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2015年1月31日土曜日

赤穂浪士預け入れ大名邸考

いままで赤穂浪士関係の話をいくつかご紹介してきましたが、それらを調べる中でいつも疑問に思っていた事があります。
それは、江戸市中は広大な広さを持っているにもかかわらず、なぜ赤穂浪士が預けられた大名家は麻布、芝、三田、高輪などいわゆる港区域内の一部に集中していたのかという疑問です。
当所は漠然とした疑問で、お預け大名家の屋敷がたまたま集中していたからではないかと思っていました。

しかし、ある大名家を中心に考えてみるとその疑問が氷解します。
その大名家とは.....上杉家です。

広く知られているように赤穂事件当時の上杉家当主は綱憲で吉良上野介義央の実子の長男でした。またこの綱憲の次男は跡継ぎのいなくなった吉良家に入り、上野介の養子(血縁上は孫)となります。
これにより吉良邸討ち入りの報が入った上杉家では当主綱憲が激怒の上、追っ手を差し向けることが決まります。そして上屋敷には上杉家臣が集結したとされています。【上杉家上屋敷は現在の法務省庁舎あたり(千代田区霞が関1-1-1)】

しかし、上杉家の縁戚である高家・畠山義寧による諫止、幕閣による命令により上杉家軍勢は動くことが出来ませんでした。
そして討ち入りを果たした赤穂浪士は十二月十五日(討ち入りは十四日深夜)早朝、泉岳寺へと引き上げます。
もし上杉家が事件を知らせる一報で動いていたのなら、この引き上げ時に江戸市中での戦闘となっていたと思われます。
泉岳寺への引き上げ途中の汐留あたりで吉田兼亮・富森正因の2名は本隊と分離して大目付仙石伯耆守邸(現在の虎ノ門ニッショーホール)に出頭して討ち入りを報告します。
本隊は泉岳寺に到着しますが、昼近くには幕府により赤穂浪士の引き取りを命ぜられた各大名家の家臣が、深夜の雪から気温が上がって豪雨に変わった泉岳寺に集結しはじめます。
その引き取り部隊の人数は、
















赤穂浪士お預け四家
家 名 藩 主 領 地 藩 邸 現 在 石 高 護 送
藩 士
お 預
浪 士
主な浪士 備 考
細 川 越中守綱利 肥後熊本 高輪下屋敷 高松中学 54万石 847人 17名 大石内蔵助 最厚遇
水 野 監物忠之 三河岡崎 芝中屋敷 慶應仲通り 5万石 153人 9名 間重次郎光興 細川家に続いて厚遇
毛 利 甲斐守綱元 長門長府 日ヶ窪上屋敷 六本木ヒルズ 6万石 200余人 10名 岡島八十右衛門 冷遇後改善
松 平 隠岐守定直 伊予松山 愛宕上屋敷 慈恵医大 15万石 304人 10名 堀部安兵衛 1泊のみ滞在
三田中屋敷 イタリア大使館








やや冷遇





となっており、引き取る人数に比べ異常とも思われる護衛人数となっています。これらはひとえに上杉家の襲撃を恐れたためと考えられ、もし赤穂浪士の自邸への輸送中に上杉家に奪われるか殺傷されてしまうと自家が取りつぶされてしまう可能性もあったためと推測できます。

そして十二月十五日夕刻、手違いにより泉岳寺に集結してしまった預け入れ大名家家臣と赤穂浪士は虎ノ門にある大目付仙石伯耆守邸(現虎ノ門ニッショーホール)へと向かうこととなります。この行程では沿道の大名各家は幕命により門を開いて護衛がかがり火を火を焚くことを命ぜられ明るくなった三田通りから飯倉四つ辻を通過してそのまま現在の櫻田通りを直進して仙石伯耆守邸へと向かいましたが、上杉家中屋敷があった(現在の麻布郵便局~外務省史料館辺)とは200mあまりしか離れておらず、まるで上杉家を挑発するような行程となっていました。

そして仙石邸で預け入れの沙汰を正式に聞いた赤穂浪士は深夜過ぎに分散して各家に向かいます。
この預けられた各大名家と上杉家中屋敷(現在の麻布郵便局~外務省史料館辺)、下屋敷(白金三光坂上現在の服部ハウス辺)は非常に近く、まるで上杉家を事件後も挑発し続けたような配置となっています。

