2012年12月22日土曜日

黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)

現在の西麻布交差点付近は、住居表示変更前までは麻布笄町(こうがいちょう)という町名で呼ばれていました。
笄橋跡から牛坂


笄町は明治期に新設された町名で、旧湯長谷藩邸、武家地、開墾地などを併せて起立した広い範囲の町で、牛坂下の笄川こうがいがわ龍川たつかわ)にかかる笄橋があったためについた町名だそうです。

そして、「こうがい」の語源については諸説があるようですが、代表的なものとして、



●笄 
源経基がこの橋を通過する際に使用した刀の笄が語源
鉤匙
上記笄と同義。本来笄は髪を整えるための道具。毛筋を立てたり、髪のかゆいところをかいたりするための、箸に似た細長いもの。象牙・銀などで作られており刀の鞘(さや)に挿しておく、中世以降は装飾具として使用された。
●甲賀・伊賀
家康入府に伴いこのあたりに組屋敷を拝領した甲賀衆と伊賀衆の境界の橋。「こうが・いが」が「こうがい」に転化
●香貝(こうがい)
このあたりをかうがい村・こうが谷といったのが転化した。
●小貝
上記に同じ。「こがい」が「こうがい」に転化
●高貝
長谷寺鐘銘にこのあたりを「高貝村」とあるため。高貝村の橋で高貝橋
●鵠が居
こうが生息する地域で「鵠が居」
国府方こうがた
このあたりを国府方こうがた村といったため。「こうがた」が「こうがい」に転化
●後悔
むかしこのあたりの百姓が公儀に訴訟をしたが、敗訴して後悔したのでついた地名。
●狼谷
「江戸雀」には笄橋あたりを狼谷おおかみだにとも呼んだとある


江戸末期の笄橋
などがあります。 そして、この笄橋にはいくつかの伝説が残されており、その一つは、黄金長者の息子と白金長者の娘にまつわる伝説です。

★黄金白金長者伝説

鎌倉から室町時代にかけて南青山4丁目付近に黄金長者(一説には渋谷氏)とよばれた長者が住んでいました。名の由来は幼名を金王丸といったためで、現在も長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などが現存します。 
また白金長者は、柳下氏といい元は南朝禁中の雑式を勤めた家系で、南朝没落後の応永年間(1394年~1427年)頃から郷士となって今の白金自然教育園あたりに住み、江戸時代には元和年間に白金村の名主となって幕末まで栄え、その子孫は横浜市に現存するそうです。 
この二つの長者は、近隣であったため交流があったと思われ、その有名なものが現在西麻布交差点付近の「笄橋」の由来です。 
白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。
江戸名所図会-笄橋
 といわれています。 そして、現在は、笄川こうがいがわ龍川たつかわ)が暗渠になってしまったため橋も存在せず、ただの交差点になってしまいましたが、笄川(龍川)は暗渠を通って今でも天現寺で古川に注ぎ込んでいます。そして上笄町には、黄金長者の姫が長者丸の屋敷から笄橋で待つ銀王丸と逢うために下りた坂が「姫下坂ひめおりざか」という名を残しています。 

江戸期の書籍「江戸砂子」の鉤匙橋の項には、 

~又古き物語に、白銀長者の子銀王丸と云もの、黄金の長者が娘と愛著の事あり。
童蒙の説也~ 

 とあり、また同書「長者が丸」の項では両長者を、 

百人町の南。むかし此所に渋谷長者と云者住みけり。代々稚名おさなな金王丸こんのうまる と云。
渋谷の末孫なりといへり。その頃白銀村に白金の長者といふあり。それに対して黄金の長者
もいふと也。応安(1368~1375年) ころまでもさかんなりしと云。その子孫、ちかきころまでかす
かなる百姓にて、此辺にありつるよし。今にありけんかしらず。

