大正10年(1921年)10月10日、それまでの豪雨により地盤の緩んだ賢崇寺境内で、正午過ぎ頃に高さ30尺幅40間にわたり轟音と共に崖崩れが発生し、これにより崖下にあった民家4戸が埋没し8戸が倒壊しました。
興国山賢崇寺
発生直後に坂下町会、警察、区役所、在郷軍人、消防隊などによって救助活動が始められ、次々と罹災者を救出しましたが崖に一番近かった家から4名、その隣家から3名の死者が出る大惨事となりました。
この災害に対し坂下町町会が300円、鍋島家が7千円、その他3700円の見舞金が集まり、一番近かった家の遺族に4500円、その隣家の遺族に3500円その他の災害者にも見舞金が贈られました。そして10月13日、麻布山善福寺において合同葬が盛大に営まれ、被害者の冥福が多くの人によって祈られました。なおこの災害によって坂下町町会役員は約1ヶ月間不眠不休の活動を続け、その副次的な産物として町会内に青年団が結成されたとあり、この頃から町会青年団が結成され、やがて関東大震災などで活躍することとなります。
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2013年1月18日金曜日
賢崇寺境内の崖崩れ
2013年1月17日木曜日
芳川顕正の結婚
内田山・大隅山など麻布宮村町周辺は、明治・大正期には、当時権勢を誇った貴族・高官などが多く住むこととなります。元勲であり長州五傑でもある井上馨、がま池の所有者となる渡辺国武、竹谷町、新堀町、西町などに別邸を持った松方正義、大隅山の柳原白蓮で有名な柳原家、現在の中国大使館の敷地にあった後藤新平邸、そして前項心中事件でご紹介した伯爵の芳川顕正も内田山に屋敷を構えていました。
芳川顕正は、天保12年(1841年)12月10日に阿波の国(徳島県)麻植郡川田村で原田民部の4男として生まれました。18歳で史・漢・三国史を学び、その後医学を学び文久元年(1861年)医師高橋文昨の長女と結婚、養子となり長崎に遊学、長崎で医学の塾頭をしながら英学を学んだ後に徳島に帰って士籍に取りたてられます。
その後藩主、蜂須賀斉裕の命で再び長崎に官費生として戻り、明治元年(1868年)、藩からの召還を拒んで鹿児島に行き、医者をやめ海軍で翻訳に携わり姓も芳川と改めて「越山」と号します。
明治3年(1870年)伊藤博文に従い渡米。帰国後、外務少輔、東京府知事、外務大輔を歴任。その後も内務次官、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを務め、その功績により子爵、後には伯爵を授かることとなります。しかし大正6年3月7日娘「鎌子」の事件により内大臣を辞去。その後も枢密顧問官、皇典講究所長、国学院大学長などを務め、大正9年(1920年)1月10日没しました。
この芳川顕正が明治のはじめに大蔵省書記官であった頃、芳川は大蔵省の部下であり最も目をかけていた長尾氏に「美人であれば実家は貧乏でも構わないから省の仕事よりも、早急に妻となる女性を探せ。」と妻の候補探しを命じています。この時、高橋文昨の長女と何故、離別していたのか不明だが、とにかく部下に妻の候補を探させたこととなります。
妻の候補探しを命じられた長尾氏は、これを出世の糸口と喜んで引きうけ、まわりの官員達も羨望のまなざしで長尾氏を見つめました。しかし親戚知己、出入り商人などあらゆる所に声をかけますが、なかなか適当な女性が見当たませんでした。日々芳川からの催促が厳しくなり、当初の「出世の糸口」が「首をかけた仕事」に変貌して、やつれ果てた長尾氏が「土地の神様に願をかけてみては?」というの申し出から麻布十番の 大黒様(栄久山大法寺)に日参をします。
※大黒様とは日蓮宗・栄久山大法寺(港区元麻布1-1-10)のことで、この寺の尊像が伝教大師作「三神具足大黒尊天」であることにちなみます。この尊像は享保15(1730)年六本木の旧家伊勢屋長左エ門がある夜霊夢により授かったものを大法寺に奉納したと伝わっています。
これにより現在の港七福神巡りの大黒天として知られています。
そして満願の日、長尾氏がいつものように大黒様に行ってみると、境内の休み茶屋でお茶を飲んでいる母親と供に座っている美しい娘が目にとまりました。これは!と思い近づくと茶屋の婆と親子は懇意な様子で、どうやらしんみりと別れの挨拶をしているところでした。
この母娘は元武家で、東京での生活が成り立たなくなって「知行地」に都落ちする事を涙ながらに語っていました。
この娘なら芳川のめがねに叶うと「つかぬことをお伺い致しますが.....。」と親子に話しかけ、その流れでそれとなく芳川の妻探しを打ち明けると、母親は「そう言う方に娘が貰われたら、この上もない出世です。こんな嬉しいお話はありません。」との喜びようでした。
早速帰って、芳川に話すと「そういう境遇の女なら、かえって良い。妻に申し受けよう。」と話がまとまり、吉日結婚式がとり行われました。その後、長尾氏は肩の荷が下りて「もうこりごり」と言ったといいますが、その後本当に出世したのかは不明です。またこの女性が芳川鎌子の母親にあたるかどうかはわからないそうです。この話は「幕末明治女百話(下)」に掲載されていました。
