男子校には当時江原素六がいました。江原はその年の7月に行われる第一回衆議院選挙に立候補するために静岡から上京し、東洋英和学校幹事(教頭と事務長を兼ねたような役職)となっていました。ちなみに江原は静岡時代にカナダメソジスト派の宣教師として布教活動を行っていましたが、宣教師のままでは立候補できなかったので職業としてとしての「肩書き」を得るために東洋英和学校幹事就任を引き受けたようです。

一方校長夫ラージ氏殺害事件がなかなか解決しない影響から、寄宿生活をしていた学生を心配した親が引き取ることが増えて行きます。
そんな一人に「中野ワカ」という学生がおりました。中野ワカの父(イギリス人)は娘の東洋英和女学校での寄宿生活に危険を感じ、当時東洋英和からもほど近い芝公園に息子名義の屋敷(当時外国人の土地取得・借地は出来なかったため和名を持つ息子の倉場三郎名義で借地する)を持ち(現在の芝妙定院脇にある芝公園テニスコート辺)交友があったトーマス・グラバーに依頼してその屋敷に寄宿することとなります。そして後、グラバーの長男倉場富三郎の妻となります。

一方、村岡花子は1914(大正3)年に東洋英和女学校を卒業すると教師として山梨英和女学校に赴任し、その後東京銀座のクリスチャン系の出版社に勤務することになります。

この村岡花子が東洋英和女学校、柳原伯爵邸で過ごした(ドラマの設定上ですが)頃より少し前(明治中期~後期)のこのあたりは、著名外国人や元勲の屋敷が多くありました。

井上馨邸(国際文化会館→宮村町内田山)
・井上馨転居後同地に屋敷を構えた久邇宮家で生まれた昭和天皇后(香淳皇后)
・同志社設立資金を得るため井上馨鳥居坂邸を訪れた新島襄
北里柴三郎(麻布仲ノ町元麻布区役所前辺)
福沢捨次郎(福沢諭吉子息)(麻布仲ノ町、元の麻布区役所前辺)
高木兼寛(鳥居坂上脇)
柳原前光(現・中国大使館)

松方正義(三田[現・イタリア大使館の本邸]、仙台坂邸[現・韓国大使館]、
西町邸[現・西町インターナショナルスクール松方ハウス])
芳川顕正(宮村町内田山[現・南山小学校上部])
渡辺国武子爵邸(がま池)
ジョサイア・コンドル(麻布三河台町)
トーマス・グラバー(芝公園→麻布富士見町)



周辺地図
そして1889(明治22)年から亡くなる1903(明治36)年までの最晩年を過ごした楠本いね(シーボルトの娘)が東洋英和女学校からもほど近い飯倉片町辺を中心に数度の転居を繰り返し、亡くなったのは東洋英和女学校の母体であるカナダメソジスト教会(現在は東洋英和の一部となっている)のすぐ脇のあたりでした。
(このことから私は個人的に、最晩年の「楠本いね」はクリスチャンであった可能性が棄てきれないとの思いを持っています。)

さらに1908(明治41)年、東洋英和女学校とカナダメソジスト教会が永坂脇(現在の十番稲荷神社の地)に「永坂永坂孤女院」と日曜学校が設立します。
そしてこの日曜学校の校長は江原素六でした。江原は東洋英和学校(男子)から麻布中学を分離する際に東洋英和との関係を絶ったとの記述も多く見られますが、実際にはカナダメソジスト教会を通して東洋英和とのつながりを維持していたものと思われます。

この江原素六が校長をしていた日曜学校の写真が「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」というタイトルで東洋英和女学院の周年誌に載せられています。おそらく開設当時の記念写真だと思われますが、数人の大人と共にたくさんの少年少女が写されています。この中には当時この孤女院で生活をしていた「岩崎きみちゃん」(童謡赤い靴のモデルとなった女の子)が写されている可能性があり、また当時この日曜学校の校長であった江原素六が写っている可能性も(というか、当時は大変に貴重だったと思われる写真撮影に中心となる校長が写っていない方が不自然)

この写真を麻布高校、沼津の江原素六記念館に鑑定をお願いしましたが、残念ながら双方共に「江原素六が写っている確認は出来なかった」というものでした。私の目から見ると。
写真中央部一階奥に首だけ写っている彫りの深い外国人のような顔立ちの男性が江原素六に見えるのですが.....。

