2012年10月4日木曜日

シーボルトと善福寺逆さ公孫樹


前々回までシーボルト関係のネタをお伝えしましたが、書き漏れがあったので
今回は追記としてお届けします。
逆さ公孫樹

シーボルトは江戸滞在中頻繁にハリスと会っていたと書きましたが、時には宿泊先の赤羽接遇所で、またあるときは麻布山善福寺に設置されたアメリカ公使館での面会となりました。
そのなかで、度々訪れた善福寺で逆さ公孫樹を観察し記録ていたことは、あまり知られていません。
シーボルト1661年5/22の日記には、

正午、ハリス邸へ。ヒュースケン、伝吉の墓参り。
ハリス邸の寺院の境内に周囲30フィートの太さのイチョウがある。
この巨大な樹は、枝分かれの下、高さ12から18フィートあたりの幹から、
太さ3から5インチの太い根{気根}が出ている。東ロシアのヴァリンピの樹に似た形である。
私はイチョウの一本を江戸の近くの寺で観察した。
その寺は、アメリカ公使館に譲ったものであるが、木は周囲7m、高さがおよそ30mもある

   
と、帰国後「1886年ライデン気候馴化園の日本植物。説明付き目録の要約と価格表」
赤羽接遇所
に記していますが、シーボルトが「逆さ銀杏」を
観察し記録した事実はほとんど知られていないといわれています。(シーボルト波瀾の生涯より)
その後、同じ日に麻布光林寺で中の橋近辺で襲撃され命を落とした「ヒュースケン」の墓とその傍らにある イギリス公使館通訳伝吉の墓を参拝したたのちに、両者の墓碑銘を比較して
静と動の不思議な対比である」と覚書に記しています。






DEEP AZABU関連記事
    むかし、むかし11-175シーボルトの見た麻布
       http://deepazabu.com/m1/mukasi/mukasi11.html#175











2012年10月3日水曜日

ALWAYS三丁目の夕日は麻布?

東京タワービル3Fに展示されている
夕日町の1/43ジオラマ
数年前にALWAYS三丁目の夕日の1作目が公開されたとき、架空ながらも映画の上での「夕日町」の設定はどのあたりかと調べたことがありました。
その答えは「夕日町の秘密」という付属DVDで「芝愛宕町」との答えが明かされていたのですが、オープニングタイトルのゴム動力飛行機が飛び上がって俯瞰してゆく街並みから、どうしても愛宕から見える東京タワーとは思えず、数人で東京タワー周辺を歩き回ってその答えが、

三田通りからイタリア大使館方面に入った路地にあるという設定の架空の商店街

という結論に達しました。
しかし、その際に次点として、もしかしたら東麻布イースト商店街あるいは小山町?という意見もありました。


そして今年1月にALWAYS三丁目の夕日`64が公開され、劇場で3D眼鏡をかけてみましたたが暗い3D画面に気を取られて集中して観ることが出来ず、内容の理解度がいまいちでした。


再現された鈴木オート
しかし、7月にDVDが発売されたのを期に再度見直すと、一連のALWAYS作品で設定された「夕日町」の決定的な場所設定が映されていることが判明しました。
`64のオープニングで、主人公の一平くんがおなじみのゴム動力飛行機を飛ばす際に映し出される飛行機から俯瞰した東京タワー映像の背景が、東京プリンスホテルや竹芝・日の出桟橋方面となっておりゴム動力飛行機は、ほぼ真西から真東へ飛行したことが解ります。
これにより映画での商店街の位置設定は間違いなく「東麻布イースト商店街」付近である事が判明しました。

ただし残念な設定にも気がつきます。

ゴム動力飛行機が夕日町商店街から大通りに出て都電の電線をかすめて上昇してゆくシーンがありますが、赤羽橋~新一の橋へと続く古川北側の大通りには、残念ながら都電は走っていませんでした。
古川橋方面から来た都電は一の橋停留所を過ぎると右に大きくカーブして一の橋を渡り、中の橋・赤羽橋と進みます。
また大通りの情景や前方に見える東京タワーの立ち位置は、やはり三田通りだと思われます。
まぁ、夕日町自体が架空の街であり、原作のコミックでも特定の場所を臭わせる描写は無いのでどうでも良いのですが、せっかく麻布という設定かもしれないので、気になりますね。