引き取り部隊に最も多くの人数をあてた熊本藩細川家は下屋敷が泉岳寺のすぐ近くであるにもかかわらずたった17名を引き取るのに850名もの人数を出しています。これは熊本藩細川家下屋敷(現在の高輪総合支所、区立高松中学辺)と、上杉家下屋敷(現在の三光坂上服部ハウス辺)の直線距離は400mほどであったことが原因であると考えられます。また同様に上杉家中屋敷(現麻布郵便局、外務省資料館)と長府藩毛利家上屋敷(現六本木ヒルズ)間も680mほどの近距離であり、ともに上杉家の鼻先に獲物をぶら下げたような状態であったと考えられます。
個人的な見解ですが、これらは将軍綱吉とそのブレインの幕閣(主に柳沢吉保)による策略では無いかと思われ、まるで上杉家の目の前に赤穂浪士という生き餌をぶら下げるよう
な状態は預けられた十二月十五日から赤穂浪士が預け入れ大名邸で切腹する翌元禄16(1703)年二月四日までの二ヶ月弱続くこととなります。

この将軍とそのブレインによる計略は吉良上野介を隠居させて江戸城から遠い当時は僻地であった川向こうの本所に屋敷を与え、それにより赤穂浪士の討ち入りを許すこととなったという事例からすでに一度成功を収めているとも思われます。
そして、綱吉が将軍の間に取りつぶされた大名家は、以降幕末までの各将軍が取りつぶした大名家の合計より多とされています。

残念ながら上杉家は綱吉の計略?どうりに取りつぶすことは出来ませんでしたが、吉良家の血が入った吉良系上杉家は末期養子によるペナルティと、高家出身という地位から莫大な浪費に苦しむこととなり、しまいには商家も掛け売りをしなくなり、藩籍返上も考えていたとされています。そしてその瀕死の上杉家は後に九代当主となる上杉鷹山を高鍋藩(上屋敷は現麻布高校敷地)から迎え入れることとなります。

その他にも麻布周辺には赤穂浪士関係のポイントが多数あり、時代は一致しないものもありますが、

  • 先日まで使用されていた麻布図書館仮庁舎の場所には事件解決を先導したと思われる「出羽藩柳沢家」の屋敷。
  • 東麻布いーすと商店街付近にはて浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめた多門伝八郎屋敷。
  • 大黒天栄久山大法寺対面付近にあった吉良上野介義央麻布屋敷。
  • 有栖川公園にあった赤穂(常陸笠間)藩下屋敷(後に赤坂盛岡藩南部氏邸と相対替え)
  • 柳沢家家臣から綱吉顧問となり赤穂浪士切腹論首謀者となる荻生徂徠の墓(魚籃坂下長松寺)
  • 討ち入り後離脱したとされる寺坂吉右衛門本墓(泉岳寺は明治期に造られた供養墓)がある日東山曹渓寺(南麻布)

などがあります。

元禄赤穂事件ネタを時季外れと思われる1/31に書いているのは、討ち入りが行われた旧暦12/14は、現在の暦に直すと2/3(正確には2/4早朝)で季節的には今頃のことで、雪が降っていてもちっともおかしくない季節でした。(元禄15年十二月十四日は1703年1月30日でしたので訂正させて頂きます)

また元禄16(1703)年二月四日は預け入れ各藩邸において赤穂浪士が切腹を果たした日でもあり、二月と赤穂浪士は深い関係がある月となっています。








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◎関連事項

★赤穂浪士の麻布通過
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_14.html

★ニッカ池(赤穂浪士)
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_9.html

★南麻布の寺坂吉右衛門
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_11.html

★麻布の吉良上野介
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_13.html

★日ヶ窪生まれの乃木希典
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_10.html

★増上寺刃傷事件
http://deepazabu.blogspot.jp/2013/06/blog-post_14.html















2012年12月12日水曜日

土佐新田藩の幕末

土佐新田藩山内邸があった
南麻布二丁目付近
前回お伝えした寺坂吉右衛門が晩年に請われて仕官したといわれる土佐新田藩、通称麻布藩は、本藩の藩祖山内一豊が関ヶ原の戦功で、遠江掛川六万石から土佐一国二十四万二千石を得て成立したことから起こります。土佐藩山内氏は本家の他に「南邸山内氏」、「本町山内氏」、「中村山内氏」などの分家(中村山内家は幕府非公認の支藩)がありましたが、その中で中村山内家の三代山内忠直の二男山内豊明(大膳亮)は元禄二年(1689年)本来外様大名ではあり得ない「若年寄」まで昇進し、さらに後将軍綱吉は慣例を破って老中にまで抜擢しようとしました。しかし、豊明が病気を理由に辞退したので綱吉は大いに怒り、若年寄職を罷免して中村三万石の領地まで没収してしまい、中村三万石は廃藩となります。