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芳川顕正は、天保12年(1841年)12月10日に阿波の国(徳島県)麻植郡川田村で原田民部の4男として生まれました。18歳で史・漢・三国史を学び、その後医学を学び文久元年(1861年)医師高橋文昨の長女と結婚、養子となり長崎に遊学、長崎で医学の塾頭をしながら英学を学んだ後に徳島に帰って士籍に取りたてられます。
その後藩主、蜂須賀斉裕の命で再び長崎に官費生として戻り、明治元年(1868年)、藩からの召還を拒んで鹿児島に行き、医者をやめ海軍で翻訳に携わり姓も芳川と改めて「越山」と号します。
明治3年(1870年)伊藤博文に従い渡米。帰国後、外務少輔、東京府知事、外務大輔を歴任。その後も内務次官、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを務め、その功績により子爵、後には伯爵を授かることとなります。しかし大正6年3月7日娘「鎌子」の事件により内大臣を辞去。その後も枢密顧問官、皇典講究所長、国学院大学長などを務め、大正9年(1920年)1月10日没しました。
この芳川顕正が明治のはじめに大蔵省書記官であった頃、芳川は大蔵省の部下であり最も目をかけていた長尾氏に「美人であれば実家は貧乏でも構わないから省の仕事よりも、早急に妻となる女性を探せ。」と妻の候補探しを命じています。この時、高橋文昨の長女と何故、離別していたのか不明だが、とにかく部下に妻の候補を探させたこととなります。
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| 栄久山大法寺(大黒天) |
妻の候補探しを命じられた長尾氏は、これを出世の糸口と喜んで引きうけ、まわりの官員達も羨望のまなざしで長尾氏を見つめました。しかし親戚知己、出入り商人などあらゆる所に声をかけますが、なかなか適当な女性が見当たませんでした。日々芳川からの催促が厳しくなり、当初の「出世の糸口」が「首をかけた仕事」に変貌して、やつれ果てた長尾氏が「土地の神様に願をかけてみては?」というの申し出から麻布十番の 大黒様(栄久山大法寺)に日参をします。
※大黒様とは日蓮宗・栄久山大法寺(港区元麻布1-1-10)のことで、この寺の尊像が伝教大師作「三神具足大黒尊天」であることにちなみます。この尊像は享保15(1730)年六本木の旧家伊勢屋長左エ門がある夜霊夢により授かったものを大法寺に奉納したと伝わっています。
これにより現在の港七福神巡りの大黒天として知られています。
そして満願の日、長尾氏がいつものように大黒様に行ってみると、境内の休み茶屋でお茶を飲んでいる母親と供に座っている美しい娘が目にとまりました。これは!と思い近づくと茶屋の婆と親子は懇意な様子で、どうやらしんみりと別れの挨拶をしているところでした。
この母娘は元武家で、東京での生活が成り立たなくなって「知行地」に都落ちする事を涙ながらに語っていました。
この娘なら芳川のめがねに叶うと「つかぬことをお伺い致しますが.....。」と親子に話しかけ、その流れでそれとなく芳川の妻探しを打ち明けると、母親は「そう言う方に娘が貰われたら、この上もない出世です。こんな嬉しいお話はありません。」との喜びようでした。
早速帰って、芳川に話すと「そういう境遇の女なら、かえって良い。妻に申し受けよう。」と話がまとまり、吉日結婚式がとり行われました。その後、長尾氏は肩の荷が下りて「もうこりごり」と言ったといいますが、その後本当に出世したのかは不明です。またこの女性が芳川鎌子の母親にあたるかどうかはわからないそうです。この話は「幕末明治女百話(下)」に掲載されていました。
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2013年1月16日水曜日
芳川伯家婦人心中
大正6年3月7日6時55分、千葉発本千葉行きの単行列車が県立女子師範学校側に差さしかかった時、若い女性が飛び込み跳ね飛ばされました。機関手が急停車した所、飛び込み遅れた同行の青年が師範学校の土手によりかかり短刀で喉を突いていました。
知らせにより千葉署から猪俣警部補、刑事、医師が駆けつけ検視した結果、女性は左頭部に重傷を負い直ちに県立千葉病院に運ばれ、青年は気管を切断し死亡していました。女性は上流令嬢風、青年は好男子であり各自遺書があったので身元はすぐに判明します。
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| 1913(大正2)年宮村町内田山の芳川邸 |
重傷を負った鎌子婦人も4月半ばに退院し、麻布の本邸に戻りましたが、世間の手前渋谷の隠宅にこもったそうです。その後廃嫡され、父芳川顕正の死にも立ち会えなかったといわれます。
この芳川鎌子の情死事件は、当時、新聞などにより世間の注目の的となり流行歌まで作られました。
「千葉心中」--- 淡路美月
- ああ春遅き宵なりき 恋に悩める貴人(あでびと)の 真白き指に輝ける ダイアの指輪憂いあり 都に浮き名うたわれし 二人の胸に秘めらるる 恋の絆のからみ糸 線路の錆と血を流す ……。
