2013年1月2日水曜日

麻布名所花暦

江戸時代は「弔いを山谷と聞いて親父行き、麻布と聞いて人だのみ」といわれるほど、中心地の下町からは遠く、江戸の町の外れで草深い場所ととらえられていた麻布周辺ですが、今回は当時の名著といわれる江戸名所花暦(文政十年1827年刊)・江戸鹿子(貞享四年1687年刊)・続江戸砂子(享保十七年1732年刊)などに掲載されている、麻布とその近辺の名所・銘木・銘花をご紹介します。(現住所とは、銘品が当時あった所在地を現住所に置換したもので、現存しているという意味ではありません。)








麻布と周辺の名所花暦
場所、木銘 出典 種類 現住所 備    考
宇米茶屋 江戸名所花暦 白梅 白金2丁目1-3 麻布三子坂にあり。一重の白梅なり。正月下旬盛りなり。外よりは遅し。古木なり。遊行陀阿一海上人、この梅に題して歌あり。この花の白かね名に高く 千歳をこめてみのるとこうめ
また江戸名所図会に「梅か茶屋」と紹介されている。
麻布竜土組屋敷 江戸名所花暦 梅樹 六本木7-9 麻布竜土組屋敷とは御先手組屋敷の事。立春より6、70日目。梅樹、家ごとの入り口にあるもあり。または後園にあるもあり。
木下候庭中 江戸名所花暦 彼岸桜 南麻布5-8 木下候とは木下肥後守の事。麻布広尾にあり。幹の太さふた抱え半、南北へ廿一間壱尺余、東西へ十九間余、たゝ小山に行きをおひたるかことし。花の頃は見物をゆるされしか、近頃止られたり。
慈眼山光林寺 江戸名所花暦 彼岸桜 南麻布4-11 麻布新堀はた。当時はもと市兵衛町の辺にありしとなり。此境内に大樹あり。したれたる枝は、地につきて滝の落つるかことし。此花の色、成子乗円寺の花によく似たり。この光林寺の前、新堀のむかふをすえて広尾の原と唱え、桜の咲いつる頃よりして、貴となく、おもひおもひのわりこ、酒肴をもたらし来り、毛氈、花むしろをしき、ここまとゐし、かしこにたむろして打興するありさま、天和の頃の光景を思ひいつるはかりなり。
三縁山増上寺 江戸名所花暦 彼岸桜 三縁山増上寺。(芝公園4-7) 芝切通しより赤羽根への通ひ路、近きころ開けし道筋、左右に桜樹夥しく植えたり。(芝切通しとは今の正則学院と青竜寺の間の道。)
糸桜 続江戸砂子 増上寺(芝公園4-7) 三縁山広度院増上寺。芝林壇、寺領一万五百四十石。廿四日御仏殿の前。(廿四日御仏殿は二代将軍火秀忠の霊廟。現芝ゴルフ敷地内)
拾ひ桜 続江戸砂子 南青山2-26 長普山宝樹寺梅窓院、知恩院末、青山。第二世峰誉上人、門前にて苗木を拾ひ、てつから植えられしと也。今は大木となる。類ひなきしたれさくら也。
留主に居る人へひろはん花さくら(岸村涼宇)
泰山府君桜 続江戸砂子 三田2-15 三田松平主殿頭殿御館にあり。八重桜の速き花也。桜町中納言成範卿、花のさかりの短きをなげき、桜のため泰山府君の祀りを行はれしより此名ありと也。
八入(やしおの)楓 続江戸砂子 三田2-15 三田松平主殿頭殿御館にあり。前に云桜と此二樹、羅山子東明集に詳也。八入と云は、物を一度染るを一入(ひとしお)といふ。二たひ染るを二入と云り。紅楓の色、八度の染色に比す故八入と称す。
幸稲荷の辺 江戸名所花暦 不如帰 芝公園3-5 芝切通しのうへなり。増上寺の梢青葉さすころは、一声も二声もきこゆるといへり。
愛宕山愛宕神社 江戸名所花暦 芝愛宕町1-5 芝にあり。この山上より雪中に見おろせは、各藩につもれるゆき、綿をもって家居をつくれるに似たり。遥に望は、安房、上総の山々、片々たるうちに見ゆ。本尊は行基の作にして、勝軍地蔵なり。毎月弐四日は四万六千日と号して、参詣殊に群集す。此日境内にて、青きほうずきを食む。小児に呑するときは、虫の病の根を切ると云ならはせり。
高輪 江戸名所花暦 高輪二丁目近辺 この海岸の酒楼より海上を望む時は、雪の粉々たるありさま、他に比する処なし。
