2017年5月26日金曜日

★山の手大空襲の麻布



1945(昭和20)年の今日5/25深夜から26日未明にかけて、山の手地域を対象に米軍B-29爆撃機により二時間半にわたって行われた大空襲。

これによりこの爆撃は「山の手大空襲」と呼ばれています。
この爆撃により3月15日の東京大空襲、4月15日(城南京浜大空襲)に続いて港区域も大被害となりました。
この二日前にも大規模な空襲がありましたが、東京に限るとB-29による大規模空襲は5/23、5/25両日が最後となりました。

◇5月23日の被害

 死者762人、被害家屋6万4千487戸

◇5月25日(山の手大空襲)の被害

 死者3651名。焼失16万6千戸※初めて皇居も爆撃目標となった。
 東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死

Wikipedia-東京大空襲にはこの山の手大空襲をB-29から撮影した画像が掲示されています。画像は恵比寿駅上空から霞町交差点・材木町、有栖川公園・広尾橋交差点あたりまで写されており、特に恵比寿駅あたりはほとんど火の海という状態であったことがわかります。

※右下黒線は国鉄線路、その脇で北に向かって延びる黒線は「渋谷川・古川」、中央下部は恵比寿駅。

◇wikipedia-山の手大空襲
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2#5.E6.9C.88


また麻布十番も4月の空襲で被災を免れた麻布山善福寺も焼失、山元町一帯、そして宮村町も大被害を出し、特にこの夜当直で南山小学校に泊まり込んでいた絵画教師の恩田孝徳(おんだたかのり)先生は燃えさかる宮村町や数日後の麻布十番、六本木交差点などを90点にのぼる絵画を描き残しています。

また南山小学校は屋上を突き破って焼夷弾が落下しましたが、当時校舎に駐屯していた麻布山地下壕に従事していた海軍陸戦隊により毛布などを掛けてすべて消火され、校舎は守られたそうです。

また稲垣利吉著「十番わがふるさと」には4月と5月の空襲により灰燼に帰した十番商店街の画像が掲載されています。


麻布区はこの2時間ほどの「山の手大空襲」だけで死者69名、重傷47名、全焼家屋8,878戸、罹災者31,576名を出してしまいます。



恩田は戦後まもなく第三回日展に出品したのを皮切りに連続して出品し、第十二回日展まで出品します。

しかし、昭和二十六(一九五一)年ごろから体調をくずし、昭和三十四(一九五九)年病気静養のため学校を退職して帰郷。翌年、五十九歳で逝去しました。

また当日の麻布を含む港区辺の様子を東京大空襲戦災史(全五巻)は下記のように記しています。


①麻布区北日ヶ窪町の住人が5/26午前二時頃、自宅に焼夷弾が複数発着弾したため避難開始。近所で軍が掘削中の地下壕に避難。
 翌日目覚めると壕の奥にいた人々が酸欠で死亡していた。この壕を証言者は、

 (引用はじめ)

 ~この防空壕は、間口が高さ、幅とも1m半くらい、奥行きが100mあまりもあって、鉄筋で両方の入り口は鉄の二重扉であった~

 (引用終わり)

この壕は独自調査によると陸軍が掘っていた地下壕で、現在の六本木ヒルズ欅坂下、くすりの福太郎店舗裏手擁壁をくり抜いたもので東洋英和女学院地下室につながっていました。しかし、この壕の掘削は麻布山地下壕の掘削を行った海軍工兵隊とほぼ同じ1945(昭和20)年に掘削がはじめられたと思われますので、東洋英和まで貫通していたとは思えません。そのために酸欠となって多くの死者が出たことが考えられます。


②麻布区東鳥居坂町仮寓住民。


  自宅に最初はエレクトロン焼夷弾が落下、後に油脂焼夷弾が落下し延焼。空を見上げるとガソリン状の液体が付着。
 坂下に逃げる途中、すでに4月の空襲で焼け野原となった東方面に増上寺五重塔が炎上しているのがみえた。


③麻布山善福寺塔頭子息。
 付近は防空壕を掘るとすぐに水打出てしまうため、盛り土をしてそこを壕として使用した。

 焼夷弾により自宅寺院は全焼。家族は高台に逃れた。翌日戻ると焼け跡となったわが家には17発の焼夷弾が敷地に落下しそのうち8発が家屋に命中しているのが確認できた。
 

④麻布区新堀町四番地住民。

空襲が始まり手ブラで逃げる途中、東京ガス麻布営業所が燃えていた。家族で予め「芝公園」を避難場所として決めてあった。三田小山町→専売病院→中ノ橋迄来て高射砲陣地が設置されていた芝公園方面も、反対の麻布十番も燃え上がっているのが確認できたので狸穴方面に避難先を変更。しかし狸穴方面も燃えだしたので、これまでと覚悟を決めて新一ノ橋手前新堀橋あたりの小さな防空壕に避難し、一夜を明かす。自宅は全焼しタオル一本持ち出せなかった。道にはコモを被された犠牲者の遺体がたくさん転がっていた。中には二三日の空襲で罹災し命からがら新堀町に避難してきた方の遺体もあった。


