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2013年4月15日月曜日

十番稲荷神社

十番稲荷神社
○創建:<竹長稲荷神社創建>和銅五(712)年・<末広神社創建>慶長年間(1596~1615年)

○祭神:倉稲魂命うかのみたまのみこと日本武尊やまとたけるのみこと市杵島姫命いちきしまひめのみこと田心姫命たぎりひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと

○所在地:港区麻布十番1-4-6

○祭礼:9月17日前後の土・日曜日

○公式サイト:http://www.jubaninari.or.jp/


十番稲荷神社は「末広稲荷」と永坂下にあった「竹長稲荷」が戦災により合併して出来た神社です。 「末広稲荷」は慶長年間に創建され戦前は現在のグルメシティ脇にありました。この末広神社の社前に一本の柳の樹があったので、はじめ社号を「青柳神社」と称しました。
再校江戸砂子によると、

「この柳樹枝葉さがりて梢の繁茂しているところより、村民だれ言うとなく末広の木と呼び、末広稲荷と呼ぶようになった。」

とあります。

明治6年7月5日村社に指定され明治24年4月、建物を権現造りに改め、社号を末広稲荷神社としました。氏子は坂下町と網代町で700戸あまりで、祭神は倉稲魂命、市杵島姫命、湍津姫命、日本武尊で大祭は9/17、9/18であったそうです。関東大震災後の復興記念として東郷平八郎が直筆の社号軸を奉納し、昭和21年の空襲で社屋は全焼しますが、この掛け軸は十番稲荷神社に現存するそうです。

一方、戦後の区画整理で永坂下にあった「竹長稲荷」は昭和20年の空襲で焼失し、やはり空襲で焼失した末広稲荷神社に合併して十番稲荷神社と称することとなります。
この竹長稲荷神社は和銅年間に創建され、かつて稗田神社と呼ばれたこともあったそうですが、詳細は不明です。そして後に「竹千代稲荷」と称するようになります。 これは竹千代稲荷が竹千代が丘(現在の鳥居坂上の東洋英和近辺)という地名から付けられた名で、和銅5年(712年)に稲荷を勧請しその場所を「竹千代稲荷」と名づけたともいわれるためです。

弘安2年(1279年) 社殿を再興し、寛永元年(1624年)坂下に移り、社名が徳川将軍家の幼名と同じことから「竹千代」という名が避けられ、似た読みの「竹長(町)稲荷」としたそうです。氏子は永坂町、新網町で、祭神が 「末広稲荷」と同じであったため、昭和20年に合祀されました。 また別説に竹千代稲荷は弘仁13年(822年)に慈覚大師(円仁)ゆかりの神鏡をもって創建したともいわれますが、元稗田神社を称する神社は区内の御田八幡を始め大田区にも三社あり、 特定する事は難しいといわれています。また現在の社殿の改装前の十番稲荷の鳥居には鳥居は、この地で幼少期を過ごしたエノケンこと「榎本健一」が寄進したものとのことです。









★追記2010.05


「榎本健一」銅板
 
●鳥居・狛犬

エノケン(榎本健一)寄進の鳥居は社の建て替えに伴い老朽化により失われてしまったそうですが、現在の石華表(鳥居)左足裏面には寄進を記念した銅板が埋め込まれています。また右足裏面には同じく クラウンガスライター(市川産業株式会社)社長で麻布出身の市川要吉氏の銅板が埋め込まれています。 そして社務所前にある狛犬下部には、寄進者で麻布十番育ちの大正・昭和期のアイドル歌手「音丸おとまる」さん の本名「永井満津子」が刻まれた銅板が埋め込まれています。 


エノケンと音丸は坂下町の住民でエノケンの実家は雑色通り(現在の十番会館付近)で「武蔵野せんべい」、 音丸の実家は網代通り(現在の十番郵便局付近)で「下駄屋」を営んでいまし麻布長谷寺で、音丸は1976(昭和51)年1月に永眠し、品川区 天妙国寺で眠っています。
た。 またこの下駄屋店前の通り(網代通り)が十番通りに突き当たる場所にはかつて十番通り下水に架けられた「網代橋」があり大正期の下水の暗渠化に伴い廃止されます。 この網代橋の欄干が十番稲荷かえる像正面に保存されている。ちなみにエノケン(榎本健一)は1970(昭和45)年1月永眠し




竹長稲荷敷地
(御府内備考続編)
●竹長稲荷

○御府内寺社備考

古跡除地九十三坪
当社旧地麻布永坂鳥居左京殿屋敷脇ニ有之候処、御用地ニ付延宝六戌牛年四月九日同所石尾意雲殿屋敷跡東之方表間口六間奥行拾六間 道御奉行美濃部一学殿横山半左衛門殿山寺弥太夫殿為替地御渡被成候、則当所ニ御座候、然ル処元禄八亥年織田越中守殿御検地之節裏通三坪 減シ奥行拾五間半坪数九拾三坪ニ相成候、

祭神:倉稲魂命 (御正躰八咫ノ鐘)・前立倉稲魂命
・不動尊 ・飯縄大権現

社宝:翁御面・陰陽鍵・加藤清正書・達磨画像・天満天神軸、他

別当:豊請山永坂寺竜王院






○麻布区史

永坂町四十三 祭神宇迦之魂命、大祭九月十四日・十五日。社伝に依ると弘仁十三年慈覚大師の八咫の神鏡を以て豊島郡竹千代ヶ丘に稲荷社を勧請する処と云ふ。 元地は今の鳥居坂上で其の後弘安二年鳥羽氏が社殿を再建した。
寛永元年三月現在の処に移り、跡地は戸田氏の拝領地となったが、延宝六年四月十九日境内除地 として神社で再び拝領した。
和銅五年の創建に係り往古は大社であったと云ふ説もある。曾て稗田神社と云ひ、又別に竹千代稲荷と呼んだこともある。現稱の竹長は、三代将軍の幼名竹千代を 避けて改めたものであると云ふ。「江戸砂子」は竹町稲荷と書かれている。旧幕時代は龍王院(今廃寺となる)が別当であった。宝物中、翁面と陰陽の鍵壹對は古くより 神宝として珍重されてゐる。殊に鍵は正安三年正月より神霊と共に奉斎してゐると伝へる。

明治四十年九月三十日現社号を許可された。社殿は入母屋造、氏子は永坂町と新網町に二百八十四戸ある。無格社






○社御由緒書

創建は一説に和銅五(712)年あるいは弘仁13(822)年に慈覚大師所縁の八咫の神鏡を以て武蔵国豊島群竹千代丘(今の鳥居坂上) へ稲荷大神を勧請したと伝えられている。延喜式内社の稗田神社と目される古社である。その後、弘安二(1279)年に鳥羽氏が社殿を再建、 そして寛永元(1624)年三月に永坂町に遷座された。現存はしていないが社宝に広重作の宝船の絵があり、戦前は宝船の巡拝所としても 有名であった。











●末広稲荷

末広稲荷敷地
(御府内備考続編)

