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2013年1月4日金曜日

鬼平犯科帳の麻布近辺

現在もファンの多い池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」ですが、麻布周辺が舞台となっているタイトルも少なくありません。これは私見ですが、麻布周辺は、町家や商店を支配する町奉行、寺社を支配する寺社奉行、農地を支配する代官などが複雑に入り組んでいたため、盗賊や強盗が管轄以外の場所に逃げ込めたため、物語の作成が容易であったためではないかと想像しています。

それら、麻布周辺にまつわるお話をご紹介します。


麻布周辺が登場するタイトル
タイトル 原作 文庫 テレビシリ-ズNo. 放送 場所
お雪の乳房 兇剣 二巻 白鸚版・吉衛門第5版 1970.1.6・1992.4.28 芝田町~金杉橋
麻布ねずみ坂 兇剣 三巻 白鸚版・吉衛門第7版 1970.4.21・1996.8.21 飯倉片町鼠坂
おしゃべり源八 血闘 五巻 吉衛門第4版 1993.5.12 一ノ橋
礼金二百両 血闘 六巻 白鸚版・吉衛門第7版 1972.3.23・1997.4.23 広尾・愛宕山
本門寺暮雪 追跡 九巻 錦之介版・吉衛門第2版 1982.10.5・1990.12.19 芝二本榎~三ノ橋一本松
消えた男 追跡 十巻 吉衛門第5版 1994.4.27 愛宕山・芝口橋(新橋)
密告 十一巻 吉衛門第8版 1998.4.29 芝西の久保
夜針の音松 一本眉 十三巻 笄橋
赤い空 雲竜剣(長編) 十五巻 吉衛門第5版 1990.10.3スペシャル 芝二本榎~将監橋
剣客医者 雲竜剣(長編) 十五巻 吉衛門第5版 1990.10.3スペシャル 芝金杉
見張りの糸 影法師 十六巻 芝田町
助太刀 助太刀 二十巻 芝二本榎~伊皿子~相模殿橋暗闇坂
おしま金三郎 助太刀 二十巻 錦之介版・吉衛門第5版 1980.5.20・1992.4.15 麻布田島町
二度ある事は 助太刀 二十巻 三田赤羽橋
助太刀 二十巻 芝高輪~品川
瓶割り小僧 春の淡雪 二一巻 吉衛門第8版 1998.4.22 神谷町~鼠坂
麻布一本松 春の淡雪 二一巻 錦之介版・吉衛門第4版 1981.7.21・1993.4.21 一本松本村町広尾
春の淡雪 春の淡雪 二一巻 錦之介版・吉衛門第2版 1982.10.12・1991.3.13 芝西の久保
男の隠れ家 春の淡雪 二一巻 聖坂三田~札の辻
座頭・徳の市 迷路(長編) 二二巻 吉衛門第8版 1995.9.20スペシャル 鼠坂
托鉢坊主 迷路(長編) 二二巻 吉衛門第8版 1995.9.20スペシャル 増上寺・赤羽橋
麻布暗闇坂 迷路(長編) 二二巻 吉衛門第8版 1995.9.20スペシャル 善福寺門前~仙台坂暗闇坂
引鶴 迷路(長編) 二二巻 吉衛門第8版 1995.9.20スペシャル 暗闇坂



この表からも麻布近辺が登場する物語が本当に多い事がわかります。これは実在の長谷川平蔵宣似(のぶため)も当初、火盗改めの助役(すけやく)であったため(明和8[1771]年10月17日~翌年3月5日までで、それ以降は7年間本役を務める。)管轄区域が日本橋より南で、麻布辺も当然含まれました。また小説中での鬼平は、恩人の息子で旗本の細井彦右衛門を屋敷のある芝二本榎に度々訪れています。この道程で麻布を通ることが非常に多いことも麻布が鬼平に登場する要因の一つかと思われます。
また御殿医の井上立泉、神谷町の砥師竹口惣助などの訪問も麻布の登場に一役買っています。 そして、作者の池波正太郎が最も多く登場させている麻布の場所は、東麻布の「鼠坂」だと思われます。



















2019年3月20日水曜日

①高輪台駅・猿町

出発集合場所の高輪台交差点
都営浅草線高輪台駅A2出口と交番

 現在の高輪台駅付近の相生坂(雉子ノ宮坂)は五反田へと下る坂ですが、坂上の旧町名「白金猿町」の由来の一つに「江戸を去る」の去るから猿への転訛とする説もあるようです。
別名:エテ町

