2013年1月26日土曜日

麻布と保科家


今年から放送されているNHK大河ドラマ「八重の桜」にちなんで、麻布と保科家の関係をご紹介します。
松平(保科)肥後守三田下屋敷と
飯野藩保科家 麻布屋敷
本家である会津藩保科家は現在の網代町あたりと三の橋の三田側対岸に屋敷を持っていました。特に三の橋対岸の下屋敷は、藩主も頻繁に使用していたとされています。また、三の橋は「肥後殿橋」とも呼ばれており、この松平(保科)肥後守下屋敷脇であったことから付けられた橋名です。

そして網代町の屋敷はその後に、飯野藩保科家の屋敷となります。この飯野藩保科家は会津藩保科家と親戚です。 
本来の信州の名族保科家の血統はこちらが本流で、
 元和3(1617)年、信濃高遠藩主・保科正光は弟の正貞を養子としていましたが、不仲となり廃嫡し(一説には権力者の庶子を養子に迎えるため遠慮したともいわれる)ます。そして二代将軍徳川秀忠の落胤である幸松(のちの保科正之)を養子として迎え、高遠藩保科家の継嗣とします。
これは幸松の養育を任されていた見性院穴山信君(梅雪)正室)と、やはり武田家の遺臣であった保科家との縁で養子として育てられることになります。

やがて保科家を継いだ正之は、信濃高遠藩主・出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主となり徳川系保科(松平)家は幕末まで会津藩主として続くこととなります。そして、正之は異母兄である三代将軍家光に大変可愛がられ、晩年死期の迫った家光は枕頭に正之を呼び寄せて「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残したそうです。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めます。そしてこの遺勲を忠実に守ったのが幕末の会津藩主松平容保でした。
飯野藩保科家 広尾屋敷
また保科正之は家光から早い時期に松平姓を許されていましたが、自分を扶養してくれた保科家への恩義を忘れなかったため、生前はずっと保科姓を名乗ります。そして保科正之は保科家重代の宝物などを飯野藩主の保科正貞に返還しています。この会津藩保科家が松平姓を名乗り、葵の御紋を使用する事になるのは三代藩主正容になってからで、これにより会津藩松平家(保科家)は御親藩となります。

会津藩開祖の保科正之は寛文9(1669)年に嫡男の正経に家督を譲って隠居し、寛文12(1672)年12月18日、三田の下屋敷で死去しました。享年63(満61歳没)。

一方廃嫡された保科正光の実弟であり、養子でもあった保科正貞は、保科家を出て諸国を放浪した後に三千石の幕臣となります。そしてその後も加増され、さらに大阪定番となったことから一万石を加増されて一万七千となり、上総飯野藩(現在の千葉県富津市下飯野)を立藩します。
そして幕末まで上総飯野藩保科家二万石は、代々大阪定番を勤める家柄となります。特に最後の藩主保科正益は大阪定番を勤めた後に若年寄にまで栄進し、第2次長州征伐では幕府軍の指揮を務めることとなります。

永坂更科の創業家である
更科堀井
この飯野藩保科家の麻布屋敷に出入りしていた信州保科村の反物商清右衛門は蕎麦を打つのが上手いことから藩主保科兵部少輔の助言で蕎麦屋に転向し、名前も布屋太兵衛と改め、藩邸にも近い永坂で永坂更科を開店することとなります。 
この「更科」とは信州の蕎麦の集積地である長野県千曲市旧戸倉町の千曲川西岸の地名といわれる「更級」と、信州の名族で元は保科村の領主であった保科家の「科」を掛け合わせた造語で、この店で出されるそば粉の大吟醸とも呼べる胚乳部分を粉にした白いそば粉を使う高級な「御膳蕎麦」が評判となり、増上寺の僧などにもよく食されました。また大田蜀山人(南畝)はこの店の蕎麦をその値段の高さから、
更科の蕎麦はよけれど高稲荷(高い也) 
森(盛り)をながめて
二度とコンコン(来ん、来ん) 
  • 髙稲荷とは別名三田稲荷ともよばれるお稲荷さんで 、当時永坂更科の店の横の森にありました。現在も永坂の更科工場 屋上に鎮座しています。
 
永坂にある永坂更科発祥之地

          ◎永坂更科発祥之地
昭和54年11月吉日
永坂更科発祥之地
永坂更科布屋太兵衛建之

布屋太兵衛を商号とする祖先布商
清介は元禄年間江戸麻布に郷里保科
御大名の御好意で麻布十番近く■
保科兵部少輔邸内の御長屋を借用
晒布を行商。寛政元年八代目清右
衛門は、主君の奨めで麺舗に転業。
代々布屋太兵衛と襲名す。郷里の
地名の「更」と、保科家の「科」
の一字を賜り「信州更科蕎麦處」
永坂更科布屋太兵衛と名付け大方
様の評判を頂く。
保科家、増上寺に報恩奉仕しその
推挙で将軍の御用を承る。増上寺
修行僧の諸国遍歴は江戸噺として
全国中に声価伝達。当地麻布永坂
の三田稲荷の御加護を頂きここを
根拠とし家歴百九十年を印す。
小林勇 記