○御府内寺社備考

元禄四年迄ハ東之方町はつれニ有候処、御用地ニ被召上、同五年当社地被下置、坂下町草分之鎮守ニ付同六年古跡ニ被 仰付候、旦又元禄十五年 ヨリ七十年以前者坂之上ニ社有之候よし申伝得共、右旧地相知不申候
祭神:倉稲魂命 左右二座

神木:神木ハ柳ノ古樹有之候ニ付青柳之社ト号、享保六年焼失、神楽殿社修理之節之建立之処、文政二年類焼ニ而当時中絶、


                  ○氏子:坂下町会


       ○再校江戸砂子
末広稲荷慶長中当初創建の鎮守なり、神前に柳一もとあり、枝葉さかへ梢大ひろこれり、是を扇になそらへて世人末広の木といひならわし 、いつとなく神号のやうになれり、

       ○麻布区史


坂下町四十一 祭神思姫命・市杵島姫命・湍津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七日・十八日。慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱があった。又その枝葉さかへ梢の繁茂してゐるところより末廣の木と呼び、これが社号の起源 となったと云ふことである。 明治六(1873)年七月五日村社に指定され、明治二十(1887)年四月末廣稲荷神社の社号を現稱に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。
社格:村社
慶長年間(1596~1615年)に創建され、元禄四(1691)年には坂下東方雑式に鎮座していたが、同六年永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、 坂下町41の社域に遷座さた。往古より境内に多数の柳があり、「青柳稲荷」と称されていたが、後にその中の一樹の枝が繁茂し、扇の形を成していたことから 「末広の柳」とよばれるようになり、社名に冠され末広稲荷と称された。その後、明治二十(1887)年4月に末広神社と改称された。


●かえるさん石像

かえるさん石像
「上の字様」は火傷、防火の御守として、がま池の畔で文政四(1821)年9月より山崎家の執事、清水氏より授与されたものを継承し、1929(昭和4)年から末広神社で授与されました。 戦後一時期中断されていたが1975(昭和50)年8月「かえるの御守」として復活し、現在も授与されています。
境内二体の「がま像」はこれにちなんで1977(昭和52)年に作成され、1982(昭和57)年麻布十番商店街より奉納された。近隣からは「かえるさん」と呼ばれ親しまれているそうです。

がま池・上の字信仰の詳細はこちらからどうぞ

●網代橋の欄干

○十番稲荷神社解説文-網代橋あみしろばしの石柱(明治35年成る)

今では平坦な道である網代通りと麻布十番大通りの交差点には嘗て橋があった。
その網代橋から一の橋まで、通りの左側に幅2メートルもの溝があり、商店は各自板で橋を架けていたが、度々横溢して困り果てていたという。
そこで、昭和3年、大暗渠が作られ、役目を終えた網代橋も取り除かれる事となった。
この石柱はその橋と時代の名残である。






○十番わがふるさと(稲垣利吉著)

~十番通りの左側(北側)は入り口から網代橋(網代通り)十番医院角まで 二米幅に大溝があり各商店は、お客のため自前で橋をかけた。
隣と隣の間はすき間があるのでお金や財布を落とす、結構なもので渫さらい屋がいて 川に入り拾ってくれる。
一番困るのは大雨が降った時だ。周辺の高台の雨水がこの溝だけではさばききれず十番通り全体が大川となる。各商店の橋は 木製だから浮上って流れ出す、逃がすまいと各商店総動員、戦争のように大騒ぎだ。
毎年この騒動をくり返すので昭和三年頃十番通りに大暗渠を作った。~






●港七福神「宝船」


○御由緒書-宝船の石像

戦前の「麻布稲荷七福神詣」では竹長稲荷神社が宝船の巡拝所であった。戦後になり巡拝箇所を再編して「港七福神巡り」が始まり、当社は宝船の巡礼所を引き継いだ。 平成九年、地下鉄開通に伴い社殿が新築されたのを期に新たに石像を制作、奉安された。







戦前の麻布稲荷七福神詣
・巡拝自動車乗車券





○七福神巡りの変遷
麻布稲荷七福神詣(昭和8年~15年) → 港七福神巡り(昭和41年~現在)
No.七福神麻布稲荷
七福神詣
住所No.港 七 福 神
巡 り
住所
1.恵比寿熊野神社港区麻布台
2-2
*← 〃← 〃
2.大黒天六本木朝日神社港区六本木
6-7-14
9.栄久山大法寺港区元麻布
1-1-10
3.毘沙門天麻布氷川神社港区元麻布
1-4-2
*← 〃← 〃
4.弁財天末広神社昭和20年焼失10.宝珠院港区芝公園
4-8-55
5.布袋尊久国神社港区六本木
2-1-16
*← 〃← 〃
6.寿老人櫻田神社港区西麻布
3-2-16
*← 〃← 〃
7.福禄寿天祖神社港区六本木
7-7-7
*← 〃← 〃
8.宝船竹長神社昭和20年焼失11.十番稲荷神社港区麻布十番
1-4-6















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2012年10月30日火曜日

エノケンの麻布

大正期の十番商店街
「十番わがふるさと」より
喜劇王と呼ばれたエノケンこと榎本健一は明治37年(1904年)青山に榎本平作の長男として生まれました。
父の平作は、青山南町で、 「入間屋」という鞄店を営んでおり、 その後笄町で新しくせんべい屋「武蔵野せんべい」を開業し、やがて麻布十番の雑色通り(現在の十番会館あたり)に移転しました。笄小学校の在校時から「20日ネズミ の健ちゃん」と言われ、すばしっこいガキ大将だったというエノケンも、店の移転と共に十番に住みましたが、南山、東町、埼玉県川越 の小学校、麻布尋常小学校と転々としたそうです。(一説によるとあまりの”腕白”だったので東町小学校を放校になったとも言われます。)
その腕白はエノケンが先妻の子で、後妻には6人の娘がいたため、寂しさを紛らわすためであったとも言われます。エノケンはこの 後妻にはなつかず、父親病気の時、後妻の作った焼き魚を美味しそうに食べているのを見て、自分はもっと父を喜ばせることが出来ると、 父が大切にしていた鑑賞魚のランチュウを焼き魚にして父に大目玉をくらったという逸話が残されています。そんなエノケンには父親も相当手を焼いたと見え、 死を目前にした父はエノケンを枕元に呼んで「おれの寿命を半分縮めたのは、お前のせいだ。」と言ったそうです。そして当のエノケンも、その時の仕返しと思ってか、死を目前にしたときに父の後妻の顔を見たとたんにむっくり起き上がって「このバカヤロ-!」と怒鳴ったそうです。

あの、「♪おれは村中で一番 モボだと言われた男♪という曲「洒落男」は、白金の叔母ところに手伝いに行った時、夜になると良く物干し台で練習 していたそうです。その時、時計の振り子でリズムをとっていたとわれています。また関東大震災の時は、避難してくる浅草芸人たちを十番で自ら炊き出しをして救援したといわれています。