この記事を書くに当たってネットで情報を探していたら、1作目のALWAYS三丁目の夕日で主人公の一平くんと友人淳之介くんが都電を乗り継いで高円寺まで別れた母を捜しに行くシーンを詳細に検証しているサイトを見つけましたので、興味のある方はご覧下さい。







東京タワー展望台から見た東麻布~元麻布方面







DEEP AZABU関連記事

さよなら麻布の都電

麻布映画劇場

麻布の寄席、劇場、映画館






2012年10月2日火曜日

シーボルトの孫、メーテル

前回はシーボルト、娘いねと麻布の関わりをお伝えしましたが、
今回はそのいねさんこと楠本いねの、さらに娘である楠本高(子)さん、つまりシーボルトのお孫さんについてのお話。

最初のご主人三瀬周三と高

「高」は江戸末期に行儀見習いとして宇和島藩主伊達宗城の侍女として使えましたたが、その当時漫画家の松本零士の六代前の先祖が高の最初のご主人である三瀬周三の同僚で、「たか」とも面識がありました。松本の先祖は「高」の美しさを代々松本家で語り継ぎ松本零士にも伝えられ、この記憶によって松本零士は作品で描く宇宙戦艦ヤマトのスターシアや銀河鉄道999のメーテルなどの女性像を、「高」を イメージして作った。と講演会で自身が語っているようです

ただし高は結婚運が悪く、最初の夫三瀬周三と死別し、その後周囲の斡旋により嫁いだや山脇学園の創立一族「山脇家」に嫁ぐのですが、再び夫と死別してしまいます。

その後は再上京した母いねと麻布で同居し、芸の道を究めたといわれていますが、写真に残された高さんの表情は現代のアイドルとしても十分通用しそうな美人顔で、その容貌はCool Beautyとでもいえるような気がします。

この高さんには最初のご主人と同じ「周三」という名前をつけた男の子がおり、
山脇家に嫁ぐ際に他家に養子に出されました。しかし、それを不憫に思った高の母いねは、
孫の周三を引き取り、養子として育てました。

そしていね、高、周三親子が麻布辺を転々として居を構えていた理由は推測ですが、おそらく
周三の慈恵医大入学と深い関係があったと思われます。これは、通説で楠本いねは日本で
最初の女医といわれることがありますが、それは過ちで彼女は産婆免許しか取得していませんでした。それを憂いた福沢諭吉から何度も医師試験を受験するよう説得されますが、中年を過ぎたいねにはその受験への活力がすでになく、その分、過大に周三の慈恵医大入学に期待したのではないかと思われます。
数度の受験失敗の後にやっと入学した周三を見極めたある日、大好きな鰻を食べた後に、スイカを食べて、食あたりからか容態が急変します。そして、1903(明治36)年8月26日に麻布区飯倉片町28番で高子・周三に看取られながら静かに逝去します。

その後周三は医大を卒業後軍医となりますが、20代の若さで夭逝してしまい、母である高も昭和13(1938)年に亡くなったといわれています。

2012年10月1日月曜日

シーボルトの見た中秋の名月

中秋の名月と
麻布氷川神社 2009年
昨晩は中秋の名月。しかし台風17号の通過でほとんどの方が、
その姿を見ることが出来なかったと思われます。

今から150年あまり前の1861(万延二)年、シーボルトは二度目の来日で、赤羽接遇所(現在の飯倉公園あたり)におりました。
この滞在中、一時期横浜に出張し再度江戸に戻る短い旅行の中で
不思議な体験をします。シーボルト日記によると、


1861年9月19日(木曜日) 旧歴 八月一五日

外国奉行に江戸到着を知らせた。
月見-月祭りTsuki-mi-Mondfestが祝われた。
そのため我々は、昨日、大名行列にも会わなかった。民衆の姿もほとんどなかった。

そして覚書にも、

[覚書]月見の祭
 八月一五日、月見(tuki-mi)が行われる。神奈川から江戸に行く街道のいたる所、家の玄関の前 に二本の竹竿が立てられている。花を咲かせているススキ、ヨシ、その他の秋の植物で飾られている。