もとは白金村のうち、増上寺領であった。午後4時を過ぎると辻切りや追剥ぎが出て人の往来がなくなったので、1651(慶安4)年に「商人町屋にしたい」と増上寺を経て願い出て許可された。1713(正徳3)年から町奉行支配となった。町人百姓入り組みの所である(砂子)。町名の由来は、白金台町を「去る」という意味で「去り町」と里俗に唱えたものが、自然に「猿町」と文字を書き替えたと伝える説(町方書上)、昔東海道の要路で南北朝期の頃、新田義貞が西に向かう時、武運を祈って帝釈天を安置したことから「申町」、つまり「猿町」になった(了真寺伝)とする説がある。「去る」の言葉を忌んで、「えて町」ともいった(港区史)。化政期(1804~1830年)の家数89軒、うち地主15・家主7・店借67。
了真寺

また、この場所は三田用水の最終地点でもありますが、その後余水は南へ向かい目黒川に落ちるものと、細川用水と共に北行し三田台の尾根を伝って聖坂を下り、薩摩藩三田屋敷の周囲を流れてから入間川→重箱堀と流れたものがあるようで、現在の芝小学校には芝西応寺で出土した当時の「木管」が保存されています。


そして、白金猿町の隣には品川台町と記載されていますが、坂途中の雉子神社あたりは、池波正太郎の小説必殺仕掛け人の主人公「藤枝梅安」の住居として設定されています。


★品川台町住民の仕掛人・藤枝梅安
昨日録画消化で映画「必殺仕掛人 梅安蟻地獄-1973年(昭和48年)9月29日公開」を鑑賞。
相生坂
白金台交差点より五反田駅方面へと下る坂
原作は「鬼平犯科帳」「剣客商売」などの池波正太郎ですが、この映画は原作を少しひねったスピンオフのようです。
しかし映画の中で緒形拳分する梅安がいきなり切りつけられたときに発する台詞が、
「だれだ! 私を品川台町の藤枝梅安と知ってのことか?」
っと叫ぶシーンがあり、改めて原作「仕掛人・藤枝梅安 第1話-おんなごろし」を読むと下記の記述があります。
~引用はじめ~
品川台町の通りを南へ下った左手に、「雉子の宮」の社がある。ものの本に、
「このあたりは北品川領、大崎という。慶長ころ、将軍家御放鷹のとき、この社へ雉子一羽飛び入りたり。そのとき神名を問わせられしに、このあたりの百姓たち、山神の祠なるよし申し上げければ、以後は雉子の宮と唱え申すべきむね、上意ありてより、かく号くるという」
などと、しるしてある。
別当は宝塔寺といい、丘の上の社殿を仰ぐ鳥居の右手に、その本堂が在った。
鍼医者・藤枝梅安の家は、この雉子の宮の鳥居前の小川をへだてた南側にある。
わら屋根の、ちょっと風雅な構えの小さな家で、こんもりとした木立にかこまれていた。
~引用終わり~
この「雉子の宮」は昔と同じ国道1号線櫻田通りの高輪猿町(現在の都営浅草線高輪台駅)からJR五反田駅へと下る相生坂途中ににあり、裏手には江戸期まで雉子の宮の別当寺であった宝塔寺も現存しています。
高輪台交差点猿町付近
また文中にある「鳥居前の小川」は三田用水が今里村(現在の港区立白金幼稚園)あたりで分離した余水で、正確には川というより水路であったようです。
この川筋は現在も道路として残されており櫻田通りをトンネルでくぐって上流のNTT関東病院傍から流れていたようです。
そして梅安の家は(って、そもそもフィクションなんですが)雉子の宮から少し下った櫻田通りの中央分離帯あたりと想像しています。
つまり、「仕掛人・藤枝梅安」は品川住民であったようです(って、フィクションですが(^_^;)
このあたりは以前島津山の檄坂でご紹介したあたりにもほど近く、ちょうど島津山と池田山の分離点になります。
しかし江戸期には島津山と呼ばれていようはずもなく(島津家が現在の清泉女子大学の地に屋敷を構えるのは明治期)仙台藩伊達家の屋敷が高台にありました。
また以前島津山山荘通路でご紹介した寿昌寺も梅安宅の近隣で江戸期のこの寺には「時の鐘」が設置されていたようですのでこの鐘の音の描写が小説に現れるのが楽しみでしょうがありません。
余談ですが、檄坂でもお伝えした港区・品川区南端境界はこの相生坂上あたりにありますが、この境界もやはり江戸期に設定された江戸町奉行の職務範囲を表す「墨引(すみびき)」が基準となっているようです。