その後、古川緑波・徳川夢声らと「笑いの王国」、そして「エノケン一座」を結成し喜劇界を席巻してゆくエノケンでしたが、 以外にも本人はこの「エノケン」と呼ばれるのを嫌がったといいます。客やファンがエノケンと呼んでも、何事も無ありませんでしたが、同業者や関係者からそう 呼ばれると返事をしなかったといいます。昭和35年に紫綬褒章を受章し、翌年天皇陛下から園遊会に招待されたエノケンも、昭和45年1月7日肝硬変 で帰らぬ人となりました。享年65歳。墓は榎本家の

長谷寺の榎本健一墓
菩提寺西麻布2丁目の長谷寺にあり戒名は「殿喜王如春大居士」そして、墓碑には 「従五位勲四等喜劇王エノケンここに眠る」と記されています。


<追記>

腕白から近隣小学校を転々としていたとされるエノケンですが、南山小学校第37期生・大正5(1916)年卒業者に榎本健一の名前が記されています。





十番稲荷神社にはエノケン(榎本健一)寄進の鳥居がありました。この鳥居は社の建て替えに伴い老朽化により失われてしまいましたが、現在の石華表(鳥居)左足裏面には寄進を記念した銅板が埋め込まれています。また右足裏面には同じく クラウンガスライター(市川産業株式会社)社長で麻布出身の市川要吉氏の銅板が埋め込まれています。そして社務所前にある狛犬下部には、寄進者で麻布十番育ちの大正・昭和期のアイドル歌手「音丸【おとまる】」さんの本名「永井満津子」が刻まれた銅板が埋め込まれています。エノケンと音丸は坂下町の住民でエノケンの実家は雑色通り(現在の十番会館付近)で「武蔵野せんべい」、音丸の実家は網代通り(現在の十番郵便局付近)で「下駄屋」を営んでいました。またこの下駄屋店前の通り(網代通り)が十番通りに突き当たる場所にはかつて十番通り下水に架けられた「網代橋」があり大正期の下水の暗渠化に伴い廃止されました。

この網代橋の欄干が十番稲荷かえる像正面に保存されています。ちなみにエノケン(榎本健一)は1970(昭和45)年1月永眠し麻布長谷寺で、音丸は1976(昭和51)年1月に永眠し、品川区 天妙国寺で眠っています。










エノケン・市川要吉が寄進した立て替え前の
十番稲荷神社石華表(鳥居)-十番未知案内サイト提供








十番稲荷神社
市川要吉銅板
十番稲荷神社
榎本健一銅板
























十番稲荷神社
音丸寄進狛犬
十番稲荷神社
音丸寄進狛犬





















十番稲荷神社音丸銅板






















品川区天妙国寺「音丸」こと永井海津子墓所














同墓所に設置された「船頭可愛や」歌碑















★関連項目

  ・十番稲荷神社

  ・音丸

  ・市川要吉











2013年1月1日火曜日

港七福神

明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

麻布には多数の寺社があり、大晦日からお正月には除夜の鐘つきや初詣など多くの参拝客で賑わいます。

十番稲荷神社の七福神と宝船像
その中でも七福神巡りはお正月の風物詩として麻布に定着していますが、そもそも、麻布地区には、かつて昭和8年から15年まで行われた「麻布稲荷七福神詣」といわれる七福神めぐりがありました。そして、現在行われているのは戦後この麻布稲荷七福神詣を基本として昭和41年に復活した「港七福神巡り」です。 これにより弁財天を祀る宝珠院をのぞいて麻布域にあります。

実は「七」という名数と麻布は縁があり、他にも麻布七不思議があります。この七福神や七不思議は同じような地形を持った地域であり、後に港区を形成することになる赤坂地区や芝地区にはありません。
おそらく麻布の地形は特に山塊の張り出しに伴う複雑な地形が多くあり、その上部と下部は坂によって異空間の通路となり、やがてそこに様々な不思議話や信仰対象などが生まれたものと私は想像します。






●麻布稲荷七福神(昭和8年~15年)

1.熊野神社-恵比寿
2.朝日神社-大黒天
3.氷川神社-毘沙門天
戦前の麻布稲荷七福神巡拝券
4.末広神社-弁財天
5.久国神社-布袋尊
6.櫻田神社-寿老人
7.天祖神社-福禄寿
----------
8.竹長神社-宝船
◎港七福神(昭和41年~現在)

1.熊野神社-恵比寿
2.大法寺-大黒天
3.氷川神社-毘沙門天
4.宝珠院-弁財天
5.久国神社-布袋尊
6.櫻田神社-寿老人
7.天祖神社-福禄寿
----------
8.十番稲荷-宝船


麻布稲荷七福神(昭和8年~15年) → 港 七 福 神(昭和41年~現在)
No. 七福神 麻布稲荷七福神 住所 No. 港 七 福 神 住所
1. 恵比寿 飯倉熊野神社 港区麻布台2-2 * ← 〃 ← 〃
2. 大黒天 六本木朝日神社 港区六本木6-7-14 9. 栄久山大法寺 港区元麻布1-1-10
3. 毘沙門天 麻布氷川神社 港区元麻布1-4-2 * ← 〃 ← 〃
4. 弁財天 末広神社 昭和20年焼失 10. 宝珠院 港区芝公園4-8-55
5. 布袋尊 久国神社 港区六本木2-1-16 * ← 〃 ← 〃
6. 寿老人 櫻田神社 港区西麻布3-2-16 * ← 〃 ← 〃
7. 福禄寿 天祖神社 港区六本木7-7-7 * ← 〃 ← 〃
8. 宝船 竹長神社 昭和20年焼失 11. 十番稲荷 港区麻布十番1-4-6




1.恵比寿.....飯倉熊野神社




・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の恵比寿

・祭神:素戔嗚尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊

・創建:養老年間(717~724)

芝の海辺に創建されのちに現地に遷座した。文明年間太田道灌により再建され宝物が寄進されたという。 15世紀半ばにはこの神社下の平坦な土地を「勝手が原」と呼び、太田道灌が江戸城より出陣する際に兵馬を整えた所であると言う。御神紋が八咫烏のためJリーグ関係者の参拝もあるという。

港七福神巡り御朱印
2.毘沙門天.....麻布氷川神社


・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の毘沙門天
神社の詳細はこちら。





3.布袋尊.....久国神社




・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の布袋尊

祭神:倉稲魂命

創建:不明

千代田村紅葉(現在の皇居)に鎮座していたが長禄3(1457)年、太田道灌の江戸城築城に伴い溜池に遷座。道灌が久国太刀を寄進したためにこれを社号とした。寛保1(1741)年現在の地に遷座。
4.寿老人.....櫻田神社




・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の寿老人

神社の詳細はこちら。



5.福禄寿.....六本木天祖神社(龍土神明宮)