と、民衆も大名も外出を控えて、家での月見を楽しんでいた様子が記されています。
このシーボルトが江戸を訪れた江戸末期はまだ太陰暦でしたので、毎年八月一五日は中秋の名月でした。

シーボルトが滞在したこの年はアメリカ公使館ヒュースケン殺害事件高輪東禅寺の第1回イギリス公使館襲撃事件善福寺襲撃などが攘夷派によって行われ、シーボルトは毎日のように善福寺のアメリカ公使館を訪れて、ハリスと意見の交換を行っています。そんなシーボルトが見たつかの間の庶民の楽しみを、心に深く刻んだものと思われます。

その後10月まで江戸に滞在したシーボルトは、息子アレキサンダーを英国公使館書記官として日本に残し、長崎で娘イネや門弟などに別れを告げた後、帰国の途につきます。
そして明治の世を迎えると、アレキサンダーと共に次男のハインリッヒも来日して、外国人のオヤトイとして日本側の外交官として活躍することとなります。

更に時代は下って1889(明治22)年7月11日、すでに老境となっている62歳のシーボルトの娘「楠本いね」は長崎の鳴滝塾を処分し、二度目の上京をします。そして、父と腹違いの弟が滞在した赤羽接遇所のすぐ近所である飯倉片町、我善坊町、中ノ町辺に何故か執着し、1903(明治36)年8月26日76歳で麻布区飯倉片町28番地にて、その生涯を閉じることとなります。





2012年9月29日土曜日

永坂孤女院1908


むかしむかし事件で10年ほど前に書いた「東洋英和ラージ殺人事件」を再調査する過程で面白い写真を見つけた。それは東洋英和女学院の周年記念誌「目で見る東洋英和女学院の110年」に掲載されている写真で、内容は二階家の前に子供たちが集合した記念写真?で、よく見ると外国人も写っている。
この写真は「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」というタイトルがつけられており、撮影場所
永坂孤女院1908(M41)
階下は日曜学校
(東洋英和女学院提供)
は現在の十番稲荷神社の場所にあった「永坂孤女院」とのこと。


この写真で最初に目を引いたのは外国人に見える2階左端の女性で、この女性を見ているうちに、ある人に似ているような気がした。

その女性とはこの写真が撮られる18年前の1890(明治23)年4月4日の晩に、東洋英和女学校で夫を強盗に殺害された校長Mrs.Largeではないかというもの(DEEP AZABUむかし、むかしラージ殺人事件)。

Mrs.Largeは事件後恩賜休暇を取得し一旦カナダに帰国したが、その後二度にわたって再来日し東洋英和女学校や矯風会などで活動していたという。
校長在任当時は、同窓会設立に尽力し、また後に孤児院を作ることとなる矯風会・王女会などでも活躍し、孤児の自活のための靴磨き労働や東洋英和女学校内の売店で文房具販売などの自活策を実施した。
残念ながらこの写真が写された1908(明治41)年にMrs.Largeが来日していたという記録は残されていないので、勝手な思い込みであるが、私にはこの女性がMrs.Largeに見えなくもない。

またこの写真が何かの記念写真だとすると、ちょうどこの年に完成した麻布教会日曜学校とその2階にあった永坂孤女院の創立を記念しての写真だと思われる。そして、江原素六記念館によると、64歳の江原素六はこの年に麻布メソジスト教会日曜学校の校長に就任しているという。
そこでこの写真に校長の江原素六が写っているのではないかと、沼津市明治史料館(江原素六記念館)と麻布高校に問い合わせてみた。
そして、帰ってきた返信にはどちらも江原素六の姿は確認できないというものであった。
しかし、私の勝手な眼には1階中央部分最後列に立つ彫りの深い外国人のような男性が、江原素六そのものに見えて仕方がない。


Mrs.Large
(東洋英和女学院提供)
また別件、これは麻布十番未知案内他のサイトでも言われていることだが、この写真には十番パティオに飾られている、あの童謡「赤い靴」のモデル「赤い靴のきみちゃん」こと岩崎きみちゃんが写されている可能性がある。
きみちゃんは1902(明治35)年うまれなのでこの写真撮影時には6歳。そしてその3年後の9歳の時にこ永坂孤女院で永眠することとなる。