これとは逆に、この事件により謹慎の意を表し枢密院福議長を辞任する意向の父、芳川伯には同情的で、夫の曽祢寛治も被害者という立場に見られました。しかし、当初は同情的であった世間も、赤坂、新橋の花柳界に入り浸り、特に新橋芸者の「栄三郎」へ入れあげて、鎌子を顧みなかったという夫の素行が明るみに出、またあくまでも優等生的な発言を繰り返した寛治の、事件直後の「あれは、人間ではない」と言う失言が発覚、また妻である鎌子の実姉「新子」との醜い噂も露見してからは、有識層のコメントも変化し、小説家の近松秋江などは、
「.......今日の華族社会の紳士達がしゃあしゃあとして柳暗花明の巷に売色と戯れて、恬(てん)として恥ぢることなきに比ぶれば、彼女の如きは尚ほ廉恥の念が消磨してゐなかったのである」と言っています。
退院後、彼女は世間を逃れて下渋谷に隠棲しましたがやはり世間は冷たく、「姦婦鎌子ここにあり」、「渋谷町民の汚れなり」などと板塀に書かれ、また彼女が芳川鎌子だと判ると御用聞きまでが寄り付かなくなったといいます。家族から、貴族らしい家名存続の手段のため宗教に帰依し恭順の意を世間に示す事を進められたが、それすらも世間からの攻撃の的となった。
しかし伯爵家の圧力によって新聞、雑誌も沈静し、「千葉心中」の歌も警視庁から差し止められます。そして事件後、実娘である鎌子を勘当した芳川伯ですが世間体からか夫寛治の籍を抜くことをせず、芳川伯の死後に寛治は無事に爵位を襲封し貴族社会の一員であり続け、寛治の後に三室戸子爵家から三光氏を養子に迎え現在へと続きます。
正式に寛治と離婚し芳川家からも除籍された鎌子は、青山の次姉宅などをへて鎌倉の別邸に住み、しばらくは平穏が続きます。
しかし倉持陸助の一周忌を済ませた7ヶ月後の大正7年10月、出沢佐太郎という元倉持陸助の同僚運転手と再び「駆け落ち」してしまいます。
出沢は倉持陸助が心中する晩に涙しながら酒を飲んだ最後の同僚でした。仲が良く、最後の晩の様子を知る元同僚運転手から話を聞くうちに恋が芽生えたのでしょうか?また出沢を倉持の身代わりとして愛したのでしょうか、鎌倉の別邸を抜け出した二人は、本所向島の出沢の生家に駆け込みます。失踪を知った芳川家は仰天し八方手を尽くして探しますが、そうこうするうちに、出沢の母から芳川家に連絡が入り、芳川家は急遽向島の鎌子をむりやり連れ戻します。
その後、無理に連れ戻された鎌子は、厭世的なうつ状態となり「自殺」の危険性も出てきたので、芳川家はやむなく出沢との結婚が許しました。しかし事件後の勘当は多分に表面上の事であったのに対し、ほとほと手を焼いた今回、芳川家は鎌子に完全な「勘当義絶」をして一切仕送りも中止しました。たちまち生活に窮した夫妻は、出沢の伯父をたよって茨城の取手に住み出沢も出稼ぎなどまでして懸命に働いたそうです。しかし生活は苦しくなるばかりであった。そして横浜へ.......。
大正10年4月、鎌子は前年1月に亡くなった父「芳川伯」の後を追うように横浜の南吉田町で亡くなることとなります。享年29歳。婦人病から腹膜炎を併発し、医者からの「手術をすれば治る」という申し出を断って死を選んだそうです。その腹膜炎も芸者遊びに明け暮れた前夫寛治からうつされていたという説もあり、憐れを誘います。いずれにせよ鎌子の死は事実上の「自殺」であったようです。
数奇な運命をたどった芳川鎌子は、誰を愛していたのでしょうか?
情死しそこねた倉持陸助?
自分の死を見取ってくれた出沢佐太郎?
それとも、それら両人を愛せた自分?
今となっては、分かりようもありません。
(余話)として
- ①心中相手の倉持陸助の名は、資料によって「陸助(りくすけ)」、「睦助(むつすけ)」とあり現在もどちらか判断出来ないようです。また彼は三田台町の叔父、指物師の儀助に6歳から養育され、御田小学校~芝中学と進んだようです。しかし中学1年の時に叔父が死去したため荒物屋で奉公し、16歳で三井物産に給仕として入社しました。その後機械が好きで自動車部に転じました。この自動車部に居た時に三井物産に関係のあった芳川顕正にスカウトされ三井物産に籍を残したまま、芳川家のお抱え運転手となったといわれます。死後、彼は叔父の儀助が眠る魚藍坂の魚藍寺に眠っています。
- ②前項芳川顕正を掲載した直後に、「うさぎ横丁」氏から芳川顕正についての情報を頂いたので、氏に感謝をこめてご紹介します。 「芳川伯爵の件ですが、芳川家の墓所が青山墓地にあります。 場所は墓地下から中央の坂を登っていくと右側にあります。 大きなお墓なので直ぐに見つけられます。 (中略) 青山墓地ですが、数年前思い付いて、華族(公爵・侯爵・伯爵・子爵・ 男爵)の墓を確認してみたところ150以上チェックできました。 功績では軍人・政治家、出身ではやはり薩摩が多いです。 ここも時代の波か、麻布にたくさんあったお邸が消えていったほどでは ありませんが、昔たしかにあった華族の立派な墓碑がだんだん 少なくなっているようです。」
2013年1月15日火曜日
内田山由来
宮村町には以前ご紹介した大隅山に加えて、もう一つ山名で呼ばれる地域があります。