GoogleMap白金台町歩き

3Dさんぽ214Map

wikipadia-雉子神社

wikipadia-藤枝梅安

◎Blog DEEP AZABU-鬼平犯科帳の麻布
 https://deepazabu.blogspot.com/search?q=%E9%AC%BC%E5%B9%B3



江戸期→現在対比図







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2013年5月27日月曜日

鼬(いたち)坂の島崎藤村


島崎藤村宅跡と鼬坂
1916(大正5)年7月8日、55日間の船旅を経て三年ぶりにパリから帰った島崎藤村は芝区二本榎西町3の留守宅に入りました。しかし帰国してみると次兄夫妻に預けてあった2児とその留守宅の窮状は目も当てられぬほどだったといいます。
藤村はまず次兄夫妻を下谷の根津宮永町に移し、小諸で揮毫領布会を催して金策に走り、早稲田、慶応の講師となって近代フランス文学を講じ、また「故国にかえりて」、「海へ」、童話77編からなる「幼きものに」を刊行、外遊の負債と次兄の儀侠的行動から起きた経済的破綻の改善に努めました。

1917(大正6)年6月1日、藤村は芝区西久保桜川町2番地の高等下宿「風流館」に移ります。ここで藤村は奥の離れ二間を借りてパリのマンション生活を偲びつつ「海へ」の続編と「桜の実の熟する時」を執筆しました。そして大正7年10月27日藤村は、麻布区飯倉片町33に再び転居します。

ここは、天文台近くに住んでいたパリでの生活を偲んで、東京天文台の傍の住居を「風流館」若林又市などに依頼して、探し当ててもらった住まいであった。鼬坂を下りかけたあたりにあった貸家で、藤村いわく、
島崎藤村碑

「どこへ用達に出掛けるにも坂を上がつたり下がつたりしなければならばい」谷間のような所であった。さらに「郵便局へ2町。湯屋へ2町。行きつけの床屋へも56町ある」

と書き残しています。また後に大作の「夜明け前」、地名を冠した「飯倉だより」、童話集「ふるさと おさなものがたり」、「大東京繁盛記」の中で「飯倉付近」を書いてこの地への愛着を披露しました。そしてこの地で藤村は47歳から65歳の18年間を過ごし、生涯の中で最も長く住むことになる家であったそうです。

表題の鼬坂とは「近代沿革図集」によると植木坂鼠(ねずみ)坂の別名。または鼠坂の坂上部分ともいわれています。これは江戸時代から呼ばれていた名で、池波正太郎の小説鬼平犯科帳の「麻布ねずみ坂(三)」にも、ねずみ坂として登場する。





島崎藤村碑 碑文













植木坂




















鼠坂


















より大きな地図で 皇族・貴族・大名・幕臣・文人居宅 を表示
















2013年5月3日金曜日

麻布七不思議-一本松

 暗闇坂大黒坂狸坂を登り切った合流点にある松の木。この木のあたりから上の
麻布一本松
なだらかな坂を一本松坂といいます。
ここは、古い街道筋であったと思われ、松にいつわる伝説がいくつもあります。有名なものでは、源経基がこの傍の民家に宿を求め翌朝この木に装束をかけ、麻の狩衣に着替えたといわれる伝説が残されています。また、京から来られた”松の宮”という高貴な方が、ここで亡くなり衣冠と共に埋葬したことから”冠の松”と呼んだという伝説も。その他にも小野篁が植えたとの説、氷川神社の御神木説、徳川家康が植えた、秋月邸(高鍋藩:現在の麻布中学の敷地に上屋敷がありました。)の羽衣の松、など数々の話が残されています。
現在の松は、3代目の植えつぎで残されたものであるとの事ですが、それ以上の植継がれているという説もあります。

小野篁説では、京都から松乃宮様という方が下ってきて、この松の下で亡くなり、介抱をした小野篁が衣冠と遺体を埋め、松の木を植えた。木造の如意輪観音を安置した。小野某の死後この観音様は現在隣の長伝寺に移されたと伝えています。