詳細はこちらでご確認下さい。

Blog DEEP AZABU-永坂孤女院1908



また、

「カナダメソジストミッションの教育活動-女子教育を中心として-」
という論文には、ラージ事件の様子を、

2 代目校長の Eliza Spencer
は男子校で教えていた Thomas A. Large 夫人となったがトロント市立高等中学をおえ
教員生活を送った気丈な女性で学校経営に手腕を示し任期中に大変な発展をみせた。しか
しその反面不幸な事件に見舞われた。 1890 年 4 月夫妻は夜間侵入してきたふたりの強盗に
深傷をおわされ夫君は即死,夫人もまた重傷を負った。ラージ殺害事件として喧伝され,
警視庁は犯人捜査のため 300 円の賞金をかけるなど異例の措置をとったが迷宮入りとなっ
た。多くの容疑者のなかには自称硯友社員柵山入こと堀本貞一もいた。真犯人は別件逮
捕で服役中のものの自白から 13 年後になってようやく判明したが Large 夫人はその間一
言の愚痴もこぼさなかった。一旦帰国後 1897 年万国婦人キリスト教矯風会から派遣されて
来日した。


赤毛のアン記念館・村岡花子文庫


と記しており、さらに村岡花子・について、
甲府市出身の村岡花子は山梨英和には入らず
東洋英和をえらび高等科を卒業した。童話作家, 翻訳家であると共にラジオの子供の時
間を担当して親しまれ, 戦後は居住地である大田区の教育委員として活躍した。翻訳も
Montgomery の一連のアン物語や Mark Twain のものばかりでなく,シカゴに米国最
初のセツルメント Hull House をたて婦人参政権運動や平和運動の指導者となりノーベ
ル平和賞を受けた Jane Addams の伝記なども手がけている。歌人として知られている
宮崎樺子(白蓮)が不幸な結婚に破れ,のち東洋英和に入学したのは大江スミのすすめに
よるものであった。ここで白蓮は上級生の村岡花子からあたたかく迎えられた(神崎清編
「現代婦人伝」)。白蓮は封建的家族制度の因襲を自から破った女性解放の実践者といえよ
う。戦後は夫君竜介と共に中国を訪問して国交回復の露払いの役を買って出たり,戦争で
長男を失ったことから発心し国際悲母の会を結成して,なくなるまで地域を中心に平和運
動をつづけたりした。
村岡花子が通った大森めぐみ教会

とあります。
いづれにせよ明治期の麻布中央部は居住者の豪華さからいろいろなネタが転がっています。
ここでお伝えした「ラージ殺人事件」については当所思っていた局所的な強盗事件という
見方でお伝えしましたが、当事者末裔の方による情報などを勘案すると、事件は国際情勢も
含めた当時の日本外交の姿勢を根本から揺るがすような事件としての広がりを見せ始めています。
具体的には迷宮入りしていた事件が13年後に解決するという不自然な展開と、その解決には
悲願である不平等条約改正をねらった日英同盟の締結という一見なんの関わりもないことが
もしかしかしたら関与していた可能性をも感じ取りました。そしてそれを推進していた人物は?
....井上馨が浮かび上がってきます。

詳細はいずれお知らせすることが出来ると思いますので、それまでしばらくお待ち下さい。
















★関連項目

続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布

東洋英和ラージ殺人事件

東洋英和女学院オフィシャルサイト

赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

大森めぐみ教会

永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん
 
 
 
 
 
 

2013年9月7日土曜日

麻布氷川神社祭礼の謎

今月14日に例祭を迎える麻布氷川神社ですが、この神社の江戸期の祭礼について調べていると、
天保三年 麻布氷川大明神
御祭禮番付①
年代によって祭りの有り様などが現在とはだいぶ違うものであったことがわかりました。 そしてそのありさまは現在本村町会に保存されている二体の山車人形と獅子頭に込められた製作意図にも反映されているものであることがわかってきました。

天保三(1832)年に描かれた「麻布氷川明神御祭禮番付」にはたくさんの山車が描かれていますが、神輿は宮神輿と思われるものが最後列にあるだけです。
これについて「江戸神輿」(小沢宏著)という書籍の中で麻布氷川神社宮神輿を作成した「宮惣」の五代目村田桂一氏が「江戸神輿の歴史」と題した文中、
~略~東京で祭りといえばすぐに神輿を連想するほど、祭りと神輿をきり離しては考えられない。~中略~しかしかつて江戸の祭りの主役は山車によってしめられていた。 ~中略~山車は神輿よりもはるかに大きく、構造上の制約がないので工夫の余地もあり、奇抜な趣向をもりこむことも自由で、作るほうの立場から見ても好適な素材 といえる。~略~
などと記しており、江戸期における祭りの主役が山車であったことを伝えています。そして同時に山車の豪華さと自由な発想が時には幕府の禁忌に触れたとされており、 さらに明治初期に山車から
天保三年 麻布氷川大明神
御祭禮番付②
神輿へと祭りの主役が変遷した事情を、
・国家神道設立に向けた法令等の変更
・電灯線敷設
・市電開通
など首都ならではの「近代化」という事情をあげており、またこの主役交代は東京以外にはあまり見られないと、神輿主役への変遷を東京独自のものとしていいます。