現在南山小学校、都立六本木高校のある山は、江戸時代には内田山と呼ばれていました。
内田山
これは、小見川(千葉県香取郡小見川町)藩主内田氏の上屋敷が万治元年(1658年)2月11日からあったためついた里俗の地名です。
内田氏は今川氏家臣から永禄11年(1568年)徳川氏に仕えた当初800石ほどの旗本でしたが、正信の代に相模で1000石の加増、さらに寛永16年11月、正信が将軍家光の御小姓組番頭となると、下野小見川8200石を加増され10000石となって大名に列せられます。
その後の慶安2年(1649年)にも正信は下野都賀・阿蘇で5000石を加増され15000石となって内田家歴代でも最も繁栄を極め、将軍家光の寵愛がいかに深かったかが伺われます。そして慶安4年(1651年)4月20日、家光が崩御すると正信は即刻帰宅し、幕府の重臣である堀田正盛、阿部重次と供に殉死しました。
その際、内田正信、阿部重次の家臣らも主君に続いて殉死したが、堀田正盛の家臣は主君の後を追う者が一人もいなかったといいます。日頃から規律の厳格な堀田家の家臣が殉死せず、逆に家臣の乱暴が度々評判となっていた内田、阿部両家の家臣は殉死したため、外見とは違い堀田家は家来の待遇が良くなかったのだろうと町の者の噂となりました。
その後の内田家は、享保9年(1724年)正偏の代に狂気のため心神喪失して妻女に斬りつけ蟄居減禄、また天保8年(1837年)正容の代にも不行跡で減禄となるなどしますが、その後幕末まで小見川藩を授かっていました。明治2年(1869年)内田正学は小見川県知事、子爵となり族院議員を勤めました。その後内田山は、それまで山全体が邸宅であったのを麻布十番方面から桜田町方面にぬける坂道が道路となったので、内田坂の名が生まれます。
文久2(1862)年の内田豊後守屋敷
明治33年12月31日の朝日新聞記事に、
「渡辺国武蔵相は、28日、伊藤首相の懇書に接し、早急に馬車で内田山の井上馨伯邸に駆けた。数刻にわたった井上伯と会談の後、そのまま首相が滞在している神奈川・大磯に赴いた。」
との記事があり、一般的にも内田山と呼ばれていたことがわかります。またこの 渡辺国武蔵相は当時のがま池保有者であり、この時渡辺蔵相は同じ宮村町内を馬車で移動した事が記されています。そして文中の井上馨の他に伯爵の芳川顕正も後に住まいを内田山に構える事となります。
★追記
四時佳興碑と解説版 六本木高校敷地の最西端に四時佳興 碑があります。これは内田豊後守屋敷の庭にあったもので宋代の哲学者「程顕」の詩の一説とのことです。
説明板
<四時佳興>
この碑はここ城南高校の地にあった内田豊後守の屋敷の庭
に置かれていたもので宋代の哲学者 程顕の詩の一説を刻
んだものです。
秋日偶成 程顥
閒来無事不従容 睡覚東窓日已紅
万物静観皆自得 四時佳興興人同
後畧
ゆったりと静かに眺めてみると万物は皆それぞれに
所を得ている。春の花秋の月と四季折々の移り変り
の面白さは、誰をも同じに楽しませてくれるという、
意味です。
四時佳興碑
解説版
江戸時代、この地にあった内田豊後守の屋敷の庭に置かれていたもの
で、この地を受け継いだ、南山小~麻布高等小~府立22中~都立城南
高校が、大切に保管して来ました。意味は碑の下に詳しい説明があり
ます。
また、この庭園の踏み石は、旧校舎南側にあった石垣のもので、府立
22中にちなんで22個配置されています。
城南高校の歴史
昭和17年2月 東京府立22中学校創立
〃18年7月 東京都立城南中学校と改称
〃19年4月 現在地に移転
〃23年3月 東京都立城南新制高等学校と改称
〃25年1月 東京都立城南高等学校と改称(男女共学)
〃63年2月 現校舎竣工
平成16年3月 東京都立城南高等学校56回卒業式
卒業生16,991名(男 9,180・女 7,811)
東京都立城南高等学校閉校
〃17年4月 東京都立六本木高校開校
平成18年 都立城南高校同窓会
社団法人 関西吟詩文化協会サイト解説
<秋日偶成 全文>
秋日偶成 程 明道 閑來無事不従容 睡覚東窓日已紅 萬物静観皆自得 四時佳興興人同 道通天地有形外 思入風雲變態中 富貴不淫貧賤樂 男兒到此是豪雄 <読み方>秋日偶成 程 明道 閑來事 として従容 ならざるは無 し睡 むり覺 むれば東窓 日已 に紅 なり萬物靜觀 すれば皆自得 四時 の佳興 は人 と同 じ道 は通 ず天地 有形 の外 思 いは入 る風雲 變態 の中 富貴 にして淫 せず貧賤 にして樂 しむ男児此 に到 らば是豪雄 <意味> (役職を離れて)ひまな生活になってからは何事もゆったりとして、 起きるのも朝日が東の窓に赤々とさしてからである。 あたりの物を静に見れば、皆ところを得てそこにあり、納得して おり、春夏秋冬の自然におりなすよい趣は人間と一体となり融けあ っている。 我らの信じる人の道は、天地間の無形の物にまで通じており、 (この正しい人の道が行われてほしいという)思いは(有形である) 風や雲や世相の移り変わりの中にまでは入りこんでいる。 さてお金があって身分が高くてもまどわされず道を外れることなく、 貧乏で身分が低くても人の道を楽しむ、(という言葉があるが)男子 たるものは修養を積み、このような境地にいたるならば、すなわち真 のすぐれた人物である。 <字解> 閑來 :(役職を離れて)ひまな生活になってから 従容 : ゆったりとしたさま 皆自得: それぞれに処を得て納得しているが 佳興 : よい趣 有形外: 形の無いもの 變態 : ここでは世相の移り変わりの定まらないさま 富貴 : 孟子に「富貴不能淫貧賤不能移」(富貴も淫すること能ず 貧賤も移すこと能ず)とあるに基づく 豪雄 : すぐれた人物
