2013年1月16日水曜日

芳川伯家婦人心中


大正6年3月7日6時55分、千葉発本千葉行きの単行列車が県立女子師範学校側に差さしかかった時、若い女性が飛び込み跳ね飛ばされました。機関手が急停車した所、飛び込み遅れた同行の青年が師範学校の土手によりかかり短刀で喉を突いていました。
知らせにより千葉署から猪俣警部補、刑事、医師が駆けつけ検視した結果、女性は左頭部に重傷を負い直ちに県立千葉病院に運ばれ、青年は気管を切断し死亡していました。女性は上流令嬢風、青年は好男子であり各自遺書があったので身元はすぐに判明します。

1913(大正2)年宮村町内田山の芳川邸
青年の名は倉持陸助、栃木県生まれで芳川伯爵家の運転手でした。女性は麻布宮村町の内田山(現南山小学校坂上)に屋敷のある勲一等伯爵芳川顕正の娘で曽祢子爵二男、寛治の婦人鎌子であることがわかりました。鎌子婦人は運転手の倉持を気に入って、背広などを買い与えたり食事を同席させたりしているうちに恋愛感情が芽生えていったものと思われました。
重傷を負った鎌子婦人も4月半ばに退院し、麻布の本邸に戻りましたが、世間の手前渋谷の隠宅にこもったそうです。その後廃嫡され、父芳川顕正の死にも立ち会えなかったといわれます。

この芳川鎌子の情死事件は、当時、新聞などにより世間の注目の的となり流行歌まで作られました。

「千葉心中」--- 淡路美月

 ああ春遅き宵なりき
恋に悩める貴人(あでびと)の
真白き指に輝ける
ダイアの指輪憂いあり
都に浮き名うたわれし
二人の胸に秘めらるる
恋の絆のからみ糸
線路の錆と血を流す
……。

当時の風潮は、事件を起こした鎌子が使用人をたぶらかした「悪女」という立場をとったものがほとんどで、中には当時上流階級婦人の間で流行っていたという、帝国ホテルで外人男性の取り巻きを連れての「遊び」にふけったなどという記事もあり、一人生き残った鎌子に対する周囲の視線は非常に冷たかったそうです。
これとは逆に、この事件により謹慎の意を表し枢密院福議長を辞任する意向の父、芳川伯には同情的で、夫の曽祢寛治も被害者という立場に見られました。しかし、当初は同情的であった世間も、赤坂、新橋の花柳界に入り浸り、特に新橋芸者の「栄三郎」へ入れあげて、鎌子を顧みなかったという夫の素行が明るみに出、またあくまでも優等生的な発言を繰り返した寛治の、事件直後の「あれは、人間ではない」と言う失言が発覚、また妻である鎌子の実姉「新子」との醜い噂も露見してからは、有識層のコメントも変化し、小説家の近松秋江などは、

「.......今日の華族社会の紳士達がしゃあしゃあとして柳暗花明の巷に売色と戯れて、恬(てん)として恥ぢることなきに比ぶれば、彼女の如きは尚ほ廉恥の念が消磨してゐなかったのである」と言っています。

退院後、彼女は世間を逃れて下渋谷に隠棲しましたがやはり世間は冷たく、「姦婦鎌子ここにあり」、「渋谷町民の汚れなり」などと板塀に書かれ、また彼女が芳川鎌子だと判ると御用聞きまでが寄り付かなくなったといいます。家族から、貴族らしい家名存続の手段のため宗教に帰依し恭順の意を世間に示す事を進められたが、それすらも世間からの攻撃の的となった。

しかし伯爵家の圧力によって新聞、雑誌も沈静し、「千葉心中」の歌も警視庁から差し止められます。そして事件後、実娘である鎌子を勘当した芳川伯ですが世間体からか夫寛治の籍を抜くことをせず、芳川伯の死後に寛治は無事に爵位を襲封し貴族社会の一員であり続け、寛治の後に三室戸子爵家から三光氏を養子に迎え現在へと続きます。

正式に寛治と離婚し芳川家からも除籍された鎌子は、青山の次姉宅などをへて鎌倉の別邸に住み、しばらくは平穏が続きます。
しかし倉持陸助の一周忌を済ませた7ヶ月後の大正7年10月、出沢佐太郎という元倉持陸助の同僚運転手と再び「駆け落ち」してしまいます。
出沢は倉持陸助が心中する晩に涙しながら酒を飲んだ最後の同僚でした。仲が良く、最後の晩の様子を知る元同僚運転手から話を聞くうちに恋が芽生えたのでしょうか?また出沢を倉持の身代わりとして愛したのでしょうか、鎌倉の別邸を抜け出した二人は、本所向島の出沢の生家に駆け込みます。失踪を知った芳川家は仰天し八方手を尽くして探しますが、そうこうするうちに、出沢の母から芳川家に連絡が入り、芳川家は急遽向島の鎌子をむりやり連れ戻します。

その後、無理に連れ戻された鎌子は、厭世的なうつ状態となり「自殺」の危険性も出てきたので、芳川家はやむなく出沢との結婚が許しました。しかし事件後の勘当は多分に表面上の事であったのに対し、ほとほと手を焼いた今回、芳川家は鎌子に完全な「勘当義絶」をして一切仕送りも中止しました。たちまち生活に窮した夫妻は、出沢の伯父をたよって茨城の取手に住み出沢も出稼ぎなどまでして懸命に働いたそうです。しかし生活は苦しくなるばかりであった。そして横浜へ.......。

大正10年4月、鎌子は前年1月に亡くなった父「芳川伯」の後を追うように横浜の南吉田町で亡くなることとなります。享年29歳。婦人病から腹膜炎を併発し、医者からの「手術をすれば治る」という申し出を断って死を選んだそうです。その腹膜炎も芸者遊びに明け暮れた前夫寛治からうつされていたという説もあり、憐れを誘います。いずれにせよ鎌子の死は事実上の「自殺」であったようです。

数奇な運命をたどった芳川鎌子は、誰を愛していたのでしょうか?

情死しそこねた倉持陸助?

自分の死を見取ってくれた出沢佐太郎?

それとも、それら両人を愛せた自分?


今となっては、分かりようもありません。



(余話)として

心中相手の倉持陸助の名は、資料によって「陸助(りくすけ)」、「睦助(むつすけ)」とあり現在もどちらか判断出来ないようです。また彼は三田台町の叔父、指物師の儀助に6歳から養育され、三田小学校~芝中学と進んだようです。しかし中学1年の時に叔父が死去したため荒物屋で奉公し、16歳で三井物産に給仕として入社しました。その後機械が好きで自動車部に転じました。この自動車部に居た時に三井物産に関係のあった芳川顕正にスカウトされ三井物産に籍を残したまま、芳川家のお抱え運転手となったといわれます。死後、彼は叔父の儀助が眠る魚藍坂の魚藍寺に眠っています。




前項芳川顕正を掲載した直後に、「うさぎ横丁」氏から芳川顕正についての情報を頂いたので、氏に感謝をこめてご紹介します。

「芳川伯爵の件ですが、芳川家の墓所が青山墓地にあります。
場所は墓地下から中央の坂を登っていくと右側にあります。
大きなお墓なので直ぐに見つけられます。
(中略)
青山墓地ですが、数年前思い付いて、華族(公爵・侯爵・伯爵・子爵・
男爵)の墓を確認してみたところ150以上チェックできました。
功績では軍人・政治家、出身ではやはり薩摩が多いです。
ここも時代の波か、麻布にたくさんあったお邸が消えていったほどでは
ありませんが、昔たしかにあった華族の立派な墓碑がだんだん
少なくなっているようです。」