また、江戸期の祭りについて、
~江戸時代の祭礼で隔年毎に行われていたのは、山王、神田の両社だけで、その(他の)神社の祭礼は必ずしも定期的に行われていたとはかぎらない。
深川八幡では寛政7(1795)年から文化4(1807)年の12年間、浅草三社では天明元(1781)年から文政6(1823)年の四十三年もの長い間祭りが途絶えていたとは、 今日の両社の祭りの盛況を知るものにとってはまさに驚異的な事実である。
このように天下祭偏重の中にあって、江戸の各神社は何年かに一度の祭礼をそれぞれの慣習と世情にあわせてとり行ってきたが、すべての神社に神輿が 整備されているという状態ではなかった。~
と記しており、享保二十(1735)年の記録で「麻布氷川毎年例祭」と記録されているのも、祭礼が毎年行われていたことの特異性を訴えたかった事によるのかも知れません。 しかし麻布氷川神社の
本村町会所蔵獅子頭と山車人形
祭礼も、上記村田桂一氏文章にもある事情から時々の慣習と世情にあわせてとり行われていたことが想像できます。
麻布氷川神社の祭礼は文政五(822)年から天保3(1832)年まで10年間祭礼が開催されなかったとの記述がありますが、天保三(1832)年の祭礼時には 祭礼番付も発行され、また同年には武内宿弥人形(本村町会に現存)が制作されています。 しかし、この年に発行された「麻布氷川明神御祭禮番付」には何故かこの武内宿弥人形は描かれていません。いづれにせよ当時行われた麻布氷川神社の祭礼は化政文化のまっただ中である氏子や氏子町会らの熱望等の世情の高まりから華美な傾向で行われた様子がうかがえます。

そして30年後の文久二(1862)年には名工後藤三四郎により本村町の獅子頭が作成されます。この時代は武内宿弥人形が制作された30年前とは世相が一変しており、世の中は幕末攘夷運動のまっただ中でした。 獅子頭が作成される四年前の安政6(1859)年にアメリカ公使館が麻布山善福寺に設置されたことによる襲撃事件や暗殺事件が麻布周辺で頻発するに及んで、それまで遠い世界の事であった「攘夷」がごく身近な問題として 麻布氷川神社氏子町会や住民にのしかかってきたことが想像されます。

獅子頭は祭りの山車や神輿の巡行では行列の先頭を進み、魔を払う役割を担っていました。想像の域を出ないのですが、この時期に獅子頭を新調したのは祭礼の神輿・山車の巡行道中の間近にいる夷狄(アメリカ公使館員やその場所を訪れる諸外国外交官など)を打ち払い、 祭礼中に攘夷事件が起こらないようにとの願いが込められたものと思えてなりません。








いずれにせよ、多くの住民の不安と切なる願いが込められて作成されたと想像される本村町の獅子頭は、その願いを現代に伝えています。

この貴重な山車人形と獅子頭は当時のままの姿を現在も本村町会が保存しており、麻布氷川神社祭礼時のみ本村町会神酒所で公開されています。










麻布本村町会所蔵山車人形由緒書














麻布本村町会所蔵獅子頭 由緒書


















麻布氷川神社祭礼と一般的な歴史的事象
西暦年号麻布氷川神社祭礼関係事象一般的事象将軍
1735年享保20年8/17麻布氷川毎年例祭享保の改革・享保の大飢饉(1732年)8代吉宗
1791年寛政3年8/17麻布氷川明神祭礼、出し練物等出る。其の後休寛政の改革(1787~1793年)11代家斉
1822年文政5年8/17麻布一本松氷川明神祭礼再興。産子町々出し練物を出す。其後中絶す。町人文化が爛熟(化政文化)・シーボルト長崎に到着(1823年)
1830年文政13年祭礼番付
1832年天保3年武内宿弥人形制作祭礼番付
8/17麻布一本松氷川明神祭礼。四十年目にて産子の町々よりねり物等出る。(文政5年に記載あり。十年ぶりの誤りか)
1838年天保9年8/17麻布一本松氷川明神祭礼。十五日神輿宮下町の仮屋へ御旅立出あり。今日産子町々廻りて帰輿あり。蛮社の獄(1839年)・天保の大飢饉(1833~37年)・伊勢お陰参り流行 12代家慶
1862年文久2年9月 獅子頭制作ヒュースケン暗殺(1861年)・生麦事件(1862年8月)・清河八郎暗殺(1863年)14代家茂
麻布氷川神社の祭礼期日は「東京、わが町 宮神輿名鑑」(原義郎 著)巻末の江戸東京祭礼神輿年表より抜粋


