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2015年11月8日日曜日

麻布の三井家~広岡浅子の麻布

NHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公白岡あさ(実名:広岡浅子)の実家は京都の今井家となっていますが、実際は後に財閥となる三井家で、江戸期には「出水三井家」と呼ばれていました。そしてこの出水三井家は、明治になると京都から東京小石川に移ったことから小石川三井家と呼ばれるようになります。

この小石川三井家は「三井十一家」と呼ばれる中でも「本家」と呼ばれる六家のひとつで他に、「連家」とよばれる家系もありました。



・-明治以降の三井家-・

麻布今井町三井邸

★北家(惣領家:高利の長男高平の子孫。高平は初代八郎右衛門。以降代々八郎右衛門を襲名し当代は十二代永乗)


◆本家(高利の男系子孫)

・伊皿子家
・新町家
・室町家
・南家
・小石川家



◇連家

・松坂家(長女みねとその夫孝賢の子孫)
・永坂町家(五男安長の長女みちとその夫高古の子孫)
・五丁目家(北家8代目高福次男高尚の子孫)
・一本松家(伊皿子家6代目高生次男高信の子孫)
・本村町家(小石川家7代目高喜次男高明の子孫)








伊皿子三井家跡地
 







本村町三井家跡地
 







一本松と一本松三井家跡(左手正面マンション)





永坂三井家跡地(フィリピン大使館)







三田綱町三井倶楽部
(元北家(惣領家)十代八郎右衛門・高棟の別邸)











麻布周辺の三井関連邸
家 格名 称所有者家 系所在地(地番)坪 数備    考
北 家
(惣領家)
今井町邸三井 高棟十代当主。十五代八郎右衛門。三井高福の八男。麻布区今井町42約13,500十代八郎右衛門本邸。庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」などを完備。1906(明治39)年完成。昭和20年空襲により焼失。
笄町邸三井 高公十一代当主。十六代八郎右衛門。高棟の次男麻布区笄町146,147・牛坂辺の港区西麻布4-13あたり。1952(昭和27)年建築。1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存。
宗 家
伊皿子家三井 元之助高利(※1)の次男高富の子孫芝区伊皿子町48~512,214.31三田台公園辺
連 家
本村町家三井 養之助小石川家7代目高喜次男高明の子孫麻布区本村町163~1712,281.22薬園坂辺
一本松家三井 高信伊皿子家6代目高生次男高信の子孫麻布一本松町17~19元麻布1-1-15辺(栄久山大法寺隣接地)
永坂町家三井 守之助高利の5男・安長の長女みちとその夫、高古の家系東鳥居坂町6,7-1945.34現フィリピン大使館敷地
その他
三田綱町別邸三井 高棟十代八郎右衛門高棟の別邸港区三田2-3-79,916.46高棟の別邸。ジョサイア・コンドル設計。現三井倶楽部。
材木町広岡邸広岡 恵三広岡(旧姓:一柳)恵三は広岡信五郎・浅子夫妻の長女「亀」の婿養子。ヴォーリズの妻となる一柳満喜子の実兄。麻布区材木町63広岡浅子終焉の地。享年71歳。1916(大正5)年ヴォーリズ設計。


※屋敷の所有者は創設時のものです。

※1三井 高利(みつい たかとし、元和8年(1622年) - 元禄7年5月6日(1694年5月29日))は、江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。(wikipediaより)





北家(惣領家)十代八郎右衛門(高棟)は1906(明治39)年、麻布今井町に大邸宅「麻布今井町邸」を建設し、諸外国の要人や皇太子なども訪れ晩餐会などが行われていたそうです。
この麻布今井町邸は現在の赤坂氷川神社の正面にあるアメリカ大使館宿舎の位置とほぼ重なります。この屋敷は約1万3,500坪という広大な敷地に庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」まで完備していました。しかし、残念ながら1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいます。
この高棟の三田綱町別邸は「三井倶楽部」として現存しています。
そして戦後に総領家当主となった高棟の息子十一代八郎右衛門(高公)は1952(昭和27)年麻布笄町牛坂に麻布笄町邸を建設します。
この邸宅は1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存しています。

