2013年1月28日月曜日

皇族と麻布

1868年(明治元年)天皇が江戸に入り江戸が東京と改まると、明治政府は維新後還俗などにより急に増えた「宮家」を東京に移住させました。 
幕末までは有栖川宮・桂宮・閑院宮・伏見宮のいわゆる四親王家だけでしたが、明治期には、華頂宮・山階宮(明治元年)・北白川宮・東伏見宮・梨本宮(明治3年)・久邇宮(明治9年)・賀陽宮(明治25年)・朝香宮・竹田宮・東久邇宮(明治39年)などが新設されていきました。

東京での邸宅を構えることになった宮家は、皇族賜邸により3千坪を基準とした邸地を与えられましたが、その中で、麻布近辺に邸宅を構えたのは(明治~昭和初期にかけて)、有栖川宮(盛岡町現在の有栖川記念公園)、静寛院宮[皇女和宮](市兵衛町)、久邇宮(鳥居坂町)、東久邇宮(市兵衛町)、華頂宮(三田台町)、北白川宮(高輪南町)、朝香宮(高輪)、竹田宮(高輪南町)などがありました。 
これらの中で最も麻布近辺に縁が深いのは、鳥居坂町12番地の久邇宮家であると思われます。久邇宮家の屋敷は鳥居坂の通りをへだてて両側にあり、西側が洋館、東側が和風の屋敷で、もとは井上馨の邸宅でした。この井上邸であった明治20年4月26日、27日には明治天皇の訪問をうけています。また、明治天皇はその在位中に幾度も麻布を訪れています。


○1875(明治8)年1月31日---市兵衛町の静寛院宮邸に皇后陛下と行幸
 
午前11時頃、皇后陛下着。午後1時頃天皇陛下着。夕方6時頃まで滞在。


○1876(明治9)年5月5日---市兵衛町の静寛院宮邸に皇后陛下と再び行幸
 
正午18分頃より午後12時頃まで滞在。能楽天覧、饗宴。御供奉は岩倉右大臣など。


○1881(明治14)年5月9日---本村町の公爵、島津忠義邸に行幸
 
午前7時御出門。別邸にて古式の犬追い物、相撲を天覧。本邸にてつつじ観覧後、射術を天覧。御供奉は岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿。


○1887(明治20)年4月26日---鳥居坂町の外務大臣、井上馨邸に行幸
 
午後1時御出門。演劇を天覧。その後に親王、大臣らに陪食を申し付ける。


○1887(明治20)年4月27日---鳥居坂町の外務大臣、井上馨邸に皇后陛下と再び行幸
 
皇后陛下と再び演劇を天覧。御供奉は諸大臣。


○1889(明治22)年5月25日---麻布三連隊を閲兵
午前9時半に御出門。将校集合所にて御休息の後に兵士の体操、綱引きなど天覧の上、正午に還幸。


○1891(明治24)年2月28日---市兵衛町の内大臣、三条実美を見舞うために行幸
 
午前11時10分頃、インフルエンザがら肺炎になり危篤となった三条実美を慰問。還幸後、特旨で正一位を授けるが、同日7時15分に三条実美は永眠


○1891(明治24)年4月5日---狸穴町の伯爵、川村純義邸に行幸
 
午後1時半御出門。水雷技術、能楽を天覧。


○1901(明治34)年7/7~1904(明治37)年11/9まで、後に昭和天皇となる迪宮殿下が狸穴町に屋敷を持つ川村純義の沼津別邸で養育される。
1901(明治34)年4/29に明治天皇の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と節子妃(後の貞明皇后)の第一男子として誕生し、同年5/5に称号を迪宮(みちのみや)名を裕仁(ひろひと)とされます。そして、生後3ヶ月で御養育掛となった枢密顧問官であり麻布狸穴町に屋敷を持つ川村純義(海軍中将伯爵)沼津別邸に預けられ、川村が逝去する1904(明治37)年まで養育されました。この 川村純義の本邸である麻布狸穴邸は1882(明治15)年に新築されたジョサイア・コンドル設計によるもので、戦後取り壊されて東京アメリカンクラブとなりました。

など、麻布においての訪暦・養育歴があります。また、 
1887(明治20)年に天覧歌舞伎を行った井上馨が麻布宮村町内田山に引っ越した後に、鳥居坂の井上馨邸跡は久邇宮邸となります。
1903年(明治36年)3月6日この久邇宮邸で一人の女の子が誕生しました。「良子」女王と名づけられたその姫は、後に昭和天皇の后(香淳皇后) となります。 
当時、久邇宮邸では男児を東側の和風の屋敷に当主と共に住まわせ、女児は洋館というしきたりがありましたが、明治30年頃の地震により損傷を受け、民有地として売却されます。 その後久邇宮邸跡は、赤星鉄馬邸、岩崎小弥太郎邸から現在の国際文化会館と続きますが、良子姫は東側の和風の屋敷で育ったとされています。

その後、久邇宮邸は、明治42年に麹町一番町に移転し、さらに大正8年には再び麻布近辺?の市外渋谷町宮代(現渋谷区広尾)に新邸を構え、良子姫は1924(大正13)年の御成婚までを過ごしました。現在、久邇宮邸の跡地は聖心女子大となっており当時の屋敷は本館の一部と常御殿が現存するといわれています。 
また、 良子姫は1917(大正6)年に昭和天皇への輿入れが決まりますが、その際に麹町一番町にある久邇宮邸に皇后となるための教育のため「お花御殿」と呼ばれた学問所が建てられます。 
このお花御殿はその後久邇宮邸の移転に伴い広尾へ移築されます。そして1933(昭和8)年には府立第三高女(現在の港区立六本木中学敷地)に下賜されることになり、学校では同年10月6日、「仰光寮」と名付けて移築落成式を行っています。 
その後、戦争中の空襲で焼失しそうになりますが、生徒・教員の必死の防火活動により焼け残った仰光寮は、昭和26年まで麻布キャンパスに取り残された形になっていました。そして、現在地の都立駒場高校敷地に移築し、再度の移築落成式は昭和26年11月11日に行われました。その仰光寮は、生徒達の茶道や華道、筝曲の稽古場などとして使用されてきましたが、建物の老朽化により現在は学園祭時のみの公開となっているようです。

また、ずっと時代は下って、昭和34年に今上天皇陛下と御成婚された美智子皇后陛下が学ばれたのは、この旧久邇宮邸であった聖心女子大学のキャンパスで、御常御殿(日常の居所)は久邇ハウスと呼ばれ現存している場所のようで、二代にわたる皇后陛下が学ばれる土地となりました。 
このように「良きことおきる土地」の存在を鈴木博之氏は東京の「地霊(ゲニウス・ロキ)」の中でほのめかしています。





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