2013年7月22日月曜日

三田用(上)水と分水

以前、玉川兄弟、安松金右衛門が造った「玉川上水」を含む「江戸六上水」が江戸に整備されたことをお伝えしました。そして「神田上水」「玉川上水」以外は完成後、幕命によりわずかな期間で閉鎖されてしまったこと、その中で「三田上水」が流域周辺の農民の嘆願により閉鎖後二年あまりで「三田用水」として復活したことをお伝えしました。




江戸六上水
No. 名 称 開 設 供 給 備 考
1. 神田上水 寛永6(1629)年 江戸中央・東部 継 続
2. 玉川上水 承応3(1654)年 江戸中央部 継 続
3. 亀有上水 万治2(1659)年 隅田川以東部 享保7(1722)年 廃止
4. 青山上水 万治3(1660)年 江戸西部 享保7(1722)年 廃止
5. 三田上水 寛文4(1664)年 江戸西南部 享保7(1722)年廃止
安永3(1724)年三田用水として復活
6. 千川上水 元禄9(1696)年 江戸北東部 享保7(1722)年 廃止












白金今里町 三田用水遺構 <動画>
白金今里町 三田用水遺構


三田用水解説板
三田用水解説板


白金分水口跡付近 三田用水碑 (日の丸自動車学校)
白金分水口跡付近の三田用水碑(日の丸自動車学校)


今里橋欄干
今里橋欄干






並木橋 鉢山分水渋谷川合流口





渋谷川・古川 清流復活事業
渋谷川・古川 清流復活事業






この三田上水は寛文4(1664)年、中村八郎右衛門・磯野助六の両名よって開かれた上水ですが、単独の上水というよりも玉川上水の分水と考えた方がわかりやすく、下北沢で玉川上水を分水し芝までを流れる「水道」でした。その行程は下北沢→駒場→神泉→恵比寿→目黒駅付近で大きく弧を描いて白金台→白金猿町をほぼ尾根伝いに流れていました。開設当初は飲料用の生活水を確保するための「上水」でしたが、享保7(1722)年幕命により廃止された3年後の安永3(1724)年には流域周辺農民の嘆願により早くも農業用水として復活しています。これは流域住民にとって三田用水がいかに重要であったのかを物語るエピソードであると考えられますが、その用水閉鎖の要因として、

① 麻布御殿通水説

三田上水は、現在の南麻布南斜面に広大な土地を有していた将軍家の別荘、麻布御殿(白金御殿とも富士見御殿とも呼ばれ、麻布富士見町の由来ともなりました) への通水を主な目的として開設しましたが、麻布御殿は元禄15(1702)年四谷からの大火で焼失してしまい、その後再建されなかったので三田上水も必要性が無くなりで廃止されました。しかし流域周辺農民が止水によって大いに困惑し幕府陳情へとつながり再び通水が許されました。
② 風水説

大火が頻発するのは上水が普及したためとする噂が巷で拡がり、将軍吉宗が儒者の室鳩巣に詰問した結果上水の廃止が決められました。
という二つの説が定説となっている事が「江戸の上水と三田用水」という書籍に記されています。

①麻布御殿通水説
について「江戸の上水と三田用水」では、麻布御殿の開設を元禄11(1698)年としているので、三田上水が完備された寛文4(1664)年よりも麻布御殿の開設が30年以上も後の事であり、また停止時期も麻布御殿の焼失が元禄14(1701)年、上水廃止が享保7(1722)年であるため、御殿造営による通水開始説の可能性を否定しています。そして、麻布御殿の元となる「麻布御薬園」が開設したのが寛永7(1630)年(小石川植物園サイトによると1636年とも)いわれているので、「麻布御殿」を「麻布御薬園」と言い換えてもさらに30年あまりの隔たりがあります。しかし、「江戸の上水と三田用水」は麻布御殿、御薬園への通水を否定しているのではなく、上水設置の最要因として「麻布御殿」、「麻布御薬園」では無理があるということであるようです。
そして「江戸の上水と三田用水」は目黒・白金山塊の尾根を通る三田用水から古川を超えて麻布山山塊南端の麻布御殿への通水には古川をまたぐ必要性があり神田上水の懸樋(水道橋)のように古川をまたぐ小規模な懸樋が使用されたものと推測しているのは大変に興味深いと思われます。

