2013年6月1日土曜日

ベアトの麻布

Felice_Beato
おもしろい本を発見しました。「写真で見る江戸東京」(新潮社)というタイトルで、幕末から明治初期までの江戸の様子が写された写真が載っています。
その中の多くの写真を撮ったのがベアト、フェリックス(フェリ-チェ)・ベアト、1825年ベネチア生まれの報道写真家です。
クリミア戦争の写真展の成功でイギリス国籍を取得。従軍写真家としてパレスチナ、インド、第二次アヘン戦争に参加後、友人ワ-グマンの招きで来日します。

横浜に会社を設立その後20年あまりを日本で過ごし、銀相場の失敗で離日。その後ス-ダン戦争に従軍後、ロンドンに帰り、晩年はビルマで暮らしました。このベアトが撮った写真の中には麻布の写真も多く残されています。

一つは、赤羽橋から中の橋方面の古川と、久留米藩有馬家上屋敷が写されています。もう一つは、三の橋近辺の写真で清らかな古川と、うっそうとした森が写っています。
これならば、たぬきも棲んでいただろうと思われる風景の写真で、あらためて麻布の緑の深さに納得しました。

麻布とはかけ離れるが、すごい写真があります。焼き討ち直前の薩摩藩邸(現品川パシフィックホテル)を写した写真門番が恐い顔でこちらをにらみ、二人の武士が刀に手をかけている。ベアト達は、撮影の許可を仰いだが屋敷の主人は却下した。主人の名は、事実上の藩主久光。

ベアトのアトリエがあった伊皿子長応寺
生麦事件の当事者であり、薩英戦争の敵であるベアトがここを撮ろうとしたのは、なぜでしょう。
(※のちにこの写真は高輪石榴坂ではなく三田綱坂であることが判明しました)。

じっとにらみつける藩士の隙をついて撮られた一枚の写真。そして薩摩藩邸最初で最後の写真。この直後、藩邸は焼き討ちされました。

生麦事件、鎌倉事件など異国人殺害事件が多発していた危険な江戸を、ベアトは撮り歩きます。中には、江戸城を正確に写し取った写真なども含まれていました。

これらの写真から受ける印象は、趣味や娯楽ではなく、報道写真家として、又大英帝国への忠誠心として写されたものだと想像されます。

ベアトのポ-トレ-トは掲載されていませんが、ロバ-ト・キャパのような人だったのだでしょうか。








★追記 2010.05


現在の伊皿子長応寺跡
上記文章を書いてから10年以上が経過した現在、いくつかの変更点が出てきましたので訂正、追記とします。

まず、フェリックス・ベアト(Felix Beato) の出生地はベネチアとしましたが最近の資料ではギリシャの西方、イオニア海に浮かぶイギリス領コルフ島となっています。これによりイタリア人でクリミア戦争後に英国籍を取得とするのは間違いで、生まれながら英国籍を所持していたこととなります。名前も英国籍取得時にフェリックスと改めたという説も、フェリックス(Felix)は通称で、正式には「フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)」が正しいとされています。
また生年も1825年ではなく1834(天保5)年と訂正され、来日は1863(文久3)年3月とされているので29才前後と思われます。当時の日本は攘夷運動の真っ最中でした。