☆著名人・名所の罹災

①米内光政海軍大臣公定
 公邸がこの夜の空襲で焼失し、現在の仙台坂韓国大使館の敷地に移転し終戦まで
 使用されました。


◇wikipedia-米内光政
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF


②南山小学校

 南山小学校二階9教室に駐屯していた東洋英和地下壕掘削部隊(陸軍和気部隊)が屋上
 を貫通して落ちてくる焼夷弾を総て鎮火。5/25当日から空襲罹災者の避難所として解放。

 当日宿直だった絵画教師恩田孝徳先生が当日の様子を後に絵画として表す。5/26には
 和気部隊に変わって麻布山地下壕を掘削する海軍設営部隊が全校舎を使用して終戦
 まで駐屯。

◇Blog DEEP AZABU-南山小学校
  http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E5%8D%97%E5%B1%B1


③府立第三高女(現・都立駒場高校)

 府立第三高女(現・都立駒場高校)の敷地(港区立城南中学[現・六本木中学])に昭和天皇
 の后、香淳皇后が使用した学び舎で1933(昭和8)年に下賜されたお花御殿(仰光寮)
 が正門脇にあった。5/23、5/25空襲により校舎は全焼したが学校関係者の必至の
 消火活動によりこの「仰光寮(ぎょうこうりょう)」と体育館だけが焼失を免れた。府立第三高女
 は戦後まもなく都立駒場高校として駒場(目黒区大橋)に移転しますが仰光寮は1951
 (昭和26)年まで港区立城南中学校として開校した区立中学校(城南中学の開校は
 《昭和22(1947)年》の敷地に残されていましたが駒場高校有志による募金活動の結果、
 移転が行わわれた。

◇Blog DEEP AZABU-仰光寮
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E4%BB%B0%E5%85%89%E5%AF%AE



④麻布山善福寺

 5/25深夜、本堂、勅使門などを焼失。
 徳川家康が建立した東本願寺八尾別院本堂を譲り受け本堂として再建完成
 勅使門が再建されるのは1980(昭和55)年。

 また国指定天然記念物の「逆さいちょう」も焼夷弾により燃えたが、焼失は免れる。現在もその痛々しい焼け焦げが目視できる。

◇Blog DEEP AZABU-麻布山善福寺
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E9%BA%BB%E5%B8%83%E5%B1%B1%E5%96%84%E7%A6%8F%E5%AF%BA


⑤久保田万太郎の三田小山町邸

 作家・久保田万太郎の三田小山町邸が焼失。
 万太郎は麻布について、

 ・春麻布 永坂布屋 太兵衛かな

 ・時雨るゝや 麻布二の橋 三の橋



・短日や 麻布二の橋 三の橋

 などの句を残しています。

◇Blog DEEP AZABU-久保田万太郎
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B0%E4%B8%87%E5%A4%AA%E9%83%8E



⑤麻布区永坂町、石橋正二郎邸

 石橋正二郎はブリジストン創業者、プリンス自動車(後に日産自動車と合併)の出資者
 で長女の安子は鳩山一郎元首相の長男威一郎に嫁す。

 鳩山威一郎・安子夫妻の長男は鳩山由紀夫(第93代内閣総理大臣)、次男は
 故・鳩山邦夫(政治家)。

 ちなみに町名変更反対運動があり、永坂町に住む松山善三・高峰秀子夫妻や
 ブリヂストンの石橋正二郎、狸穴町の木内信胤らが中心となり変更を拒んだ。

  これにより港区では区内の住居表示変更を完遂することが出来ず、現在もその
 達成率は97.4%となっている。この地域は、現在も住居表示が
 「麻布狸穴町」「麻布永坂町」と麻布を冠しており、江戸期から続く由緒ある町名が
 守られている貴重な地域。

 余談ですが、麻布十番の元鮮魚店で現在は鮮魚料理店となっている「魚可津」さん
 にはこの石橋正二郎揮毫による掛け軸が残されています。

  5/23
  飯倉片町が空襲により焼失。避難民を自邸敷地に受け入れる。

  5/25
 空襲により隣接する三井家(永坂町三井家屋敷)に直撃弾により焼失。
 その日がさらに西村家に飛び火延焼。

 増上寺五重塔が大火炎を発して崩落するのを目撃。

◇Blog DEEP AZABU-狸穴町
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E7%8B%B8%E7%A9%B4%E7%94%BA

◇wikipedia-石橋正二郎
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%AD%A3%E4%BA%8C%E9%83%8E


