2017年6月4日日曜日

青物横丁「天妙国寺」に葬られた麻布辺




顕本法華宗別格山寺院
鳳凰山 天妙国寺
先日朝さんぽの途中「今朝のお詣り」で立ち寄らせて頂いた、青物横丁の顕本法華宗別格山寺院「鳳凰山 天妙国寺(1972年までは妙国寺)」さんで出会った三つのお墓。


・お祭り佐七

・桃中軒雲右衛門

・音丸


☆その1-お祭り佐七(元久留米藩士~め組鳶火消し)

本堂にお詣りの後には久しぶりの墓域お詣り。随分久しぶりだったので「お祭り佐七」の墓域が移動していました。

落語「お祭り佐七」の筋立ては元久留米藩士・飯島佐七郎は天神真揚流柔術の免許皆伝で腕が立っての男前から女達が放っておかない。しかしそれがアダで浪人になり、め組の頭清五郎の家にころがりこんだ。 お祭り佐七が鳶になるまでの話。なぜ”お祭り”なのか小さんは、木遣りがうまく方々の祭りに招かれたからだと。

天妙国寺本堂
め組は芝大門、神明宮界隈の受け持ちで増上寺門前の火消しも務めていましたが、佐七の主家であった久留米藩有馬家の上屋敷は赤羽橋にあり、こちらも増上寺「火の御番」を拝命している家柄でした。このことから久留米藩有馬家上屋敷には江戸で一番高い火の見櫓の設置が許され、同じ邸内にあった水天宮と共に数多くの錦絵の題材となっています。

この火の見櫓は現在の東京タワーやスカイツリーのようにランドマークタワーの役割も果たしていたものと思われます。
そして少し横道にそれますが、久留米藩上屋敷にはもう一つの名物がありました。それは将軍綱吉から拝領した犬を登城などの行列の先頭に連れ歩き「有馬の曳き犬」として
有名になります。そして後年、上屋敷西側に両国久留米から分祀した「水天宮」を祀った際に、この曳き犬の故事から犬が安産の多産であることから
明治期に有馬家と共に水天宮が現在の日本橋蛎殻町に移転後も、現在まで「犬帯」の領布が行われています。

佐七の父親とめ組の頭領「清五郎」はこのような増上寺消火の関係からの知り合いで、その清五郎を頼って宅の二階に居候を決め込むという筋立ては、理にかなっていると思われます。
また噺には佐七とめ組の若い衆が品川遊郭に乗り出し、さんざん遊んだ末に佐七が居残りを決めるというくだりも含まれています。

その他佐七については人形浄瑠璃や歌舞伎などにもなっており、「絲桜本町育」「小糸・佐七情話」、「心謎解色糸」、「江戸育於祭佐七」などが演じられています。
そして落語も今回紹介した「お祭り佐七」の他に「雪とん」という噺もありますが両者の間に関連性はありません。



お祭り佐七墓標
俗名 熊木佐七






佐七の主家久留米藩有馬家
火の見櫓取り壊し
(明治初期)

久留米藩有馬家上屋敷「火の見櫓」
を模した麻布中ノ橋欄干



名所江戸百景 増上寺塔赤羽根
歌川広重






※歌川広重の「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」は①増上寺五重塔から見た構図ですが、中央下部に②赤羽橋、そして久留米藩有馬家上屋敷の③火の見櫓と④水天宮(赤い幟の場所)が描かれています。当時の錦絵は大名家名をタイトルにすることは幕府から堅く禁止されていましたので、上記のタイトルになっています。








東都名所芝赤羽橋之図
安藤広重




★BLog DEEP AZABU-有馬家化け猫騒動
http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E4%B9%85%E7%95%99%E7%B1%B3%E8%97%A9












☆その2-桃中軒雲右衛門(芝新網町)


さらに佐七の墓(供養墓でしょうか?)の北側近くに桃中軒雲右衛門の墓所があります。雲右衛門は浪曲中興の祖で「浪聖」とも謳われた明治期の浪曲の大看板で雲右衛門のひ孫・岡本和明著の「俺の喉は一声千両」によると雲右衛門の生まれた場所は江戸市中でも最も貧しい人たちが住まう地域であった芝新網町(現在のJR浜松町付近)であったそうです。

当初の浪曲師はこの芝新網町出身者が多ようで、当初落語、講釈などからも差別され定席での公演が出来ずに、地面にむしろを敷いただけの簡易的な小屋での営業しか出来なかったそうです。

この「桃中軒雲右衛門」という芸名ですが、本来は父から譲られた「吉川繁吉」を名乗って舞台に立っていましたが、人妻であった相方三味線弾きの「お浜」と駆け落ちをしたため「吉川繁吉」を名乗ることを禁じられてしまいます。そして数年後に再び東京へと戻る途中沼津で買った駅弁の包み紙に書いてあった屋号「桃中軒」をとっさに芸名として名乗ることに決めました。
名前の「雲右衛門」は、昔懇意にしていた相撲取り「天津風雲右衛門」をそのまま拝借したようです。

