2019年4月9日火曜日

⑰梅が茶屋の床梅

★白金梅ヶ茶屋の床梅
梅ヶ茶屋があった白金氷川神社門前
白金三光坂近くの白金氷川神社別当報恩寺東隣りにあった茶店の白梅の名木。
茶屋の初代オヤジは八右衛門さん、数代を経て忠兵衛さんの時代に枯死したので二本の梅を植え直したとあります。
江戸名所図会はこの梅の名称を、
「白梅にして床梅(とこうめ)と号(なづ)くといふ」
としています。
この梅樹は江戸期の書籍「江戸名所図会」、「江戸名所花暦(江戸遊覧花暦)」にも掲載されており、江戸でも名高い名木であったことがわかりますが、「江戸名所花暦(江戸遊覧花暦)」文中ではその梅樹があった場所を「麻布三子阪」と記しており、白金三光坂を麻布としています。
◆Blog DEEP AZABU-麻布名所花暦
 https://deepazabu.blogspot.com/search…
◆国会図書館近代ライブラリー
◎江戸名所図会-梅か茶屋
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174144/37
◎江戸名所花暦-宇米茶屋
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991544/12
この梅樹を詠んだ遊行上人・他阿一海(たあいっかい)とは、時宗十二派の主流遊行派の五十二世です。
◎江戸名所図会
梅か茶屋
三鈷坂(三光坂)より左の方、白銀(白金)
氷川の社の側にあり、一年
遊行上人五十二世
他阿一海上人此
家やの梅を愛したまひ一種の和
歌を詠せらる 白梅にして床梅(とこうめ)
と号(なづ)くといふ、
二月の芬芳(ぶんほう)
すこふる世に越て高し
◎町方書上 芝編 下
一 梅ヶ茶屋
江戸名所図会に描かれた
梅ヶ茶屋と床梅
右は、白金村鎮守氷川別当報恩寺東隣りにて、元は同村百姓八右衛門と申す者茶見世差し出し、地面内に梅の木一本これあり、年月知れず花咲き候頃遊行上人この華を賞し、一首の詠歌これあり候より、自然梅ヶ茶屋と相唱え申し候。当時は右地所忠兵衛と申す者所持仕り茶見世差し出し、右梅は先年枯れ朽ち候につき、その後、植え継ぎし梅二本これあり候。他阿一海と申すは遊行上人の事にて、端書詠歌左の通りに御座候。
麻布白かねといへる邑(村)に
世に名ある喬木の梅あり
この華色香鮮明にして
また梅の実とこしなへに
梢にみのりて歳をこえ侍る
ゆへに世の人是をとこ梅と
いへるとぞ、即ち今年の秋より
又のとしの弥生まで此里に
旅居せしに彼のあるじ
しばしば来たりて此名を
つげ侍りぬ、このゆへに詩人
墨客の笑をかへり見ず
名木のおもはくふせひを
わすれ侍らずくたくたしき
和歌一首をよすること
しかなり
他阿一海
この花の色は白かね名に高く
千歳をこめてみのるとこ梅
◎近代沿革図集
梅が茶屋
江戸名所図会解説
白金村鎮守氷川神社別当報恩寺東隣で、元は同村の百姓八右衛門という者が茶見世を出し、その地面内に梅の木が1本あった。年月はわからないが、花が咲いた頃に遊行上人(時宗の僧侶。名は他阿一海という)がこの花を賞して一首の歌を詠んだことから、自然と梅ヶ茶屋と唱えたという。今は忠兵衛というものが茶見世を出しており、梅は先年枯れてしまったため、その後、植え継いだ梅が二本ある。
◎江戸名所花暦
宇米茶屋
麻布三子阪(三鈷坂・三光坂と同)にあり、
一重の白梅なり、正月下旬 寒暖によるべし
盛りなり、外よりハ遅し、古木なり、遊行
(遊行上人)他阿一海上人このうめに題し
て歌あり
 この花の色は白かね名に高く
  千歳をこめてみのるとこうめ

※画像の一部は国会図書館デジタルライブラリーから引用











江戸期梅ヶ茶屋周辺





☆町歩き表紙に戻る☆































































⑯西光寺・几号水準点

栄松山西光寺
三光坂下の浄土真宗本願寺派の寺院「栄松山西光寺」には境内左手「南無阿弥陀仏」念仏碑左面下部に「几号水準点」が彫り込まれています。
几号は「キゴウ」と読み、明治初期の内務省が地図つくりを試みていた当時の水準点に相当する標石。
港区内にも多くの几号水準点が設置されましたが、その多くは当時最も頑丈と思われた石鳥居、手水鉢、碑などに彫り込まれました。
しかし、それらの管理者の無知から多くが破却されています。
詳細はこちらからどうぞ。
◎DEEEP AZABU-麻布の几号水準点
 http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi10.html#156






「南無阿弥陀仏」念仏碑






几号水準点




周辺地図









港区域の几号配置場所





























⑮三光坂

・白金三光町
三光坂上坂標
「三鈷坂」、それ以前は「三葉坂」などと呼ばれていた三光坂が町名の由来とのこと。
1872(明治5)年武家地に白金上三光町・白金下三光町が起立しその後紆余曲折を経て1879(明治12)年、芝区白金上三光町、芝区白金下三光町は芝区白金錦町と荏原郡今里村と合併して東京府東京府荏原郡白金村が起立します。
さらに、1891(明治24)年旧白金上三光町、旧白金下三光町は旧白金錦町、東名光、西名光、松久保、雷神下等を併せて東京府東京市芝区白金三光町が起立します。
・三光坂
聖心女子学院正門前から、西光寺前に向かって降りる坂をいい、明治頃には三鈷坂と称し、更にもとは三葉坂と呼ばれたと伝えられる。
この坂下にある松宮山三葉院専心寺の境内に、むかし、一蔕(へた)に三葉づつ生えている松があって、三葉あるいは三鈷松と呼ばれた。
三鈷松は松の一種で、漢名では三針松又は三鬛(りょう)松と言い、三鈷とは鈷[仏具の一種]の三叉を成したもので、三葉の松が之に似ているので、かくは称したのである。その後、三鈷坂が転訛し、日月星を象徴する三光になったのである。(芝区誌より引用)



三光坂の由来となる松樹があった専心寺







坂標に記された坂名由来





三光坂下坂標
















⑬聖心女子学院正門と伝研・聖心水流暗渠

聖心女子学院正門への通路

(以下聖心女子学院オフィシャルサイトより引用)
1909年完成。ヤン・レツル氏設計。日本に現存するレツル氏の建造物は広島原爆ドームと本校正門の2件のみで、東京都歴史的建造物に指定されています。煉瓦造り(移築後はコンクリート造り)でクラシックな洋風建築ですが、屋根は亀の甲形で、門の両側の門柱にも左右対称に亀が刻まれ、どことなく日本的な雰囲気を漂わせる独特なデザインです。
(引用終わり)
・二つの池とその水流
聖心女子学院正門脇にあった大池と小池。伝研池から流れてきた水流が流れ込み、さらに聖心女子学院正門脇の二つの池から水流をつくって五の橋直下に流れ込んでいたようです。
この池跡から白金の丘学園脇まで三光坂とほぼ平行して北上するは暗渠化されながらも現在もその流路は素敵な路地として保存されています。
この路地を歩くと車の喧噪は届かず、鳥のさえずりのみが聞こえてきます。




右手が大池が会った辺り





純真女子学院正門




暗渠路地へと下る階段




聖心正門方面に昇る階段







暗渠通路最奥部




暗渠通路




池の比較