その豊明から三代後の山内豊成の子山内豊産は幕府旗本となり上総・下野・常陸で、三千石を領していましたが、安永九(1780)年に宗家九代藩主山内豊雍から新田領蔵米1万石の分知を受けて、幕府からの旧領と併せ一万三千石を給されて土佐で唯一の支藩である土佐新田藩が成立します。
この新田藩の藩主は江戸常府でありその藩邸は麻布古川町にあったため麻布藩麻布支藩・麻布山内氏などと呼ばれました。
この麻布藩邸は現在の南麻布2丁目2~4番地にあり、敷地は抱屋敷を合わせると約8000坪でした。そして、幕末にはこの麻布支藩も本家土佐藩と共に風雲の中に巻き込まれます。

安政三年(1856年)麻布山内氏の当主となった山内豊福(とよよし)は本家十五代藩主山内豊信(容堂)を補佐して国事に奔走しました。そして慶応四年(1868年)一月十二日、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に帰着した時、江戸城における評定の中の雰囲気で強行派の主戦論に同調します。

歴代藩主が眠る日東山曹渓寺
しかし麻布藩邸に戻ると本家山内容堂から倒幕の方針転換を知らされ、勤皇、佐幕の板ばさみとなって進退に苦悩し、老臣堀越忠三郎から自重を諌言されたが、夜半過ぎ自刃して果てました。
そして、正室の典子も夫の自刃を知ると幼い2人の娘の慈育を願った後遺書をしたため、自刃してしまいました。その後麻布支藩は、豊福の死を秘匿したまま従弟の山内豊誠(とよしげ)を養子とする願いを豊福の名義で願い出て事態の終息をはかり、その後9月16日に了承されて、豊誠は正式な藩主となります。これに先立ち、藩主を失った麻布支藩は本家と行動を共にして、



慶応4年 3月16日---新政府軍への参加を要請     
               3月26日---土佐藩兵と合流して市ヶ谷尾張藩邸の東山道軍本営に入る。     
               4月23日---「斉武隊」を名乗り壬生城戦に従軍。 その後、鹿沼~大桑村~宇都宮~
                                          白河~会津~猪苗代と転戦した後に、
明治 元年9月19日---東京に帰着。     
9月23日---奥州帰陣の褒章により隊長金子寛十郎が八丈一反を授かる。     
                 11月3日---帰国。
明治 2年   6月2日---戊辰軍功賞典により藩主山内豊誠
                                          に5000両の褒賞金が与えられる。



土佐新田藩主山内家歴代墓所
と、戊辰戦争を官軍側先鋒として転戦を繰り返します。これは、官軍側から見ると江戸城主戦派からの裏切り乗り換えであり、信用されていなかったという事情があります。



南麻布の藩邸内で自刃して果てた山内豊福は麻布曹渓寺と高知市旭天神町の墓所で眠りにつき、あやうく朝敵となりかけ死後も冷遇され続けた維新の被害者は歴史から忘れ去られていきます。

  しかし133年後の2001(平成13)年1月13日、それまで長い間墓前祭も行われずまた、歴代山内家の墓所からも離れたところに埋葬されているために 高知県民からも忘れられた山内豊福も、地元の有志により追悼の行事が執り行われ、歴代藩主の墓所へ並ぶことを許されました。その時の様子が1月14日付け大阪版朝日新聞高知面に 「山内豊福公をしのび133年祭自決した悲劇の殿様/高知」と題して掲載されています。

また、このような悲劇は同じ南麻布町域で奥羽同盟の事実上の盟主となった仙台藩伊達家でもおこっており、現在韓国大使館となっている場所にあった麻布屋敷では、列藩同盟側につくことを主導したとして、明治2(1869)年5/19に家老の但木土佐、藩士の坂英力が藩邸内で斬首されています。