⑥麻布区材木町、音楽家團伊玖磨邸

 團伊玖磨を見舞うが家屋は全焼し、ただ温室のみが残されていた。
 この屋敷はヴォーリス設計建築による屋敷で建築主は広岡恵三。
  広岡恵三はNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公モデル広岡浅子の娘婿で
 妹の一柳満喜子はヴォーリズと結婚する際にこの屋敷で三日三晩の大披露宴を
 開催します。
 その結婚式の半年ほど前に広岡浅子はこの屋敷で生涯を終えます。その後広岡家
 の興した大同グループの斜陽から屋敷を手放しますが、三井の重鎮であった團琢磨の孫。
 実家が小石川三井家の広岡浅子との関係からかこの時期には團伊玖磨邸となっていました。

◇Blog DEEP AZABU-広岡浅子
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E5%BA%83%E5%B2%A1%E6%B5%85%E5%AD%90

◇wikipedia-團伊玖磨
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E4%BC%8A%E7%8E%96%E7%A3%A8


⑥慶応義塾塾長・小泉信三邸(三田綱町九番地)
 
 焼夷弾が屋敷に命中。失神の後鴎外に待避すると家族と遭遇。家族は腫れ上がった顔と
 燃えくすぶる衣服を見て驚嘆。歩いて現在の慶応義塾中等部内防空壕に避難。その頃より
 顔の火傷により目が見えなくなる。

 翌日慶応病院に入院するも顔に重度の火傷を負っていたため、生死の境をさまよい、
 同年12月にやっと退院。そして二年後の1947(昭和22)年慶応の塾長を退任。


◇wikipedia-小泉信三
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E4%BF%A1%E4%B8%89

⑦青山脳病院 斉藤茂太邸(赤坂区青山南町五丁目)

 斎藤茂吉の長男で青山脳病院医院の斉藤茂太邸が罹災。病院・自宅共に焼失。 
 弟はどくとるマンボウ・北杜夫。北の自伝小説「楡家の人々」はここを舞台として
 描かれている。

※青山脳病院は1923(大正12)年失火により焼失し再建は松澤村松原(世田谷区松原)
 で行い、こちらが青山脳病院本院(松原本院)となり青山に再建された脳病院は青山分院
 と呼ばれた。
 その後昭和20(1945)年、松原本院は東京都に売却され同年5/18
 「東京都立松沢病院 梅ヶ丘分院」となる。

 そして松原本院を売却した斎藤茂吉はは4月から郷里の山形県上ノ山町に
 疎開中で罹災を免れた。

◇wikipedia-青山脳病院
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E8%84%B3%E7%97%85%E9%99%A2

◇wikipedia-斉藤茂太
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E8%8C%82%E5%A4%AA











麻布中央部における
空襲による焼失地図









☆作戦に参加したアメリカ爆撃隊

①作戦任務第181号

 ・目標:東京市街地

 ・参加部隊:第58・73・313・314航空団

 ・出撃機数:B-29 558機

 ・目標滞在時間帯: 5/24 1:39~3:38

 ・損失:17機

 ・その他:49機のB-29が硫黄島に着陸



②作戦任務第182号(通称:山の手大空襲)

 ・目標:東京市街地

 ・参加部隊:第58・73・313・314航空団

 ・出撃機数:B-29 498機

 ・目標滞在時間帯: 5/25 22:38~5/26 1:13

 ・損失:26機



◎参加部隊詳細

 ☆組織系統

 ・第20航空軍 指揮官:カーティス・ルメイ少将

        ↓

  ・第21爆撃集団(日本本土爆撃の主力部隊) 
    指揮官:カーティス・ルメイ少将兼任
        司令部:サイパン島→グアム島

      ↓

   ・第58爆撃団 
     指令:ドワイト・O・モンテス大佐

     ↓

        ・第 40爆撃群→(四爆撃隊から編成)
        ・第444爆撃群→(四爆撃隊から編成)
        ・第462爆撃群→(四爆撃隊から編成)
        ・第468爆撃群→(四爆撃隊から編成)

   
   ・第73爆撃団 サイパン島イスリイ飛行場
     指令:エメット・オドンネル准将

     ↓

    ・第497爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第498爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第499爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第500爆撃群→(三爆撃隊から編成)

   ・第313爆撃団 テニアン島北部飛行場
     指令:ジョン・R・デーヴィス准将

     ↓

    ・第  6爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第  9爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第504爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第505爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第509爆撃群→(三爆撃隊から編成)


   ・第314爆撃団 グァム島
     指令:トーマス・S・パワー准将

     ↓

    ・第 19爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第 29爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第 39爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第330爆撃群→(三爆撃隊から編成)


   ・第315爆撃団
     指令:フランク・アームストロング准将

     ↓

    ・第 16爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第331爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第501爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第502爆撃群→(三爆撃隊から編成)



 ☆編成

 ・爆撃団192機(4or5爆撃群、実働180機と予備12機)
 ・爆撃群45機 (3or4飛行隊、実働35機と予備10機)
 ・爆撃隊1O機