★文政町方書上-麻布一本松町
 ~往古当所へ松の宮様と称し奉り候御方京都より御下向これあり、暫くお足を留められ候に終に薨御あそばされ候につき、かねて御介抱され候小野姓の何某御衣冠とも当時の場所に葬り、お墓の印に植えられ候松ゆえ冠の松と唱え候由。右傍に草堂を結び如意輪観音の木像を安置しお跡を弔い申され候ところ、終焉の後、年代知れず、観音は同所長伝寺へ移し、跡へは松の守りに番人差し置き候由。観音は、およそ丈八寸位の座像にて、智証大師の作の由。松の儀は、古来一葉ゆえ一本松と呼び替え候や、明和九辰年焼失致し植え継ぎ候えども、おいおい一葉に相成り申し候。今は氷川神木の由申し伝え高さ三丈六尺八寸、枝東へ二丈、西へ二丈六尺、南へ一丈六尺八寸、北へ一丈六尺三寸、根廻りにて五尺八寸これあり、右へ長さ一丈、幅八尺四方の駒寄せ致し置き、咳の病人平癒の願掛け致し、成就の上は竹の筒へ醴を入れ納め候由に御座候。~
★東京名所図会-一松山長伝寺
 同寺に安置せる観音の木像あり。伝云ふ往昔一本松の枯死したるの際。其の樹皮朽蝕剥落して木心僅かに存せるもの七八寸。其の状観音の立像に類せるより時人之を祀れるものなりと。其傍に一面の石碑あり。丈二尺五寸。幅一尺許り三梵字を刻せり弥陀。観音。勢至の佛菩薩の名號なりとぞ。右方に延文3(1358)年戊戌三月吉日と刻せり。
江戸名所図会 麻布一本松
とあります。 また、狸坂と暗闇坂を挟んだ広大な土地が江戸初期の萬治二(1659)年、幕命によって芝増上寺の隠居地になるまで、このあたりは 麻布氷川神社の社領であったといわれています。これにより一本松は麻布氷川神社のご神木であったといわれ、また、源経基が平の将門の乱により京に逃げ帰る過程として笄橋を渡って一本松に至り、そこで宿を求めたという説も残されており、笄橋伝説、一本松伝説の発祥の元となっています。

続江戸砂子-一本松には、
 天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川(笄川)を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。
とあり、「渋谷八幡東福寺」と明記しています。渋谷八幡は創建を寛治六(1092)年とし、同じ敷地にある別当寺の東福寺は承安三年(1173年)開創と伝わっていますので、これらが正しければ源経基が止宿した天慶2(939)年頃とは年代が合いません。しかし東福寺には経基が竜川(笄川)を渡るときに関守に渡したという笄が残されており、また渋谷八幡の別名「金王丸」は河崎重家(後の渋谷重家、渋谷家の祖)の子で、源頼朝により義経追討の命を受け戦死した金王丸常光(後の土佐坊昌俊)に因むといわれているので、いづれにせよ源氏との因縁は深いとおもわれます。






そして江戸期には一本松からも遠くない本村町薬園坂に源経基の持念仏といわれる七仏薬師が祭られた東福寺薬師堂(正確には医王山薬師院東福寺)が移転してくるのは、単なる同名寺の偶然でしょうか?謎は深まります。(源経基縁の渋谷と薬園坂の両東福寺を江戸初期に庇護したのは家光生誕を祝う於福の方(春日局)でした。)

また同書には続いて天正年間(1573~1593年)の話として、 
安藤広重木版画「麻布一本松」
嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。
とあり、呪いの松とも呼ばれたといわれています。

さらに、
★麻布区史
首塚-一本松増上寺隠居所の辺で、関ヶ原役に岐阜より到着せる多数の首級を埋めた處である。
★文政町方書上-麻布一本松町
~前書一本松の儀、首塚とも申し伝え候えども、この儀は相分かり申さず候。~
とあり、慶長5(1600)年8月に関ヶ原の戦の前哨戦として行われた岐阜城攻めの首を、江戸城の徳川家康が検分後、このあたりに埋めたという説があります。このことから「家康手植え・首塚説」なども伝わりますが、この首塚説には異説もあり、もう少し南側の西町近辺とする説もあるようです。

また、六本木の地名発祥の一説には、
 平安末期、源氏に追われた平家の落ち武者が6人落ちのびてきた。六本木あたりまで来るともはや力が尽きてしまったので、榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てた。しかしその中の一人は、希望を棄てずさらに刀を杖に一本松までさまよったが、ついに力尽きてあとを追った。あたりの村人はこの武者を憐れみ、5本の榎に一本の松をいれて六本木として弔った。そしてこのあたりを六本木というようになったという。
ともあります。