山内の読み方は代々、宗家が「やまうち」、支封は「やまのうち」を称したといいます。

曹渓寺の寺坂吉右衛門
顕彰碑


追記
 
赤穂浪士事件でただ一人の生き残りとなった寺坂吉右衛門は曹渓寺住職の斡旋により麻布山内家に召し抱えられましたが、2008年12/4産経新聞によると、大石内蔵助の一族の子孫が大石神社に寄贈した「弘前大石家文書」は、寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた高知新田藩の麻布山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせたものといわれ、これに対して、麻布山内家の家臣が答えた書状の中で寺坂吉右衛門の三代子孫の吉右衛門(吉右衛門の名は代々名乗られたと思われます)は、養子のため血縁はないが主君の側頭を務めていることが書かれているといわれています。 
側頭とは主君の側近であるので足軽から数代で側近にまで出世したことがわかり、寺坂家は麻布山内家に代々重用されていたとおもわれます。















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2012年12月11日火曜日

南麻布の寺坂吉右衛門


赤穂浪士は通常四十七士とされますが、泉岳寺に眠るのは45人しかいません。
これは、毛利家に預けられていた間新六が切腹後、親族の中堂又助に遺骸を引き取られ築地の本願寺別院に埋葬されたため泉岳寺には埋葬されていない事と、討ち入り後四大名家(細川、久松、毛利、水野)にお預けとならなかった寺坂吉右衛門がぬけているためです。 吉良邸の襲撃は確かに四十七人で行われましたが、幕府に自首をしたのは46人。寺坂吉右衛門は何故、お預けとならなかったのでしょうか.....。




寺坂吉右衛門が眠る
日東山曹渓寺
寺坂吉右衛門が討ち入りをせずに「逃亡」した。と言う説が浮上したのは、討ち入りから130年経った天保年間に儒者の大蔵謙斎が唱えた事によります。これは、討ち入り後10日経った12月24日に、大石・原・小野寺の連名で寺井玄渓に宛てた手紙と「堀内伝右衛門覚書」のなかで、はっきりと寺坂が討ち入りをしていないと記述されているのを発見したことによります。また時代は下って近世になり徳富蘇峰が「近世日本国民史・義士編」で逃亡説を採用したために、寺坂吉右衛門が討ち入りには加わらず逃亡した「不義の士」だという説が一般化しました。

しかし、昭和11年に吉田忠左衛門縁戚、伊藤十郎太夫の末裔である伊藤家から多数の資料が発見されたのをもとに、伊藤武雄著「赤穂義士寺坂雪冤録」が世に出されます。これによると伊藤十郎太夫の書き置きには、

討ち入り後、泉岳寺の門前で寺坂吉右衛門は大石、原、片岡、間瀬、小野寺、堀部の各氏から播州赤穂に赴く事を説得された。




曹渓寺・土佐新田藩主墓所脇
にある寺坂吉右衛門顕彰碑
とあり、大石らは後に寺坂が卑怯未練と言われるのを恐れ、一通の書状を持たせたとあります。
その後寺坂は12月15日朝四つ(午前十時頃)に一同と別れ、一同が仙石邸から4家にお預けとなったのを密かに確認してから江戸を発ち、12月29日に播州亀山に着いたとの記述があります。また翌2月3日、切腹と決まった吉田忠左衛門が伊藤十郎太夫に送った最後の手紙には、幕府からの咎めもないはずなので、寺坂のことをくれぐれも宜しく頼むという記述もあります。そして最後に、この願いは了解するにとどめて、うかつな事はいわないで欲しいと、はっきり記されているようです。




これは恐らく、討ち入り前から大石ら首脳陣が自分達の死後、事件の伝承者として一番幕府から詮議を受けにくい最下層の武士(足軽三両二分二人扶持)である寺坂に、その任を決めていたのではないでしょうか。この決定には、最下層の足軽にすぎない寺坂が、本懐を遂げるまでに耐えたという事実を大石が愛したと言う感情もあったような気がします。また討ち入り後、お預けとなった各浪士も口裏合わせのためにわざわざ、「不届き者」、「逐電」、「欠落」などと謗った形跡もうかがえます。

その後播州他で何をしたかは不明ですが、寺坂は、浪士切腹の一年後の元禄十七年二月に江戸に出て仙石伯耆守に自身の処分を願い出ましたが、「お構いなし」と言われ立ち退きます。



麻布区史に掲載された
曹渓寺の寺坂吉右衛門墓
その後、吉田忠左衛門とその縁戚である伊藤十郎太夫に仕えました。もしも逐電した武士であれば、ノコノコと元の上司(寺坂は八歳で吉田忠左衛門の世話になり、足軽となって忠勤しました)に伺候できるはずもなく、これからも逃亡説は否定されます。

