2013年2月22日金曜日

元和キリシタン遺跡<芝・札の辻>

元和キリシタン遺跡碑
2007年ころ、所用で札ノ辻を通りかかったところ元の旧芝浜中学跡地の隣接地(阪急ホテル~都ホテル跡地)に「三田ツインビル」という新しいビルができている事を知りました。

広々とした庭には聖坂を登ったあたりに出られるエレベーターも完備され、月の岬・亀塚・済海寺などに行くのが大変便利になっています。そして、庭の北側隅に碑があるのに気づきました。碑には「都旧跡 元和キリシタン遺跡」とあります。
碑の横の説明を読むと、三代将軍家光の頃にキリシタン信者の処刑が行われた地と書かれており、興味を持ったので帰宅後に参考となる書を調べましたが、
江戸初期の刑場で、東海道の江戸入り口(芝口)である同所で、多くの通行人に見せしめるための刑場として移用された。その中でも数度にわたる三代将軍家光のキリシタン磔刑場所として使用されたことは有名。その後江戸の膨張に伴い承応三(1654)年ころ鈴ヶ森に移転し、明治4(1871)年まで刑場として使用され二十万人あまりが処刑された。
という情報くらいしか見つけることが出来ませんでした。そこでネットで検索すると、非常に興味のある文章に出くわしました。それはカトリック東京大司教区サイトの教区ニュース 2007年3月号にありました。今回はカトリック東京大司教区広報部様のご厚意で転載の許可を頂いたのでご紹介させて頂きます。




碑文








碑文





































原主水の生涯 (6)   高木一雄




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+ 処刑の日時と場所
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 元和9年 (1623) 閏8月24日、 第3代将軍に就任したばかりの徳川家光が京から江戸に帰った。 
そして9月7日父親である前将軍徳川秀忠も江戸へ帰った。 そこで将軍徳川家光は父の助言や老中土井
利勝(どいとしかつ)、 永井尚政(ながいなおまさ)、 酒井忠世(さかいただよ)などの意見を容れて10月
13日 (12月4日) の仏滅日に牢内のキリシタン50人を火焙りにするとした。 そして刑場を選ぶの
には猶も30日間を要したわけであった。 
その頃、 江戸の刑罰場(けいばつば)は千住街道沿いの旧鳥越村から蔵屋敷造成のため浅草山近くの
新鳥越村 (台東区浅草七丁目) に移されたばかりであった。 だが、 そこは残酷極まりない火焙りを行なう
場所ではなかった。 それに江戸参府の諸大名にも見せ付ける場所としては最も賑わいのある東海道入り口
の芝口にある広場しかなかった。 そこで江戸城から一里半の札の辻 (港区三田三丁目) の山の斜面に決定
したわけであった。

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+ 火焙りの準備
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 元来、 火焙りの刑は最も重罪とされ、 放火犯人だけに適用されていた。 その方法は 『刑罪大秘録』 
によると磔刑とは異なり一本の柱 (長さ二間の五寸角) に釣竹で固定して縛るのであった。 磔刑の場合
だと縄で縛りつけるが火焙りとなると焼けてしまうからであった。 また、 『刑罪書』 によると 「火罪壱
人分御入用」 として 「薪二百把、 萱七百把、 大縄二把、 中縄十把」 とある。 従って50人の火焙りとなる
と厖大な量の薪や萱を準備するのであった。 
次に立ち合い人は北町奉行島田次兵衛利正(しまだじへいとしまさ)、 南町奉行米津勘兵衛田政(よねづ
かんべえたまさ)、 牢屋奉行石出帯刀吉深(いしでたてわきよしみ)、 それに伝馬町□□小屋頭藤左衛門(とう
ざえもん)などであった。 それら処刑の記録は幕府が延宝8年 (1680) 8月23日に第5代将軍徳川
綱吉が就任すると天和2年 (1682) 2月19日、 すなわち第4代将軍徳川家綱時代以前の延宝7年 
(1679) までのキリシタン古証文を悉(ことごと)く焼却処分させたため今日では詳しい記録が残され
ていない。 

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+ 刑の執行日
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 元和9年 (1623) 10月13日、 伝馬町牢内のキリシタン男子51人は裏門から3組に分けられ
出発した。 先ず第一組はジェロニモ・デ・アンデリス神父、 次に第二組はフランシスコ・ガルベス神父、
そして第三組は原主水佐が先頭となり後手に縛られ首に縄をかけられて馬に乗せられ、 他の者たちも縛
られたまま歩いて従うのであった。 そして□□小屋頭藤左衛門の先導で多くの□□たちに付き添われ、
名札を掲げられながら今日の室町―日本橋―京橋―銀座―新橋―浜松町―三田―芝口と引き回される
のであった。 
さて、 札の辻に着いてみると、 そこには柱が47本と少し離れて3本が立てられ、 側には多くの薪や
萱が積み上げられていた。 そこで町奉行は一人の囮(おとり)を使い一同に棄教を迫ったが誰一人として
応じる者もなく却って見物人の中から男女2人が同じく処刑されることを申し出たという。 因(ちなみ)
に囮となった転びキリシタンは間もなく殺されたといい、 また見物人の中から処刑を申し出た男女は
伝馬町牢に入れられ後日処刑されたという。 

