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麻布十番の林田小右衛門
昭和の始め頃まで十番に住まいのあった林田家は、徳川家康の六代前から松平家に仕え、家康の江戸入国に付き添って江戸に来た古い家柄だそうです。
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麻布十番商店街 |
家康の江戸入りした直後の江戸では、目障りになったり差し障りがある箇所を修繕取り除けする役でした。ある所で道がぬかるんで目障りであるとの命を受けて散々考えた挙句、道端に稗(ひえ)を蒔く事を思いつき、道端を青々と彩らせたそうです。また江戸城の堀端の松の木も林田小右衛門が植えたものだといわれ、幕末まで林田家が代々無料で植栽管理を受け継いでいました。また大奥の「御能」で使う松飾も林田家の仕事で、松飾の為に保土ヶ谷にそのためだけの松の植林を持っていたそうです。しかし、、幕府からの禄は微禄で三人扶持でしかありませんでした。でもこれは表向きの収入で、その他諸家からの扶持が四百人扶持を下らなかったといい、その生活は豪勢を極めたそうです。
林田家には小右衛門の本家の他に、麻布新門の林田弥右衛門、南日ヶ窪の林田彦兵衛、北日ヶ窪の林田正兵衛の3つの分家がありましたが、いずれも百人扶持ほどの収入があり生活は豊かであったといわれています。
しかし何と言っても本家の勢いが一番で、林田本家は他に手代を六十人も使って大名相手の「高利貸し」を行っていました。これは大名が急場の資金を凌ぐ「時借り」などから莫大な利益をあげ、また返済出来ない大名からは「禄」を貰う事で相殺し、借金を払いに各地の領内から江戸に来た村長(むらおさ)が店を訪ねた時にはご馳走で歓待したともいわれています。
この様に世渡り上手な林田家は幕府が倒れる時も、ある縁故で官軍の御用を勤め、山県、大隈公をはじめ知己があったそうです。また江戸城開城の時は、林田が食事から夜具まで一切の世話をしたといいます。明治になり北畠男爵とも姻戚となり、十番も一町四方百両で下げ渡されたといいます。
この林田家が麻布十番に現存しているかは未確認ですが、もしあれば十番でも有数の旧家と言う事が出来ると思います。