2013年1月10日木曜日

原金(はらきん)の釣り堀

六本木ヒルズができる前まで、玄碩坂を下った左手の里俗に「薮下」と呼ばれた場所(現在の六本木ヒルズ住宅棟あたり)に、釣り堀がありました。この釣り堀の正式な名称は原金魚商店といいましたが、略して「はらきん」と呼んでいました。
原金魚商店看板
この原金は金魚の養殖と金魚の釣り堀を営んでおり、特に日曜日などは、糸を垂らす隙間もないほど混んでいました。しかし、あまり釣りがうまくなかった私は、半日かけて金魚が2匹などと言う事もありました。 
また、当時のNETテレビ(現テレビ朝日)の真裏にあったので、出番待ちの芸能人や落語家などが時間潰しに訪れていたといわれます。この池は原金が金魚の養殖用に掘った人工的な池だと思っていましたが、明治の地図にも描かれていますので天然池であったと思われます。

この池のほとりにあまり高級じゃない岡場所があり、遊女ではなく夜鷹が、かなりのボッタクリをしていた。ある夜、久留米藩の侍が遊びにきたがあまりのひどさに腹を立て、藩の侍100人あまりを呼んで、徹底的に打ち壊してしまった。それ以降2度と店は出来なかったそうだ。 (この岡場所は末広池と推定されますので訂正させて頂きます。)

発掘調査
この金魚卸売り商店は、芸術家岡本太郎の母親である岡本かの子の小説「金魚撩乱」の舞台として描かれています。また、明治期の池は池群と呼べるほどの数があり、未確認ですが、明治15年から17年までの短期間稼動していた麻布水道宮村町浄水貯池である可能性もその数の多さから否定できません。

写真にある発掘調査は六本木ヒルズ建設直前で、まだ玄碩坂が通行できた折に偶然見かけたものですが、調査は港区の教育委員会であったと記憶しています。そして発掘者に声をかけて何を調査しているのかを尋ねると、「以前あったお寺の調査です」とのお返事でした。調べてみると、おそらくこの池のすこし坂上に明治期まであった「円福寺」かと思われます。この寺は同じ宮村町にあった広尾神社の別当寺である千蔵寺と共に宝泉寺(渋谷区東に現存)が明治期に住職を兼務しており、1891(明治24)年には宝泉寺と合併され渋谷に移転したようです。

五千分一東京図測量原図
薮下周辺
1883(明治16)年10月に作成された「参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図」東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍には 原金池とその他の池群が描かれており、その形状から元々あった天然の池を加工して恣意的に造られたと池と想像できます。これは私見ですが、明治期にあった麻布水道宮村貯水池ではと想像してしまいます。中央の赤い建物は日ヶ窪の栴檀林(現在の駒澤大学)、上の大きな池はニッカ池(現在の六本木ヒルズ毛利池) となっています。
 










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