元禄15(1702)年の赤穂事件で討ち取られた吉良上野介は、浅野内匠頭切腹後に鍛冶橋から本所へと幕命により転居されることとなります。その本所屋敷改装中の仮寓先を定説では上杉家高輪屋敷としていますが、麻布区史は、吉良家一本松邸では?という疑問を投げかけており、その一本松吉良邸の合った場所を「府内往還沿革図書」を出典として善福寺北方、本善時・徳正寺・大法寺に取り囲まれた場所としています。またほぼ同時期の元禄16(1703)年に一本松では南部家などとも縁の深い幕府表絵師「麻布一本松狩野家」が「花下遊楽図」(国宝)の筆者、狩野長信の三男・休円清信を祖として誕生しています。

また江戸期の書籍「諸家随筆集」では、当年(寛政10年(1798年))東武七奇の一つとして、
麻布一本松水茶や婆々九十二歳にて、名はかめ、6月朔日、男子を産、其子生れ落てより物言。
とあり得ない話を記していますが、一本松横にあった茶店「ふじ岡」のことでしょうか?
この「ふじ岡」は、松の枝に甘酒を入れた竹筒をかけるとぶら下げると咳が止まるという里俗信仰が一本松に残されてい事から甘酒を売って繁盛したといわれています。

そして樹とは直接関係はありませんが、太平洋戦争末期の昭和20年には本土決戦が叫ばれ、麻布山も巨大な地下壕が建設されていました。この地下壕の宮村町-麻布山善福寺を結ぶトンネルがこの松の下あたりを通っていたことが地元の目撃情報などにより明らかとなっています。詳細はこちらをどうぞ

またさらに麻布区史では、このあたりが古墳であったのでは?と述べていますが、区史が執筆された昭和初期にはその痕跡をとどめないとも書かれています。しかし、この近辺では未完成の石器などが出土しており近辺の石器の製作所跡との説もあります。


麻布一本松
麻布一本松
これらの事象から、
・源経基止宿説
・麻布氷川神社ご神木説
・呪いの松説
・松の宮埋葬説
・小野篁植樹説
・徳川家康植樹説
・首塚説
・秋月の羽衣の松説
・甘酒快癒伝説
・塚の印説
・古墳説
など諸説が現在も伝わっていて、古来より大切にされてきたことが伺えます。


松樹の根元の碑(昭和38年一本松・西町町会建立)によると、
江戸砂子によれば
天慶2年西紀939年ごろ
六孫源経基平将門を征服し
ての帰途此所に来り民家に
宿す 宿の主粟餃を柏の葉
に盛りさゝぐ 翌日出立の時
に京家の冠装束を松の木に
かけて行ったので冠の松と
云い又一本松とも云う
とあり、また、碑の最後には、
注 古樹は明治9辰年焼失に付き植継
昭和20年四月又焼失に付き植継
昭和38年建立 一本松・西町町会が建立した碑
一本松・西町町会が建立した碑
とこの樹が焼失により2回植継がれていることが書かれています。しかし、十番未知案内サイトの解説によると明治9辰年 は誤り(明治9年は辰ではなく子)で明和9辰年の誤記ではと指摘しています。調べてみると確かに明和九(1772)年2月29日には行人坂大火があり麻布も広範囲に罹災しているのでこちらの説の方が説得力があると思われます。
追記:文政町方書上を再読してみると「明和九辰年焼失」とはっきり書かれていました。文政町方書上は町年寄り・名主が幕府に差し出した正式な記録で信憑性が高いと思われるので、十番未知案内サイトの説は、正しかったことが確認されました。
また、この他にも麻布区史によると、文化年間(1804~1817年)に表された「飛鳥川」には、 
   「麻布一本松も先年焼失して、今の松に植えかへ、昔の松の影もなし」 
と記されているといわれていますが、これは1806年文化三(1806)年におこった文化の大火(別名芝車町大火)との関連を想像させるものであり、事実ならば、一本松は江戸の三大大火といわれる「明和の大火」、「文化の大火」で焼失していたことがわかります。
また、麻布生まれの国学者である岩本素白 は著書「山居俗情」の中で、
静かな屋敷町続きの坂の上に、昔ながらの松が一と本。植ゑついだもので、まだ老木といふ程にはなつて居ないが、振りの佳い枝が縁の袖を伸ばして、その下影に在る一基の石灯籠も、その根元を固めた低い石垣も、すべて名所図会そのままの面影を留めて居る。

