2013年1月3日木曜日

笑花園と仙華園

前回お伝えした麻布の銘木・名花ですが、それらがあった土地である大名邸跡地、武家地などの大きな土地が武士の消滅により空き地となり、1873(明治6)年には地租改正が行われて一般市民の土地取得も可能となったことや、政府主導の桑茶政策が行われたことから麻布は一気に緑地化・農地化します。


陸軍参謀本部作成明治16年地図
桑茶政策の名残り
松方正義邸・仙華園辺の茶畑
この桑茶政策とは、明治新政府の主導により空き地となった武家地や廃仏毀釈により無住となった寺地などを、外貨獲得のための生糸用の蚕のえさである桑の葉の生産と、お茶栽培の農地として、その土地を取得した元士族などの個人がこれらの畑をつくることを空き地の有効利用と外貨獲得の目的で政府が強く奨励した政策でした。

しかし、もともと農地ではないところで農民ではない町人や元士族などが養分もない宅地だった土地で即席で農業を行ったため農地は荒れ果て、短期間のうちに桑茶政策は破綻してしまいます。そして政府はその奨励を失敗と認識して即座に撤回します。そのような時代にもまだ草深い場所であった麻布周辺はにまだまだ桑茶政策の名残が多く残り、やがてそのような土地の中で広尾に笑花園が、麻布竹谷町の仙台藩邸跡には仙華園という回遊式の植物園が開園することとなります。





その、笑花園の様子を麻布区史では、
笑花園は広尾町に在り、園内に古川の流を引入れ四時草花絶ゆることなく殊に菊花の頃は、遊客来集したものである。
としており、さらに広尾の近くに藩邸があった佐倉藩の江戸留守居役で、明治期には文人となった依田学海の日記『学海日録』には笑花園で仲のよい友人たちと花を愛でながら酒肴を楽しむ様子が綴られています。

また、仙華園について麻布区史は、


仙華園は竹谷町に在って盆栽花卉の栽培を主として、牡丹・梅・朝顔・菊・萩等百花の花壇があって四季夫々都人の杖を曳くものが多かった。上記二園は曾て芝公園の苔香園、向島の百花園、三河島の喜楽園或は目黒花壇等共に明治初年の都人の話題に上がった~

と記しています。


そして、柴田流星著「藤と躑躅と牡丹」では、
梅に始まって桃、桜と花の眺め多きが中に、藤と躑躅と牡丹とは春の殿しんがりをなし、江戸ッ児にはなお遊ぶべき時と処とに乏しくない。
 藤は遠く粕壁に赴けば花も木ぶりもよいが、近くは日比谷、芝、浅草の公園など数も少からず、しかし何処よりも先ず亀戸天神のを最とする。
ここの藤、三、五年この方は花も少く、房も短くはなったが、なお且つ冠たるを得べく、殊に名物の葛餅、よそでは喰べられぬ砂糖加減である。お土産の張子の虎や眼なし達磨、これも強ち御信心がらでないのが味なところだ。
躑躅も日比谷、清水谷とそれぞれに名はあるが、大久保なるを最とし、この躑躅大方は日比谷へ移されて若樹のみとはなったが、土地が土地だけに育ちもよく、今に名所の称を失わぬ。別けても嬉しいのは例の人形細工がなくなったことで、あんなことは江戸ッ児の弱点につけ入って何者かが始め出した一種の悪戯に由来すると思う。
牡丹は本所の四ツ目、麻布の仙花園なぞ共に指を屈すべく、花の富貴なるを愛すといいし唐人の心持ちを受けついでの物真似ではないが、芍薬の徒に艷なるより、どことなく取りすましたその姿に実は惚れたまでのことである。ただそれ惚れたまでのことである。もしそれ九谷焼の大瓶に仰山らしく活け込んで、コケおどかしをしようなぞの了見に至ってはさらさらなく、寧ろそは一輪二輪の少きをささやかな粗瓶に投げざしせるに吾儕は趣あるをおもうものであるのだ。