また広岡浅子の実家である小石川家七代当主となる養子の三井高喜は広岡浅子からみると26歳という歳の離れた義兄で、浅子に商売を伝授したといわれています。この高喜の次男である三井高明が三井の連家となる「本村町三井家」を興します。余談ですがこの広岡浅子の血筋に繋がる小石川三井家の末裔として日本テレビのプロデューサー井原高忠(ザ・ピーナッツ、とんねるずの名付け親で11PMのプロデューサー)がいます。

また、麻布周辺にあった三井家関連のお屋敷は本村町三井家の他に、北家(惣領家)、十代八郎右衛門(高棟)は1906(明治39)年、麻布今井町に大邸宅「麻布今井町邸」を建設し、この広大屋敷地を持つ屋敷では諸外国の要人や皇太子なども訪れ晩餐会などが行われていたそうです。
この麻布今井町邸は現在の赤坂氷川神社の正面にあるアメリカ大使館宿舎の位置とほぼ重なります。この屋敷は約1万3,500坪という広大な敷地に庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」まで完備していました。しかし、残念ながら1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいます。

この高棟の三田綱町別邸は「三井倶楽部」として現存しています。
また、戦後に総領家当主となった高棟の息子十一代八郎右衛門(高公)は1952(昭和27)年麻布笄町牛坂(現在の若葉会幼稚園辺)に麻布笄町邸を建設し、後に現在の麻布税務署裏手に屋敷を移転ます。
この笄町邸は1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存しています。
また本村町三井家と同じ「連家」として、

・永坂町家(五男安長の長女みちとその夫高古の子孫)

・一本松家(伊皿子家6代目高生次男高信の子孫)

 そして伊皿子にも本家筋となる、

・伊皿子三井家

などが存在しました。







広岡浅子の実家三井家と麻布のつながりを紹介してきましたが、浅子の夫(ドラマの設定:白岡新次郎:主人の本名は広岡信五郎)婚家である加島屋(ドラマでは加野屋)は後に大同生命を創業し、浅子も創業者の一人となります。

そして1919(大正8)年1/14、腎臓炎のため臨終の浅子は麻布材木町の広岡邸で息を引き取りますが、この屋敷は現在の六本木西公園の裏手にあたり、明治期までは、三井家が所有していた敷地にありました。(麻布区材木町三五番地:港区六本木 7辺)

上記取消線部分は、調べ始めた当所浅子臨終の屋敷が「麻布材木町」とだけしかわからず、これを明治45(1912)年の地籍台帳で探すと三井合名会社所有の土地が材木町35番地にあったため、この土地で浅子が亡くなったものと勘違いしていました。しかし、さらに調べてみると浅子終焉の地は同じ材木町に中で63番地であったことがわかりました。これによりこのサイト記述も材木町63番地が広岡浅子終焉の地と書き直しましたが、一部分の文章が訂正されていませんでした。謹んでお詫び致します。
ちなみに明治45(1912)年当時の麻布材木町63番地の所有者は政治家・外交官であった鈴木充美ですが、広岡家との関係は不明です。

あまり女性が表に出ることの少なかった時代に経営者として銀行、生命保険などの起業に関係し、さらに女子大を作ったことでも知られている活発な女性の代名詞となりました。
浅子は「普段云っていることがすべて遺言」と遺言を残さなかったそうですが、東京・大阪の二度の葬儀に加え、創立に関与した日本女子大では1919(大正8)年6/28に盛大な追悼会が開催されたようです。

最後に、晩年まで女子教育に関係していた浅子は避暑のために建設した静岡県御殿場二岡の別荘に若い女性を集めて勉強会を開催しますが、その参加者の中には後の国会議員・市川房枝などと共に「花子とアン」の主人公、村岡花子も参加しており、この勉強会への参加が後の自分を決めたといっていたそうです。