と昭和初期の松の様子を記しています。

松樹の土台石垣には安政二(1855)年「若者」の文字を彫り込んだ石が埋め込まれ、樹の横には道標として使用されたと思われる古い標石、「家持中」「世話人 若持中」「文化四丁卯年(1807年)」と書かれた石灯籠、そして何か曰わくがありそうな古そうな石などがあります。この古そうな石のうちの一つをよく見ると墓石であり、
寛文六?年(寛文六(1666)年は辛酉だが一文字しか入っていないような...)
為其月妙林信女
六月三日
と表面に彫られています。松樹との因果は不明ですが、寛文六(1666)年とのことで、江戸初期のものであることは間違いないようです。

さらに麻布区史では秋月の羽衣松について、
今の一本松を云った。江戸繪図を見ると、秋月候の邸地とは大分離れてゐるから、或は別に邸内に一本松があつたのかとも思はれる。その由因は今詳らかにしない。
江戸の華名勝會-三番組、 麻布一本松
江戸の華名勝會-三番組、麻布一本松、六孫王経基・嵐雛助(歌川豊国)/元治元(1864)年二月出版
とありこの一本松との関連を、それとなく否定しています。しかしこれらを含めて、
・秋月の羽衣松→高鍋藩麻布一本松邸
・一本松狩野→麻布一本松狩野家
・南部盛岡藩邸→江戸麻布一本松御下屋
・三井家→一本松町家(連家)
などと、一本松を冠した呼称・家名が使用されていました。昭和四十年代期に一本松三井家の跡地は空地として近隣少年の格好の遊び場で、三井さんの原っぱ、わんわん原っぱなどと呼ばれていました。これは「薩摩っ原」、「有馬っ原」などと同義の呼称だと思われます。また、この一本松町家屋敷と一本松狩野家以外は実際の一本松とはかなり離れており、江戸期の「一本松」は、広範囲で使われた呼称であると考えられます。

余談ですが、三井家はこの一本松町家の他にも麻布近辺には、伊皿子家(本家)・本村町家(連家)・永坂町家(連家)などの連枝があり、さらに総領家である北家三井八郎衛門高公邸は笄町にあったものが江戸東京たてもの園に移築され一般公開されているそうです。(詳細はウィキペディアでどうぞ。)


★江戸鹿子-壱本松
あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。
★続江戸砂子-一本松
一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。

       ★麻布一本松町の起立
正徳三(1713)年多くの麻布の村々がそれまでの代官支配(村)から町奉行支配の(町)へと移行し、麻布一本松村も麻布一本松町として起立します。1869(明治二)年麻布台雲寺門前を合併。同五年、長伝寺、大法寺、賢崇寺などの寺地と武家地跡を合併し、町域を広げた。「麻布」の冠称は1911(明治四十四)年まで。しかし港区が成立した1947(昭和二十二)年旧区名の冠称により再び麻布一本松町と改称します。同三十七年、北東部が新住居表示により麻布十番二丁目となり、同四十一年残地が元麻布一、二丁目となります。また、一本松町会は西町町会と合併し一本松・西町町会となりましたが、残念ながら1990年代頃に活動を休止し、現在に至っています。よって現在は麻布氷川神社の氏子町会としての一本松町会神輿は出ていません。


★一本松坂

西町から一本松町へ下る坂で、坂の途中東側の一本松に因む坂名です。かつては暗闇坂と分岐して東へカーブするあたりもから下(現在の大黒坂)も一本松坂と呼んでいましたが、坂下の栄久山大法寺境内にある大黒天が有名になったことから、大黒坂と呼ばれるようになったようです。

★その他


五大臣祝賀会
1916(大正五)年、寺内内閣の組閣に際して麻布区在住者が五人同時に国務大臣となったことから、12月3日その祝賀会が暗闇坂上の藤田家一本松町で行われました。(一本松町会の町域は狸坂下西部分にまで及んでいました。)

        ◆クレージー黄金作戦
1967(昭和42)年に製作されたクレージーキャッツ主演の映画で東宝三十五周年記念「クレージー黄金作戦」では映画のオープニングでタイトルバックと共に一本松阪から大黒坂を降りてくる主人公(植木等)が描かれており、一本松三井家跡地の通称「わんわんはらっぱ」も写り込んでいます。 
余談ですが、この映画は渡辺プロの強力なバックアップから当時としては珍しい一本立て興業として上映され、アメリカロケ、ドリフターズ・加山雄三らの出演と周年記念にふさわしい豪華な内容となっています。










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・鬼平犯科帳の麻布近辺
・呪いの狂歌
・宮村町の宗英屋敷
・続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )




















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