②風水説は、
上水の完成時期と江戸大火が頻発した時期が偶然に重なったため、巷間で上水が大火の原因とささやかれ将軍吉宗の耳に入った。吉宗がブレーンの一人である儒者の室鳩巣に詰問した結果、
風は空を吹いているが、元来は大地の息で、地から生ずるものだ。ところが、近年は「地下は機を織申如く、縦横十文字に」水道が通じているので、「悉く地脈を断」ち、風を拘束する力がなくなっている。それで風はうわつき、火を誘い、十町、二十町の遠くまで飛び火する。その上、土は常に水気を含んで潤っている筈なのに、地中に水道が通っているので、「同気相感」の道理から、土中の水気は水道に吸収されてしまう。それで大地は乾燥し、風もまた乾燥して、いよいよ火災を大きくする。「江戸の上水と三田用水」
と、その問いに答え、その結果このもっともらしくも奇妙な室鳩巣説により上水は廃止と決定されてしまったとの説。これにより江戸庶民はさぞかし困惑したと思いますが、意外にもその様子は記されていません。これは当時掘井戸が普及し始めたことが大きな原因となっているようです。しかし、井戸水では農業用水を十分に賄うことは到底出来ないので、上水の恵みを受けていた「農民」による嘆願が開始されたものと考えられます。

三田用水は多くの分水口を持っていました。そして、これらの分水口は尾根を通る用水本流から目黒川と渋谷川・古川にほぼ均等に分けられているようです。これは、おそらく偶然の一致ではなく、用水管理の課程で話し合われた結果と考えた方が良さそうです。そして明治期以降は本来の農業用水という使用目的から工業用へと大きく変換することになり、沿線では陸軍火薬庫への通水、ビール工場への通水と共に水車業への通水が増える事となったそうです。しかし、何故水車を回すのに古川・渋谷川、目黒川の水を直接利用して川筋で回す水車が少なかったのかという疑問に対して「江戸の上水と三田用水」は、川の勾配が緩やかで堰を設けると遙か上流まで影響が及び、隣接して同じ流域で水車を操業するのが難しかった為だと記しています。また、この勾配について「郷土渋谷の百年百話」では天現寺橋付近の渋谷川の標高を海抜9.5m、そして渋谷橋付近を13.5mとして両者の距離1.0kmで傾斜を「千分の四」、宮益橋間を距離1,45km、傾斜を「千分の二」程度とし、玉川水車で五尺五寸(1.667m)の水を張ると、水かさは上流600mの一本橋付近となりますが、庚申橋付近で同様の水張りをすると、並木橋付近まで影響が及び水車の輪転を妨げるとあります。

そして再び「江戸の上水と三田用水」は、水車には上掛け(上射式)と呼ばれる水輪の上部から水を掛ける方式、中掛け(中射式) 水輪の櫓に水を掛ける方式、下掛け(下射式)と呼ばれる水輪の下部に流水を当てる方式がありましたが、勾配の緩い河川では下掛け(下射式)以外の方法を用いることは出来ず、上掛け(上射式)に比べて圧倒的に水輪を回す駆動力が弱かったそうです。これに比べて高台の尾根を通る三田用水からの落差を利用すると、水自体の重量も手伝って大変に効率が良かったからであるととも記されており、渋谷川筋に直接水車を回すより高台の尾根を走る三田用水の落差を利用した方が効率的であったという、至極もっともな回答が述べられています。