私の知り合いである麻布狸坂下のダイニングバー「あおいひみつきち」店主が4月に投稿した画像に現在は駅弁と駅蕎麦販売となった「桃中軒」の御殿場支店の屋号がそのまま写り込んでいましたので許可を頂き、引用させて頂きました。

★青いひみつきちオフィシャルサイト
 http://www.aoihimitsukichi.com/

★青いひみつきちfacebook
  https://www.facebook.com/aoihimitsukichi/

★桃中軒オフィシャルサイト
 http://www.tochuken.co.jp/


このように芸名を「桃中軒雲右衛門」として東京に戻った雲右衛門はやがて大看板の浪曲師となり、落語・講釈などからの差別も少なくなっていったようです。
そして、その人気にあやかって世に言う「桃中軒雲右衛門事件」という著作権を無視した模倣レコードが大量に販売された事件となります。
その後、桃中軒風右衛門を名乗る実弟を亡くすと、苦労をともにした相方であり妻の「お浜」も肺結核で失います。その際自邸の会ある芝公園から品川天妙国寺まで葬列を組み、多くの見物人が出たといいます。そして天妙国寺での葬儀の後、墓域に埋葬されます。
そして、さらにその後、本妻のお浜と共に自邸に住まわせていた妾のお玉もお浜の看病から結核に罹患し死去。
JR御殿場駅の駅蕎麦「桃中軒」
撮影:ダイニングバー
「青いひみつきち」小堀 裕一氏
その後も隆盛を極めた桃中軒雲右衛門自身も妻から結核がうされていたことにより同じ病を患い、思うように舞台に上がれなくなります。しかし、それまでの浪費癖は直らず、やがて結核の進行により1916(大正5)年11/7、東京府外高田村(現在の豊島区南部)の療養先において四四歳の若さで世を去ります。

その時には雲右衛門は財産のほとんどを失い、残されたものはわずかな現金と毛皮が数枚のみで、葬儀費用も無かったそうです。

桃中軒雲右衛門の孫弟子の一人には、あの....村田英雄がいるそうで、三波春夫も「桃中軒雲右衛門とその妻」を唄っています。


★wikipedia-桃中軒雲右衛門
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80

★桃中軒雲右衛門事件
https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/56/8/56_552/_html/-char/ja/

★youtube-桃中軒雲右衛門
  https://youtu.be/J2yZCBFLW9o

★俺の喉は一声千両: 天才浪曲師・桃中軒雲右衛門-岡本 和明(桃中軒雲右衛門のひ孫) 著
https://www.amazon.co.jp/%E4%BF%BA%E3%81%AE%E5%96%89%E3%81%AF%E4%B8%80%E5%A3%B0%E5%8D%83%E4%B8%A1-%E5%A4%A9%E6%89%8D%E6%B5%AA%E6%9B%B2%E5%B8%AB%E3%83%BB%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%92%8C%E6%98%8E/dp/4103245328









天妙国寺本堂脇に設置された桃中軒雲右衛門墓所解説板




桃中軒雲右衛門墓所への案内碑
「浪曲聖地」と刻まれています

桃中軒雲右衛門墓碑
桃中軒雲右衛門の妻「お浜」の墓碑

仲良く並ぶ桃中軒雲右衛門と妻「お浜」墓碑



浪曲協会建立の顕彰碑
















☆その3-音丸(麻布箪笥町生まれ、麻布十番下駄屋の内儀でアイドル歌手)


アイドル歌手音丸
こと永井 満津子
(wikipadiaより引用)
本名は永井 満津子。麻布箪笥町の生まれ。音丸の芸名は「音は丸いレコードから」から音丸とされます。ヒット曲は「船頭可愛や」など多数。
大正~昭和期の人妻アイドル歌手で、実家は箪笥町のちに麻布十番(現在の十番郵便局あたり)に移転して下駄屋を営んでいました。
夫はこの下駄屋の入り婿となり商いをし、妻はコロンビアレコードのアイドル歌手として活躍しましたが、まもなく離婚します。

当時、婚姻した女性が舞台で活躍することは少なく、客席から「よっ!下駄屋の姉御!」とかけ声がかかると、「よくご存じ!」っと少しもひるまなかったといわれています。

戦前から戦後にかけて音丸は実家の氏神であった「末広神社」へ度々寄進をしており、戦災から復興して竹長稲荷神社と合祀され現在地に遷座した「十番稲荷神社」
の現在も残る「狛犬」は音丸の寄進によるものです。この狛犬は下部に寄進者の名前として音丸の本名「永井 満津子」が刻まれています。
また終戦直後には再婚した夫で弁士の井口静波と共に人気歌手の座長として全国巡業を行いますが途中四国公演で前座を務めたのは美空ひばりでした。

その後人気は凋落し夫の死から約10年後の1976(昭和51)年、世田谷のマンションで急性心不全により死去し天妙国寺に葬られます。

音丸の墓域内には墓碑と共に「船頭可愛や」の歌碑が建立されています。
天妙国寺にレコードに関係する事件(桃中軒雲右衛門事件)を起こされた桃中軒雲右衛と、レコードの隆盛によりアイドル歌手となった音丸が眠っているのは偶然なのでしょうか?