 そして寺坂は、 12年間伊藤家に仕えた後に、享保8(1723)年頃51歳で麻布本村町(現在の南麻布二丁目)の日東山曹渓寺の寺男となり、さらにその後曹渓寺住職の斡旋により現在の三の橋辺にあった土佐新田藩(通称:麻布藩)山内家に仕えることとなります。そして、83歳まで長命した後の延享4(1747)年10月6日に世を去ります。

彼は死ぬまで討ち入り事件について口を閉ざしたままであったそうですが、死後寺坂吉右衛門は関わりのあった曹渓寺に埋葬され、法名は「節厳了貞信士」とつけらます。
これは、生前の寺坂が大石らから与えられた「生き残る」使命を果たし、天寿をまっとうした四十七人目の浪士の厳しかった人生にふさわしいものだと思われます。

冒頭で泉岳寺に赤穂浪士は45人しか眠っていないと書きましたが、墓自体は48基あります。
これは本願寺別院に埋葬された間 新六の墓碑、生きていれば浪士の一人となったであろう萱野三平の墓碑、そして「逐道退身信士」と書かれた寺坂吉右衛門の供養墓碑です。
この泉岳寺供養墓はもし一同と行動していれば収監されるはずだった水野家お預かりの浪士の列に加えられています。そして、寺坂の戒名には他の義士の戒名に必ず付けられた「刃」、「劔」の文字もなく、遂道退身という戒名が彫り込まれており哀れを誘います。

余談ですが、「堀内覚書」によると、浪士たちの切腹後、泉岳寺に納められた遺物(刀、脇差、諸道具)などは、泉岳寺により「売り」に出されてしまったといいますが、今残っていれば大変な社宝となったことは間違いありません。

また、五十歳を過ぎた寺坂吉右衛門は、その後三十年弱の人生を現在の南麻布で過ごすこととなったようですので、麻布とのつながりは浅くないものと思われます。





★追記



泉岳寺にある
寺坂吉右衛門の
供養墓
赤穂浪士事件でただ一人の生き残りとなった寺坂吉右衛門は曹渓寺住職の斡旋により土佐新田藩(通称:麻布藩)に召し抱えられましたが、2008年12/4産経新聞によると、大石内蔵助の一族の子孫が大石神社に寄贈した「弘前大石家文書」は、寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた土佐新田藩(通称:麻布藩)の麻布山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせた内容のものといわれ、これに対して、山内家の家臣が答えた書状の中で吉右衛門の三代後の子孫の当代吉右衛門(吉右衛門の名は代々名乗られたと思われる)は、養子のため血縁はないが主君の側頭を務めていることが書かれていました。

側頭とは主君の側近であるので、足軽であった吉右衛門から数代で側近にまで出世したことがわかり、寺坂家は麻布山内家に代々重用されていたと思われます。

しかし、現代においても吉右衛門の行動はその秘匿性からか色々な見方があり、
赤穂市議会では平成四年十二月の市議会本会議において、

赤穂義士は四十六士か四十七士か?

という質問があり論議を呼びます。これは 平成元(1989)年に赤穂市が別冊赤穂市史として「忠臣蔵」を公刊した祭に、寺坂吉右衛門を事前逃亡と判断したことにより義士は四十六人であるとされてしまったことによります。さらに、平成4(1992)年には赤穂市長が本会議において「義士は寺坂吉右衛門を含めた四十七士」と発言しましたたが市史の訂正は行われず、追記のみとされたことから現在もこの論争はくすぶり続けているといわれています。




「節厳了貞信士」という名誉ある戒名と共に寺坂吉右衛門の本墓がある曹渓寺には麻布藩山内家歴代藩主の墓があります。そしてその山内家の墓の傍らには寺坂吉右衛門の孫「信成」が建てた「寺坂信行逸事碑」が建立されています。前述、曹渓寺の寺坂吉右衛門本墓の戒名は、


曹渓寺・土佐新田
藩(麻布藩)主歴代の墓所
節厳了貞信士

とお伝えしましたが、慶応4(1868)年に泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられた際の戒名は、

遂道退身信士

と、不名誉きわまりない戒名となっています。
  しかしながら、寺坂家が仕官先から末代まで重用されることとなった事、大石内蔵助から託された職務を生涯をかけて全うした事、各地の赤穂義士遺族を訪ねたことから全国7箇所に残された「寺坂吉右衛門の供養墓」があることなどからも、寺坂吉右衛門には「遂道退身」の文字は似合わないと私は考えています。