三田用水の分水
No. 目黒川 用水 古川
渋谷川
分水口
目標
放流口
目標
備 考
1. 弁天堂取水口
2. 山下口分水路























3. 溝ヶ谷口分水路
4. 神山口分水路 駒場東大 道玄坂下 宇田川・宮増橋
5. 駒場口分水路
6. 中川口分水路
7. 鉢山口分水路 西郷山 並木橋
8. 別所上口分水路
9. 猿楽口分水路 代官山 氷川橋・比丘橋下流・渋谷橋上流
10. 旧・田道口分水路
11. 道城池口分水路
火薬庫
目黒学院東方 桜橋・新橋
12. 新・田道口分水路 防衛省施設脇 臨川小学校対岸 火薬庫(道城池)分水路
13. 銭瓶窪口分水路 日の丸自動
車学校横
狸橋辺 白金分水
14. 渋ヶ谷口分水路 自然教
育園前
狸橋辺 白金分水
15. 鳥久保
16. 新・久留嶋上口分水路
17. 妙円寺脇口分水路
18. 久留嶋上口分水路 白金今里 新古川橋 玉名池~玉名川
19. 旧久留嶋上口分水路
20. 白金猿町
目黒川に余水放流 細川用水
芝西応寺まで
石榴坂方面
 
三田用水本流
 
古川に流出
 
渋谷川に流出
 
目黒川に流出
 
流域本位の流入口表は→こちらをどうぞ







三田用水から取水して渋谷川・古川流域に放水していた水車-(近代東京の水車-「水車台帳」集成より抜粋)
設置
河川
No. 台帳
No.
名 称 水車所在地 目標 用 途 諸 元 備 考











10. 1036 三井鶴吉
一番水車
豊多摩郡渋谷村中渋谷
字大山729番地
松濤美術館 精穀 水輪2丈1尺・搗臼13台 明治15(1882)年継続申請
11. 1037 三井鶴吉
二番水車
豊多摩郡渋谷村中渋谷
735番地
松濤美術館 精穀 水輪1丈5尺・搗臼12台 明治15(1882)年継続申請



12. 311 加藤幸三郎
水車
南豊島郡渋谷町中渋谷
字長谷戸419番地
鉢山公園 精穀 水輪1丈2尺・搗臼12台 旧一二ヶ村組合用水
13. 256 奥田兼吉
水車
南豊島郡渋谷町下渋谷
字田子免657番地
氷川橋 精穀 水輪1丈4尺・搗臼26台 明治18(1885)年継続申請・同20年業種変更
14. 542 柴田清次郎
外12名共有水車
豊多摩郡渋谷村
中渋谷141番地
鉢山中学 精穀 水輪1丈2尺・搗臼5台 明治20(1887)年継続申請
15. 629 角谷和市
水車
豊多摩郡渋谷町
中渋谷138番地
鉢山中学 精穀 水輪1丈2尺・搗臼11台 大正5(1916)年廃業
16. 665 高橋茂吉
外12名共有水車
豊多摩郡渋谷町
中渋谷103番地
鉢山中学 精穀 滝壺深4尺長2間・水輪1丈2尺・搗臼5台 明治44年以前は139番地で営業
17. 967 平峰元
水車
豊多摩郡渋谷村中渋谷
字鉢山491番地
西郷山 製綿 水輪1丈3尺・綿打器12台 明治17(1884)年継続申請
18. 1167 吉留利衛
一番水車
豊多摩郡渋谷村中渋谷
字鉢山分水口491番地
西郷山 製綿 滝壺深6尺幅5尺長3間・水輪1丈4尺1寸・綿打器4台・馬力1.693 明治17年継続申請・西郷従道所有地内
19. 397 久保田豊
水車
豊島郡渋谷村下渋谷村
字金王下田子免地先
並木橋 精米 水輪2丈4尺・搗臼36台 明治11(1878)年新設・鈴木権左衛門
20. 1035 三田弥兵衛
水車
豊島郡渋谷村下渋谷村 
字金王下田子免681番地
氷川橋 精穀 水輪1丈3尺・・搗臼120台 明治18年継続申請