 と記しています。また、「故郷帰の江戸咄」という書籍では、

それより百人町かかり、長者丸を過て香貝橋に着たり。ここを長者丸云事、香貝橋のいわれを古老の云伝にはむかし此所に渋谷の長者とて長者有けるが、金(こがね)の長者也とて代々おさななを金王丸といへり。是正尊(※土佐坊正尊)が子孫成べし。然るに後光厳院の御代かとよ、其時の長者の子なきにより、氏神八幡宮に祈て女子をもうけたり。此姫十五の春の比、目黒不動に参詣しける所に、白銀村の長者の子をしろかねの長者也とて代々おさな名を銀王丸と申せしが、是も目黒に参詣して御賽前のきざ橋にてかうがひをひろい給う。見ればくりからぶどうのほり物也。是はひとへに明王より給りたる所なりとて秘蔵し、下向の道にて渋谷の長者の娘を見て、恋慕の闇にまよひ、帰りて中だちを頼、千束の文を送りて終に心うちとけければ、忍やかに行かよふ。あこぎが浦のならひあればはやはしはし人も知たるようになる程に、有夜姫をともなひて、館の内を忍出て此橋まで迄来たりぬ。もとは大河にて橋も広長成けるとぞ。渡らんとするとき橋の下より鬼形あらはれ出てさまたげんとす、其時太刀にさしたるかうがいぬけて、くりからぶどうと化、鬼神をのまんとかかる。鬼神も又是にまけじとあらそひけるが、終に鬼神いきほひおとりて、いづちともなくさりうけり。その時またもとのかふがひと成りてここにしづみける故にかうがいはしと云うと也。彼鬼形と見へしは日比渋谷の姫を恋て、色にも出さずして恋死たるものの霊魂なりとかや。彼長者の住ける跡を長者丸と云伝へけると也。かくて追手のもの共来り、二人ともつれ帰りて、渋谷の長者には幸男なければとてむこに取りて銀王を改金王丸とし、銀(しろがね)の長者には子供おほき故に次男を総領に立てけると也。其長者の末孫近き比迄かすかなる百姓にて有ぬるよし今もや有けん
 
と記して二人の恋の話しと笄橋伝説を伝えています。


金王八幡神社に伝わる
笄橋伝説の笄
★源氏伝説(源経基通過説)

笄橋は長者伝説の他に源氏由来説もあります。
平将門が関東で乱を起こした時(天慶の乱)、六孫王源経基はその状況を天皇に直訴するため京都へ向かう途中、笄橋にさしかかります。この頃の笄川(龍川)は水量も多く大きな流れだったのでこの橋を通るしかありませんでしたが、橋では前司広雄と言う将門一味の者が「竜が関」と言う関所を設けて厳しく通行人の詮議をしていました。 
そこで経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽ります。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけといわれ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができたといわれています。 
これにより以後この橋を経基橋と呼びましたが、後に源頼義が先祖の名であるためはばかり笄橋と改称させたといわれています。

江戸砂子には、

鉤匙橋こうがいばし-大むかしは経基橋といひしと也
此川、大むかしは龍川たつかわと云大河なり。天慶二(939)年平将門将軍良望を殺し、下総相馬郡石井の郷に内裏を立てる。六孫王経基は武蔵の都築郡にあり。将門羽書をして相馬へ招く。その謀をしらんと下総に至り、帰路に竜川にかかる。越後前司広雄と云者、興世王に与し、竜川に関をすへて旅人をとがむ。ここにおゐて経基帯刀の笄を関守にくだし、是後日のあかしなるべしと也。それより経基橋といひならわせしを、康平六(1063)年三月、源頼義当所旅陣の時、その名をいやしむ。いはれあればと鉤匙橋こうがいばし とあらためられしと也。傍に一宇を建て、鉤匙殿こうがいどのとあがめしと云。その笄、親王院にありとぞ。此親王院は渋谷東福寺の事なり。かのかうがひ今に東福寺にあり。
このようにして笄橋の関所を通過した源経基はその後、麻布一本松の民家で一夜の宿を求めます。この様子を続江戸砂子「一本松」では、
一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。  
 として、こちらでも渋谷東福寺との因縁を記しています。

この他にも麻布と源氏を結び付ける伝説は多く、源経基はこの他、「一本松」に衣をかけたといわれ、また 「氷川神社」を勧進したともいわれます。
経基の国司としての居城は埼玉県鴻巣に城址が現存しますが、麻布にも彼に関わる何か(荘園、支城?)のような物があったのでは、と説もあります。また彼の孫にあたる源頼信は、平将門の叔父良久の孫忠常が下総の国で乱を起こしたおり(平 忠常の乱)、朝廷からの命令でこれを討ちはたし、鎮守府将軍となりました。その時(長元元年10月)坂東の兵を集めたのが麻布であった。また近辺の三田にも源頼光の家来で四天王の一人、大江山の鬼退治で有名な「渡辺 綱」の伝説があります。

綱が産湯を使った「産湯の井」は、オ-ストラリア大使館内に、出生地の綱生山当光寺、綱坂、綱の手引き坂、綱が馬を得た土器(かわらけ)坂、また三田綱町と言う住居表示にも残されています。そして、

江戸っ子の綱に対する人気を表わす川柳を以下に紹介。

名からして江戸っ子らしい源氏綱

あぶないと 付き添う 姥に幼子も 手をとられたる 三田の綱坂

江戸っ子に してはと綱は 褒められる

氏神は八幡と綱申し上げ
 
などと詠まれました。 












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