 現在の曹渓寺は観光寺ではなく、檀家のみが参拝を認められています。












寺坂吉右衛門に縁のある
日東山曹渓寺 と土佐新田藩上屋敷










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2012年12月10日月曜日

日ヶ窪生まれの乃木希典

六本木ヒルズ建設時のニッカ池
嘉永2年(1849年)1月11日の正午頃、麻布日ケ窪の長府藩毛利邸の長屋で一人の赤ん坊が産声をあげました。

父は馬廻役の乃木十郎希次、母は寿子、赤ん坊は二人にとって3人目の子供でした。しかし前の二人は早世していたため、3人目の子供は事実上の長男となります。無人(なきひと)と名づけられたその子は、虚弱な体質で次に生まれた妹のキネにさえよく泣かされたといいます。そして、六才下の弟真人(まひと、後に正誼)は、兄と違い生まれつき体も大きく腕白で気性も激しかったので、父の希次は長男無人のひ弱さに頭をいため、真人の将来に期待したそうです。
乃木親子が住んでいた長屋は、かつて赤穂浪士が討ち入りの後預けられ切腹までの約50日を過ごした場所でもあったので、ひ弱な無人に 父は、その切腹の様子などを語り武士としての度胸付けに力を注いだといわれます。また月に三度は藩の菩提寺でもある高輪の泉岳寺に参拝し、赤穂浪士の武士道精神を教え込みました。







乃木邸跡に移設された
乃木将軍と辻占売り少年の像
乃木の家は、元は藩医でしたが、希次が幼少の頃から剛直で武勇を好み武術、武家礼法に長じていたため藩主元義公に認められ武士として 取り立てられました。そして藩邸で礼法師範に取り立てられ毛利元運公の息女、銀姫の守り役にも抜擢されます。しかし真人の下に次女のイネが誕生してまもなくの安政5年(1858年)11月、希次が華奢文弱な藩政を諌める建白書を家老に提出したため藩主の怒りを買い減封の上、長府へ国詰として左遷されてしまいました。
江戸から長府(現下関市)までの長旅は、筆舌につくせない苛酷なものであったそうで、一家に奉公人の長助を加えた一行は、夫妻と無人、長助らは徒歩で一日30キロを歩き、幼い真人、イネは駕籠をつかったそうです。(この時、7歳の長女キネはすでに他家の養女になっていました。)この時希次は死を覚悟していたといわれますが、約1ヶ月かかってついに大阪に着き、そこから船で長府に近い外浦海岸にむかい、到着したのは12月中旬でした。



写真は、日ケ窪旧萩藩邸内、通称「ニッカ池」の傍に残されていた「乃木将軍産湯の井戸」。



そして、やはり池畔にあった「乃木将軍と辻占売り少年の像」。傍らの建設由来記を要約すると、明治24年の初春、乃木将軍が少将で名古屋の歩兵第5旅団長時代、軍の用務で金沢に出張の折、当時8歳の今越清三郎少年と偶然出会い、8歳にして辻占を売って悲運の一家を支えていた今越少年をやさしく慰め、金弐円をあたえ激励しました。

乃木将軍と辻占売り少年の像解説
この事を今越少年は長じても忘れることなく、苦難を切り開き金箔師として滋賀県の無形文化財に指定されるまでになりました。この像が出来た昭和43年当時、今越清三郎氏は84歳で存命中であったそうです。

最後は北日ヶ窪児童遊園に建立され、現在さくら坂公園に移設された乃木将軍碑。この碑と乃木坂の乃木邸に移設された「乃木将軍と辻占売り少年の像」は現在も見ることが出来ますが、産湯の井戸碑は六本木ヒルズ建設時に撤去され、現在も行方がわかっていません。

殉死当日の大正元年(1912年)9月13日午前8:50分に自宅前で撮られた、乃木将軍陸軍大将正装の写真が残されています。この後、婦人と共に参内し明治帝の霊柩に永訣した後、病気を理由に帰宅し、午後8時、静子婦人と共に古来の作法に則り切腹、殉死しました。




乃木将軍産湯の井戸
乃木将軍と辻占売り少年の像



















乃木大将生誕乃地碑
生誕乃地碑解説










 



2012年12月9日日曜日

ニッカ池(赤穂浪士)

