2013年7月5日金曜日

延宝年間図の古川

延宝年間(1673~1681年)地図
古川の流域を調べるため江戸期の地図を見ていると、「近代沿革図集別冊Ⅲ・延宝年間図付総索引」という地図上に面白いものを見つけたので、今回は江戸初期の「古川」をご紹介します。 港区郷土資料館が発行している「近代沿革図集」は江戸末期から明治・大正・昭和と同一の場所を比較できる便利な地図帳なのですが、江戸期については幕末の文久2(1862)年の地図のみが 掲載されています。しかし280年あまりも続いた江戸期の地図が1種類のみであるため、補強の意味で江戸初期の延宝年間(1673~1681年)と中期の安永年間(1772~1780年)地図が別冊として発行されています。 右に紹介するのはその中の「延宝年間地図」で、四之橋から新堀橋あたりまでを切り出してみると現在とは全く違う古川が姿を現しました。その相違点を図中に赤字でプロットした番号を追ってご紹介します。

その前に、この地図が「延宝年間」とだけあるので、もう少しピンポイントでいつ作成されたのかを知る手がかりがないかと地図中に確認してみると、 地図上部に「5.甲府」とあり(正確には甲府殿と記されている)、甲府藩主松平綱重邸であることから、この屋敷が建設された年代から少し範囲が狭まり、1678~1681年の間ということがわかります。

1. 現在の赤い靴のきみちゃん像

現在「赤い靴のきみちゃん像」が設置されている十番パティオで「目標物」とお考え頂きたい。



2. 増上寺隠居屋敷 1659年設置。

芝増上寺の法主などの高僧が隠棲した屋敷。36世・祐天上人(弟子の祐海が目黒に祐天寺を建立)隠棲時には将軍綱吉、生母・桂昌院が度々訪問した。



3. 1659(万治2)年~現在の麻布氷川神社社地。




4. 旧十番温泉あたりで行き止まりになっていた十番通り。




5. 甲府殿

1678(延宝6)年に造られ延宝6(1678)年に拡張された甲府藩主松平綱重(家光第三子、五代将軍徳川綱吉の兄、子は六代将軍家宣)邸地。



6. 現在の新一の橋付近にあった橋(字判読不能)掘留の堰?

掘の堰か橋だと思われる。



7. (判読不能)




8. 新堀と書かれている。




9. 一之橋か?一~四之橋まで記載無し。

地図上で唯一川名が記載されているのは下記「三田川」のみ。



10. 三田川と書かれている。

古川の別名・旧名か?またはこの記載地点が三田領域であったための里俗名か。地域により古川は、赤羽川・新堀川とも呼ばれた。



11. 現在の小山橋辺りで右折している古川。銀杏稲荷辺で細流あり。




12. 現在の二之橋と三之橋の中間と思われる橋




13. 古川が直角に西に曲がり、南北に架けられた三之橋。




14. 入間川痕と思われる細流。

いりあいがわ、いるまがわなどと呼ばれた古川分流。古川が分岐している地点。



15. 三之橋と現在の古川橋の中間に架けられた橋。




16. 絶江坂下の橋。




17. 「麻布御薬園」とかかれ、のちに麻布御殿となる敷地。

この地図の10年ほど後の元禄11(1698)年に将軍の鷹狩りなどに使用された休憩所、麻布御殿(白金御殿)が完成するが、それ以前は幕府の薬園であった。 三田用水白金分水はこの御殿への通水を目的として開削されたとの説もあるが、三田用水が完備されたのは寛文4(1664)年であるため確証はないが麻布薬園への通水 が目的だったとも考えられる。この薬園ないし御殿への通水が行われていた事は確かだと思われるので、四之橋近辺には白金側から御殿があった麻布山塊側へと 古川をまたぐ「水道橋」が架けられていたこととなる。



18. 本村水流

本村町天真時辺から古川へ下る細流。私は仮称で「本村水流」と呼ぶ。現在の釣り堀「聚楽園」もこの流路にある。



19. 寺群と宮村町細流

5の甲府屋敷造営時幕府により狸穴辺から宮村町へと移転させられた寺院群。明見山本光寺も含まれる。細流は「大隅山水流」、「がま池水流」が狸坂下で合流して「宮村町水流」 となり、現在の「公衆トイレ」先あたりでニッカ池、吉野川、はら金水流と合流し、現在のたいやき浪速屋付近で堀に落ち込んでいた。(※細流の流路・名称はDEEP AZABU記入)