◇余話として
麻布界隈でも東洋英和学院西町インターナショナルスクール明治学院大学チャペルなどを設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となる一柳満喜子は、広岡浅子の女婿・広岡恵三の妹にあたります。華族の子女である満喜子と外国人であるヴォーリズとの結婚に際しては、華族と外国人の結婚に反対されますが、浅子は強力に二人の結婚の後押しをしたとされています。 
この二人が結婚したのは1919(大正8)年6月3日ですが、その半年前の1月14日麻布材木町六十三番地にあった夫となるヴォーリズが設計した広岡恵三別邸で、広岡浅子は息を引き取っています。おそらく二人の将来を安心した上での臨終だったと思われます。 



◆追記:浅子終焉屋敷の謎。

広岡浅子終焉の屋敷はヴォーリズ設計であったようです。そしてヴォーリズの建築作品リストによると、「K.廣岡邸」を依頼者とする設計が、二つあります。

  1. 1916(大正5)年 東京 K.廣岡邸
  2. 1929(昭和4)年 東京 K.廣岡邸

上記二つの屋敷の設計がありますが、浅子の臨終は1919(大正8)年1/14でしたので①の屋敷で亡くなったものと想像されます。

しかし、リストに掲載されている依頼主の「K.廣岡」とは誰なのでしょうか?

もしかしたら子供かと思い調べると、
広岡信五郎・浅子の間には、「亀子(カメ)」と名付けられた女の子がいました。
しかし.....実はこの他にも広岡信五郎と妾の間には四人の子供がいました。
この妾は女の子一人しか産めなかった浅子も願って迎えた妾のようでドラマ上では、浅子の姉はつのおつき女中で後に加島屋の女中となる「ふゆ」だとおもわれます。
実際の名前はムメ(小藤)と、ドラマ上の浅子のおつき女中ウメに近いのですが、事実は上記の通りだったようです。


◎広岡信五郎と妾ムメ(小藤)の子供

  • 長女:蔦子(ツタ)
  • 次女:極子(キワ)
  • 三女:秋子(アキ)
  • 長男:松三郎(まつざぶろう)
 
これら四人の中で「K」がつくのは浅子と信五郎の娘「亀子(カメ)」です。
しかし、もう少し調べると.....、
広岡信五郎は加島屋本家の次男で、分家の身分となります。
そこで浅子と結婚し、本家を補佐して行くことになるのですが、本家の兄が若死にしてしまい、信五郎の弟の正秋が加島屋本家を相続することとなり、信五郎と浅子はその正秋をもり立てて家業を補佐してゆくことになります。これ以降正秋は「九代目・加島屋(広岡)久右衛門・正秋」を名乗ります。
これらから、想像の域を超えませんが、おそらくヴォーリズが設計したこの材木町屋敷の持ち主は広岡信五郎の弟で本家を相続した「広岡久右衛門正秋」かとおもわれます。


◆追記2:浅子終焉屋敷の謎訂正

twitterで@ka9_asa_10さんという方から情報を頂きました。
@ka9_asa_10さんのプロフィールを拝見すると、

加久と広岡浅子
加久(かきゅう)とは大坂の豪商・加島屋久右衛門家。10年くらい前から興味を持ってちょこちょこ調べていたのが、加島屋や広岡浅子でした。 「あさが来た」を観ながら何かと呟きますが、研究者でもなければ物書きでもないので、大目にみてやってください ※個人アカウントです

とあり広岡久右衛門と広岡浅子について専門にお調べになっている方のようです。

この方からの情報をそのまま掲載させて頂きます。

 


加久と広岡浅子 ‏@ka9_asa_10  7時間7時間前

@DEEPAZABU ブログ大変興味深く拝見しました。後記の「K.廣岡」ですが「廣岡恵三(けいぞう)」、つまり浅子の娘婿で一柳満喜子の兄にあたる人です。大正当時は浅子の事業を引き継いで加島銀行頭取、大同生命社長に就いていました。
21:35 - 2015年11月9日 · 詳細