・麻布稲荷七福神・港 七 福 神の福禄寿

祭神:天照大御神・伊邪那伎命・伊邪那美命

創建:至徳1(1384)年

芝西久保、城山で創建し太田道潅が社殿を再建。元和年間(1615~24年)江戸城拡張に伴い当地に遷座。
               神社の詳細はこちら。

6.大黒天.....栄久山大法寺



・港 七 福 神の大黒天

寺の詳細はこちら。
7.弁財天.....宝珠院



・港 七 福 神の弁財天

芝公園にめり込むような敷地を持ち、増上寺の真裏にあたる。むかし、このあたりに小さな池があって、その中ほどに弁才天が祭られていたが、池の埋め立てに伴って弁才天は宝珠院に移された。
8.宝船.....十番稲荷神社



・港 七 福 神の宝船

宝船の巡拝所で、宝船版画の紙絵馬を授与している。

神社の詳細はこちら。

★麻布稲荷七福神巡り


○大黒天.....六本木朝日神社(日ヶ窪稲荷)


・旧麻布稲荷七福神の大黒天

・祭神:倉稲魂大神・市杵島姫大神・大國主大神・大山祇大神・北野天神

・創建:天慶年間(940年)

付近の鎮守として創建され織田信長の息女・朝日姫が草庵に祀った稲荷神像を合祀し、日ヶ窪稲荷と称した。明和年間(1764~72)に朝日稲荷と改め、明治期に朝日神社と改称。

○弁財天.....末広稲荷神社(戦災により焼失)


・旧麻布稲荷七福神の弁財天
・昭和20年の空襲により焼失し、戦後に竹長稲荷と合祀され十番稲荷神社として再建された。

神社の詳細はこちら。


○宝船.....竹長稲荷神社(戦災により焼失)


・旧麻布稲荷七福神の宝船
・昭和20年の空襲により焼失し、戦後に末広稲荷と合祀され十番稲荷神社として再建された。













より大きな地図で 初詣・港七福神・麻布稲荷七福神マップ を表示

























2016年8月10日水曜日

松頭山 本善寺と末広神社



本善寺と末広神社
先日(2016.08.07)の散歩で訪れた高輪台駅方面からJR五反田駅に向かう坂途中に見つけた(品川区東五反田3-6-17)日蓮宗の寺院「松頭山 本善寺」さん。このお寺さんは慶長十三(1608)年に創建された古刹で、1945(昭和20)年までは創建地である麻布十番にありました。

本善寺は十番稲荷神社の前身で麻布坂下町の鎮守社でもあった末廣神社の南隣にあり、住所は麻布一本松町九番地(現在の麻布十番2丁目4あたり)でした。この寺の名残を示すものとして、十番商店街裏手から大黒坂へと登る小坂「七面坂」がありますが、これは本善寺境内に安置されていた「七面明神坐像」があったためついた坂名です。この「七面明神坐像」は日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神とされており、参詣者も多かったので昭和40年台まで「九の日」には縁日が開催されていました。

本善寺について江戸期のお寺調べのバイブルともいえる「御府内備考続編(通称:寺社備考)」には境内の建物配置図が掲載されており、この「七面明神坐像」は本堂とは別に山門の左手、拝殿奥に安置されていたことがわかります。さらに本善寺の所属は「上総国平賀本土寺末」と記されており本土寺は千葉県松戸市平賀63に現存しています。

そして隣接する末広稲荷神社についてもその関連性を調べるため「御府内備考続編(通称:寺社備考)」を見てみましたが、関連性を調べるため....
としたのはスバリ隣接する末広稲荷神社と本善寺は別当寺の関係ではないかということを調べるためでした。

しかし末廣神社の項目には「別当寺」の記述が見あたらず、これはかなり奇異な事に感じました。
「御府内備考続編(通称:寺社備考)」は江戸文政年間(1818年~1830年)に書かれた「文政町方書上」とほぼ同時に書かれたもので、江戸の寺社の総てが自主的に幕府に提出した寺社の来歴・概要・敷地図などを網羅した書籍なので、その記述の先頭にその寺社の所属と神社の場合にはその社を管理する別当寺が書かれているのが普通です。江戸期の神社は社格で「官幣大社」などの大型神社(神宮・大社など)以外は寺社奉行の管理下、寺院の管理下に入ることが決められおり、管理する寺院には「別当」と呼ばれる社僧(神官を兼務する僧で社僧の長が別当と呼ばれ、別当の寺を別当寺としました。)

江戸期の本善寺と末広神社敷地
一例を挙げると、麻布氷川神社の別当寺は当時麻布氷川神社境内に設置されていた古義真言宗の「冥松山 徳乗寺(院)」という寺院で芝愛宕の真福寺(港区愛宕1−3−8に現存)の末寺でした。そしてこの徳乗寺は享保20(1735)年まで北日ヶ窪にあり、現在の六本木朝日神社の別当寺でもありました。余談ですが、この麻布氷川神社と別当寺であった「冥松山 徳乗寺(院)」の関係を今に伝える物として、麻布本村町が麻布氷川神社例祭で神酒所に展示する「獅子頭」の解説に残されています。この解説板には獅子頭が文久二(1862)年に製作された時の世話人名筆頭に「氷川徳乗院現在栄運」とあり、氷川神社を管理していた社僧(別当かもしれません)栄運の名前が記されています。また、廣尾稲荷神社は明治期まで麻布宮村町狸坂下(旧麻布保育園敷地と隣接空き地)にあった「法隆山 五光院 千蔵寺」が別当寺であったため、別名「千蔵寺稲荷」とも呼ばれていました。

このように神社は別当寺により管理されるのが普通であった江戸期に、別当寺が無い(別当・社僧が神官ではない)神社が末広稲荷神社であったようです。そして「御府内備考続編(通称:寺社備考)」の末広稲荷神社の項には不思議な記述が見えます。


○神主中村日向(吉田家門人)

元禄十五(1702)年先祖中村宮内え神主職初而被仰付、夫ゟ(より)七代相続仕候、然ル処先年寺社奉行所ゟ(より)御直触被仰付候、代々致触頭来候、享保六(1721)年類焼、其後度々之類焼ニ而書物等焼失仕、其上私幼年相続ニ而委細之儀相分り不申候処、年々心掛置且申伝抔と申儀承り候節々留置候分、此度相認申候、但社家等も明和五(1768)年類焼後中絶仕候、
上記文章は、中村日向という末広稲荷神社の神官(神主)が元禄十五(1702)年に末広稲荷神社の神官(神主)となった先祖の事を記しており、それ以来中村家が代々末廣神社の神官を務めていたことがわかります。そして、この中村家は「吉田神道」の門人でした。

麻布十番の七面坂と
本善寺があったあたり

吉田神道とは江戸期に隆盛を極めた神道の一派で徳川幕府が寛文五(1665)年に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたいわば幕府御用達の神道で、当時神道界に絶大な権限を持っていたようです。この吉田神道と末廣神社の関係について現在の十番稲荷神社社家に伺ったところ、