2013年9月6日金曜日

麻布本村町の山車人形と獅子頭(その2)

以前お伝えした麻布本村町の山車人形と獅子頭(その1)の続編として今回は「その2」をお伝えします。

麻布南部(現在の南麻布1~3丁目付近)の麻布本村町は麻布の中でも早くから人が住み着いたところで、その名が示すとおり 麻布の中心的な集落であったといわれています。江戸中期この周辺が、それまでの江戸郊外の「村」から、正徳三(1713)年に江戸町奉行支配下の「町」に編入され 町域となった後も「本町」とは名乗らず「本村町」であった(同様の町名として「宮町」とはならなかった宮村町があります)。そして港区南麻布という無味乾燥な住居表示となった現在まで本村町の名を町会名として残し、 その由緒を伝えています。さらについ近年まで江戸期に町域を更に分割した「(あざ)」名を一時期町会名として残しており、その字名について 本村町会史(久松安 著)には、
~北東の方を「谷の戸」、北の方を「上之町」、西の方を「西之台」、南を「絶江」、延命院の南隣りの町家を「仲南町」と呼んだ。また、曹渓寺門前を 「大南町」と呼び、西福寺あたりを「川南町」と称した。

寛文元年、仙台の松平陸奥守が巣立野に下屋敷を賜るにおよんで、上之町から四の橋に通じる「海道」が新しくできて、道筋に面した町屋を「新町」と呼んだ。~
また、麻布区史は、

○上之町
北の方を指して呼ぶ。
○谷戸町
東北を云った。
○西之台
西の方を指す。一に御殿新道とも云った。これは地続きに白金御殿があったからである。 西の台は単に西に当たる高台と云う意に外ならない。
○絶江
一に絶口に作る。南の三ヶ町、即ち川南町・大南町・仲南町を呼んだ。この称は此の地の曹渓寺を開いた僧絶江和尚徳の成らしむるところである。
○川南町
新堀端とも称し、新堀川南を指す。
○仲町
新町とも云い、絶江の方面を別称した。
と、本村町における字の成立を伝えています。

さらに本村町を南は四之橋にい至り、北は麻布氷川神社~一本松~暗闇坂~鳥居坂を通る往還の尾根道と新たに作られた道筋である「新道」について「御府内備考」を引用して、
往古本村往還は同所東の方町裏に有之、奥州海道と申候。寛文元年丑年中松平陸奥守様御屋敷に相成候節右古道は御同人様御預り地に相成、新に道筋出来致候故新町と唱候 尤其砌は不残百姓商売家に御座候。~  
と、伝えています。


現在港区内で最大の管理区域を有する本村町会には、江戸期から伝わる麻布氷川神社の祭礼に使用された町神輿・山車の装飾品が残されており、その代表的なものが 毎年、麻布氷川神社例大祭時のみ本村町会神酒所に展示される、江戸後期の獅子頭一対と山車人形二体です。



○素盞鳴尊・武内宿弥の山車人形  
      
山車人形と獅子頭
本村町会神酒所の山車人形と獅子頭
   
「素盞鳴尊」山車人形
「素盞鳴尊」山車人形
   
「武内宿弥」山車人形
「武内宿弥」山車人形
      
武内宿弥山車人形の由緒書
本村町会神酒所の山車人形と獅子頭
山車人形の素材は「素盞鳴尊すさのおのみこと」と「武内宿弥たけのうちのすくね(別名:高良大神こうらおおかみ)」で素盞鳴尊は氷川神社のご祭神、武内宿弥は天皇を補佐した忠臣として、どちらも山車人形の素材として比較的多く使われています。 この武内宿弥を素材とする場合、神功皇后と対になっていたり、武内宿弥が幼い応神天皇を抱いているものもよく見かけることがあります。 この応神天皇は大宮氷川神社を勧進したという伝説もあり、氷川社とのつながりも浅からぬものがありますが、残念ながら本村町や他町会に応神天皇の山車人形があったのかは確認できていません。 また応神天皇の別称:誉田別尊命ほむたわけのみことは一般的に八幡神社の祭神であり、御田八幡神社においても主祭神として祀られている神様です。 

そして、同じく本村町会に保存されている昭和45(1970)年に書かれた武内宿弥人形の由緒書には不思議な文言が残されています。 天保3(1832)年に武内宿弥人形が作成された事と共に記されている武内宿弥の経歴は、明らかに御田八幡神社の由緒書きと同一の文章です。

御田八幡神社の遷座遍歴を見ると武蔵牧岡で勧進されたことが記されており、武蔵牧岡は現在の白金・三田周辺と いわれていることから、本村町の一部も牧岡であったとしても不思議ではありません。(麻布御殿が別称:白金御殿と呼ばれていたのと同義) そして本村町の一部の「字」が御田八幡神社の氏子であった可能性も、確証はないが否定もできないと思われます。 