21. 333 鎌田久太郎
水車
南豊島郡渋谷町
中渋谷896番地
JR・東横線交差 精穀 堰高7尺4寸・水輪1丈2尺・搗臼18台 明治18(1885)年継続申請・大正2(1913)年廃業(大向川落合分水)
22. 308 加藤亀蔵
水車
南豊島郡渋谷町下渋谷
字四反町1032番地
庚申橋 精米 水輪1丈8尺・搗臼12台 明治32年新設
23. 756 津田亀太郎
二番水車
豊多摩郡渋谷町
下渋谷字猿楽783番地
代官山駅 精米 水輪2丈5尺・搗臼30台 明治21(1888)年業種変更申請・同33年売買
24. 810 中西馨
水車
豊多摩郡渋谷村下渋谷
字代官山934番地
JR・東横線交差 精米 水輪1丈3尺・搗臼20台 明治17(1884)年継続申請
道城池
分水
25. 737 田丸金太郎
水車
豊多摩郡渋谷町
下渋谷1580番地
恵比寿2丁目 精米 無堰・水輪1丈5尺・搗臼17台 明治29(1896)年業種変更・(一二ヶ村組合用水)
26. 773 登坂ふく
水車
豊多摩郡渋谷町
下渋谷1596番地
恵比寿2丁目 精米 無堰・水輪1丈5尺・搗臼12台 明治9(1876)年新設許可
27. 527 真田徳次郎
水車
南豊島郡渋谷村
下渋谷字向山1367番地
恵比寿3丁目 精米 無堰・水輪1丈5尺・搗臼18台 明治20年継続申請
白金
分水
28. 735 田丸兼次郞
一番水車
芝区白金三光町
字雷神下387番地
神応小学校 精米 無堰・水輪1丈4尺・搗臼9台 三田用水白金三光町内堀水路
明治34年新設
29. 977 福沢一太郎
水車
芝区白金三光町
字雷神下165番地
狸橋 薬種細末 堰高5尺2寸幅7尺3分・馬力2.53搗臼24台 狸蕎麦水車・福沢諭吉の長男名義。精米から製薬に変更。鉄製ハ-キエルス式水車


30. 202 遠藤むめ
一番水車
芝区白金今里町103番地2号 芝白金団地 精米 無堰・上射・水輪1丈1尺・搗臼12台 明治24(1891)年継続申請
31. 203 遠藤むめ
二番水車
芝区白金今里町103番地1号 芝白金団地 精米
硝子磨切
水輪1丈1尺・搗臼26台 明治28年継続申請
豊分羽沢分水 32. 230 大橋富太郎
水車
南豊島郡渋谷村
渋谷字下広尾18番地
山下橋 鍛冶 水輪8尺馬力0.045 明治24年新設




このリストからも三田用水を利用していた水車が多かった事をご理解頂けると思います。リストの最後に掲載した「32.大橋富太郎水車」を三田用水豊分羽沢分水に分類していますが、これは水車台帳に、

[引用]
玉川上水三田用水豊分羽沢分水路(字常磐松百七番地池水ヨリ流出、字豊分羽沢田地の下流)
とあることを典拠としました。しかし、この水路は三田用水とは古川を挟んだ対岸の「いもり川」を差していると思われ、他の複数の書籍中にも「三田用水豊分羽沢分水路」は確認できないことから、水車継続営業願い提出者である所有者の誤記であると考えられます。またこの記述が間違いないものとすると、現在臨川小学校となっている場所の古川対岸の白金台地から掛け樋(水道橋)を通して古川を渡ることとなりますが、いもり川は出典の「字常磐松百七番地池水ヨリ流出」の「常磐松池」の他にも「豊沢池」、「羽沢の池」などからも水流があったので、不自然な通水と思わざるを得ません。(この件に関して、何か情報をお持ちの方はお手数ですが、ご一報頂けますと幸です。m(__)m
★細川上水
三田上水の終点 白金猿町
三田上水の終点 白金猿町




細川上水が通った高輪通り
細川上水が通った高輪通り




細川家伊皿子屋敷跡(高松宮邸)
細川家伊皿子屋敷跡(高松宮邸)