ベアト来日と攘夷・外国人関連の事件
場 所事 象・事 件
安政六(1859)年7月横 浜横浜でロシア士官・水夫刺殺
10月三田済海寺フランス領事館ボーイが切られる
安政七(1860)年1月高輪東禅寺イギリス公使館通弁「伝吉」刺殺
万延元(1860)年12月麻布中之橋アメリカ公使館通訳官ヒュースケン暗殺
文久元(1861)年5月高輪東禅寺第一次東禅寺事件
文久二(1862)年5月高輪東禅寺第二次東禅寺事件
8月神奈川生麦事件
11月横 浜外国公館焼討未遂
12月品 川御殿山英国公使館番人殺害
12月品 川御殿山英国公使館焼き討ち
文久三(1863)年3月横 浜F.ベアト来日。横浜居留地で開業
麻布一之橋清河八郎暗殺される
麻布善福寺アメリカ公使館が襲撃され焼失、公使館は一時横浜に移転
土 佐山内容堂が土佐勤王党の粛清に乗り出す
京 都幕府が朝廷に対して攘夷期限5月10日を約束
5月下 関長州藩、下関で外国商船を砲撃
7月江 戸F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影
薩 摩薩英戦争
9月井土ヶ谷井土ヶ谷でフランス人士官暗殺
元治元(1864)年4月エジプトA.ベアト「スフィンクスの前に立つ遣欧使節」を撮影
10月鎌 倉鶴岡八幡宮でイギリス軍人ボールドウィン少佐・バード中尉が暗殺される
8月F.ベアト4カ国艦隊の下関砲撃に従軍
11月F.ベアト鎌倉江ノ島を撮影旅行
慶応三(1867)年7月長 崎長崎でイギリス人水夫二名暗殺
8月富士山F.ベアト、オランダ総領事と富士登山撮影
慶応四(1868)年1月神 戸神戸事件で外国兵負傷
2月堺事件でフランス兵殺傷
明治四(1871)年6月韓 国F.ベアトアメリカの朝鮮遠征隊に従軍
明治一七(1884)年11月横浜F.ベアト日本を離れる







③SATUMA’S PLACE-EDO
来日直後の1863(文久三)年7月、ベアトはスイス外交団団長で友人のエメェ・アンベール(Aime Humbert)の助力により外交団の臨時随行員となり、当時は外交使節しか許可されない江戸の町に入っています。スイス外交団は同年5月28日オランダ軍艦「メデューサ」で江戸に上陸し伊皿子長応寺に入りますが、将軍不在の江戸では攘夷の嵐が吹き荒れ、オランダ公使館も襲撃対象となっている事を外国奉行村垣範正から告げられ江戸退去を勧められました。しかし、アンベールは公文書による通達以外は応じられないとして勧告を拒否します。すると幕府側から6/2、6/4の2度にわたり公式の通告文書が発行されたので6/8やむを得ず外交団は幕府軍艦エンペラー(蟠竜丸) で横浜に戻ります。この時には生麦事件が未解決であったため英国軍艦は戦備を整え、フランスは横浜に軍隊を上陸させるなど事態は一触即発となりました。この事態が緩和されたのは幕府が英国に44万ドルの賠償金の支払いを決定する6/24であったそうです。

この短い江戸滞在中に写されたのが下に掲載した写真です。これらの中でも③写真の原題は「SATUMA’S PLACE-EDO」であることから現在の品川駅前石榴坂にあった薩摩藩邸(後年勝海舟・西郷隆盛会談が行われた藩邸)を写したものとされてきましたが、港区立港郷土資料館学芸員の松本健氏の調査で、この場所は現在三田2丁目の「綱坂」であることが確かめられました。よって写真右手坂下は現在慶應大学となっている敷地で同じく右手坂上はイタリア大使館、坂の左手は三井倶楽部となっている場所です。同地は江戸期には右手坂下は備前島原藩松平家中屋敷、坂上は松山藩松平家中屋敷、左手は陸奥会津藩松平家下屋敷・日向佐土原藩の島津淡路守の屋敷となっていて、写真の題はこの佐土原藩からとったものと思われます。

現在の同所(綱坂)
この画像の撮影について一行の団長であるエメェ・アンベールは「絵で見る幕末日本」の中で、
~我々は貴族の家がある地域に入っていった。右側には、薩摩公所有の公園が美しい影を落としており、左側は播磨公の屋敷の塀になっていた。その角を曲がると、建物の正面に出た。