永坂上部の岡仁庵邸・森要蔵道場辺
また、この永坂更科の少し坂上には同じく飯野藩保科家にゆかりのある森要蔵の道場がありました。

森要蔵は飯野藩保科家の剣術指南役であり北辰一刀流千葉道場の達人で千葉道場の四天王と呼ばれていました。やがて、千葉道場から独立して永坂に構えたこの道場の門下生は数百人とも千人を超えていたともいわれています。そして道場での森要蔵は相当厳しかったようで、稽古をつける彼の姿は雷を纏った龍のようだと評されていました。

天保十二年、森要蔵は三十二歳の時に上総飯野藩二万石の御前試合で勝利し、七両二分四人扶持で召抱えられ、安政四年には七十石取りにまで出世します。そして、
    保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森の要蔵

と世間で謳われたといいます。

この森要蔵が59歳の時、戊辰戦争が勃発します。すると要蔵は家老の密命により三〇名あまりの藩士と共に飯野藩を脱藩し、主家の本家である会津藩に合流して、白河口の戦闘で息子の虎尾とともに奮戦の末に命を落とします。
その様子は、共に参戦した飯野藩士の勝俣音吉によると、
先生白河口に向かふや「どうせ死ぬなら土佐の間宮の隊へ斬り込んで死にたいものだ」といわれた。蓋し既に死期を察したる先生はその弟子であり甥であるところの土佐藩の間宮某に首を与へて功名させる意図であったのであろう。虎雄先づ弾丸にたほれた。弟子・大出小一郎も傷ついた。小一郎は親友であったので小一郎を背負ひて後退した。先生も亦一丸を蒙った。虎雄に先立たれ、傷を蒙った先生は落胆して堤に腰を下ろして休息していた。板垣配下の一隊が通りかかった。先生俄かに踊り出して「森要蔵之にあり」と切り込んだ。遙かに振りかへった時は蒙煙の中に先生の奮戦の様はかくされていた。先生は連日不眠不休と悪食のため、全身に水気来り、片足を痛めて大変弱っておられたいふ。数日の後此の所に四寸角ほどの卒塔婆に、「森要蔵の墓」と墨痕鮮やかに記されていた。あたりに先生の袴の端切れ等が散乱していた。之を持ちかへり、門弟等と共に浄信寺に葬った。件の卒塔婆は確かに先生の姪の夫に当たる間宮某の字であった所を見ると彼の建てたものであらうと。

と記しています。

また早乙女貢著「会津士魂⑨」ではその様子を、


~此の老人は日の丸の軍扇を開きて兵を指揮し、隊兵十余人と山間に集合す。我が八番隊之と戦いしに、彼等衆募敵せず多く斃る。
森要蔵道場・岡仁庵邸・おかめ団子
永坂更科・髙稲荷
中に一少年あり、老人に謂ひて曰く、阿爺突撃せんと、小刀を揮るって奮闘し、遂に我が八番隊に狙撃せられて地に倒る。老人も亦一壮士と共に勇戦して斃る。
余其の少年の勇壮を愛惜し、令して之を助けしめんとしたるも、傷重くして遂には死せり~

~思うに保科候と会津候とは同系の家なるを以って、要蔵は其の情誼を思い、同志を率いて亡命し、宗家の危急授けて此に至れるならん。武士の殉義誠に哀しむべきなり~

と記して幕末という時代の最後に驚くべき武士道が存在していたことを伝えています。

しかし飯野藩主保科正益は会津保科家が朝敵となった事に連座して謹慎を申し渡され、その弁解のため幕府側となった家臣を処刑して罪を許されます。(また一説には脱藩者を出した事への責任から家老の樋口盛秀と野間銀治郎が自害したとも伝わります)このようなことは幕府側として戊辰戦争に参加した各藩でも起こっており、奥羽列藩同盟の盟主ともいえる仙台藩伊達家でも、この森要蔵とも白河口で共に戦い面識があったかも知れない但木土佐坂英力を明治2(1869)年5/19に仙台藩麻布屋敷で叛逆首謀の罪で処刑しています。

おかめ団子のあった永坂上の
飯倉片町角
まったくの想像ですが、この道場の門下生はおそらく道場で厳しい稽古を終えた後に更科蕎麦を食したのではないかと思います。また、やはり道場のすぐ近くにあった麻布名物の「おかめ団子」を食したのも間違いないと思われます。

そして、この道場の家主は将軍の御殿医の岡仁庵で、妹は大奥勤めをしていました。この岡仁庵の屋敷の敷地面積は3000坪もあったそうで、庭の見事な”しだれ桜”が麻布でも有名で、大田蜀山人に、

