2013年2月17日日曜日

麻布白亜館

 
先日、インターネットを巡回して麻布のネタ探しを行っていると、以前からとても気になっていた名前がヒットしました。ヒットした名前は「白亜館」。昭和40年代の前半小学生だった頃の頃の夏休み、例によって私の日課は早朝の「クワガタ捕り」から始まります。特に当時クワガタが多く生息していた場所はがま池周囲の木立でした。
がま池と麻布白亜館(煙突の建物)
その中の何本かの東側に生えていた木を私たちは「白亜館側の木」とか「麻布白亜館横の木」などと呼んで、木の場所を特定していました。しかし白亜館が何たるかは知りませんでした。このサイトを始めてからも度々「白亜館」についての問い合わせがありましたたが名前くらいしかわからず、「実際には無かった店」、「AVANTIみたいに実在しない店」、「伝説としてしか存在しない店」、「会員のみが入れる秘密のレストラン」など周囲の少し先輩の方々に聞いてもやはり確かな情報を得ることは出来ず、私にとってまさしく伝説の店でした。そして.....この歳になるまで真実を知ることが出来ませんでした。

インターネットで見つけたサイトは元白亜館オーナーシェフで、現在は福島県猪苗代町で開業されているイタリー料理「アンクル」のオーナーシェフ「アンクル N 」氏のサイトでした。サイトの記事によると白亜館は1966(昭和41)年から1977(昭和52)年頃まで麻布がま池付近に実在したようで、その間に、
マキシムのシェフとして来日中のムッシューミルゴンに個人的に師事。 同氏からフランス料理の新しい流れとともにイタリー料理の基本を学ぶ。 なおミルゴン氏は帰仏後コートダジュールでイタリア料理店を開業。

その後、


1977(昭和52)年頃、芝の第24森ビルに移転。 1980(昭和55)年より1997(平成9)年、長野県斑尾高原にてイタリー料理アンクル経営。斑尾店は現在休業中。 1997(平成9)年4月 福島県猪苗代町にイタリー料理アンクル開業。今日に至る。

麻布白亜館跡
とのことです。

ダメモトでアンクル N 氏に麻布にあった白亜館のエピソード等をお教え頂いたい旨連絡すると、ほどなく氏から詳細なエピソードを満載したメールを頂戴し、正直、私は感謝しつつ躍り上がりました。このコーナーは基本的に私が書いた文章しか掲載しないのですが、今回は私の稚拙な文章に変換するよりも、ご本人が語られる生の文章を氏の許諾の元に掲載させて頂くこととします。

それでは.....幻の白亜館の扉が開きます。



~アンクル N 氏からのメール~

ご返事が遅くなりました。始めにお断りしなければならないことがあります。残念ながら、手元に白亜館に関する資料が殆んど残っていません。そこで、おぼろげな記憶を頼りにご質問にお答えすることになりますが、何分かなりの時日を経て、70歳という年になったこともあり、どこまで正確にお答え出来るか、甚だ心細い次第です。

住所ははっきり記憶しています。

港区元麻布2-10-4   その昔は 港区麻布本村町35番地
本村町の時代の電話番号 45-1750   白亜館開業の頃は451-1750
白亜館開業にあたって 電話を数本増設しましたがその番号の記憶はありません。

開業時自分が28歳(※1938(昭和13)年のお生まれか?)だったという記憶があるのですが、さて何月に開店したのか全く記憶がありません。誕生日が12月13日なのですが、それ以降年の瀬が迫っての開店は少々不自然なので、多分昭和42年の開業ではなかったかと、随分あいまいなご返事になります。10年ほどたってこの場所での営業の継続が出来なくなるという事情から芝の第24森ビルに移転するハメになるのですが、その時期についての記憶もすこぶる曖昧 です。前後の事情から勘案し、多分昭和52年まで麻布で営業を続けたのではと推測するのですが、確証はありません。白亜館の名付け親は故保富康午氏。谷川俊太郎氏とともに第2次世界大戦後に現れた2大詩人と称された現代詩の詩人で、放送作家としても高名だった方です。何気なく名付けたようでも、由緒ある白亜の洋館をそっくり使った様を見事に3文字に凝縮して下さったと今も深く感謝しています。ちなみにその建物は昭和一桁の頃、女流画家が建てたもので、何故か建って間もない頃に売りに出されたのを私の父が買ったのです。買値は6万円だったと聞いた記憶があります。その女流画家、なかなかユニークな方だったように推測します。というのには訳があります。彼女の寝室は2階にあり、1階にあるご主人の寝室と螺旋階段で繋がっていました。階段の最上部つまり奥様の寝室に入るところにドアーがあるのですが、内側 だけに鍵があり、施錠されると外、つまりご主人側からは決して開かないという仕掛けになっていたのです。彼女の寝室の隣2階中央部に大きな立派な黒書院の造りの和室があり、そこが彼女のアトリエだったとのこと。どうやら日本絵の画家だったらしいのですが、名前すら判らず残念の限りです。

