2012年12月1日土曜日

堀田屋敷の狐狸退治

天保九(1838)年、笄橋辺(現在の広尾日赤医療センター)にあった老中・堀田備中守(正篤。下総11万石)の下屋敷に三輪元進(玄真とも)という医者が住んでいました。

堀田家屋敷
元進は堀田家ご隠居様付きの医師で、いつもご隠居が住む屋敷の奥で治療し、同じ敷地内の自宅に帰るのが常であったそうです。5月13日の夜、いつものように元進は治療に行きましたが自宅にその晩は帰ってこなかったそうです。
屋敷に泊まったと思っていた家人の元に屋敷から薬を受け取りに使いの者が来て、元進は昨夜10時頃提灯を下げて自宅に帰ったといい、元進が屋敷にも居ない事がわかり行方不明となりました。門番に尋ねると、昨晩は誰も表に出ていないとの事だったので大騒ぎとなり、堀田家の広大な敷地内を藩士達が6回も探したが、だれも元進を見つける事が出来ませんでした。

元進が無残な姿で発見されたのは8日後の5月21日のことで、屋敷内の山林の奥で腐乱した死体となって見つかった元進の足の裏には、裸足でさまよったためと思われる無数の踏み抜きの痕があったので狐の仕業だと皆が噂しました。これを聞いた主人の備中守は邸内にある稲荷を閉門し、さらに領国の佐倉(印旛郡春ノ村とも)から狐狩りを得意とする藤蔵(藤兵衛とも)という58歳の百姓を江戸に呼び寄せました。

藤蔵は屋敷に来ると早速邸内の山林に小屋を立て中に鶏を吊るしてその下に落とし穴を掘り、罠としました。そして日が暮れると藤蔵は懐に入れたニボシをまきながら、酔ったふりをして大声でしゃべりながら山林を歩き、やがてニボシに釣られて付いて来た狐を少しづつ小屋におびき寄せていったそうです。

同所現在(日赤医療センター)
こうして6匹の狐と1匹の狸が捕まりました。特に狸は捕まった時に大暴れしたので殺してから罠をはずしたところ、再び蘇ったので元進を殺したのはこの狸だと言う事になりました。そして、備中守に報告すると、備中守はその捕まえた7匹の狐狸を家中の者に分け与え、食べてしまえと命じました。最初は気味悪がった家中の者もその美味さから争って食べてしまい、なかなか下っ端の者の口には入らなかったといいます。
そして堀田家には、その後も祟りがあったと言う話しは残されていないそうです。

この事件は江戸で評判となり歌にも詠まれました。





   長袖の命短く殺されて、やどにふたりが寝つ起きつ待つ

   



   三輪くされ定めて場所も藪医者の、はて珍しき狐(くは)たき討ち哉