そこで「武内宿弥人形の由緒書」を港区郷土資料館の学芸員にお見せしたところ、前半の御田八幡由緒部分と中盤以降の山車人形作成にまつわる部分は元々違う文章を、昭和45年に一つにまとめたものではないかという見解を示されました。 しかし、私にはこの由緒書は御田八幡と本村町の「いにしえ」のつながりを伝える文言に思えてなりません。

武内宿弥人形は近年、顔の塗り直し・衣装の一部を修復しており、素盞鳴尊人形も胴部の破損により展示が控えられていましたが、現在は修復した上で再び展示が行われています。 この二体の山車人形を修復保存するために昨年、「NPO法人 麻布氷川江戸型山車保存会」が立ち上がったそうで、将来は山車部分まで含めた完全復刻をするための活動が開始されるとのこと、今後の活動が楽しみです。 



○獅子頭
山車人形と共に本村町会には江戸期の獅子頭も保存されています。この獅子頭は雌雄1対の二体あり、由緒書によると文久2(1862)年作成とされています。 これは前述した山車人形が作成されてからちょうど30年後のことで、当時は主に氷川神社の宮神輿渡御の際の行列の先頭を進み、 巡幸路を清め祓うために使用されていたといわれています。時代は下りますが昭和10(1935)年に現在の千貫神輿が新調されたおりの巡行絵図が本村町会会館に残されており、その時の巡行にも先頭付近にこの獅子頭を見ることが出来ます。 そして、それ以来二度と行われなかった麻布氷川神社の宮神輿である千貫神輿巡行に変わって、つい最近までこの獅子頭を神輿に仕立てて本村町内を巡行していたそうです。

なを、この獅子頭の脇に展示されているのは四神の「青龍」と「朱雀」ですが、本来存在したと思われる「玄武」と「白虎」の行方は不明とのことです。  
   
獅子頭(雄獅子)
獅子頭(雄獅子)

   
獅子頭(雌獅子)
獅子頭(雌獅子)
   
獅子頭由緒書
獅子頭由緒書




獅子頭の由緒書で目を引くのは製作者「後藤三四良(郎) 橘恒俊」です。この彫刻師は山車彫刻・寺社彫刻でかなり有名であるようです。天保元(1830)年生まれとの ことなのでこの獅子頭を 作成したのは、恒俊が32歳のときとなり、また千葉を中心として寺社彫刻や山車への彫刻を手がけた彫刻師後藤義光の兄弟弟子であったようで、 父の「三次郎 橘恒俊」は京橋在住。恒俊の名は世襲であったと思われ、明治8(1875)年生まれの三四郎恒俊の子供である3代目恒俊も三四郎恒俊を名乗っています。 

また制作世話役の最上段に書かれている「氷川徳乗院現在栄運」とは、江戸時代すべての神社は別当寺に所属しており、 その寺の住職を別当(社僧)と呼びました。この別当は神事も行っていたので「栄運」という別当が麻布氷川神社の社務も執り行っていたものと考えられます。
★徳乗寺(徳乗院)
真言宗 (古義真言宗 冥松山 徳乗院  芝愛宕 真福寺末寺)
元文5(1740)年開基寂 氷川及び朝日稲荷別当 享保20(1735)年北日ヶ窪より本村に移り維新後廃絶(麻布区史)



○郷土資料館調査  
 





天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付①

天保三年 麻布氷川大明神御祭禮番付①



天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付②

天保三年 麻布氷川大明神御祭禮番付②








平成20年から平成21(2009)年にかけてこれらの祭礼用具について港区郷土資料館の調査が行われた。 その結果を「麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告」として報告書が作成されその成果を、

★調査成果

  1. 山車人形2点  文久二(1862)年
  2. 獅子頭1対(2点)
  3. 幕5点
  4. 屏風1点
  5. 置物(鳳凰・龍)各1点
  6. 御神銘軸物1点
  7. 「氷川社」扁額1点
  8. 「麻布上之町」扁額1点
  9. 昭和41年銘扁額1点
  10. 神酒徳利4点(供箱) 文政十(1827)年
  11. 祭礼絵額1点 昭和10(1935)年