加久と広岡浅子 ‏@ka9_asa_10  7時間7時間前
加久と広岡浅子さんがリツイートしました deepazabu
それと余話にさらりと触れている西町インターナショナル(松方ハウスはヴォーリズ建築)、長らく副教頭を務めてらしたのは広岡浅子のお孫さんです。麻布つながり意外とあるなあ。


と、私には知り得なかった貴重な情報をツイートして頂きました。これでおぼろげであった広岡浅子と終焉屋敷の持ち主「K.廣岡」の謎と一柳満喜子の関係が氷解しました。


よって下記のように訂正させて頂きます。

広岡浅子終焉屋敷の所有者「K.廣岡」が私の推測「広岡久右衛門正秋」ではなく、広岡信五郎・浅子夫妻の唯一の子供である長女「亀」の夫である「廣岡恵三」であり、さらにこの廣岡恵三は婿養子として広岡家に入っているようで養父は当然ですが広岡信五郎でした。

また廣岡恵三の養子入前の名は「一柳恵三」であり、子爵一柳末徳の次男でした。この一柳恵三の実妹が「余話として」でお伝えしたウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となる一柳満喜子でした。
そしてヴォーリズは日本に帰化し、日本名は「一柳米来留(イチヤナギ・メレル)」とします。
後年ヴォーリズが設計した西町インターナショナルスクールの副教頭となるのが広岡浅子のお孫さんであるという流れが歴史と現在をぐっと引きつけてくれたような気がします。

@ka9_asa_10 さん、貴重な情報を誠にありがとうございました。








◆追記3(2016.01.14):西町インターナショナルスクールの副教頭と浅子の関係

前回@ka9_asa_10 さんから教えて頂いた、

西町インターナショナル(松方ハウスはヴォーリズ建築)、長らく副教頭を務めてらしたのは広岡浅子のお孫さんです。麻布つながり意外とあるなあ。

との情報が気になり、調べてみましたが情報がなかなか見つかりませんでした。そこで再び@ka9_asa_10 さんにご教授をお願いするとまもなくお返事を頂きました。
そして、これにより謎が一気に氷解しました。

西町インターナショナルスクールの広岡八重子さん(以下敬称略)は、1年生の教師、副教頭を25年間西町勤めていました。そしてスクールに「広岡八重子 基金」を創設し、これは現在も教師の研修制度の拡充をはかるために利用されています。
この広岡八重子は広岡浅子と広岡信五郎の唯一の娘「亀子」の二女で、浅子直系の孫になります。

これを家系図にまとめてみました。すると亀子と婿養子の広岡恵三夫婦は1902(明治35)年に長女を出産すると次々と年子を生むこととなり、その二番目の女の子が八重子となります。

また逸話として一柳恵三を婿養子に迎えた後、恵三の妹で後にヴォーリズ婦人となる一柳満喜子が実家を飛び出してしまった時にも、長い間兄恵三邸に滞在していたといわれています。

この亀子の義理の兄弟で母の浅子に等しく育てられた子供たちの一人に、ムメと信五郎の長男「広岡松三郎」がいます。
この松三郎の妻・貞子の弟の妻は、後年エリザベスサンダースホームを創立することとなる三菱財閥・岩崎弥太郎の長女・岩崎(澤田)美喜です。








文字が見にくいのでダウンロードしてご覧下さい。













また、正確な時代は不明ですが明治期と思われる広岡家が集合した写真(タイトル:家族写真)が残されており、乳児と幼児の女の子が写されています。女女の手を取っているのは広岡亀子、その前で乳児を膝に乗せているのは広岡恵三です。これらのうちどちらかが八重子である可能性(おそらく乳児)があり、興味をそそらせる写真となっています。