壱本松 江戸鹿子 元麻布1-3 あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。
一本松 続江戸砂子 元麻布1-3 一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。
銭懸松 続江戸砂子 所不詳 麻布にありと古書に見えたり。尋ぬるにしれす。所の人の云、天真寺に古木あり。それなるへしといふにより、寺に入て尋ぬるにしらすと云。当寺本堂の前に控なる大松の朽木の三抱もあらん、根より一丈はかりありて梢はなし。疑らしくは是ならんか。(天真寺は南麻布3-1)
円座松 続江戸砂子 増上寺(芝公園4-9) 増上寺山下谷。山下谷とは今の芝公園4-9、10あたり一帯。松は現存せず。
朝日松 続江戸砂子 芝西応寺(芝2-25) 田中山相福院西応寺、増上末、寺領十石、本芝。朝日の松、けさかけ松、火除の松、いつれも境内にあり。宝暦の末、当寺回禄にかゝりて此松も焼たりとそ。
袈裟懸松 続江戸砂子 芝西応寺(芝2-25)
火除の松 続江戸砂子 芝西応寺(芝2-25)
綱駒繋松 続江戸砂子 イタリア大使館(三田2-4) 綱が駒繋松、松平隠岐守殿中屋敷の内にありと云。
三鈷の松 続江戸砂子 高野山東京別院(高輪3-15) 高野寺、正輪番、紀州高野山宿寺、二本榎。三鈷の松境内にあり。糸桜、大木の枝たれ也。現存せず。
鐘鋳の松 続江戸砂子 品川区北品川4-7 品川御殿山。御殿山の北手にあり。増上寺の撞鐘を鋳たる所のしるしにうへたる松也。
二本榎 江戸鹿子 高輪1-27 白銀原高野寺正覚院のかたわらに有。(正覚院の傍にあったとは、誤りという説もある)
印榎 江戸鹿子 赤坂1-11 赤坂溜池の上に有。むかし此池の奉行人、此榎木をうへて、その時の委細を此木にしるすとかや。よって印の榎とよぶとかや。
印の榎 続江戸砂子 赤坂1-11 溜池の堤にあり。むかし浅野幸長、欽名ありて、此所の水をつきとめたり。幸長の臣、矢島長雲奉行し、さまざまのおもんはかりを以、水をつきとめぬ。主人幸長の公用の印、又長雲か子孫まてのためとて、榎を多く植えたり。大かたは枯れて、今2、3株あり。
杖いてう 江戸鹿子 銀杏 麻布山善福寺(元麻布1-6) あさぶに有。親鸞上人関東下向の時、誓ていわく、もし我宗旨広らば此杖枝葉あれと言て、杖をたてゝ皈りたまふ。其杖枝葉しけりて今に此地に有。婦人の乳の出ざる者、此木にて療すれは奇端ありと云。
杖銀杏 続江戸砂子 銀杏 麻布山善福寺(元麻布1-6) 麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。杖銀杏本堂の左の方にあり。親鸞上人の杖也。祖師当所に来り給ふ時、此法さかんになるへくは此杖に枝葉をむすふへしと、庭上さしおかれし所の木なり。今大木となりて、枝葉しけりたり。乳なき婦人、此木以治療すれば奇端ありとて、樹を裂事おひたゝしくして、枝葉いたむにより、垣をしてその事をいましむ。今は祖師の御供をいたゝくに、乳なきもの、そのしるしありとそ。右の方、開山堂の前にあり。親鸞上人杖を逆にさし置かれし所の木也。よって逆銀杏ともいふ。
楊枝杉 江戸鹿子 麻布山善福寺(元麻布1-6) これも親鸞上人のさし給ふのよし。山中に有て、岩の中より生したる木也。
楊枝杉 続江戸砂子 麻布山善福寺(元麻布1-6) 是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
颯灑(うなり)柳 続江戸砂子 麻布山善福寺(元麻布1-6) 麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。


これらの銘木のなかでも特に麻布山善福寺にあったとされる楊枝杉は、麻布の語源ともされる由緒が記されていますが江戸期にはすでに枯死していたとあり、残念でなりません。