2013年7月15日月曜日

赤い靴のきみちゃん


今から111年前、1902年(明治35年)の今日7月15日、赤い靴のきみちゃんこと岩崎きみちゃんが静岡県で誕生しました。今回はそれにちなんで一五年前に書いた記事をご紹介します。

パティオ「きみちゃん像」
知らなかったというより、気がつかなかったのだと思いますが、夏の十番納涼まつりの時「雪のすべり台」がある広場(パティオ)に立っている銅像。 童謡「赤い靴」のモデル「きみちゃん」のものなのだそうです。本名岩崎きみ、歌の中では異人さんに連れられて行ったことになっているのですが、実際は今の十番稲荷の辺にあった鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」で亡くなっていました。

 きみちゃんは、1902年(明治35年)7月15日静岡県清水市宮加三で生まれ、母のかよさんと共に開拓団として北海道に渡ります。しかしかよさんに再婚話が持ち上がり、また当時の開拓地の想像を絶する厳しさ等からきみちゃんが3才の時に、アメリカ人宣教師チャ-ルス・ヒュエット夫妻の養女になったそうです。しかしヒュエット夫妻がアメリカに帰国する事になった時、結核を発病した彼女は、長い船旅ができずやむなく麻布の永坂教会孤児院に預けられ、明治44年9月15日の夜病のために9才で亡くなったそうです。

 1894(明治27)年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った
東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。そして1904(明治37)年、麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転します。
その後、麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院は麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となりました。
そして大正12年まで現在の「十番稲荷神社」のある場所で不幸な子供たちを収容し続けました。歌は、入植に失敗し新しい夫、鈴木志郎とともに札幌に戻った後、夫が「北鳴新報」という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃勤めていた野口雨情と親交を持つようになった「かよさん」が話のつれづれに「きみちゃん」の事を雨情に話し、そのイメ-ジをもとに雨情が1921年(大正10年)に詩を作り、翌11年に本居長世が曲をつけた。
パティオ「きみちゃん像」
この曲を本居の幼い娘たちが遊びの中で口ずさんでいたものが、いつのまにか広がったと言われています。 歌の中ではきみちゃんは、横浜から船にのって行ったことになっていますが、これはかよさんは亡くなるまで、きみちゃんが8才で亡くなった事を知らずアメリカで元気に暮らしていると思っていたためでした。


  「赤い靴」の女の子のモデルが明らかになったのは、麻布十番商店街振興組合のパンフレットによると、「昭和48年11月の北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという婦人の投稿記事がきっかけでした。(野口雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会った事も無い私の姉です。)この記事を当時北海道テレビ記者だった菊池寛さんが執念にも似た熱意で追跡していったのです。菊池寛さんは5年余りの歳月をかけて赤い靴の女の子の実像を求め、女の子の義妹である、そのさんの母親の出身地、静岡県清水市をかわきりに、そのさんの父親の出身地青森県、野口雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京ついにはアメリカまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し赤い靴をはいていた女の子が実在していたことを、つきとめたのです。」とある。 銅像は、このような不幸を繰り返さないため、十番商店街の人たちによって1989年2月28日に作られたとの事です。

<以下は読売新聞1998年7/14夕刊要約>

 銅像が建ったその日に、像のすぐ側で洋品店を経営する山本さん(56歳)が、像の足元の台座に 18円が置いてあるのを見つけた。誰が置いたのかわからないが翌日、気になって見に行くとやはり小銭が置かれていた。その後も不思議な寄付は続き累計が58円になった時、山本さんが試しにガラスの器を置くと、今度はその中にお金が入った。小学生がポケットの小銭を入れたり、買い物帰りの女性がお釣りを置いたり寄金は絶える事無く、翌90年3月には30万円に達した。山本さんは「きみちゃんのように恵まれない子供たちのために使ってもらおう」と考え、全額をユニセフの寄付した。これを機に、鉄製の募金箱を置いて「きみちゃんチャリティ-」と名づけた。商店街も夏祭りの収益金を寄付するなどして毎年50万円前後が集まった。今年3月まで9年間の総額は515万円。うち70万円が阪神大震災の義援金に使われたほかは、すべてユニセフに送られた。山本さんが調べたところでは、かよさんは1948年(昭和23年)「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残して64歳で亡くなった。大切な娘を手放した事を最後まで悔やんでいたと言う。「赤い靴」の像は、清水市、かよさんが入植した北海道留寿都(るすつ)村、きみちゃんが米国へ渡るはずだった港のある横浜市にそれぞれ作られている。







きみちゃん像 説明板










※下記画像は「岩崎きみちゃん」が写っている可能性がある写真です。(東洋英和女学院提供)




「目で見る東洋英和女学院の110年」に掲載されている
「日曜学校1904(M41)」と題された永坂孤女院・日曜学校の写真













同上室内写真 




















★青山墓地鳥居坂教会墓域に葬られている岩崎(佐野)きみちゃん。








鳥居坂教会墓域










鳥居坂教会墓碑







鳥居坂教会墓誌







佐野きみと書かれた岩崎きみちゃん


























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永坂孤女院1908


麻布十番未知案内-きみちゃんについての詳細な情報が掲載されているサイトです。