※この写真に写されたムメの子供・松三郎(後列右端)が中学生ほどの年齢に見えます。松三郎は1888(明治21)年生まれで、亀子の長女・多恵子が1902(明治35)年生まれで松三郎とは十四歳違い、二女の八重子(後の西町インターナショナルスクール副教頭)は多恵子の一歳下となり写真に写された乳児は二女の八重子の可能性が非常に高いと思われます。この写真の年齢は上記から推測すると、多恵子二歳ほど、八重子一歳未満、松三郎は十六歳位となります。これらから、この写真が撮られたのは1903(明治36)年or1904(明治37)年頃だと想像されます。

この写真が撮られたのが明治36年だと仮定すると、浅子は54歳で、二年前に開校した日本女子大学へ広岡信五郎名義で金五千五百円を寄付します。
そして翌年の明治37年、日清洗戦争が勃発する年に、8歳年上の夫・信五郎が64歳で亡くなります。そして浅子も経済界から引退し、後を実子亀子の婿養子である恵三に任せることになります。
もしかしたらこの写真は広岡信五郎・亀子ファミリーがそろって写された最後の写真となったのかもしれません。




家族写真






前列右から 亀子の婿養子・恵三と乳児(八重子?)、
広岡信五郎、浅子、信五郎とムメの娘で三女の極子(キワ)。
 
後列右から、信五郎とムメの長男・松三郎、
信五郎と浅子の娘で長女の亀子と幼女(多恵子?)、
信五郎とムメの娘で四女の秋子(アキ)、信五郎とムメの娘で
二女の蔦子(ツタ)、浅子の三井家からの腰元(お付き女中)で
後に信五郎の妾となったムメ(別名:小藤、信五郎との間に一男三女)。








上記画像から広岡恵三・亀子家族拡大。
















★20160125追記-広岡浅子の「死亡広告」


大正8(1919)年1/17付けの新聞に掲載された広岡浅子の「死亡広告」。








母浅子儀当地麻布区材木町別邸に於いて病気療養中の所養生相叶わず去十四日午後八時永眠致候間乍(ながら)略儀紙上を以て辱知の御方に御知せ申上候追て来る二十一日午後四時神田美土代(みとしろ)町青年会館に於て告別式を行ひ同夜東京駅発二十三日午後?時大阪市土佐堀青年会館に於て葬儀執行仕候猶(なお)御供花供物等は御辞退申上候

男 広岡 恵三

 広岡浅子と主人広岡信五郎の間に出来た
 唯一の実子「亀子」の婿養子。
 実家は男爵の一柳家。実の妹・満喜子は、
 西町インターナショナルスクール、
 飯倉片町・南葵楽堂、
 東洋英和女学院、伊皿子フレンズセンター、
 明治学院大学チャペル、広岡浅子が逝去した
 広岡家麻布材木町別邸などを設計した建築家
 ウィリアム・メレル・ボーリズの妻。

親戚総代

広岡久右衛門
 十代・加島屋久右衛門(正直?)。九代久右衛門正秋の
 実子郁子の婿養子。
 実父は旧鳥取藩士・三澤立身。正直は立身の六男。
      
三井高修
 浅子の実家、小石川三井家九代目当主。
 浅子の義兄三井高喜の孫。高喜は三井南家からの養子
であるため、浅子との血縁はやや薄い。

三井養之助
 浅子の実家、小石川三井家七代目
 高喜の次男で本村町三井家初代当主。

男爵 三井八郎右衛門(高公?)
 三井十一家の総帥。三井北家(総領家)十一代。
 戦前は麻布今井町、戦後は麻布笄町~麻布桜田町
 の邸宅に住んだ。明治以降終戦まで男爵。