この項を書いた十数年前、現在の六本木ヒルズの一部はテレビ朝日放送センタ-と呼ばれていました。
このテレビ朝日放送センタ-駐車場の入り口を入ると正面には大きな池があり、敷地は私が子供の頃はニッカウイスキ-麻布工場であったので、里俗に池は「ニッカ池」と呼ばれていました。そして、当時塀で囲まれたこの工場敷地へ忍び込み、ニッカ池でザリガニをとって遊んだ先輩もいました。
ニッカ池のほとりにあった解説板

このニッカウィスキー工場があった敷地は、江戸時代は長州毛利家の支藩で長府毛利家の屋敷でしたので、テレビ朝日の敷地となったのちにも池のほとりに石碑があり、赤穂浪士が切腹した場所だと記されている高札が掲げられていました。

元禄十五(1702)年12月14日、吉良邸への討ち入りを遂げた赤穂の浪士たちは、高輪の泉岳寺で主君浅野内匠頭の墓前への報告後、愛宕下の大目付仙石伯耆守久尚邸に移され、そこで大名4家へ御預けの申し渡しを受けました。

・細川越中守邸(三田).......大石内蔵助以下17名。

・松平隠岐守邸(愛宕下).....不破和右衛門以下10名。

・水野監物邸(芝増上寺あたり)...矢頭右衛門七以下9名。

・毛利甲斐守邸(麻布日ケ窪) ....岡島八十右衛門以下10名。
ニッカ池ほとりの赤穂浪士碑
この4大名の人選は、浅野・吉良両家につながりを持たない公平な立場を考慮したものによるといわれています。
その中で、このウィスキー工場の敷地であった長府毛利家上屋敷の毛利甲斐守は15日の礼日のため諸大名と江戸城に登城中で、細川越中守、水野監物と共に仙石伯耆守より浪士引き渡しの申し渡しをうけ、自身が受け取るべきか等子細な打ち合わせを行ったそうです。(ちなみにこの日、松平隠岐守は病のため登城を見合わせていました。)そして長府毛利藩の家老田代要人、物頭原田将監ら総勢200人を泉岳寺に向かわせます。

豪雨の中受け渡し場所に指定された泉岳寺門前で待機していると、御徒目付3人が仙石伯耆守邸に変更したことを告げます。これは、吉良の一族、特に妻の実家で吉良上野介の実子が当主となっており、その子息がまた吉良家に養子に出されるという多重の縁戚関係で強い絆を持った名門の上杉家が浪士を襲撃する恐れがあったので、面倒を避けるため老中が下したといわれます。
(実際に上杉家櫻田上屋敷と飯倉中屋敷には家臣が武装して待機していたといわれています。)

仙石伯耆守邸では、4家合わせて1500人の受け取り部隊の中、細川、松平、毛利、水野という順序で浪士が引き渡されて行きました。毛利家は、大事をとり搬送中、普通の御預人と同じ扱いで駕籠に錠をし、縄もかけるという罪人同様の厳重な警備であったので、庶民から非難を受けることとなります。毛利甲斐守邸に預けられた10名は以下の通り。


岡島八十右衛門...札座勘定奉行.......20石5人...三十八才

吉田沢右衛門....蔵奉行..........13両3人扶持.二十九才

小野寺幸右衛門...部屋住.................二十八才

勝田新左衛門....札座横目.........15石3人... 二十四才

倉橋 伝助 .....中小姓近習、扶持奉行...20石5人...三十四才

杉野十平次.....札座横目.........8両3人....二十八才

村松喜兵衛.....扶持奉行.........20石5人...六十二才

前原 伊助 .....中小姓近習・金奉行....10石3人...四十才

間 新六郎 .....部屋住.................二十三才

武林 唯七 .....馬廻...........15両3人...三十二才


六本木ヒルズに設置された解説板
 一同は長府藩日ヶ窪上屋敷邸内(現六本木ヒルズ)の長屋に収容されました。長屋は往来に面した方には板を打ちつけ外を遮断し、一人ずつ屏風で囲われました。衣類を改め、軽い食事を与えられて最初の一夜を送ります。