そして、1890(明治23)年創刊の東京名所図会は仙華園をさらに詳しく、

江戸末期の仙台伊達藩邸
仙華園は、麻布竹谷町六番地にある。門外左右に双幹の赤松各一株を植え、井桁石等を置き、門柱に園号を掲ぐ。主人は植木商にて、大塚安五郎いう。電話新橋二千四官二十九番を架す門内凡三十間。左右樹木の間に、石燈及び古代型形の塔三十台許と手水鉢石或は庭の點景となすべき岩石を諸所に配置したり。此所を過ぎ小高き地を歩して奥庭に入れば客室あり。庭園は楓多く陰をなし、東方に丘?起り、雑樹蔚蒼として紅塵を銷したる一の幽境なり。本園総坪三千程なるを、三分の二は盆栽を列ね、又は梅、牡丹、朝顔、菊、萩、等を培養するの地となしたり。又暖室の設けあり。客室及び居宅とも前庭には土花壇と唱ふるを設けたり。蓋し土花壇とよぶは、常の花壇より一層高く石にて築き、上に幅三尺余(曲直に併行すれば従て長さは一ならず)の水盤を、結成石にて塗出したるなり。其中に砂を敷き水を含めて、陶甃を置きたる上に盆栽を並列ねたり。乙は近頃大阪地方の創作にかかれる由なり。通常の木棚に比すれば体裁佳のみならで、蟻を防ぎ?の害を免るるの便ありといふ。盆栽は、多く長方形若しくは楕円形の盆にして大小あれど、辺縁の高さは底幅の四分の一程より深からず。之に栽植するは多くは竹木等にて、草にては石菖の類なり。其の奇観愛すべきは、孰れも数十年若しくは百年以上の星霜を経たる物のみにして、或は矗立亭々して林を成し、或は枝條の蟠錯たる。或は梢を盆外に拱埀たる。青苔朽節を封するあり。怪石根を壓して幹の斜に傾きたるあり。各峰巒雲霧の中に生立たる如き自然の形状なれば最幽邃なる景致を存し、山水書の中景にも充るに足るべく巧に培養を施せり。木は赤松、樅の属、落葉松、杜松、檜属の類多し。樹勢舒暢せず。梢枝密生し、鮮緑の針葉重畳たり。又濶葉樹にて庭木としては賞するに足らざる、そろ、楡、さはしば、欅、楢、くぬぎ、衛矛の類等も少なからず。樹十二尺に盈ざるも、老幹衰色なく、若葉露を吐き、穂を垂れず実を結びたる等野趣多く、皆卓上の珍玩なる物凡数百盆を陳列せり。丘上には亭あり休憩に供ふ。そが中に、槭樹を四隅に植えて柱とし、枝にて屋上を覆ふたるあり。又薔薇を左右に植え、枝を交差して作れる門あり。本園は近傍に同業者なく、春秋草花あり。歳寒の松柏あり。盆栽に庭樹に、飽きぬ眺めを鬼集めれば、四季の顧客絡入絶ゆる間なし。旧時は松平陸奥守の下屋敷なりし荒蕪の地を、今より十年前に、斯くは開拓したりといふ。
東京名所図会
仙華園

と、当時の繁盛の様子を記しています。

また黒田清輝の日記には、

1903年(明治36)年11月16日 月曜日 晴
媒取ニテ朝ヨリ騒動ナリ 午前十時頃合田來 約束ニ困リ堀江
合田ト一時ニ溜池生功〓ニ出遇ヒ三人ニテ志田町ニ山本翁ヲ訪ヒ盆栽談ヲ聽ク
後又三人ニテ仙臺坂仙華園ヲ覽ル 點燈頃堀江ニ別レ合田ト久米ヲ訪ヒ八時頃合
久ノ二氏ト麻布ノいろはニテ〓 十時少シ過久ニ別テレ合ト歸ル 今日久シ振ニテ
自轉車ヲ用ヒタリ
と友人と仙華園を訪れた様子が記されています。




その後、残念ながら笑花園・仙華園も明治後期から大正時代くらいにかけて衰退していったものと思われ、やがて姿を消しました。

大正2年東京史地図の
仙華園
この衰退の大きな要因は、宅地化や邸宅の建設など周辺の都市化が大きな原因となったのではないかと思われます。しかし、東京でも名だたる名百草園が麻布にあったことは、現在も記憶にとどめておくべきであると私は考えています。














※ 追記

タイトルを笑花園と仙華園としましたが、その後の調べで笑花園のあった場所は下渋谷村現在の恵比寿橋あたりであったことが判明し、麻布域で唯一の百草園は仙華園のみであることがわかりました。



明治44年實地踏測東京市街全圖の
笑花園





























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