  • 隣接していた本善寺は別当寺ではなく、末広稲荷神社は江戸期には珍しい「別当寺の支配を受けない専門の神官(神主)を置く神社」であった。

  • 当時の末広稲荷神社は江戸府内でも有数の吉田神道神社で、数多くの末社を従えていた。

  • 神官であった中村家については代々の記録が残されている。

  • 明治に入ると天皇家を中心とする本来の神道が隆盛したため、幕府の庇護を受けていた吉田神道系の神社であった末広稲荷神社は主流から外れ大変な苦労をした。

七面坂 坂下

七面坂 坂標

とご教示いただきました。

このように敷地が隣接しながらも別当寺と支配下神社という公式から外れた関係であった本善寺と末廣神社も1945(昭和20)年の空襲により焼失し、末広稲荷神社は永坂下にあって戦時中に建物強制疎開により破却された「竹長稲荷神社」と合祀され、現在の十番稲荷神社として遷座します。
また本善寺の「祖師像」と「七面明神坐像」は焼失前に持ち出され、同じ日蓮宗で当時戦災を免れていた麻布宮村町の安全寺に寄宿します。しかし、この安全寺も後の空襲により焼失し現在も坂名に残る「七面明神坐像」も「祖師像」も残念なことに焼失してしまいます。

1947(昭和22)年に麻布十番より現在地(品川区東五反田3-6-17)へ移転再建され現在に至っていますが、実は現在も「七面明神坐像」も「祖師像」が寺に安置されています。これは、小岩本蔵寺住職馬場玄諦師の好意により、本蔵寺二体の祖師像の内の一体をゆずられたのが現在の祖師像とのことで、さらに「七面明神坐像」は二の橋の寺院からお預かりしているもの(本善寺談)とのことです。


麻布本村町所有の獅子頭解説板
に記された麻布氷川神社社僧「栄運」



<麻布区史 末廣神社>

○末廣神社(村社) 坂下町四一
祭神思姫命・市杵島姫命・満津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七・十八日。

慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱(称)があった。
又その枝葉さかへ梢の繁茂しでゐ(うぃ)るところより末廣の木と呼び、これが社号の起源となったと云ふことである(再考江戸砂子)。
明治六年七月五日村社に指定され、明治二十年四月末廣稲荷神社の社号を現稱(称)に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。




<麻布区史 本善寺>

◎松頭山本善寺 一本松九 下総平本土寺末

一書正東山に作る。慶長十三年三月草創、本善院日東聖人(慶長十五年二月十五日寂)の開山である。境内に七面社がある。
七面天女を安じ俗に麻布十番の七面天と呼び、一・九・十九・二十九の縁日には賽者が多い。





<七面坂 坂標>

坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
設置者: 港 区
設置日: 平成九年三月




★参考サイト

現在の本善寺山門

十番稲荷神社オフィシャルサイト

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

日蓮宗東京都南部宗務所サイト-松頭山 本善寺

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

Blog DEEP AZABU-末広池

Blog DEEP AZABU-麻布氷川神社

Blog DEEP AZABU-本村町獅子頭

Blog DEEP AZABU-廣尾稲荷神社

・Blog DEEP AZABU-宮村町の千蔵寺

Blog DEEP AZABU-麻布近辺の縁日

wikipedia-吉田神道

wikipedia-別当寺
現在の本善寺

wikipedia-社格

wikipedia-近代社格制度
























現在の本善寺




2015年8月10日月曜日

がま池「上の字」札の効能書き

先日インターネットで古書を販売するサイトで「麻布」で検索すると、意外なものが引っかかりました。それは上の字効能書き「湯火傷呪(まじないは旧字)」と書かれており、五千円という価格から一瞬躊躇をしましたが....やっぱり購入しました。

数日で商品は到着し中身を確認すると、経年劣化のためか茶色く変色し、一部に虫食い穴が開いている18cm×13cmほどの小さな紙片が入っていました。
文面を確認すると最後の方に麻布一本松山崎藩中  清水(清は旧字)
とあり、がま池「上の字札」の効能書きに間違いありませんでした。

しかし、文面を読み下す読解力が私にはなく、紹介により郷土資料館にお願いしようとしましたが、担当者の方がお忙しくて連絡がつかず、諦めました。

後日、この資料を現在上の字札を領布している十番稲荷神社にコピーを奉納しようと訪れると、社家の方から意外なお話をお聞きしました。その内容は、

当社にも上の字札と効能書きのコピーが数種類あり、今回私が持ち込んだものはそのいづれとも合致しない、新しい種類のもの。との事でありがたいことに十種類もの効能書きなどをおわけ頂きました。
残念ながらそれらの上の字札は十番稲荷神社にもコピーのみで現物がないため、所有者の許諾を得ることが難しいのでここでの掲載は遠慮することとします。

この十種類プラス私が所有するものをあわせると上の字札の効能書きは十一種類となりました。
そして十番稲荷神社から分けて頂いた効能書きにはありがたいことにすべてに読み下しが添付されており、それらを参考に私の所有する効能書きも、なんとか読み下すことに成功しました。
湯火傷呪(やけどのまじなひ)




上記読み下し


この十一種類の効能書きに書かれていることを比較すると下記のようになります。






この表を要約すると、
  • タイトルに「湯火傷呪(呪は旧字)」と書かれたものが9種類、「湯火傷守」と書かれたものが2種類。
  • タイトルに「ふりがな」があるものは9種類、無いものが2種類。
  • 効能書きの項目が「二つ」のものが2種類、「三つ」のものが1種類、「七つ」のものが8種類。
  • 発行場所が「麻布一本松山崎藩中」が6種類、山崎邸内が1種類、「東京麻布一本松通り西町」が1種類、「東京麻布区山元町三十五番地」が1種類、「東京府麻布区」..以下判読不明が1種類、「成羽藩」が1種類、「麻布一本松」が1種類。
  • 発行元が清水(清は旧字)が8種類、「邸内」が1種類、「林氏」が1種類、「翠露堂」が1種類。
  • 領布開始月日が「文政四(1821)年九月より出」が8種類、「明治二巳(1869)年」が1種類、期日の記載がないものが2種類。
となっていました。これらから解ることは......、

  • 成羽藩・山崎藩の成立は明治維新の官軍に味方した功績による「高上げ」で元の旗本(交代寄合)五千石から一万二千石あまりの大名となり立藩したことから、これらの効能書きは明治時代のものとなることがわかります。(1、2、3、4、6、9、11)
  • 領布開始月日が「明治二巳年」となっている6も明治時代のものであることがわかります。
  • タイトルが「湯火傷守」となっている7、8も東京府麻布区となっているので、麻布区の誕生は1878(明治11)年であることからこれらも明治期のものであることが解ります。
  • そして効能書きの項目については、霊験あらたかな上の字札の効能が時代を経ることで減少するとは考えにくく、当初よりも効能が増えていったと考えるのが妥当かと思われます。つまり(5、6)→(2)→(その他)と考えられます。
山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形
これらからこの11種類のがま池上の字札の効能書きのうち、少なくても10種類については明治期に領布されたものであると想像されます。また残る1種類(5)についても明治以前であるという確証は無く、明治以降である証拠が記されていないだけです。
また、領布開始日についてもこの日に札が領布されたことを示すものではなく、初めて領布された期日を記しているものと思われます。