と、記しています。また調査の結語として、

★結語

麻布氷川神社祭礼は、記録によれば天保3(1832)年に山車の巡行を伴う大規模な祭礼が行われなくなったとされますが、その30年後に 一対の獅子頭が奉納(または制作)されていることは、祭礼の変化を考える上で重要です。現在判明している文政13(1830)年・天保3(1832)年 のいずれの祭礼番付にも獅子頭は描かれておらず、文久2年以降に何らかの理由があって祭礼に獅子頭が登場するようになったと考えられますが、 その理由や祭礼での位置付けは今後の課題といわねばなりません。麻布本村町会が管理しているこれらの祭礼用具は保存状態が良好で、 しかも複数の関連資料が周辺に存在します。今後は現地での聞き取り調査を深め、祭礼用具個々の詳細な記録化を行う予定です。
末筆になりますが、この調査に多大なご理解とご助力を惜しまなかった麻布本村町会各位に、深甚の謝意を表します。
などと報告されました。 



これらの貴重な江戸期麻布氷川神社の祭礼用品が本村町に残されているのは、幕末の動乱や震災、戦災そして、バブル期のなんでも金銭化してしまう発想から地元住民が全力で守ったことに 由来していると考えられます。つまり歴史的な資産が残されているのは単なる偶然ではなく、地域住民・町会関係者などの大変な努力の末に現在も引き継がれていると考えるのが妥当であると思われます。 

そして、麻布氷川神社の祭例時、本村町神酒所で年に一度のみ公開されるこの貴重な獅子頭・山車人形を、一人でも多くの方がご覧頂くことを願ってやみません。

◎ 2013年麻布氷川神社例大祭 : 9/14()・9/15(






○関連項目

むかし、むかし1-8 氷川神社
むかし、むかし12-199 本村町獅子頭の彫工 後藤三四郎橘恒俊 
釜無し横丁
むかし、むかし1-17 三田小山町
むかし、むかし4-65 徳川さんのクリスマス~麻布本村町(荒 潤三著)より
二つの東福寺の謎



○参考書籍・資料

・本村町会保存資料集
・麻布区史
・本村町会史
・江戸木彫史
・江戸神輿
・麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告

2013年9月2日月曜日

シーボルトの見た麻布

「赤羽接遇所」跡の飯倉公園

1859(安政6)年7月6日、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと長男のアレクサンダーはイギリス客船イングランド号で長崎に入港した。来日は2度目となるシーボルトは、前回来日時に妻となった滝、娘のイネと1830(天保元)年12月7日以来29年ぶりの再会を果たした。そして、前回27歳の時に来日し34歳でいわゆる「シーボルト事件」で国外退去を申し渡されるまで日本に滞在したシーボルトも63歳となっていた。

前回の来日はオランダ軍医としての来日で秘密裏に諜報活動もその任務として与えられていた(一介の軍医としては不相応の大金を所持し、それにより日本にちなんだ物品・情報を大量に収集していた)が、今回は政府の公式な肩書きはなく、民間の和蘭商事会社(国営の出島商館を解体して民営化されたものだが)顧問としての来日で、日蘭通商条約改正案の持参とコレクションの収集という目的もあった。そして目的を達し和蘭商事会社との契約を終了したシーボルトは長崎滞在中に幕府の外交顧問を依頼され、江戸出府を促された。これにより1861年3月3日シーボルト父子・三瀬周三一行は長崎港をあとに横浜へと向かった。


父子は1861(文久元)年3月10日横浜へ入港し外国人居留地で幕府からの指示を待つ。その間に多くの外国人商人や外交官と親交を深め、特にフランス公使ベルクールとは頻繁に付き合うようになった。
幕府から江戸行きの許可が下りたのは5月になってからで、5月10日の朝、船で神奈川まで行きその先は駕篭に乗って江戸入りを果す。そして一行は夕方、幕府から宿舎に定められた芝の赤羽接遇所に到着した。 (駕籠はフランス公使ベルクールの好意により自身のものを貸し出されたといわれる。) その時の様子を、


~海岸に通じる街道を通り、辻々には木戸や矢来があって閉じられるようになっていて、傍らに火の番小屋のある所を通り過ぎると、赤く塗った門のある有馬候の屋敷の向い側にある、黒い塀で囲まれた玄関前の庭を通って、私たちの宿舎、赤羽接遇所に着いた。~

とアレクサンダーは、書き残している。


赤羽接遇所に着くと役人、日本側通訳、目付などに出迎えられ、その後外国奉行新見伊勢守の来訪により将軍からの贈り物を拝領した。赤羽接遇所には条約締結のため直前までプロシア使節団が滞在しており、建物の柱や壁にはプロシア兵たちの落書きやジョークなどが掘り込まれていたという。