20. 芋洗坂、ニッカ池、原金、宮村町水流が流れ込細流。

現在のたいやき浪速屋あたりで堀に落ち込んでいた。掘留が馬場となった後に流路が現在の十番通りに変更された。この十番通りに流れていた細流の 合流川は後の大正期には買い物客がこの川に落としたものを拾う専用の「川さらい人」がいたという。その後合流川は暗渠となり、「十番大暗渠」と呼ばれることとなる。現在も一の橋横に開口部を確認することが出来る。






21. 鳥居坂が描かれていないが「鳥居丹波守」屋敷が描かれている。




22. 現在の新一之橋からたいやき浪速屋辺まで入り込んだ堀。




23.興国山賢崇寺が描かれていない。
寛永12(1635)年佐賀藩主により創建されている。

















































GoogleEarth Tokyo1680
さらに、ほぼ同時期に描かれた地図をGoogleEarthで見つけました。Tokyo1680と題された地図は延宝8(1680)年の地図とのことですが、古川の様子は一変して描かれています。 鳥居坂が描かれていないなど類似点もありますが、古川の流れが現在に近いと思われます。また橋も延宝年間(1673~1681年)図で描かれてい「名称不明橋」が一つも描かれていません。 これはTokyo1680が細部を省略しているための描画の相違とも考えられますが、かなり細かく書き込まれている部分もあるので疑問が残ります。もしこのTokyo1680地図が 正確に描かれているのだとすると、延宝年間図が描かれてから数年の短期間で古川流路や橋の改修が行われたこととなり、延宝年間図の方が古い地図だと 考えることが出来ます。また延宝年間図の作成された時期が1678か1679年とさらに狭まることとなります。

この地図が描かれた時期に古川の大改修が行われており、2つの地図の相違点はこの改修工事によるものと考えることが出来ます。





○古川改修工事

① 万治4(1661)年~寛文12(1672)年

この時期に古川の大きい改修工事



② 寛文7(1667)年10月

川幅の堀広げ



③ 延宝3(1675)年

芝金杉~麻布十番(麻布日ヶ窪)間の拡張・通船工事、川ざらい



④ 延宝4(1676)年

芝金杉~麻布十番(麻布日ヶ窪)間の拡張工事完成



⑤ 元禄11(1698)年

麻布御殿造営に伴い四之橋まで通船工事



⑥ 元禄12(1699)年

麻布御殿造営に伴い芝金杉から渋谷まで川幅を拡張
 










③④について麻布区史には、工事はさらに早い②の寛文7(1667)年に幕府により鳥取、岡山両藩に命じられ計画されましたが、寛文8(1668)年の大火により延期されたようです。 しかし、困民救済と失業対策の目的で幕府の直轄事業として延宝3(1675)年再び計画され、翌年完成しました。この時の困民を一番から十番の組に分けて就業 させたので十番目の組の工区が麻布十番となったと記されており、麻布十番という里俗の地名(昭和40年代に住居表示により麻布十番という住居表示が出来ましたが、江戸期を含めてそれ以降も麻布十番が町名であったことはありませんでした。)の根拠の一つともされています。この工事は金杉橋から将監橋までの川幅を十八間(約32.4m)、それより麻布十番までを十一間(約19.8m) として両岸に堤防を築き、普請奉行(工事責任者)を阿部四郎五郎政重、岡田将監善次、大久保甚右衛門に命じたと記されています。この中で 岡田将監善次の屋敷があったことから金杉橋と赤羽橋の間に「将監橋」が造られ、1877(明治10)年に芝園橋が架けられるまでは、往還でもありました。

延宝8年図以降の古川流域はほぼ変わらないままの形で現在まで残されています。つまり現在の古川流域の原型となったのは三百年以上前の大改修にあった事がおわかり頂けたと思います。 しかし、改修前の姿と思われる延宝年間図も自然のままの古川というより、あたかも堀のように見えます。よって、これも人為的な改修が行われた後と思われます。出来れば全く人為的な 改修が行われていない、太古の昔からの自然な姿の古川を目にしたいと、さらに古い地図を検索しているが、残念ながら今のところ目にしていません。 (後に源流の古川に近い流路を表した寛永江戸全図を見ることになります。)

この延宝年間図を眼にするきっかけとなったのは前述したとおり、古川流域を調べていたからなのですが、もう少し正確に言うと古川の唯一の分流「入間川」を調べるのが目的でした。 そこで、興味のある方はこちら古川唯一の分流「入間川(いりあいがわ)」をどうぞ。





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Tokyo 1680

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