そして発行者について「清水家」は山崎家が旗本であった時代からの江戸藩邸の重臣であり、
「備中成羽藩史料」という書籍の中にも「山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形」という文章の中にこの清水家と思われる名が記されています。

また発行元としてもう一つ個人名「林氏」がありますが、こちらも山崎家の高官であった可能性が高く、この林氏について専門に研究されている方がいることを十番稲荷神社社家からお伺いしました。さらに「翠露堂」については全くの不明でその解明が待たれます。

これら11種類の効能書きを見てきて非常に大きな疑問が残された。
がま池に大ガマが現れそれから上の字札の領布が始まったことが伝えられていますが、
その大ガマ出現したのは、





となっており、いずれも江戸末期のことでした。しかし、11種類の効能書きには江戸期のものがほぼ一つもありません。このことから.......がま池の上の字札の領布が始まったのは明治期になってからではないかという疑問です。

しかし、一方では江戸末の文化・文政期には邸内社信仰が大流行し、

文化十四年1817年 讃岐丸亀藩-虎ノ門金比羅宮の爆発的な隆盛
文政   元年1818年 久留米藩有馬家-赤羽橋 水天宮の大流行
文政   四年1821年  交代寄合(旗本) 山崎家 がま池に大ガマが出現?~上の字札領布のはじまり


というきわめて自然な流れで大身旗本の副職(アルバイト?)の成立が想像されます。

このがま池上の字信仰の隆盛は明治期であると思われ、「幕末明治女百話」では、


山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町の 、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、 八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を 貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い 事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った仁ひと ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入で、学費が つづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。

モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって 火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が
癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。
ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、 ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだとよく話してでした。
麻布区山元町三五番地

として上の字札の売り上げが莫大であったことを伝えます。
この清水家について廃藩置県で成羽藩が解体されて以降、麻布区山元町三五番地で上の字札の領布を行っていたそうですが、上の字札を書くにあたって、がま池の水ではなく井戸水が使用されていたことがわかります。この山元町の清水家跡は現在元麻布ヒルズ敷地となっています。ちなみに現在十番稲荷神社が領布している「上の字御守」はマンション管理会社の許諾により年に一度がま池の水をくんで書かれているとのことです。


また廃藩置県以降上の字札の領布を山崎家から委譲された清水家は、1927(昭和2)年に郷里の栃木県足利市に引きあげる際に、十番稲荷神社の前身である末広稲荷神社に上の字札の販売を委譲します。

これにより末広神社が上の字札の領布を始めることとなりますが、多くの書籍等には末広稲荷神社の上の字札授与が昭和2(1927)年からはじめられたと記されています。しかし十番稲荷神社で特別にお見せ頂いた社記(神社の業務日報?)複写には、

「昭和4(1929)十一月四日ヨリ社頭ニ看板ヲ掲ゲ参拝者ニ授与ス」

と、明確に記されています。







上の字札領布の変遷
江戸期~明治4(1871)年備中成羽領主・交代寄合(旗本)山崎家が自邸がま池池畔で領布
明治期~昭和2(1927)年清水家(成羽藩山崎家家令)が山元町三十五番地(現在の元麻布ヒルズ辺)で領布
昭和4(1929)年~昭和20(1945)年末広稲荷神社が領布
平成20(2008)年~現在十番稲荷神社ががま池の水を使用して領布。(十番稲荷神社は建物強制疎開により取り壊された末広稲荷と竹長稲荷が合祀)





現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」








現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」と効能書き


このようにがま池の大ガマ伝説を元にした「上の字御守」は変遷を重ねながらも現在も領布が続けられています。


◆関連項目

DEEP AZABU 麻布七不思議-がま池

十番稲荷神社公式サイト








★20150811追記-井上円了が否定した「上の字」信仰


このがま池の大ガマ伝説を元とする「上の字」信仰について明治期にその効能を完全否定する人物が現れます。
その人物の名は井上円了といい、東洋大学の創立者であり超自然現象を哲学的な立場から解明しその怪異性を否定する「お化け博士」、「妖怪博士」と呼ばれた人物です。
そして、この井上円了は「こっくりさん」(テーブル・ターニングTable-turning)の謎を科学的に解明した人物としても有名で、2011年10/12歴史秘話ヒストリア「颯爽登場!明治ゴーストバスター~“妖怪博士”井上円了~」というタイトルで放送されました。


また、井上円了は妖怪研究に関する書を数多く著しており、青空文庫にも数多く収録されています。その著書の一つ「迷信解」の中ではこのがま池上の字札に触れており、

(引用はじめ)~ほかにもこれに類したる例がある。すなわち、「東京麻布に火傷やけどの御札を出す所あり。その形名刺に似て、その表に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所をさすればたちまち癒ゆるという。ある人、御札の代わりに己の名刺を用いしめたるも同様の効験あり」との話のごときも、病患の癒ゆるは御札の力にあらざることが分かる。~(引用終わり)
と記して上の字札の代わりに名刺を使って患部をさすっても同様の効果があったとして上の字札の迷信性を強調しています。
この円了の対局にいたといわれているのが民俗学者の柳田國男です。柳田は民俗学的見地から「非科学的な迷信も共存すべき」と唱えることになります。


○井上円了
哲学的見地から「妖怪」を解明することにより其の存在を否定。妖怪排除のための妖怪研究。→迷信の排除。



○柳田國男
民俗学的立場から「妖怪」を肯定。民間伝承の重要性から妖怪も自然の一部としてとらえていた。→迷信との共存。


という構図になり、両者は思想的には対立関係にありました。


















2017年6月4日日曜日

青物横丁「天妙国寺」に葬られた麻布辺




顕本法華宗別格山寺院
鳳凰山 天妙国寺
先日朝さんぽの途中「今朝のお詣り」で立ち寄らせて頂いた、青物横丁の顕本法華宗別格山寺院「鳳凰山 天妙国寺(1972年までは妙国寺)」さんで出会った三つのお墓。


・お祭り佐七

・桃中軒雲右衛門

・音丸


☆その1-お祭り佐七(元久留米藩士~め組鳶火消し)

本堂にお詣りの後には久しぶりの墓域お詣り。随分久しぶりだったので「お祭り佐七」の墓域が移動していました。

落語「お祭り佐七」の筋立ては元久留米藩士・飯島佐七郎は天神真揚流柔術の免許皆伝で腕が立っての男前から女達が放っておかない。しかしそれがアダで浪人になり、め組の頭清五郎の家にころがりこんだ。 お祭り佐七が鳶になるまでの話。なぜ”お祭り”なのか小さんは、木遣りがうまく方々の祭りに招かれたからだと。