ベアトがこれを撮影しようとすると、突然、二名の将校が飛び出して来て、すぐ撮影を中止するよう要求した。メトマン氏が、彼らに、彼らの主人がほんとうにそのようなことを欲しているのかどうか、聞いてみてくれと頼んだ。将校たちはこの要求を入れて、数分後に戻って来て、「自分の屋敷の撮影は、一切許せない」と伝えた。ベアトは、丁寧にお辞儀をして写真機をしまうと、将校たちは、彼の留守中に、すでに二枚撮っていることに気づかず、満足そうに立ち去っていった。

この場の目撃者である警備の役人たちは、メトマン氏の狡猾な成功に親しい賞賛の言葉を送った。 しかし、タイクンの城や墓地を撮影することには、断固反対した。この反対には、われわれも手の下しようがなかった。~


④The Arima Sama....Yedo
と記しており、写真は主人の返答待ちをしている間に隠し撮りされた様子が克明に描かれています。「絵で見る幕末日本」にはその後一行が、中の橋~赤羽橋~増上寺~浜御殿(現在の浜離宮)~愛宕へと進んでゆく様子が記されていますが④はその過程で撮影されたものと思われます。


④は原題「The Arima Sama....Yedo」とされる画像で、現在の三田小山町付近、左手が筑後久留米藩有馬家上屋敷、中央の森が天祖神社(元神明宮)、左が筑前秋月藩黒
田家上屋敷が写されています。画像には道の中央に3人の立ちはだかるような武士と黒田家門にも一人の武士が写されていますが、拡大するとさらに奥の天祖神社の階段で凝視する武士、社の石垣からこちらに向かう武士が二人写されているのがわかります。これらの武士からは殺気とも思える緊張感が伝わってきますが、これはこの写真が撮られた文久三(1863)年前後には攘夷事件が頻発し、同年屋敷付近では清河八

郎暗殺、善福寺襲撃などが行われ、さらに直前には幕府が朝廷に対して攘夷期限5月10日を約束する一方、幕府は各藩の攘夷実行を幕府忠誠の踏み絵として見ており、また諸外国の動向も生麦事件が未解決であったため英国軍艦は戦備を整え、フランス
現在の同所(元神明宮)
は横浜に軍隊を上陸させるなどの時期で、翻弄される諸藩は大混乱の渦中にあるという非常に緊張した時期であったためと思われます。

これらの画像の他にもベアトは庶民の生活を写した画像を多く残していますが、情景写真は港区内だけでも増上寺、溜池、浜御殿、愛宕などを撮影し、さらに多くの江戸市中も撮影しています。そしてこれらの写真は商業写真であると共に当時の状況から考えると、江戸市中を正確に写し取った「情報活動的」な要素も多分に含まれると見るべきだと思われます。

余談ですが、フェリックス・ベアトが日本で活躍していた文久四(1864)年、エジプトで一枚の写真が撮られます。この写真は日本の武士がスフィンクスの前で記念撮影をするという奇妙なものでタイトルは「スフィンクスの前に立つ遣欧使節」、写真には撮影者「A.Beato」のクレジットが記されています。 

エジプトの日本使節団 A.Beato撮影
この写真は当初下関砲撃に従軍した後のフェリックス・ベアトが撮影したものかとも思われましたが、「A.Beato」がフェリックス・ベアトかどうかは不明でした。 しかしこの疑問はフランスの「モニトゥール・ド・ラ・フォトグフィ」1886年6月1日号に掲載された記事により判明したといいます。写真の撮影者はフェリックスの兄で同じく報道写真を手がけていたアントニオ・ベアトで、池田筑後守長発を団長とする第二次使節団(横浜鎖港談判使節団) がエジプトを訪問した祭に撮影されたものであることがわか、ベアトは兄弟で写真家であったことがわかりました。











①古川橋辺から三の橋方面
②麻布山善福寺

















⑤赤羽橋有馬藩邸
⑥光林寺ヒュースケン墓所














⑦高輪東禅寺

④部分拡大























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