子爵 一柳末徳
 広岡(一柳)恵三の実父。元・播磨小野藩十一代藩主。
 明治以降は子爵。芝区会議長、帝国博物館員、貴族院議員などを歴任。

























2013年4月25日木曜日

麻布七不思議-七色椿

麻布区史に掲載された
七色椿
暗闇坂を登り氷川神社方面の右手(西町22番地:現在の西町インターナショナルスクールあたり)に、七色の大輪の花をつけ、枝を四方に張り咲き乱れた東京でも有数の椿の銘木が ありました。「七色椿」とも「化け椿」とも呼ばれていました。

この地は、明治の官僚・政治家であった渡辺千秋の長男、実業家で司法大臣、 日仏銀行頭取千冬氏の邸でした。弟は隣接地がま池を屋敷内に持つ渡辺国武子爵で、この兄弟が一時期「がま池」、「陰陽石」、 「七色椿」と麻布七不思議のうち3つを所有していたことになります。しかし、残念ながら1937(昭和12)年に枯死してしまったそうです。

麻布区史には、
~西町22元加奈陀公使館、現クレーン邸内にある。以前は諸岡某氏の邸であった。幹囲1.3米、数株の幹が合したように見へてゐる。古来朝晩花の色を異にすると云って化椿の異名があり、 麻布七不思議の一に数へられた。思ふにこれは数株の椿樹を一纏めにして植えたのが抱合癒着して成長した為めに、 花の色に相異が出来たのであろう。惜しい哉、近年枯損して今は残骸を止めてゐるに過ぎない。~
とあり麻布区史が出版された昭和16年(1941年)には、すでに枯死していたことが伺えます。 また、時代劇小説「耳袋秘帖 麻布暗闇坂殺人事件」では「お化け椿」として描かれています。

麻布区史は天然記念物の項目この七色椿の他に下記を掲載していますが、現存している銘木はは少ないようです。



麻布区史に掲載された天然記念物指定樹(昭和16年当時)、その他の銘木
分類No.樹 名場 所現存備 考





1.善福寺の公孫樹麻布山善福寺境内昭和20年5月の空襲で焼けたが、戦後自力で再生
2.旧徳川邸のキハダ飯倉町貯金局構内×貯金局は現麻布郵便局。
3.秋葉社のビャクシン森元町×ビャクシン属(柏槇属)は、ヒノキ科の針葉樹の一種。
4.元加奈陀公使館の椿西町×七色椿・化け椿とも
5.一本松一本松町麻布七不思議の一つ。現在の木は戦後植え継がれたもの
6.羅漢松内田山南山小学校校庭×樹上空洞に白蛇が住むと伝説されたが昭和13年の暴風雨で倒壊
7.岡の桜飯倉片町×江戸期の御殿医「岡仁庵」邸にあったしだれ桜。
大田蜀山人に、「永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦」と詠まれた。





8.佐々木邸の藤富士見町×樹齢200年の藤。他所に移植
9.木下桜麻布広尾町×江戸名所花暦に「ただ小山に雲をあびたるが如し」と記される彼岸桜
10.曹渓寺老松本村町×別名「絶江の松」
11.光林寺の桜富士見町×江戸名所花暦に記載
12.楊枝杉麻布山善福寺×親鸞押給の大樹の杉。山中の岩の中より生じたる木とある
13.天真寺の銭懸松本村町×天真寺の銘木





港区内の天然記念物指定樹木(港区みどりと生きもの2010掲載)
No.樹 名場 所指 定備 考
1.善福寺のイチョウ麻布山善福寺国指定樹齢750年以上 幹周り:10.4m
2.旧細川邸のシイ高輪1-16-25都指定幹周り:8.13m 樹高:10.8m
3.芝東照宮のイチョウ芝東照宮都指定幹周り:6.5m 樹高:21.5m 推定樹齢370年
4.増上寺のカヤ芝増上寺区指定幹周り:4m 樹高:25m 推定樹齢600年
5.氷川神社のイチョウ赤坂氷川神社区指定幹周り:7.5m 推定樹齢400年