※秋日偶成全文・読み方・意味・字解は社団法人 関西吟詩文化協会様ご了解の上、ご好意により転載させて頂きました。
<程顥(明道)> 程顥(てい・こう、1032年‐1085年)は、中国北宋時代の儒学者。 字は伯淳、明道先生と称された。 朱子学・陽明学の源流の一人。
内田坂 ★内田坂
宮村町北部を西へ上る坂。明治以降に開かれた坂で、江戸時代にはこのあたり一帯が内田豊後守の広大な屋敷地となっていた。維新後は「内田山」と呼ばれた高台で、坂名もこれに因む。
★桜に包まれた街
内田山の井上邸 1894(明治27)年、井上馨の本邸が麻布鳥居坂(現在の国際文化会館敷地)から麻布宮村町内田山に移ってきます。そして時代は下って1922(大正11)年11月、井上馨の養子である井上勝之助は内田山本邸の庭4,000坪を売却することを決めました。これにより箱根土地会社が宅地化を始めます。そして、その敷地には井上馨がその権勢に任せて四〇数軒あまりの民家を移転させて開発した桜田町から麻布十番方面へと下る三間道路も含まれています。またこの敷地は井上馨が丹精した庭地で、池、温室もある花壇で四季の草花が咲き乱れたそうです。その中でも、松や杉とともに老桜が500株もあり、宅地化された後も都心とは思えない閑静な土地だったようです。この様子を大正11年11月22日付け朝日新聞は、
都の中に都離れした
櫻にに包まれた街
=を作るべく井上候が解放する
由緒ある 内田山の勝地四千坪。
と題した記事を掲載してその内容を紹介しています。
後年六本木ヒルズの開業とともに再整備された坂は「さくら坂」と命名されましたが、坂名はこの古事に因んでいるのかもしれませんね。
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2013年1月14日月曜日
祥雲山龍澤寺(初代麻布区役所跡)
祥雲山龍澤寺
港区元麻布3-10-5
麻布区役所跡・近代地方自治発祥解説板
宮村町の子供たちが南山小学校、城南中学(現六本木中学)へ通学する時に通った道の途中にあるお寺です。
祥雲山龍澤寺は寛永3(1626)年2月15日飯倉片町に開山白容伝清和尚が太田原備前守の協力で建立されました。その後明暦の大火で焼失したので寛文元(1662)年、麻布宮村町に移ることとなります。
祥雲山龍澤寺
余談ですが、宮村町にはこの龍澤寺の他に安全寺・広称寺・光隆寺、やや離れて本光寺などのお寺が連なっていますが、これらの中で龍澤寺以外の寺院は1678(延宝6)年狸穴・飯倉片町辺に甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)邸地が建設されることになり、幕府の指示により同時に宮村町に移転を命じられ移されてきたそうです。
この移転当時の宮村は江戸とはいっても町奉行支配の「町」ではなく、代官支配地である「村」でした。そして正式な名称は「武州豊島郡麻布宮村」とされていました。この宮村をはじめ多くの麻布の村が町奉行支配の「町」となり、江戸市中に数えられるようになるのは、正徳年間(1711~1715年)頃となります。
ちなみに「村」であった当時の名称をそのまま町域になっても引き継いだのは、この宮村町と本村町があり、どちらも麻布の中心地であったと考えられています。しかし、残念なことに由緒あるこれらの町名も現在は町会の名称として残されているだけす。
その後、時代は移り明治になると、この寺に麻布区の初代区役所が置かれました。寺地内にある港区教育委員会の碑によると、
「麻布区役所跡、近代地方自治発祥。江戸が東京と改称されてからその行政区画の変遷は繁雑を極めた。明治11年7月23日、郡・区・町・村の編成法が発布された。同年11月2日には芝、麻布、赤坂などの15区と荏原などの6郷が置かれて町・村・区会を開設することになった。地方自治史上画期的なことであった。これによって明治6年(1873年)12月以来竜沢寺の堂宇を借りて設置された第二大区十二小区の区役所は明治11年4月から麻布区役所として開庁し、初代区長には前田利充が任命された。なお、芝区、麻布区、赤坂区は昭和23年3月15日統合され港区になった。」
祥雲山龍澤寺
境内と解説版
とあります。
祥雲山龍澤寺は、680坪の境内を有し曹洞宗本山永平寺に属した禅宗でした。そして旅僧奇端の石地蔵尊が安置してあったそうです。
この地蔵の由来は、
江戸末期の祥雲山龍澤寺
江戸時代に一人の旅僧が来て、門前で子供たちに仏号を教え唱えて共に遊んだそうです。しばらくしてその子供たちが仏の教えを喜び、石像を造り安置供養しました。旅僧は再び訪れることはありませんでしたが、人々は旅僧が地蔵尊の化身だったとして、子供の諸病にお参りしたと伝わるお地蔵さま。