これまで三田用水とその分水をご紹介してきました。この三田用水は、正式には下北沢で取水した水を白金猿町(現在の都営浅草線高輪台駅前交差点付近)まで運ぶ水路なのですが、実はそこで終わってはいません。 
さらに本流は猿町→本立寺北→水車場跡→御殿場小学校へと下って居木橋で目黒川へと余水を流すことになります。しかし一方では、白金猿町から高輪通りに出て伊皿子聖坂を通過して慶應大学で三田通りを東京タワー方面に向かい、旧入間川(いりあいがわ)流域付近で右折して芝西応寺に至り寺を周回した後に余水を当時の薩摩藩邸重箱堀に流したと思われる「細川上水」が存在していました。

この細川上水は細川家が開設して、猿町から西応寺間の約3.6kmを流れていた。....との説が一般的なのだが、実は細川用水は玉川上水を下北沢で取水し三田用水とほぼ同じ経路で流れる単独の水路であったようです。つまり三田用水下北沢→白金猿町の総延長が8.5kmであるのに対して、細川上水は猿町→西応寺間3.6kmを足して総延長12.1kmとなる。後年に三田用水に合併されてしまうのですが、開設時には全く別のものであったようです。また、三田用水が幕府により設置されたのに対して、細川上水は細川家が単独で行った事業で、上水の沿革としては三田用水の寛文4(1664)年設置に対して、細川上水の設置は明暦3(1657)年と7年あまりも細川上水の方が早く設置されています。
この細川上水について文献は、

・東京市史稿
三田用水は元二流ありて、一は三田上水(白金上水)と称し、三田芝辺の飲用に供せしものにして、其の創設は寛文4年の事である。
他の一流は細川上水にして、万治年中細川越中守、用水堀を開削して己が私邸に引けるものである。
・芝区史
三田上水には二つの主なる支渠があった。一つは万治年間細川越中守がその私邸に導水した細川上水であり、他は元禄11年白金御殿(麻布御殿)造営に際して、白金村で分水した白金上水である。
などとしています。余談ですが「江戸の上水と三田用水」筆者はこの2書籍の記述について、
  • 東京市史稿が白金上水を三田上水の別称としているのは「誤」。(白金上水は三田上水の別称ではなく分水)
  • 同書が細川上水開削を万治年間としているのは「誤」。「正」は明暦3(1657)年。その根拠は熊本藩の公文書「細川家記」に「三年(明暦)6月、熊本城主細川綱利 (越中守)」伊皿子屋敷ニ池ヲ穿チテ、玉川上水ヲ注グ」とある。
  • 芝区史が細川上水開削を万治年間としているのは「誤」。
  • 同書が主なる支渠は「誤」。(細川上水は三田上水の支渠ではなく独立した流路)


としてその誤りを正しています。

つまり細川上水は、明暦3(1657)年6月に細川家が玉川上水下北沢付近の取水口から、少なくても伊皿子の藩邸(現在の高松宮邸・高松中学敷地)までを単独で引いた飲用の上水であった事がわかります。また「江戸の上水と三田用水」は細川上水の下北沢の取水口が三田用水の取水口とかなり近接した位置にあり、その間の距離は328mであったと記している。そしてそれ以降上水の経路についても、後発の三田上水は先発の細川上水を模倣して設置いると指摘しています。しかし、そのようにして建設された細川上水も上水建設時に同時に廷内に9.96mの落差を有する「滝」を設置するに及んで、滝のみの出費が500両と破格な建設費であったため細川家江戸詰めの重役が国元へ不満の書状を送っています。その結果、国家老が急遽出府して殿に諫言、滝とそれを落とす池の破却を決め、帰国したといわれています。これは殿の酔狂を超越して、造営された私邸内の「滝」が幕府の禁忌事項に触れるための緊急措置であったといわれています。

その後の享保7(1722)年、三田上水が閉鎖された後には細川上水も同時に閉鎖されたといわれています。そして、三田用水が復活した際にも細川上水は個人所有の上水であったため、周辺住民が使用することは出来ないので再開されることはなかったようです。しかし「江戸の上水と三田用水」には細川用水が空堀となった以降、その筋の工作によって処理され三田用水と一体化されたと伝えられています。との意味深な記述があり、おそらくは細川用水は幕府に取り上げられたらしいとの憶測が記されています。私はこれ以降公的な水道となった元細川水道は三田用水として芝西応寺まで延長して庶民にも使用されたのではないかと考えますが....もちろん根拠はありません。