1.昭和11(1936)年 末広神社本殿の音丸(前列中央)
画像提供:山本仁寿氏

2.昭和27(1952)年2月 十番稲荷神社境内
画像提供:山本仁寿氏


3.昭和34(1959)4月十番稲荷神社境内
画像提供:山本仁寿氏



◆画像解説(一部私の解説ですが、主に山本氏ご自身の解説より)
  1. 昭和11(1936)年末広神社本殿の音丸さん。
    神社造営(狛犬建造費用?)に音丸さん1000円の寄付、小野さん畳表の寄付等が書かれています。末広神社は現在の港区麻布十番2丁目4−1にありましたが昭和20(1945)年の空襲で罹災し、戦後竹長稲荷神社と合祀されて永坂町に遷座、現在の十番稲荷神社となります。最前列中央に音丸さん、隣の高齢女性は音丸さんの実母。末広神社の鈴木宮司、 二列目中央音丸さんの左後ろには山本仁作氏、音丸さん実母左後ろには市川産業社主の市川要吉氏。この市川要吉氏は戦後、社名を市川産業からクラウンガスライターと変更し、昭和51(1976)年にはプロ野球球団の命名権を取得したことにより「クラウンライター・ライオンズ」が誕生し、現在の西武ライオンズへとつながります。また、この市川要吉氏は戦後十番稲荷神社の華表(鳥居)を親交のあった榎本健一(喜劇王エノケン)氏と共に寄進します。この鳥居は残念ながら残されていませんが、この鳥居寄進を記念して現在の十番稲荷神社石華表(鳥居)本殿側には市川要吉氏と榎本健一(喜劇王エノケン)氏の銅板プレートが埋め込まれています。
  2. 昭和27(1952)年2月 十番稲荷神社境内。上記音丸さん奉納の狛犬は戦災を免れ今の十番稲荷神社に移築されました落慶の記念写真は昭和27年2月と書かれています。狛犬だけが大きく 後ろの鳥居は木造 神社本殿も小さな木造です神社の後ろがうっそうとした森に見えます。
    狛犬台座が現在のものと違うように思えます。画像にははっきりと「奉納」と「歌謡曲 音丸」と刻まれています。
    中央に音丸さん、右側に鈴木宮司、その隣は山本仁作氏。音丸さんの左には実子のいなかった音丸さんの二人の養女、その後ろには前出の市川産業社主市川要吉氏。
    その他、白水堂、大阪屋、たまりやの各ご主人が写されているようです。
  3. 昭和34年4月 新しい石造の鳥居落慶。
    奉納は日本の喜劇王エノケンこと榎本健一さんとクラウンガスライターの前身市川産業社長市川要吉さん皇太子殿下の御成婚記念として造営されました後ろの本殿も立派に再建され、十番稲荷神社の社号標も建てられました鈴木宮司、石井宮司 お二人で催行されました。最前列中央扁額前の寄進者のお二人。エノケンさんの隣は鈴木宮司、その左隣は山本仁作氏、市川要吉さんの右隣は石井宮司。市川さんの左後ろには音丸さん。エノケンさん、音丸さん、市川さんが一緒に写された非常に珍しい画像です。



★Blog DEEP AZABU-音丸
  http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E9%9F%B3%E4%B8%B8

★wikipedia-天妙国寺
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%A6%99%E5%9B%BD%E5%AF%BA

★wikipedia-音丸
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E4%B8%B8

★youtube-音丸
 https://youtu.be/RIQP0Vgo4ys

★wikipedia-榎本健一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E5%81%A5%E4%B8%80

★wikipedia-クラウンガスライター
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC



十番稲荷神社鳥居銅板
「榎本健一」
十番稲荷神社鳥居銅板
「市川要吉」


























ご紹介した1~3の画像は、麻布十番未知案内サイト管理者で、赤い靴の「きみちゃん像」管理者でもある山本仁寿(きみとし)氏の提供。元十番パティ前の洋品店ローリエヤマモト(現在はパレットプラザ麻布十番店となっている場所にありました)店主。お父上は元・麻布区議会議員の山本仁作氏。
今回山本氏からご提供頂いた画像は昨年終了した「私と町の物語」展に出品して
頂いたほかは 書籍等にはまったく未発表の貴重な画像です。

★山本氏のサイト「麻布十番未知案内」
赤い靴の女の子・岩崎きみちゃんについての逸話が満載です。

      http://jin3.jp/










④-1十番稲荷神社狛犬(右)

④-2十番稲荷神社狛犬(左)

④-3十番稲荷神社狛犬台座の寄進者名「永井 満津子(音丸)」


天妙国寺音丸墓所
墓域内には「船頭可愛いや」歌碑があります







その他にも天妙国寺には「与話情浮名横櫛」の主人公「斬られ与三郎」と「お富」、桃中軒雲右衛門、伊藤一刀斎などの墓があり、当時から名刹であった寺の勢いが偲ばれます。


※画像は一部wikipediaより引用