白亜館に改造するとき、彼女の寝室は個室に、黒書院はそっくり残してペルシャ絨毯を敷き松本民芸の大きなテーブルを置いて、竜馬が行くみたいな個室にしました。ご主人の寝室はバーに変身しました。バーのピクチュアーウインドーからは噴水のある池とその背後に聳えるヒマラヤ杉の大木がみえました。バーに繋がる中央の食堂部分からはガマ池が見下ろせ、食堂と一体化したラウンジにはギタートリオのボサノバが流れている。そんなレストランを想像して見て下さい。実は白亜館を開業するにあたって、一つの具体的なイメージがありました。ロンドンのクラブです。単なるレストランではなく、各界の名士たちが集う社交場を目指したのです。

そんなところから会員制のクラブとしてスタートし、そのスタンスは麻布の地を離れるまで不変でした。入会金は3万円、年会費その他一切不要。今考えると唯のような安さですが、このシステムを理解してもらうにはとんでもない年月と労力を必要としました。初めての人にシステムを説明し入会を勧めると、必ずといってよいほど返ってくる言葉がありました。会員になるとどんな特典があるのか?というものです。特典なぞなにもない、なにしろ会員でなければ入店出来ない、という説明に、皆一様に怪訝な面持ちでした。当時、流行っていた会員制クラブというのは、別名ボトルクラブと称されたものでした。何がしかの入会金を納め、僅かな会費を毎月収めると自分で持ち込んだボトルをキープしてくれ、毎回の利用料は無料といった類のものでした。

年月の経緯とともに、明確になったことですが、アイディアが、明らかに早すぎたのです。だから、経営的には苦労の連続でした。でも、東京では稀有な庭付き一軒屋、ちょっと秘密めいた立地、などが評判となり、かなり著名な方々に会員になって頂きました。所謂スターと呼ばれる方にはとてもお世話になりましたが、中でもご愛顧頂いたのM.MさんやY.Sさんを筆頭に女性の大スターと呼ばれるほどの方々、いらしてない方をおもいだすのに苦労するくらいです。その割りに男性の大スターにはいらしたことのない方がかなりいます。数年前テレ朝だったかと思います。有名人が昔を懐かしんで、かってあった名店の思い出を語るといった趣の番組があり、D夫人が白亜館の思い出を熱っぽく語っていました。その中で彼女が、沢山の大スターの集う店で、ご常連といえば例えばI.Yと語っていましたが、それはうそです。実は開店から間もない頃、Y氏が夜遅く多勢の取り巻きを引き連れて現れました。深夜だったこともあり、べろべろに酔って、かなり傲慢な態度でした。翌日事務所の方が入会申込書を持って来店されたのですが、その申し込みをお断りしたのです。あまり深く考えずにとった行動でしたが、実はそのことが、業界内にいっぺんに白亜館という名を広めることなったらしいのです。あのYを断ったとんでもない店と言うわけです。それ以来、Yは一度もきていません。又、D夫人も会員ではありません。いつしか取り留めないおしゃべりになってしまいました。こんな調子でよければ、又手の空いたときにご連絡いたします。

~メール転載終了~



※DEEP AZABU注釈(私の勝手な想像です(^^; )

M.M-超大物女優・特技でんぐり返し。
Y.S-現役超大物女優・永遠のマドンナ・ファンは**リストと呼ばれる。
D夫人-笄町生まれの元元首夫人・近年A.Mとのバトルは有名。
I.Y、Y-超大物俳優・**軍団・永遠の大スター。



最後に貴重な内容のメールをお送り頂いたアンクル N 氏に多大な感謝を申し上げると共に、現在もイタリー料理アンクルのオーナーシェフとしてご活躍の氏のご発展をお祈り致します。そして伝説となった「白亜館」という名前は、暖簾分けした支店「名古屋白亜館」が継承して現在も実在することをお伝えしておきます。