江戸滞在時におけるシーボルトは「幕府の外交顧問」、「西洋文明の伝達者」として講義・面会・助言など多忙を極めた。
また、各国公使、幕府外国担当の要人などに意見具申を重ねたが、滞在直後の5月28日深夜、東禅寺襲撃事件がおこるとその事後処理に忙殺される。そして、シーボルトはオランダの公式な外交員ではなく幕府に雇われた外交顧問という立場から各国代表の反感を買い、横浜で静養し再び江戸に戻った8月15日以降、特にオランダ公使デ・ウィットとの関係は冷ややかであったという。そして9月にはデ・ウィットから頻発する外国人襲撃から身を守るためと称して江戸退去を迫られる。しかしシーボルトはオランダの警護は求めずとして退去要請を無視すると、デ・ウィットは各国代表らと幕府にシーボルトの解雇を求め、無理やりに認めさせてしまう。失意のシーボルトは10月15日ついに江戸を離れ、横浜へと向かった。ここで長男のフィリップは英国公使館の通訳官として正式に任官し江戸へと戻ることになり(父シーボルトは息子がロシア海軍の士官になる道を設定していたが、フィリップの意向を尊重してのイギリス公使館勤務となったという)、これが父子の永遠の別れとなった。その後、横浜から船で長崎に戻ったシーボルトは妻のたき、娘のいね、門弟などに送られて1862年4月30日午前10時、シーボルトを乗せた船は出港し日本を後にした。

以上がシーボルト2回目来日時江戸滞在のアウトラインだが、この期間のシーボルトと麻布の関連キーワードは「善福寺」である。

麻布山善福寺さかさ公孫樹
麻布山善福寺さかさ公孫樹





シーボルトは江戸に到着した直後の5/20・5/21・5/22をはじめとして江戸滞在中、日記に記載されたものだけでも合計9回もハリスを善福寺に訪問している。当時江戸には、アメリカ公使館が麻布山善福寺、イギリス公使館が高輪東禅寺、フランス公使館が三田済海寺、オランダ公館が伊皿子長応寺などにあるが、その中でアメリカ公使館は最初に江戸進出したことから持つ豊富な情報、ヒュースケン事件(シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の詳細を聞き知っていた。)の真相と進捗などを聞き、イギリス公使館は高輪東禅襲撃事件関連での訪問が続いたと考えられる。

そして特筆すべきは5月22日善福寺にハリスを訪問したさいに「逆さいちょう」の観察とヒュースケン・伝吉の墓参を行ったことである。

5月22日、善福寺のアメリカ公使館にハリスを訪れ「逆さ銀杏」を見たシーボルトは、

正午、ハリス邸へ。ヒュースケン、伝吉の墓参り。ハリス邸の寺院の境内に周囲30フィートの太さのイチョウがある。この巨大な樹は、枝分かれの下、高さ12から18フィートあたりの幹から、太さ3から5インチの太い根{気根}が出ている。東ロシアのヴァリンピの樹に似た形である。

私はイチョウの一本を江戸の近くの寺で観察した。その寺は、アメリカ公使館に譲ったものであるが、木は周囲7m、高さがおよそ30mもある

   
ハリスによって造られた ヒュースケンの墓標
ハリスによって造られたヒュースケンの墓標
   
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
   
伝吉(DAN KUT)墓の 碑文表面(英文)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文表面(英文)
   
伝吉(DAN KUT)墓 の碑文裏面 (和文戒名)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文-裏面(和文戒名)


と、帰国後「1886年ライデン気候馴化園の日本植物。説明付き目録の要約と価格表」に記しているが、シーボルトが「逆さ銀杏」を観察し記録した事実はほとんど知られていないという。(シーボルト波瀾の生涯より)

その後、同じ日に麻布光林寺で中の橋近辺で襲撃され命を落とした「ヒュースケン」の墓とその傍らにある イギリス公使館通訳伝吉の墓を参拝した。そして両者の墓碑銘を比較して「静と動の不思議な対比である」と覚書に記している。


(ヒュースケン墓碑銘)

      日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
      1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去


(伝吉墓碑銘)