といわれています。
また、戦前の1936(昭和11)年に寺の建て替えを行った時、屋根の瓦の下から大きな「青大将」が出てきました。この蛇を鳶や大工もも恐ろしがって仕事が手に付かなかったそうです。そこで、近所の「蛇屋」に頼んだのですが断られ、上野にまで足を伸ばして「蛇の黒焼き屋」にも頼みましたがやはり断られてしまいます。
途方に暮れていると、やっと芝の蛇屋が引き受けてくれて、翌朝8時に来ることになりました。しかし翌朝、時間になっても蛇屋は現れず、9時頃にやっと現れて、
「家内に相談したところ、お寺の主のような蛇を殺したら、必ず「祟り」があるのでやめてくれ、どうしてもというなら離婚する。と、猛反対されたので申し訳ないが勘弁してくれ。」
と断られてしまったそうです。
麻布区役所発祥の地解説版
話が振り出しに戻って困っていると、近所の蛇のとても好きな人が現われ、捕まえてくれることになったそうです。そしてその人が屋根瓦をはがしてみると、蛇がたくさんいて2匹ほどは逃げましたが、7匹を捕獲したそうです。 その後この人はこれらの蛇を蒲焼きで食べたと言われ、寺の蛇騒動は落着しました。
前出の石地蔵尊は戦争中、焼夷弾の直撃を受けて惜しくも消失してしまいました。そしてこれまで過去300年間の間、近隣の人々から雲を呼ぶから絶対に焼けないと信じられた龍澤寺も昭和20年5月25日の空襲で焼失してしまいます。その際、住職は不在であったそうですが、住職の妻が本尊と過去帳4冊を持って南山小学校に避難し、寺宝は戦災を免れ現在に至るそうです。
また、現在境内右手に安置されている六地蔵と呼ばれるお地蔵さまは、関東大震災の時に本所被服廠で犠牲となった人々の遺骨を埋葬安置して供養のため建立されたものとのことです。
境内の六地蔵
このお話の一部は「十番わがふるさと」に記載されていたものを、まとめました。
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| 御府内寺社備考の龍澤寺 |
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2013年1月13日日曜日
宮村町の宗英屋敷
前記岡場所の鎌倉屋が有馬藩士により取り壊され、奉行の裁決により野原となってしまった土地に、やがて北日ヶ窪町から拝領屋敷が移転してきます。
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| 宗英屋敷 敷地の変遷 |
露し信長から宗桂の名を与えられ、1612年に徳川家康から五十石五人扶持を賜った宗桂から数えて大橋家六代目の当主大橋宗英(1756~1809)でした。
宗英は、現在も江戸期を通して最強の棋士といわれ、当時「鬼宗英」の異名をとったといわれています。宗英は大橋分家の五代宗順の庶子で幼少のころ里子へ出されていましたが、将棋の才能を認められ、家に呼び戻されます。18歳で宗英を名乗りますが、将棋家の者との対戦は無く、民間棋客との対戦が続き、御城将棋への初勤は23歳で、将棋家の者としては遅かったようです。
しかしその後大成し、その将棋は相掛り戦法や鳥刺し戦法を試みるなど現代の棋士にも通じる将棋感覚で、新しい将棋体系の創造に力を尽くしたため、近代将棋の祖といわれています。
1790年(寛政2年)の九代宗桂との対局は御城将棋史上の名局とされ、また、将棋家の秘伝といわれる定跡の出版を奨励し、民間棋界の発展に大きな影響を与えました。
しかし一方では、詰将棋は充分発達したので、これからは指将棋を発達させようと考え、みずから詰将棋の献上を止めてしまったそうです。これは看寿・宗看に及ばぬことを悟ったためであったといわれています。詰将棋を一題も作らなかった彼は、人に理由を聞かれて「詰将棋なら桑原君仲にでもできるではないか」と答えたと言い現在も伝説として伝わっています。
そして彼以後の将棋家元も、彼にならって「詰将棋蔑視」を唱え続けたので、詰将棋は急速に衰退しその影響は昭和初期まで続く事となります。
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| 移転前の宗英屋敷があった 現在の六本木ヒルズ前 |
そんな宗英も「耳袋」によると、子供の頃子守りや年季奉公に出ても何一つ満足に勤まりませんでした。しかし、8代目大橋宗桂に将棋を教わると長年研鑚してきた有段者達を瞬く間に打ち負かしたといいます。そして名人になってからも、相手が子供や無段の者であっても他の棋聖と違って拒まずに相手をしたといい、生まれながらの上手であると書かれています。(耳袋巻の6・好む所によってその芸も成就する事)
大橋宗英その最後は、御城将棋の日に病をおして登城したが、その日に死ぬという劇的な幕切れで生涯を終え、「鬼」の名にふさわしい最後であったそうです。
○文政町方書上
地誌御調書上帳○近代沿革図集
麻布宗英屋鋪
一.お城より坤(ひつじさる-西南)に当たり、およそ一里余り。