そして16日に毛利家用人内藤角左衛門から老中稲葉丹後守用人岡田半右衛門に浪士の取り扱いに対する髪結、たばこ、料紙、扇、医者、毛抜きの使用、火事の場合の対処など子細な伺いをたてました。しかし返書はもらえず、浪士たちは死を覚悟して逃げ隠れしないはずなので、然るべく適当な扱いをすべしという指示だけが老中よりもたらされます。これにより一人ずつ囲っていた屏風も5人づつとし、食事は二汁五采、昼には茶菓子も供されるようになりました。
そして酒も自由で火鉢も持ち込まれ、太平記等書物も与えられ寝具、行水など気配りの届いた扱いとなり29日には藩主毛利公の接見挨拶も行われました。
討ち入り時に軽く負傷した武林 唯七、腫れ物の前原 伊助 、瘡のできた岡島八十右衛門などの処置も用人から老中へ伺い書を提出し、内科医菅玄理、外科医藤井良菴らによって治療後快癒します。このように浪士への待遇は諸家と比べても遜色なくむしろ本家萩藩や末家清末藩からの応援など、行き過ぎの感もあったようです。

正月を過ぎても浪士への処断は決まらなかったそうです。庶民は討ち入りを快哉事とはやし、幕府側の室鳩巣らの儒学者たちも前代未聞の忠義と賞賛しました。が荻生徂徠の建議書などにより評定所の論議が決まり武士としての死、切腹が与えられる事と決まります。

これにより、毛利甲斐守邸には2月4日昼九つ半すぎに御徒目付、御小人目付により切腹の奉書が届けられ、追って検使御目付鈴木次郎左衛門、御使番斎藤治左衛門が到着しました。
毛利家 家老田代要人、時田権太夫が玄関口で出迎え藩主 毛利甲斐守綱元が玄関で挨拶。使者は、浪士一同の支度を促し介錯人の氏名、年齢を提出させます。その後両人は、切腹の場所を検分し、狭いので大書院の庭に変更させました。そして二汁七采の食事が運ばれたが、両人は固辞し餅と濃茶に改められました。その間、原田将監が浪士の長屋に赴き使者の到来と衣装の支度をし、整ったことを使者に伝えました。

そして、呼び出しにより一人づつ駕籠に乗せ御手廻り2人、棒突足軽2人を付けて使者の間へ運び御沙汰書の宣告が行われました。その時の順は岡島、吉田、武林、倉橋 、村松、杉野、勝田、前原、間、小野寺であったそうです。

当初、扇子を持たせて刑を執り行う予定でしたが、検使の注意により小脇差しを使用する事に変更されました。この元禄当時、切腹は扇子を腹に突き立てる真似をし、その瞬間に介錯するのが一般的であったそうですが、この時は、栄誉と尊敬のための温情の措置から小脇差しを使用する事を許されたものと思われます。

切腹は今日の午後5時ころ呼び出しの順で始められ、午後7時ころに終わっています。ほとんどの浪士が斬首同然の切腹であったそうです。しかし間 新六郎のみは、突き立てた後20センチも横に引いた文字どうりの切腹を行ったため、検使をはじめ居合わせた人々が驚嘆したといいます。

刑の執行後、毛利家は遺骸・遺品についても幕府に子細な指示を求め、高輪の泉岳寺に葬る事が決まります。が間 新六郎の親戚、内藤又助から遺骸引き取りの願いが出され、翌日許可がおりて間 新六郎のみは泉岳寺ではなく、築地本願寺に埋葬されることとなりました。現在泉岳寺にも間 新六郎の墓がありますが、これは、納骨されていない供養墓とされています。そして討ち入りの後失踪したと言われ寺坂吉右衛門は83歳まで生きて延享4年に亡くなり、麻布本村町の曹渓寺に埋葬されました。この寺坂吉右衛門の泉岳寺の墓は慶応4年6月に芸州藩御用商人三人が寄進した供養墓との事です。つまり、泉岳寺四十士の墓で実際に遺骨が納められているのは、この寺坂吉右衛門と間新六郎を除いた四十五名となります。
改修され毛利池と名付けられた
ニッカ池

そして、この切腹か行われてからおよそ150年後、藩邸長屋で馬廻役の乃木家に一人の男の子が生まれ、池のほとりの井戸で産湯をつかうこととなります。その子の名は希典といい、後の乃木希典将軍となります。
乃木希典は幼少期には、毎月父に連れられて泉岳寺に参詣したと伝わります。これは、泉岳寺が長府藩主毛利家の菩提寺であったためで、希典の父は前藩主の月命日に必ず泉岳寺詣でを行い、その時に藩邸内で切腹した赤穂浪士たちへの参拝も必ず行って、その後に藩邸に伝わる赤穂浪士切腹の様子を語ったといわれています。これにより少年乃木希典の死感が形成されていき、晩年の明治帝殉死へと繋がるのではないかと想像されています。