2012年12月26日水曜日

赤羽接遇所(外国人旅宿)

赤羽接遇所跡の飯倉公園
現在の飯倉公園付近には江戸末期、「赤羽接遇所」と呼ばれる江戸における外国人の宿泊施設がありました。
赤羽橋脇心光院の裏手で、それまで幕府の武芸練習であった神田の講武所所属の空き地約9500㎡を幕府は安政6年(1859年)3月、外国人の旅宿所に指定し8月に普請が出来あがります。これは、前年6月にアメリカとの修好通商条約調印を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を締結したため、各国使節の宿舎が必要となったためです。

赤羽接遇所の周囲は黒板塀で囲まれ、黒塗りの表門を入ると、右手に大きな玄関がありました。間口10間奥行き20間の平屋建てで、その中央のは長い廊下が設けられていました。万延元年7月23日(1860年)、修好通商条約締結のためプロシア全権公使オイレンブルグの一行はここに滞在し、その交渉の過程では、幕府側全権委員の堀 利煕が閣老との意見の相違から引責自殺し、また幕府の要請から条約協議に通訳として参加したアメリカ公使館書記官のヒュ-スケンが、接遇所からの帰途 中の橋付近で暗殺されます。

幕府の延引にあい3ヶ月の交渉が終わった12月18日、外国人に対する暴行、暗殺が頻繁に横行していた不安な情勢からプロシア使節一行は、あわただしく江戸を離れ帰国の途につきます。

赤羽接遇所
その後接遇所は、二度目の来日時の文久元年5月11日(1861年)から同年10月16日まで江戸に滞在したシ-ボルト父子の宿所となり、幕府の外交顧問として東禅寺襲撃事件の事後処理を閣老に進言し、ここから頻繁に善福寺のハリスを訪ねています。

この赤羽接遇所の他にも「高輪接遇所」が泉岳寺脇に設けられます。
これは、1861(文久元)年5月28日と翌文久2年(1863)年の二回襲撃を受け、さらに同年12月には移転を計画していた御殿山に新築されたイギリス公使館が高杉晋作、久坂玄随、伊藤博文、井上聞多などにより襲撃され焼失してしまいます(英国公使館焼き討ち事件)。そこで、イギリス公使館は、慶応元(1865)年に着任した公使パークスの要求で現在の泉岳寺前児童遊園の場所に移転します。しかし、浪士の襲撃を避けるためイギリス公使館であることを秘匿し、イギリス公使館を「高輪接遇所」と称しました。
しかし、各外国使節の江戸における宿泊所としての役割を事実上持っていたのは、赤羽接遇所のみであったと思われます。
接遇所解説板
                                  




















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