しかし、残念ながら岩崎きみちゃんの画像は他に存在しないので、この画像の中からきみちゃん特定することは不可能である。



1枚の写真に写る(と勝手に思い込んでいる)Mrs.Large、江原素六、岩崎きみちゃん。..........すべては歴史の中に埋もれてしまっている。



追記20140303:

東洋英和女学院発行の「カナダ婦人宣教師物語」によると、Mrs.Largeの事件後の様子が記されている。
それによると、Mrs.Largeは事件直後に恩賜休暇を取得して帰国するが、数度の再来日をすることとなる。しかし1897(明治30)年から1901(明治34)年までの来日を最後に1933(昭和8)年に米国ペンシルバニアで逝去するまで来日記録は残されていないので、残念ながらこの写真に写ることは不可能であったと思われるが可能性はゼロではない。
別件ではあるが、左上の「Mrs.Large」と題された写真は事件以降に写されたものであると思われ、不自然に隠された右手は、事件により切断されてしまった2本の指を写真に写すのを躊躇うためとされている。

そして、一方ではこの写真に写り込んでいる可能性がある人物がもう一人いることがわかった。

江原素六
それは2014(平成26)年4月から放送されているNHK連続テレビ小説「花子とアン」の主人公、村岡花子・旧姓:安中はな(吉高由里子)が東洋英和女学校で寄宿生徒として生活していた時期と、この写真が撮られた時期が一致していることから、安中はなが写り込んでいる可能性が新たに発覚した。(安中はなは給費生徒として編入学したため孤児院での奉仕活動が義務づけられていた。)

また、ドラマ中での花子が奉仕活動をする孤児院の建物のありようがそのままで、二階家の日本家屋で二階が孤児院、一階は日曜学校という設定かと思われる。

そして、ドラマで二階の窓にかかっている「The Sakura-no-Oka Home」という看板は、実際の永坂孤女院写真には、「CARMAN HALL」と映し出されている。
この「CARMAN HALL」というネーミングについて、先日訪問した東洋英和女学院史料室では、

「当時欧米のホールなどの多くは寄付によって建造されていた。そして多額の寄付者が居る場合にはその寄付者の氏名を建物名称にすることが一般的であった。よって、CARMAN という人物の寄付による銘々の可能性が高い」

とのこと。



 「不確かな情報ではあるが、この永坂孤女院の建物は東洋英和女学校や麻布教会が建てたものではなく、孤児院として使用していたものを居抜きで東洋英和が譲り受けた。その元の所有者は、坂上にあった香蘭女学校であったと噂では聞いている。」として、孤女院となる施設が既存のものであった可能性を示唆している。










この写真に写っている可能性のある人物と撮影時の年齢
名 前誕 生撮影時年齢備 考
江原素六1842(天保十三)年66歳日曜学校校長
Mrs.ラージ1855(安政二)年55歳帰国中?
安中はな(村岡花子)1893(明治26)年15歳孤児院奉仕必須
岩崎(佐野)きみ1902(明治35)年6歳永坂孤女院在籍