永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦

 と詠まれました。また麻布区史ではこの桜を、

岡の桜、別名「朝日桜」。幹囲り2.7m  高さ7m 樹齢150年 十番通りからも見えたというが、昭和初期に岡邸が売却された折に伐採されたという。

と記しています。
そして妹の「つち」は13代将軍「家定」付大奥女中で、
つち 御次(おつぐ) 相部屋:ちそ、もん 兄・岡仁庵(御番医師)後、家茂時代に実成院[じつじょういん](14代将軍徳川家茂生母)(フジテレビ「大奥」では野際陽子・NHK大河ドラマ「篤姫」では描かれていません。)に招かれ酒宴をした記録あります。

御台様(天璋院篤姫)のそばに詰め、茶道具、仏間、御膳などの世話を焼く係で、大奥で何か催し物があるときにはまっさきに芸をして盛り上げる係でもあり、三味線・琴などの楽器、舞いなど 一通りの遊芸はマスターしているそうで、大奥の「芸の達人」ともいえる役職だそうです。

何かの催しで当の御次女中の遊芸を観覧して、目を付けたものと思われる。御次は目を付けられる機会が多い役なので、これぞと思う娘を御次に付ければ、将軍の子女を産むという確率が高まることになるそうです。表御殿の役人で野心のある者は、大奥の幹部クラスと組んで、これぞと思う娘を探し出し大奥へ送り込み、その娘を懇ろとなった大奥幹部が御次に就ければ、翌年には将軍の男子を産んで、自分は一躍権勢家などという夢想をしたかもしれません。このことからすると、「つち」の大奥入りは、兄である岡仁庵の計略であったのかもしれません。

お伝えした保科家と更科蕎麦の関係で、布屋太兵衛が出入りしていたのが保科家の正規の血統ともいえる上総飯野藩保科家ではなく、保科家の血筋を持たない会津保科(松平)家であったならば、権力におもねた商魂と疑われ、その印象は大きく違ったものになっていたと思われます。

★蛇足
幕末に新撰組の元となる浪士隊を結成し、京都で幕府を裏切り朝廷に恭順した清河八郎が、江戸に呼び戻されたのち一の橋で暗殺される話を以前お伝えしましたが、その暗殺実行者の一人は佐々木只三郎 という名の旗本でした。佐々木の父は会津藩士であり、親戚の旗本佐々木家に養子となった以降も会津藩とつながりを持ち、清川と別れ京都に残留した浪士(後に新撰組となる)を会津藩預かりとすることを会津藩に提言しました。そして、自身も強力な佐幕派であり、幕府講武所の剣術師範で京都見廻組隊士でもありました。また坂本竜馬暗殺の実行者ともみられているそうです。

ここからは私の勝手な想像ですが、清河八郎暗殺の時にもしかしたら、八郎が出羽上山藩邸で友人と酒を酌み交わしている間、暗殺実行者たちが八郎が出てくるのを待っていたのが佐々木と縁がある会津藩三田下屋敷でもおかしくないと思われます。
また前出の森要蔵の息子はご紹介したように「虎尾」と名付けられていましたが、清河八郎が倒幕・尊王攘夷の思想を持った清河塾の塾生を中心に結成した会も「虎尾の会」と呼ばれていました。
思想的には佐幕で保科家を主君とする森要蔵と、正反対の勤王攘夷を唱えた清河八郎に思想的な共通点は無いと思われますので、ただの偶然だと思われます。




★追記の追記

飯野藩麻布邸と森要蔵道場の関係を当時の庶民は、

麻布永坂目の下なるに何故か保科さん森のかげ
と謳っています。これを、
  • 森道場が飯野藩邸から坂を下った場所にあったことになぞらえて森
    道場の隆盛を顕わしたもの

  • 保科邸は高台にあるのに(藩邸よりも下に建つ森要蔵道場が目立って)
    森のお“かげ”で保科の名も上がった




などと解釈していますが、これは、地理的な条件を無視した解釈といえます。 森要蔵の道場はほぼ永坂の坂上にあり、飯野藩麻布邸は古川沿いの二の橋脇から 網代町にあったことから、地理的には森要蔵の道場の方がはるかに標高が高いと思われます。 
しかも飯野藩麻布邸は当時すでに商家が多くあった麻布十番の脇です。これに比べて 上杉家の屋敷が通りの片側をしめて、反対側にしか町屋がなかったといわれる飯倉片町辺にあった 森要蔵道場辺は永坂上方にあり、わりと寂しい場所にあったと思われます。 しかし、門弟千人ともいわれる森要蔵道場にはいつも人が集まり、本来は周辺で最も商家が集まる 坂下の飯野藩麻布邸辺よりも坂上で武家地の多い寂しい場所にあった森要蔵の道場の方が目立っていた ことを揶揄したものであると私は思います。
 








 
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