      伝吉Dan kutchiイギリス使節団付日本人通訳は、1860年1月29日、
      日本の暗殺者たちによって殺害された


















1861(文久元)年シーボルトの江戸滞在
出 来 事
5月 10日 横浜から神奈川を経由して陸路赤羽接遇所に夕方到着
11日 赤羽接遇所員の勤務名簿を受け取る
20日 善福寺にハリスを訪問
21日 善福寺にハリスを訪問
22日 正午再び善福寺にハリスを訪問し「逆さ銀杏」を見る。その後光林寺にヒュースケン、伝吉の墓参。
29日 早朝3時半高輪東禅寺襲撃の知らせがあり、5時過ぎに25人の護衛に守られて東禅寺を訪問し負傷者を治療。
帰路善福寺にハリスを訪問。接遇所も厳重警備となる
30日 高輪東禅寺の英国公使館にイギリス公使オールコックを訪問
6月 3日 安藤対馬守屋敷にて会談。東禅寺襲撃事件の話など
5日 外国奉行鳥居越前守、イギリス公使オールコックが赤羽接遇所を来訪
6日 外国奉行新見伊勢守来訪、水野筑前守らが来訪
15日 子息アレクサンダーが父シーボルトの書簡を持ち善福寺を訪問
17日 善福寺にハリスを訪問、イギリス公使との調停を斡旋
20日 外国奉行津田近江守と会談。赤羽接遇所に新たに警護所が設けられ警備が強化される
7月 1日 冶金学の講義
3日 外国奉行野々山丹後守来訪
10日 遣欧使節団の計画案を作成
11日 子息アレクサンダー誕生日。父シーボルトはマホガニーの箱に入った2連銃を贈る
12日 将軍侍医団が来訪。その中の一人、伊藤玄朴は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟
13日 前日善福寺で暴動(発砲事件)が起こり、赤羽接遇所も厳重警備となる
15日 善福寺にハリスを訪問
16日 将軍侍医戸塚静海来訪。静海は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟。仏公使ベルクール来訪
22日 船で江戸から横浜へ出立。途中鈴ケ森で20歳の娘が放火犯として火あぶりの刑に処せられるのを
偶然見る。※この処刑は八百屋お七ではない(お七の処刑は天和3年(1683)3月29日

7/22-8/14、この間、シーボルト父子は横浜に滞在
8月 14日 朝7時、江戸へと出発
15日 江戸に帰着したことを外国奉行に知らせる。道中で家々の玄関に「月見の祭り(仲秋の名月)」の飾り付けがあるのを見る。
16日 ハリスを訪問
20日 浅草寺へ 芝田町波止場より船で浅草へ浅草寺参拝。浅草では外国掛役人が密かにハリスの警護をした
21日 採鉱学の講義
23日 津和野藩主亀井隠岐守の侍医、池田多仲が来訪
9月 5日 ハリスとクラークが来訪
6日 ハリスとクラークが来訪
7日 善福寺にハリスを訪問
10日 外国奉行水野筑前守来訪。幕府が江戸退去を懇願していることを告げられる
15日 冶金学講義
25日 外国奉行で遣欧使節大使の新見伊勢守、新任の外国奉行、竹本隼人正、根岸肥前守来訪
10月 11日 子息アレクサンダーが横浜に出発
14日 善福寺にハリスを訪問
15日 江戸を出発し横浜に向かう。
(シーボルト日記より抜粋)




1861(文久元)年各国公使館・施設所在地
名 称 公 使 所在地・地図 創設時期 備 考
赤羽接遇所
講武所付属調練所跡 1859(安政六)年8月~ ロシア領事ゴスケビッチ、プロセイン使節オイレンブルグ、シーボルト父子などが滞在
アメリカ公使館 ハリス 麻布山善福寺 1859(安政六)年6月8日~ 子院善光寺はヒュースケン宿舎
イギリス公使館 オールコック 高輪東禅寺 1859(安政六)年6月4日~ 公使館通訳伝吉刺殺事件・2回の高輪東禅寺襲撃事件
フランス公使館 ベルクール 三田済海寺 1859(安政六)年8月29日~ 江戸で3番目の外国公使館。公使館の旗番ナタールが同地にて襲撃され負傷した三田聖坂上にある
オランダ公使館 デ・ウィット 伊皿子長応寺 以前よりカピタン出府時に使用 この時期オランダは長崎出島内に本拠があり公館ではなかったがカピタン出府時などに使用された。この寺は後に写真家ベアトのアトリエが併設される。公館は安政6年に西応寺に設置されたが、慶応3年薩摩藩邸焼き討ちの際西応寺が類焼しここ伊皿子の長応寺が公使館となった。一時期、スイスの公使館員が寄宿していた時期もある。寺は明治期に北海道に移転し現在はマンションとなっている。




      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②









赤羽接遇所跡

赤羽接遇所は、安政六年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同年八月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行十間のものとの二棟の木造家屋から成っていた。
幕末にわが国を訪れたプロシャの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。

昭和四十八年三月

東京都港区教育委員会









参考文献
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録-石山禎一・牧幸一訳
・鳴滝紀要-シーボルト記念館
・黄昏のトクガワ・ジャパン-ヨーゼフ・クライナー
・シーボルト波瀾の生涯-ヴェルナー・シーボルト
・歳月-シーボルトの生涯-今村明生
・文政11年のスパイ合戦-秦新二
・ふぉん・しいほるとの娘-吉村昭
・シーボルト父子伝-ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行-アレクサンダー・シーボルト
・幕末異人殺傷録-宮永孝
・陽だまりの樹-手塚治虫
・ヒュースケン日本日記-青木枝朗訳
・江戸の外国公使館-港区郷土資料館
・近現代沿革図集--港区郷土資料館






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