★江戸期の銘木

江戸名所花暦(文政十年1827年刊)、江戸鹿子(貞享四年1687年刊)、続江戸砂子(享保十七年1732年刊)などに掲載されている麻布近辺の名所、銘木、銘花。(現住所とは、銘品が当時あった所在地を現住所に置換したもので、現存の意ではありません。)


江戸期麻布辺の名所、銘木、銘花
場所、木銘出典種類現住所備考
宇米茶屋江戸名所花暦白梅白金2丁目1-3麻布三子坂にあり。一重の白梅なり。正月下旬盛りなり。外よりは遅し。古木なり。遊行陀阿一海上人、この梅に題して歌あり。この花の白かね名に高く 千歳をこめてみのるとこうめ
また江戸名所図会に「梅か茶屋」と紹介されている。
麻布竜土組屋敷江戸名所花暦梅樹六本木7-9麻布竜土組屋敷とは御先手組屋敷の事。立春より6、70日目。梅樹、家ごとの入り口にあるもあり。または後園にあるもあり。
木下候庭中江戸名所花暦彼岸桜南麻布5-8木下候とは木下肥後守の事。麻布広尾にあり。幹の太さふた抱え半、南北へ廿一間壱尺余、東西へ十九間余、たゝ小山に行きをおひたるかことし。花の頃は見物をゆるされしか、近頃止られたり。
慈眼山光林寺江戸名所花暦彼岸桜南麻布4-11麻布新堀はた。当時はもと市兵衛町の辺にありしとなり。此境内に大樹あり。したれたる枝は、地につきて滝の落つるかことし。此花の色、成子乗円寺の花によく似たり。この光林寺の前、新堀のむかふをすえて広尾の原と唱え、桜の咲いつる頃よりして、貴となく、おもひおもひのわりこ、酒肴をもたらし来り、毛氈、花むしろをしき、ここまとゐし、かしこにたむろして打興するありさま、天和の頃の光景を思ひいつるはかりなり。
三縁山増上寺江戸名所花暦彼岸桜三縁山増上寺。(芝公園4-7)芝切通しより赤羽根への通ひ路、近きころ開けし道筋、左右に桜樹夥しく植えたり。(芝切通しとは今の正則学院と青竜寺の間の道。)
糸桜続江戸砂子増上寺(芝公園4-7)三縁山広度院増上寺。芝林壇、寺領一万五百四十石。廿四日御仏殿の前。(廿四日御仏殿は二代将軍火秀忠の霊廟。現芝ゴルフ敷地内)
拾ひ桜続江戸砂子南青山2-26長普山宝樹寺梅窓院、知恩院末、青山。第二世峰誉上人、門前にて苗木を拾ひ、てつから植えられしと也。今は大木となる。類ひなきしたれさくら也。
留主に居る人へひろはん花さくら(岸村涼宇)
泰山府君桜続江戸砂子三田2-15三田松平主殿頭殿御館にあり。八重桜の速き花也。桜町中納言成範卿、花のさかりの短きをなげき、桜のため泰山府君の祀りを行はれしより此名ありと也。
八入(やしおの)楓続江戸砂子三田2-15三田松平主殿頭殿御館にあり。前に云桜と此二樹、羅山子東明集に詳也。八入と云は、物を一度染るを一入(ひとしお)といふ。二たひ染るを二入と云り。紅楓の色、八度の染色に比す故八入と称す。
幸稲荷の辺江戸名所花暦不如帰芝公園3-5芝切通しのうへなり。増上寺の梢青葉さすころは、一声も二声もきこゆるといへり。
愛宕山愛宕神社江戸名所花暦芝愛宕町1-5芝にあり。この山上より雪中に見おろせは、各藩につもれるゆき、綿をもって家居をつくれるに似たり。遥に望は、安房、上総の山々、片々たるうちに見ゆ。本尊は行基の作にして、勝軍地蔵なり。毎月弐四日は四万六千日と号して、参詣殊に群集す。此日境内にて、青きほうずきを食む。小児に呑するときは、虫の病の根を切ると云ならはせり。
高輪江戸名所花暦高輪二丁目近辺この海岸の酒楼より海上を望む時は、雪の粉々たるありさま、他に比する処なし。
壱本松江戸鹿子元麻布1-3あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。
一本松続江戸砂子元麻布1-3一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。