右拝領屋敷の儀、相渡り候年代知れ申さず、麻布宮村町のうち西側北角にて御将棋所大橋宗看名前にて、拝領致し候や年代知れ申さず、古来は宗看屋鋪と相唱え、その後、宗英屋鋪と相唱え、当時は宗与所持に御座候えども、やはり旧名宗英屋鋪と相唱え申し候。もっとも、以前は寺社御奉行御支配のところ延享二丑年二月町御奉行嶋長門守様・能勢肥後守様御勤役の砌、町方御支配に相成り申し候。かつ、町会所(まちかいしょ) 七分積金相納め候節は右町名相唱え候えども、その余の儀は一躰に宮村町と相唱え来たり申し候。
但し、延宝年中まで北日ヶ窪町にこれあり候。その後、御用地につき当所へ替地拝領の由申し伝えども、年代書留など御座なく、委細の儀相分かり申さず候。一.間数
移転後の宗英屋敷敷地
南北へ表田舎間四間五尺、裏幅同断一.隣町の名
南の方奥行四十四間
東西へ
北の方向四十間
惣坪数三百四十五坪
東の方一.惣家数二十七軒
麻布宮村町西の方
同所宮下町
麻布宮村町南の方
御書院番 池田甲斐守組
内藤熊太郎様
麻布貞喜屋鋪北の方
同所宮下町
小普請組 石川民部組
中野藤之助様
小普請組 長井五右衛門組
岡田力次郎様
但し、家守一軒 地借二軒右の通り取り調べ申し上げ候。このほか御箇條の廉々、当地には御座なく候。以上
店借二十四軒
拝領主地に住居仕り候。
文政十一子年二月
麻布宗英屋鋪
名主 栄太郎 印
宗英屋敷
増上寺隠居所わき、宗看屋敷、宗与屋敷ともいわれる。
麻布宮村町のうち西側の北角。将棋所大橋宗看が町屋敷を拝領したものか、その年代はわからない。昔は宗看屋敷と唱え、後に宗英屋敷と称した。今は宗与が所有しているが、旧名を用いている。以前は寺社奉行の支配であったが、延享2年(1745年)2月から町奉行の支配となった。町会所へ七分積金を納めるときは宗英屋敷の名を称するが、その他のときは宮村町という。延宝年中(1673~1680)までは北日ヶ窪町にあったが、その後用地となって当初へ替地を拝領したという。年代はわからない。
○東京35区地名辞典
麻布宗英屋敷
宮村町北東部の旧町名。江戸期から明治2年まで。もとは御将棋所名人大橋宗看が拝領したことから宗看屋敷と称したが、後に宗英屋敷と呼ばれるようになった。明治2年、隣接する麻布貞喜屋敷とともに麻布宮村町に合併。
宮村町にはこの他にも宗英屋敷の隣に、西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷である貞喜屋敷があり、この2つは宮村町内の拝領屋敷として各書に書かれています。
★付記2011.4.17
この屋敷を調べた10年前、北日ヶ窪町から移転した宗英屋敷の位置を一本松付近に描かれている「拝領屋敷(後の一本松三井家敷地)」だと思い込んでいましたが、再度調べ直した結果上記の位置であることが判明しました。
これは上記文中にもあるとおり宗英屋敷・貞喜屋敷ともに七分積金納入時以外には宮村町の町域として扱われているため、ほとんどの地図に宮村町としか表示されていないたでしたが、今回の再調査で「麻布広尾辺絵図」を偶然目にすることが出来て、場所の特定が可能となりました。
しかし一方で、宗英屋敷とそれに隣接する貞喜屋敷の位置が「麻布広尾辺絵図」では、宗英屋敷が南の増上寺隠居所側、貞喜屋敷が現在の十番商店街通り側に描かれていますが 「文政町方書上」には宗英屋敷の南側に貞喜屋敷が隣接しているとの記述があり、地図と文政町方書上では両屋敷の位置関係が逆となっていることも判明しました。 これは「文政町方書上」が発行されたのが文政十(1827)年ころで、 地図「麻布広尾辺絵図」が描かれたのは嘉永二(1849)年と20年ほどの差異があるため、その間に敷地を交換していることも考えられますが、依然としてこの部分には謎が残っています。
明治初期隣地に設置された
南山小学校(通称:暗闇坂校舎)
そして明治9(1876)年には、この宗英屋敷と隣接する貞喜屋敷の敷地の南に隣接する土地で南山小学校が創立され、明治27(1894)年に現在の六本木高校の場所に移転するまで校舎(通称:暗闇坂校舎)として使用されていました
2013年1月12日土曜日
藪下の岡場所「鎌倉屋」
前項でお伝えした末広池畔にあった岡場所の、より正確な位置がわかったのでご紹介します。
麻布区史などで引用されていた「異本岡場所考」の原本が早稲田大学図書館のデータベースにあることがわかり、早速調べてみました。
この資料には江戸市中の岡場所が図入りで詳細な解説がなされており、その中には「麻布市兵衛町」、「芝明神」、「三田三角」などと並んでこの藪下の岡場所が掲載されています。
この「異本岡場所考」よると、岡場所は暗闇坂下西側にあり、屋号は「鎌倉屋」とあります。また、隣接した現在のゲーム店「Max」あたりには「藪下稲荷」とよばれる御稲荷さんがあったと記されています。
そして、現在の十番商店街通りには「宮下町」、暗闇坂には「一本松通り」、宮村新道方面には「大住(隅)山通り」、現在の公衆トイレあたりには「薮下通り」と書き込まれています。さらに、一本松通りと書かれた西側には「武家ヤシキ」と書かれていますが、これは「増上寺隠居所」の誤りであると思われます。また、この岡場所は町並の一本松通りと書かれた繁華街側ではなく、当時も今もひっそりとした場所である反対側に「入り口」が設置されていたことがわかり、これは正式な公認街娼ではない岡場所が町奉行所を恐れての措置であったのかもしれません。