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+ 処刑の史実
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 初めに47人のキリシタンが柱に縛られ町奉行の合図により藤左衛門配下の者たちが風上より一齊
いっせいに火を放った。 そこにはジェロニモ・デ・アンデリス神父 (55歳)、 フランシスコ・ガルベス
神父 (47歳)、 原主水佐胤信(たねのぶ) (36歳) が見せつけられていた。 そして第2回目に3人が
処刑されたわけであった。 そのとき、 江戸市中からは多くの人々が集まり広い野原や周りの丘は群衆
で一杯であったという。 また江戸参府の諸大名も立ち止まっていたらしいが、 市中に残っているキリシタン
たちも見ていたという。 そして三日三晩屍(しかばね)が焼け尽きるまで番人が立っていたらしく、 それが
終わるとキリシタンたちは殉教者の聖遺物を拾い集めたという。 
今日、 それら処刑された50人の中、 37人の名前だけがわかっている。 また処刑された日については
日本側史料にも外国側史料にも一致して 「寒い日」 だったとしている。 だが正しい場所について 
『徳川実記』 には 「江戸に入る門戸」 とあり、 『万年記』 には芝とだけある。 そして外国側史料である
イエズス会クリストヴァン・フェレイラ神父やフランシスコ会ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父の
報告書、 それに 『オランダ商館日記』 などには 「東海道に沿った海の見える小高い丘」 とだけある。
曽かつて芝浦は遠浅の製塩の地であり遥か房総の山々がよく見えたという。 


(高木一雄 キリスト教史研究家)






新装なった江戸元和殉教跡地




近々列福が確実視されている188殉教者の一人ヨハネ原主水が、 他の49名と共に火刑に処せられた
札の辻の江戸元和殉教 (1622年) 跡地に、 住友不動産が2002年から進めてきた三田ツインビル
西館と、 付随する約3,000坪 (10,000平方メートル) の庭園が完成した。 
庭園の大部分は国道に面してビルの北側 (田町駅寄り) に展開、 残りはビルの裏 (崖) 側を済海寺の
直下まで延長、 全体に緑を生かす、 なだらかな築山造りになっている。 
北側の庭園を国道からの緩やかな階段を使って上りきると、 正面に巨大な天然石が横たわり、 右隣
に都教育委員会の「都旧跡 元和キリシタン遺跡 智福寺境内」の石柱と説明板が移されている (写真)。
この庭園と後述のエレベーターは、 午前5時から午後11時まで一般に開放。 
旧智福寺はビルの裏手、 済海寺下にあったはずで、 史実と若干違うのは目をつぶろう。 ただ緩やか
な階段がまるで参道のように見えて、 歩道脇にあった石柱が一挙に忠魂碑風に格上げされた印象。 
施主に感謝しながら、 永く保存されることを祈りたい。 
巡礼するのに便利になったのは都旧跡の石柱から30~40メートル離れたところに、 エレベーター
・タワーと陸橋が設けられたこと。 これを利用すれば、 開国後最初にフランス領事館が置かれた済海寺
へ直接楽に行ける。逆に不便なのは、 以前ここが大駐車場であったため、 休日に限って集団巡礼の大型
バスが駐車できたが、 それが不可能になったことだ。 


(「江戸切支丹殉教ゆかりの地」編者 村岡昌和)




原主水の生涯 (6)

著者:高木一雄 氏
出典:「カトリック東京大司教区『東京教区ニュース』240号
新装なった江戸元和殉教跡地

著者:村岡昌和 氏
出典:「カトリック東京大司教区『東京教区ニュース』240号
※ 今回ご紹介した文章は著者様ならびにカトリック東京大司教区様のご好意により転載のご許可を頂きました。

※ 出典元サイト : カトリック東京大司教区-教区ニュース2007年3月



<追記>

今回の掲載に当たって東京大司教区カトリック東京大司教区広報部様より下記のメールを頂きました。あわせてお読みください。

今年(2007年当時)は殉教者の“列福”が決まり、列福式を11月に控え(於:長崎)
日本のカトリック教会においては特別な年です。
原主水をはじめ、札の辻で殉教した人々も福者とされます。
この掲載を機会に多くの方に、殉教者とカトリックの信仰
にふれていただければと思います。
 

















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