天妙国寺本堂
め組は芝大門、神明宮界隈の受け持ちで増上寺門前の火消しも務めていましたが、佐七の主家であった久留米藩有馬家の上屋敷は赤羽橋にあり、こちらも増上寺「火の御番」を拝命している家柄でした。このことから久留米藩有馬家上屋敷には江戸で一番高い火の見櫓の設置が許され、同じ邸内にあった水天宮と共に数多くの錦絵の題材となっています。

この火の見櫓は現在の東京タワーやスカイツリーのようにランドマークタワーの役割も果たしていたものと思われます。
そして少し横道にそれますが、久留米藩上屋敷にはもう一つの名物がありました。それは将軍綱吉から拝領した犬を登城などの行列の先頭に連れ歩き「有馬の曳き犬」として
有名になります。そして後年、上屋敷西側に両国久留米から分祀した「水天宮」を祀った際に、この曳き犬の故事から犬が安産の多産であることから
明治期に有馬家と共に水天宮が現在の日本橋蛎殻町に移転後も、現在まで「犬帯」の領布が行われています。

佐七の父親とめ組の頭領「清五郎」はこのような増上寺消火の関係からの知り合いで、その清五郎を頼って宅の二階に居候を決め込むという筋立ては、理にかなっていると思われます。
また噺には佐七とめ組の若い衆が品川遊郭に乗り出し、さんざん遊んだ末に佐七が居残りを決めるというくだりも含まれています。

その他佐七については人形浄瑠璃や歌舞伎などにもなっており、「絲桜本町育」「小糸・佐七情話」、「心謎解色糸」、「江戸育於祭佐七」などが演じられています。
そして落語も今回紹介した「お祭り佐七」の他に「雪とん」という噺もありますが両者の間に関連性はありません。



お祭り佐七墓標
俗名 熊木佐七






佐七の主家久留米藩有馬家
火の見櫓取り壊し
(明治初期)

久留米藩有馬家上屋敷「火の見櫓」
を模した麻布中ノ橋欄干



名所江戸百景 増上寺塔赤羽根
歌川広重






※歌川広重の「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」は①増上寺五重塔から見た構図ですが、中央下部に②赤羽橋、そして久留米藩有馬家上屋敷の③火の見櫓と④水天宮(赤い幟の場所)が描かれています。当時の錦絵は大名家名をタイトルにすることは幕府から堅く禁止されていましたので、上記のタイトルになっています。








東都名所芝赤羽橋之図
安藤広重




★BLog DEEP AZABU-有馬家化け猫騒動
http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E4%B9%85%E7%95%99%E7%B1%B3%E8%97%A9












☆その2-桃中軒雲右衛門(芝新網町)


さらに佐七の墓(供養墓でしょうか?)の北側近くに桃中軒雲右衛門の墓所があります。雲右衛門は浪曲中興の祖で「浪聖」とも謳われた明治期の浪曲の大看板で雲右衛門のひ孫・岡本和明著の「俺の喉は一声千両」によると雲右衛門の生まれた場所は江戸市中でも最も貧しい人たちが住まう地域であった芝新網町(現在のJR浜松町付近)であったそうです。

当初の浪曲師はこの芝新網町出身者が多ようで、当初落語、講釈などからも差別され定席での公演が出来ずに、地面にむしろを敷いただけの簡易的な小屋での営業しか出来なかったそうです。

この「桃中軒雲右衛門」という芸名ですが、本来は父から譲られた「吉川繁吉」を名乗って舞台に立っていましたが、人妻であった相方三味線弾きの「お浜」と駆け落ちをしたため「吉川繁吉」を名乗ることを禁じられてしまいます。そして数年後に再び東京へと戻る途中沼津で買った駅弁の包み紙に書いてあった屋号「桃中軒」をとっさに芸名として名乗ることに決めました。
名前の「雲右衛門」は、昔懇意にしていた相撲取り「天津風雲右衛門」をそのまま拝借したようです。

私の知り合いである麻布狸坂下のダイニングバー「あおいひみつきち」店主が4月に投稿した画像に現在は駅弁と駅蕎麦販売となった「桃中軒」の御殿場支店の屋号がそのまま写り込んでいましたので許可を頂き、引用させて頂きました。

★青いひみつきちオフィシャルサイト
 http://www.aoihimitsukichi.com/

★青いひみつきちfacebook
  https://www.facebook.com/aoihimitsukichi/

★桃中軒オフィシャルサイト
 http://www.tochuken.co.jp/


このように芸名を「桃中軒雲右衛門」として東京に戻った雲右衛門はやがて大看板の浪曲師となり、落語・講釈などからの差別も少なくなっていったようです。
そして、その人気にあやかって世に言う「桃中軒雲右衛門事件」という著作権を無視した模倣レコードが大量に販売された事件となります。
その後、桃中軒風右衛門を名乗る実弟を亡くすと、苦労をともにした相方であり妻の「お浜」も肺結核で失います。その際自邸の会ある芝公園から品川天妙国寺まで葬列を組み、多くの見物人が出たといいます。そして天妙国寺での葬儀の後、墓域に埋葬されます。
そして、さらにその後、本妻のお浜と共に自邸に住まわせていた妾のお玉もお浜の看病から結核に罹患し死去。
JR御殿場駅の駅蕎麦「桃中軒」
撮影:ダイニングバー
「青いひみつきち」小堀 裕一氏
その後も隆盛を極めた桃中軒雲右衛門自身も妻から結核がうされていたことにより同じ病を患い、思うように舞台に上がれなくなります。しかし、それまでの浪費癖は直らず、やがて結核の進行により1916(大正5)年11/7、東京府外高田村(現在の豊島区南部)の療養先において四四歳の若さで世を去ります。

その時には雲右衛門は財産のほとんどを失い、残されたものはわずかな現金と毛皮が数枚のみで、葬儀費用も無かったそうです。

桃中軒雲右衛門の孫弟子の一人には、あの....村田英雄がいるそうで、三波春夫も「桃中軒雲右衛門とその妻」を唄っています。


★wikipedia-桃中軒雲右衛門
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80

★桃中軒雲右衛門事件
https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/56/8/56_552/_html/-char/ja/

★youtube-桃中軒雲右衛門
  https://youtu.be/J2yZCBFLW9o

★俺の喉は一声千両: 天才浪曲師・桃中軒雲右衛門-岡本 和明(桃中軒雲右衛門のひ孫) 著
https://www.amazon.co.jp/%E4%BF%BA%E3%81%AE%E5%96%89%E3%81%AF%E4%B8%80%E5%A3%B0%E5%8D%83%E4%B8%A1-%E5%A4%A9%E6%89%8D%E6%B5%AA%E6%9B%B2%E5%B8%AB%E3%83%BB%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%92%8C%E6%98%8E/dp/4103245328