鎌倉屋は局見世(切見世)とよばれる最下等の遊女屋で、ここの女郎は一切(一回の交渉・約十分)五十文・百文にて切り売りしたが、大概は一切では済まず数倍の揚げ代を要求されたといわれています。
「異本岡場所考」はその様子を、
このような乱暴な客引きや強引な交渉と、実際のサービスが大きく違っていたことに憤慨した有馬藩の家士により天保八(1837)年、鎌倉屋は徹底的に打ち壊され、その後町奉行の詮議を受けたあげく、お上に召し上げられた土地が原野に戻ってしまったことを前章でもお伝えしましたが、後年同地は、幕府将棋所大橋宗英の拝領屋敷、西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷となって幕末まで続くこととなったようです。
○「異本岡場所考」敷地図の間違い
・岡場所の南方に「武家ヤシキ」とあるのは「増上寺隠居所」
・西方に「大住山通り」とあるのは「大隅山」
・一本松通りとは?
・暗闇坂が明示されていない
○「異本岡場所考」による発見
・暗闇坂下に藪下稲荷があった
◎「異本岡場所考」の画像を使用するにあたって、快く許諾を頂いた早稲田大学図書館様に感謝させて頂きます。
より大きな地図で 藪下の岡場所 を表示
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| 異本岡場所考の鎌倉屋 (画像提供:早稲田大学) |
この資料には江戸市中の岡場所が図入りで詳細な解説がなされており、その中には「麻布市兵衛町」、「芝明神」、「三田三角」などと並んでこの藪下の岡場所が掲載されています。
この「異本岡場所考」よると、岡場所は暗闇坂下西側にあり、屋号は「鎌倉屋」とあります。また、隣接した現在のゲーム店「Max」あたりには「藪下稲荷」とよばれる御稲荷さんがあったと記されています。
そして、現在の十番商店街通りには「宮下町」、暗闇坂には「一本松通り」、宮村新道方面には「大住(隅)山通り」、現在の公衆トイレあたりには「薮下通り」と書き込まれています。さらに、一本松通りと書かれた西側には「武家ヤシキ」と書かれていますが、これは「増上寺隠居所」の誤りであると思われます。また、この岡場所は町並の一本松通りと書かれた繁華街側ではなく、当時も今もひっそりとした場所である反対側に「入り口」が設置されていたことがわかり、これは正式な公認街娼ではない岡場所が町奉行所を恐れての措置であったのかもしれません。
鎌倉屋は局見世(切見世)とよばれる最下等の遊女屋で、ここの女郎は一切(一回の交渉・約十分)五十文・百文にて切り売りしたが、大概は一切では済まず数倍の揚げ代を要求されたといわれています。
「異本岡場所考」はその様子を、
~至って女風俗よろしからずして、客を引留むり引き上げ、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所~と記しています。
このような乱暴な客引きや強引な交渉と、実際のサービスが大きく違っていたことに憤慨した有馬藩の家士により天保八(1837)年、鎌倉屋は徹底的に打ち壊され、その後町奉行の詮議を受けたあげく、お上に召し上げられた土地が原野に戻ってしまったことを前章でもお伝えしましたが、後年同地は、幕府将棋所大橋宗英の拝領屋敷、西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷となって幕末まで続くこととなったようです。
里俗にやぶ下と云ならはし本名麻布宮村町、宗英屋敷、貞喜屋敷と三ヶ所の地也、局見世計りなれども古■(※推定:古来)はん昌の地にして至て女風俗よろしからずして、客を引き留むりと引上げ、銭なんぼうでも遊ぶようふなる所なれども、此地は右触書之以前天保十年四月十五日、久留米家之者参り右場所にて口論致候、ついに大喧嘩となる、同日書中に■■(※推定:有馬)屋敷■百人余同勢にて押来り、右場所をさんざん打ちこわし同勢屋敷へ引取、其後御公儀之御沙汰に及び、追々商売不致候様に成其儘に家作地所共に召上られ今に野と成事目前なり。
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| 鎌倉屋記事 (画像提供:早稲田大学) |
○「異本岡場所考」敷地図の間違い
・岡場所の南方に「武家ヤシキ」とあるのは「増上寺隠居所」
・西方に「大住山通り」とあるのは「大隅山」
・一本松通りとは?
・暗闇坂が明示されていない
○「異本岡場所考」による発見
・暗闇坂下に藪下稲荷があった
◎「異本岡場所考」の画像を使用するにあたって、快く許諾を頂いた早稲田大学図書館様に感謝させて頂きます。
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| 現在の末広池跡と鎌倉屋跡 |
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| 暗闇坂から見た鎌倉屋 |
より大きな地図で 藪下の岡場所 を表示
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