銭懸松続江戸砂子所不詳麻布にありと古書に見えたり。尋ぬるにしれす。所の人の云、天真寺に古木あり。それなるへしといふにより、寺に入て尋ぬるにしらすと云。当寺本堂の前に控なる大松の朽木の三抱もあらん、根より一丈はかりありて梢はなし。疑らしくは是ならんか。(天真寺は南麻布3-1)
円座松続江戸砂子増上寺(芝公園4-9)増上寺山下谷。山下谷とは今の芝公園4-9、10あたり一帯。松は現存せず。
朝日松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)田中山相福院西応寺、増上末、寺領十石、本芝。朝日の松、けさかけ松、火除の松、いつれも境内にあり。宝暦の末、当寺回禄にかゝりて此松も焼たりとそ。
袈裟懸松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)
火除の松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)
綱駒繋松続江戸砂子イタリア大使館(三田2-4)綱が駒繋松、松平隠岐守殿中屋敷の内にありと云。
三鈷の松続江戸砂子高野山東京別院(高輪3-15)高野寺、正輪番、紀州高野山宿寺、二本榎。三鈷の松境内にあり。糸桜、大木の枝たれ也。現存せず。
鐘鋳の松続江戸砂子品川区北品川4-7品川御殿山。御殿山の北手にあり。増上寺の撞鐘を鋳たる所のしるしにうへたる松也。
二本榎江戸鹿子高輪1-27白銀原高野寺正覚院のかたわらに有。(正覚院の傍にあったとは、誤りという説もある)
印榎江戸鹿子赤坂1-11赤坂溜池の上に有。むかし此池の奉行人、此榎木をうへて、その時の委細を此木にしるすとかや。よって印の榎とよぶとかや。
印の榎続江戸砂子赤坂1-11溜池の堤にあり。むかし浅野幸長、欽名ありて、此所の水をつきとめたり。幸長の臣、矢島長雲奉行し、さまざまのおもんはかりを以、水をつきとめぬ。主人幸長の公用の印、又長雲か子孫まてのためとて、榎を多く植えたり。大かたは枯れて、今2、3株あり。
杖いてう江戸鹿子銀杏麻布山善福寺(元麻布1-6)あさぶに有。親鸞上人関東下向の時、誓ていわく、もし我宗旨広らば此杖枝葉あれと言て、杖をたてゝ皈りたまふ。其杖枝葉しけりて今に此地に有。婦人の乳の出ざる者、此木にて療すれは奇端ありと云。
杖銀杏続江戸砂子銀杏麻布山善福寺(元麻布1-6)麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。杖銀杏本堂の左の方にあり。親鸞上人の杖也。祖師当所に来り給ふ時、此法さかんになるへくは此杖に枝葉をむすふへしと、庭上さしおかれし所の木なり。今大木となりて、枝葉しけりたり。乳なき婦人、此木以治療すれば奇端ありとて、樹を裂事おひたゝしくして、枝葉いたむにより、垣をしてその事をいましむ。今は祖師の御供をいたゝくに、乳なきもの、そのしるしありとそ。右の方、開山堂の前にあり。親鸞上人杖を逆にさし置かれし所の木也。よって逆銀杏ともいふ。
楊枝杉江戸鹿子麻布山善福寺(元麻布1-6)これも親鸞上人のさし給ふのよし。山中に有て、岩の中より生したる木也。
楊枝杉続江戸砂子麻布山善福寺(元麻布1-6)是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
颯灑(うなり)柳続江戸砂子麻布山善福寺(元麻布1-6)麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。



 








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