天妙国寺本堂脇に設置された桃中軒雲右衛門墓所解説板




桃中軒雲右衛門墓所への案内碑
「浪曲聖地」と刻まれています

桃中軒雲右衛門墓碑
桃中軒雲右衛門の妻「お浜」の墓碑

仲良く並ぶ桃中軒雲右衛門と妻「お浜」墓碑



浪曲協会建立の顕彰碑
















☆その3-音丸(麻布箪笥町生まれ、麻布十番下駄屋の内儀でアイドル歌手)


アイドル歌手音丸
こと永井 満津子
(wikipadiaより引用)
本名は永井 満津子。麻布箪笥町の生まれ。音丸の芸名は「音は丸いレコードから」から音丸とされます。ヒット曲は「船頭可愛や」など多数。
大正~昭和期の人妻アイドル歌手で、実家は箪笥町のちに麻布十番(現在の十番郵便局あたり)に移転して下駄屋を営んでいました。
夫はこの下駄屋の入り婿となり商いをし、妻はコロンビアレコードのアイドル歌手として活躍しましたが、まもなく離婚します。

当時、婚姻した女性が舞台で活躍することは少なく、客席から「よっ!下駄屋の姉御!」とかけ声がかかると、「よくご存じ!」っと少しもひるまなかったといわれています。

戦前から戦後にかけて音丸は実家の氏神であった「末広神社」へ度々寄進をしており、戦災から復興して竹長稲荷神社と合祀され現在地に遷座した「十番稲荷神社」
の現在も残る「狛犬」は音丸の寄進によるものです。この狛犬は下部に寄進者の名前として音丸の本名「永井 満津子」が刻まれています。
また終戦直後には再婚した夫で弁士の井口静波と共に人気歌手の座長として全国巡業を行いますが途中四国公演で前座を務めたのは美空ひばりでした。

その後人気は凋落し夫の死から約10年後の1976(昭和51)年、世田谷のマンションで急性心不全により死去し天妙国寺に葬られます。

音丸の墓域内には墓碑と共に「船頭可愛や」の歌碑が建立されています。
天妙国寺にレコードに関係する事件(桃中軒雲右衛門事件)を起こされた桃中軒雲右衛と、レコードの隆盛によりアイドル歌手となった音丸が眠っているのは偶然なのでしょうか?








1.昭和11(1936)年 末広神社本殿の音丸(前列中央)
画像提供:山本仁寿氏

2.昭和27(1952)年2月 十番稲荷神社境内
画像提供:山本仁寿氏


3.昭和34(1959)4月十番稲荷神社境内
画像提供:山本仁寿氏



◆画像解説(一部私の解説ですが、主に山本氏ご自身の解説より)
  1. 昭和11(1936)年末広神社本殿の音丸さん。
    神社造営(狛犬建造費用?)に音丸さん1000円の寄付、小野さん畳表の寄付等が書かれています。末広神社は現在の港区麻布十番2丁目4−1にありましたが昭和20(1945)年の空襲で罹災し、戦後竹長稲荷神社と合祀されて永坂町に遷座、現在の十番稲荷神社となります。最前列中央に音丸さん、隣の高齢女性は音丸さんの実母。末広神社の鈴木宮司、 二列目中央音丸さんの左後ろには山本仁作氏、音丸さん実母左後ろには市川産業社主の市川要吉氏。この市川要吉氏は戦後、社名を市川産業からクラウンガスライターと変更し、昭和51(1976)年にはプロ野球球団の命名権を取得したことにより「クラウンライター・ライオンズ」が誕生し、現在の西武ライオンズへとつながります。また、この市川要吉氏は戦後十番稲荷神社の華表(鳥居)を親交のあった榎本健一(喜劇王エノケン)氏と共に寄進します。この鳥居は残念ながら残されていませんが、この鳥居寄進を記念して現在の十番稲荷神社石華表(鳥居)本殿側には市川要吉氏と榎本健一(喜劇王エノケン)氏の銅板プレートが埋め込まれています。
  2. 昭和27(1952)年2月 十番稲荷神社境内。上記音丸さん奉納の狛犬は戦災を免れ今の十番稲荷神社に移築されました落慶の記念写真は昭和27年2月と書かれています。狛犬だけが大きく 後ろの鳥居は木造 神社本殿も小さな木造です神社の後ろがうっそうとした森に見えます。
    狛犬台座が現在のものと違うように思えます。画像にははっきりと「奉納」と「歌謡曲 音丸」と刻まれています。
    中央に音丸さん、右側に鈴木宮司、その隣は山本仁作氏。音丸さんの左には実子のいなかった音丸さんの二人の養女、その後ろには前出の市川産業社主市川要吉氏。
    その他、白水堂、大阪屋、たまりやの各ご主人が写されているようです。
  3. 昭和34年4月 新しい石造の鳥居落慶。
    奉納は日本の喜劇王エノケンこと榎本健一さんとクラウンガスライターの前身市川産業社長市川要吉さん皇太子殿下の御成婚記念として造営されました後ろの本殿も立派に再建され、十番稲荷神社の社号標も建てられました鈴木宮司、石井宮司 お二人で催行されました。最前列中央扁額前の寄進者のお二人。エノケンさんの隣は鈴木宮司、その左隣は山本仁作氏、市川要吉さんの右隣は石井宮司。市川さんの左後ろには音丸さん。エノケンさん、音丸さん、市川さんが一緒に写された非常に珍しい画像です。



★Blog DEEP AZABU-音丸
  http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E9%9F%B3%E4%B8%B8

★wikipedia-天妙国寺
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%A6%99%E5%9B%BD%E5%AF%BA

★wikipedia-音丸
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E4%B8%B8

★youtube-音丸
 https://youtu.be/RIQP0Vgo4ys

★wikipedia-榎本健一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E5%81%A5%E4%B8%80

★wikipedia-クラウンガスライター
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC



十番稲荷神社鳥居銅板
「榎本健一」
十番稲荷神社鳥居銅板
「市川要吉」


























ご紹介した1~3の画像は、麻布十番未知案内サイト管理者で、赤い靴の「きみちゃん像」管理者でもある山本仁寿(きみとし)氏の提供。元十番パティ前の洋品店ローリエヤマモト(現在はパレットプラザ麻布十番店となっている場所にありました)店主。お父上は元・麻布区議会議員の山本仁作氏。
今回山本氏からご提供頂いた画像は昨年終了した「私と町の物語」展に出品して
頂いたほかは 書籍等にはまったく未発表の貴重な画像です。

★山本氏のサイト「麻布十番未知案内」
赤い靴の女の子・岩崎きみちゃんについての逸話が満載です。

      http://jin3.jp/










④-1十番稲荷神社狛犬(右)

④-2十番稲荷神社狛犬(左)

④-3十番稲荷神社狛犬台座の寄進者名「永井 満津子(音丸)」


天妙国寺音丸墓所
墓域内には「船頭可愛いや」歌碑があります







その他にも天妙国寺には「与話情浮名横櫛」の主人公「斬られ与三郎」と「お富」、桃中軒雲右衛門、伊藤一刀斎などの墓があり、当時から名刹であった寺の勢いが偲ばれます。


※画像は一部wikipediaより引用