不幸にして上水という玩具を幕府に取り上げられてしまった細川越中守ですが、実はもう一つ同じような玩具を有していたそうです。それは現在品川区の戸越公園となっている敷地は細川家下屋敷でしたが、越中守はこの屋敷にもやはり玉川上水からの品川用水を引き込んでいました。今回の話題からは逸脱するので詳細は省略しますが、興味のある方はお調べ下さい。
しかし、.....全く懲りないお方である(^^;

さらに伊皿子屋敷での後日談を一つ。

細川家伊皿子屋敷に隣接する七千石の旗本板倉修理の屋敷(高松中学辺の低地)に、その頃すでに空堀となっていた細川家の細川上水の溝から豪雨による水が溢れ落ちてきた。板倉家は再三細川家に苦情を申し立てたがいっこうに改善されず、業を煮やした修理は江戸城登城の際に細川綱利の孫を見つけると殿中で刃傷に及び、殺害した。これにより板倉家は断絶となったという。これは延享4(1747)年8月の事といわれているので、すでに享保7(1722)年にその役目を終えていた細川上水が、なおも殺人の原因となってしまった事件と言える。さらに元禄15(1702)年12月14日から、この細川家伊皿子屋敷では大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士17名が翌16年2月3日に切腹するまでの期間預けられた屋敷でもあり、当時はまだ水流も十分にあったと思われる細川上水の水を使用した庭池などを見て切腹までの三ヶ月を過ごしたことは間違いないと思われる。機会があればその逸話なども探し出し、またご紹介したいと思います。



最後に再び三田用水へと話題を戻しますが、三田用水は江戸期から用水管理組合を作り、その使用を厳しく管理していました。三田用水が開設された寛文4(1664)年には三田用水組合会により管理されていましたが、上水廃止後に用水として復活した後は田畑への灌漑を目的とした、用水管理組合が成立しました。組合の構成区域は上目黒村、上目黒村上知、中目黒村、中渋谷村、下渋谷村、白金村、今里村、三田村、代田村、上大崎村、下大崎村、谷山村、それに北品川十四ヶ村で、構成員はその地域の農耕地主でした。そして明治になると、組合は水利組合法施行に伴い名称を「三田用水普通水利組合」としました。
この組合についての詳細は記録を見つけることが出来なかったので不明ですが、三田用水普通水利組合が管理所有していたこの用水が、時代が下って都市化により農耕地がなくなり、三田用水の敷地は道路や公園に替わった中で、これら元用水であった土地の所有権が、三田用水を管理している「三田用水普通水利組合」にあるとして、所有権確認の裁判を提起した結果、昭和44(1969)年最高裁により否定的な判決が下されているようです。そして三田用水が完全にその流れを止めたのは、つい最近の1975(昭和50)年だといわれています。



次回はいよいよこれまでのの総集編として渋谷川・古川の水車の全容などをご紹介させて頂き、水車ネタは最後とさせて頂きます。

                                                                                                                             










・近代東京の水車-「水車台帳」集成-
・近代沿革図集
・江戸の上水と三田用水
・郷土渋谷の百年百話
・ふるさと渋谷の昔がたり
・渋谷の橋
・渋谷の歴史
・渋谷町史
・1912年発行東京市及接続郡部地籍台帳
・1912年発行東京市及接続郡部地籍地図
・玉川上水と分水
・明治21年 内務省地理局地図
・明治40年 東京郵便局地図
・地べたで再発見「東京」の凸凹地図




◎Wikipedia

三田用水
渋谷川
細川綱利
熊本藩







◎関連記事

・福沢諭吉の狸蕎麦水車
・広尾(玉川)水車
・麻布な涌き水
・渋谷川~古川
・赤穂浪士の麻布通過
・狸狐の仕業(白金)
・白禅寺の幽霊<白金>
・高縄原の激戦<高輪台>
・中川屋嘉兵衛(芝白金)







スライドショー

















より大きな地図で 麻布の水系 を表示