1912(明治45)年に作られた地籍台帳と地籍図にはこの「永坂孤女院」と思われる建物が記載されている。それによると、

  ・所在地 : 麻布区長坂町五〇番地

  ・所有者 : 在日カナダメソジスト宣教師社団

  ・坪数    :  36.51坪

  ・地価   :492.88円

となっており、写真の通りさほど大きな施設ではなかったと思われる。そして、やはりその施設があった場所は現在の十番稲荷神社と大江戸線出入り口あたりであると思われる。









1912(明治45)年
地籍台帳
1912(明治45)年地籍地図











































同 年 代 の 関 連 年 表
 西 暦 年 号
  事  象
1883年明治16年築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。
1884年明治17年カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。
10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。
11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。
1885年明治18年Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。
1886年明治19年一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。
青山練兵場設置
1887年明治20年Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。
4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎
麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校
高輪の伊藤博文邸で憲法の草案を討議
1888年明治21年麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立。
東京天文台が麻布飯倉町に設立される。
1889年明治22年芝西応寺に樋口一葉が寄宿。2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問
5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵
7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。
1890年明治23年4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。
7月第一回衆議院議員選挙
江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。
1891年明治24年2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸
4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸
5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。
1892年明治25年5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
このころ 森元三座が盛況する。
1893年明治26年6月山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。(0歳)
6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。
1894年明治27年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1895年明治28年5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳)
安中はな(村岡花子)が2歳で幼児洗礼を受けクリスチャンとなる。
Mrs.ラージがカナダに帰国。
南山小学校が暗闇坂下から現六本木高校の地に移転、後年藤棚校舎と呼ばれる
新橋~八ッ山間に馬車鉄道開通
1896年明治29年芝給水場完成
1897年明治30年Mrs.ラージが三度目の来日。
1898年明治31年安中はな(村岡花子)の家族(夫婦と子供8人)が一家で上京し南品川に居住する。(5歳)
1899年明治32年4月安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)に入学する。(6歳)
4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。
7月居留地制度が撤廃される。
1900年明治33年洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。
東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。
志賀直哉が父と共に麻布三河台町に転居。
1901年明治34年Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。
7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる。
府立第3高等女学校(現都立駒場高校)が現六本木中学の地で創立。
1902年明治35年1月日英同盟調印発効
7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生
12月ラージ殺人事件解決
本村小学校が創立
1903年明治36年3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。
安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳)
8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳
新橋~八ッ山間に電車開通
三田の慶応グランドで第1回早慶戦野球。
1904年明治37年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
2月日露戦争が勃発。
川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。
ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。
1905年明治38年日露戦争が米国仲裁によるポーツマス条約により講和
麻布日ヶ窪の曹洞宗大学林専門本校(後の駒沢大学)が曹洞宗大学と改称する。
古川の埋め立てが始まる。
芝丸山で古墳群が発見される。
1906年明治39年3月市電7系統広尾線(天現寺-青山1丁目)が開通
1907年明治40年笄小学校が創立
1908年明治41年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される
三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。
11月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 天現寺橋 - 四ノ橋間が開業
12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 四ノ橋 - 一ノ橋間が開業
白金で聖心女学院開校
1909年明治42年6月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)一ノ橋 - 赤羽橋間開業
1911年明治44年8月市電六本木線御成門 - 麻布台町(六本木?)間開業
9月岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳
12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 赤羽橋 - 芝園橋間が開業
1912年明治45年6月市電六本木線 (3・8・33系統) 青山一丁目 - 六本木間開業
市電札の辻線(3・8系統) 飯倉一丁目 - 赤羽橋 - 札ノ辻が開業
1913年大正 2年安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。(20歳)
三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル)
曹洞宗大学(後の駒沢大学)が麻布日ヶ窪(現六本木ヒルズ)がら荏原郡駒沢村(世田谷区駒沢)の現在地に移転。
4月市電恵比寿線 (豊沢線、天現寺線とも) 天現寺橋 - 恵比寿(伊達跡)間開業
9月市電目黒線 (4・5系統)(古川橋) - 白金志田町 - 白金郡市境界(白金火薬庫前(上大崎))間開業
9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 古川橋 - 白金志田町(魚籃坂下)間開業
11月東町小学校が開校
1914年大正 3年ヴォーリズ(William Merrell Vories設計による明治学院チャペルが建設される。
2月市電目黒線 (4・5系統) 白金郡市境界(元白金火薬庫前) - 目黒駅前間開業
3月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)芝園橋 - 金杉橋間開業
9月市電霞町線 (6系統)(麻布三河台) - 六本木 - 青山六丁目(南青山五丁目)間開業
北原白秋が十番に転居
1915年大正 4年5月市電六本木線 (3・8・33系統) 宇田川町(浜松町一丁目) - 御成門間開業
1917年大正 6年大倉集古館設立
田町の柳沢邸で坂田三吉、関根金次郎が対局。
1918年大正 7年元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立
板垣退助の妻板垣絹子が広尾に順心女学校を創立
1919年大正 8年9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 白金志田町(魚籃坂下) - 車町(泉岳寺前)間開業
麻布十番に末広座が開業
1920年大正 9年永井荷風が麻布市兵衛町に偏奇館を建てる。
1921年大正10年松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。
6月市電天現寺橋線 (8・34系統系統) 渋谷 - 渋谷橋間開業
1923年大正12年ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設
9月関東大震災
震災直後エノケンが十番商店街で炊き出し
1924年大正13年5月市電天現寺橋線 (8・34系統系統)渋谷橋 - 天現寺橋間開業
1925年大正14年6月市電霞町線 (6系統) 溜池 - 六本木間開業
1933年昭和 8年Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。
東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。

麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学:三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。
麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。







★関連項目

「花子とアン」の麻布

続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布

東洋英和ラージ殺人事件

東洋英和女学院オフィシャルサイト

赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

大森めぐみ教会

永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん






2011年11月15日火曜日

たかが七日、されど七日

先週、急に思い立って「禁煙」をはじめた。
これといった特別な理由があったわけではなかったが、風邪気味でタバコが不味かったこと、
公共放送の禁煙特集番組を観たことがきっかけであった。
しかし、30年以上毎日40~60本を吸っていた以前の私には、
「絶対にタバコがやめられない」自信があった。
これまでも数度禁煙を企てたが長くて二日、短いときはたった数時間で挫折してしまった。
こんな経験から、私はたぶん死ぬまでタバコを吸い続けるだろうと諦めていた。
しかし公共放送の番組内でやっていた「金魚の輪くぐり」をみていたら、その金魚はまるで
私自身であることに気がついた。

金魚の餌やり時に輪をくぐらせ、その輪をだんだん上げてゆと
やがて金魚は水面から飛び跳ねて空中にある輪もくぐるようになるという。
これは金魚が餌を食べるためには輪をくぐらなければならないという状況下で
目的が達成されると脳内に歓び物質であるドーパミンが放出されるためで、
やがて金魚は餌を与えなくても輪を見せただけで何度も輪くぐりをするようになり
その後も、輪をくぐるとドーパミンが放出されるという現象を脳は生涯忘れないという。
つまり金魚の脳は餌をもらうための輪くぐりでドーパミンを出すようになり、やがて「餌」
がなくても輪をくぐっただけでドーパミンが放出され、本来の「餌を得る」から「輪をくぐる」
という目的に変化してしまう。
まさに喫煙と同じである。
安堵感や鎮静を目的に喫煙をしているとやがて、煙を吸うために喫煙をする。
と目的が変化してしまい、日常生活の大部分でタバコを吸わないと一つ一つが
完結しないと感じるようになってしまう。
起床の一服、食後の一服、飲酒中のチェーンスモーク、会話時の一服、感動したときの
一服、寝る前の一服......

こんな私が禁煙を始めて今日でちょうど七日目。この間ほとんど喫煙欲もなく、
タバコを吸っていたのは遠いむかしのような記がする。
こう思えるようになったのにはもちろん理由がある。
その理由とは........「チャンピックス」

長くなったので、続きは次回で。

2010年8月3日火曜日

Paradise...Beach

先日、京急平和島駅近くにある「大森ふるさとの浜辺公園」に子供を連れて行ってきました。

この公園は白い砂浜の人工海岸を持つ海浜公園で、ちょっとした海気分を味わえます。浜辺にはボラの幼魚や小型のハゼが群れ遊び小魚にとってはParadiseのようです。しかし、白砂なので余計に反射がきつく人間さまにとっては真夏の海岸は灼熱地獄!浜の売店のアイスクリーム程度ではおさまりません。
小一時間ほど遊んだ後、すぐ近くにたしか図書館があったはずと思い出し、緊急避難しました。図書館は大田区立の「大森東図書館」といい、どこにでもあるような小さな図書館なのですが、変わった施設が図書館内に併設されています。それは駄菓子屋兼軽食が取れる売店で、こんなものが公共図書館内にあるのをはじめてみました。
店はけっこう繁盛しており、子供達が次々に入ってきます。店のおばちゃんは駄菓子屋によくある「小うるさいおばさん」タイプではなく、ほんとに子供が好きでたまらないという感じのおばちゃんで、好感が持てます。子供とクーラーが効いた店内でかき氷を食べながら、まさに人間さまにとってのParadise!っと小さな幸せを感じてしまいました。

最近そこここで新しい企画で商売が行われていますが、少しピントがずれたものが多いと感じていた行政と民間の融合も、こんな形で行われていると「地に足が付いている」ようで好感が持てます。この辺の子供達は、大人になってもきっとこの小さな売店を忘れないでしょう。














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